第 十五話 出立(五)

 反射的に左手を突き出していた。


 黒い塊を視界に入れた明星めいせいが、手首に結った紐をほどいた。ばらけた紐の先端、虹色に光る小さな石を、遠く真っ黒な塊に向け強く握りしめた。


「——!」


 何度も左手を突き出し石を握りしめた。


 何一つ、変化の起きる気配が感じられなかった。

 宙吊りのまま左手を見た。小さく虹色に光るだけで、この前のような呼応する何かを一切感じさせない。


 遠く視線の先、あまりにも巨大な黒い塊がゆっくりと夕日を横切った。地面からせり出した背の低い建物が、黒い塊を追い越すように視界を飲んでいった。


「落ちるぞ!」


 緊迫した声に、明星が思い出したかのように地面を見た。昴宿ぼうしゅくに吊られたまま緩やかに落ちていた。

 すぐそこに迫った地面へ、砂ぼこりを上げながら背から落ちた。


 滑るよりもなお早く起き上がった明星が叫んだ。


「昴宿! 弓が出ない!」

「当たり前だ」


 放り出された背負い袋の上から、うっとうしそうな声が聞こえた。

 袋に着地した昴宿が、あきれたように座っていた。


「今のお前では何も起こらん」


 ぶっきらぼうに言い放った昴宿を、明星がただただ睨んだ。


 理解しがたいという表情の明星に、面倒くさそうに昴宿が続けた。


「あの時、お前に願いを込めろと言っただろう」

「願い?」

「その石だよ。その石は、お前の強い願いにのみこたえる。今のお前にあのうろをどうにかしたいという願いはないだろう」


 明星が、左手に結ばれた虹色の石を強く凝視した。

 建物に夕日がさえぎられ陰となった中、わずかに、鈍く虹色に発光しているのみだった。昨日のような目を貫くあの強い光は、握られた石からは何も感じられなかった。


「それよりも」


 昴宿が、一瞬で平屋の屋根へ駆け上がった。

 連綿と続く朽ちたような家屋の群れを、舐めるように見回した。


「この状況のほうが異常だな」


 昴宿を追うように、明星が屋根へよじ登っていた。屋根に座る昴宿の隣で、遠く白壁の中にある黒い塊を中腰のまま睨むように見た。


 遠くからでもわかるほどの巨大な黒い塊だった。朱色の建物の並ぶ一群の中、どの建物よりも大きく、すべてを飲み込んでもまだ余裕のあるほどの大きさだった。

 その中でも最も大きな建物にのしかかったまま、大波が岩にあたり飲み込むように広がった形で完全に硬直していた。


 意味がわからなかった。


「……あれ、動いてなくないか」

「動いてないな」

「死んでんじゃないのか?」

「それはない」


 遠く、平屋の一群を抜けた門の前に、小さくもやのようなものが見えた。突風にあおられるかのように巻き上がっている砂煙。


 異常だった。

 一切、もやが動く気配がなかった。巻き起こったはずの、拡散していくであろう砂。それがその位置で、完全に固定したかのように動きを止めていた。


「これは、どういうことなのか説明してもらう必要がありそうだな……」


 唖然とする明星の隣で、いつになく静かな声を出した昴宿が振り向くように首を曲げた。


 視線の先、朽ちた平屋に挟まれた路地の中を、衣服についた砂を叩き落しながら望天ぼうてんがこちらへ向かっていた。






「あれが出たのは、五日前の夜です」


 先頭を歩く望天から、淡々とした言葉が出た。


「我々兵部は、あれがここに出るよりも早く、地方での虚の報告を受けていました。十二年ぶりの虚の報告でしたよ。しかも普通の虚じゃない、大虚です。地方に出たとはいえ、兵部は上から下まで緊張感で吐き気がするような状況になりました。また十二年前と同じ轍を踏むことになるんじゃないか、と」


 前を行く望天の先、広がった空がすでに夜の色をしていた。地平にわずかな白橙色を残し、空の上、濃い青色の中には、わずかに光る星も見え始めていた。


 明らかな異常さに、明星が息をのんでいた。


 一切、途中で人の気配を感じられなかった。大小様々な道を挟み、所狭しと立ち並ぶ建物を通過していく中、誰一人として人がいる兆しがなかった。いくら巨大な虚が目の前にあるとはいえ、これほどまでに生き物の気配がないのは、現実のものとは到底感じられるものではなかった。


「連続で、様々な場所で大虚が出たという報告を受けました。その後すぐに、十二年前の大虚の件を知る人間が集められました。あの時、どのように大虚を乗り切ったかを調べ対策するためです」


 人の背を超える白壁の先で、望天の足が止まった。

 巨大な、朱色の門が建っていた。何人もの人間を飲み込んでも一切埋まる気配がないほど、大きく開いた門の前で三人の足が止まった。


「集められた我々が、今回出た大虚に対し今できることを話し合っている最中、「あれ」がここに出ました。一瞬でしたよ。草木妖そうもくようもいなくなったこの宮中で、虚を根本的にどうにかできる人間なんて誰一人残ってやしませんでしたからね」


 先頭にいた望天が、門へ通じるわずかばかりの石階段を先に上った。


 巨大に、その何もない空間を広げたその門の中央に、望天がそっと手のひらを当てた。小さな、何か固いものを打ち付けるような音が、反響するようにあたりへ広がった。

 じんわりと、門の中央、何もない空間が、触れた望天の手を中心に、波紋のように揺らぎ広がっていった。


 広がる波紋の中を突き抜けるように、望天が門をくぐった。


 瞬間、明星が唖然とした。

 望天の姿が、門の中へ溶けたかのように見えなくなっていた。


「安心しろ。別に何か起こるわけじゃない」


 昴宿が、ためらうように立ち止まったままの明星に、軽く声をかけ門を抜けていった。明星のひるみをよそに、昴宿の体がくぐった先から溶けるように見えなくなった。


 明星が両のほほを強く叩いた。顔の前に腕を突き出し、目を閉じたまま確かめるようにゆっくりと門をくぐった。


 喧騒が、耳を襲った。

 何が起きているのか――ゆっくりと腕を戻し、閉じた目を開けた。


「なんだこれ……」


 遠く、暮れたばかりの夜の闇の中、眼前の奥の奥まで朱色の建築物がそびえたっていた。広場、通路、人の目に触れる場所ほぼすべての場所に灯篭が灯り、並び立つ巨大な建物の前では槍を持つ男たちが立ち並んでいた。


 気が付いたものがあった。

 ことごとく、奥に行くにつれ、建物の何かしらが破損していた。


 明星から小さく叫び声が上がった。

 門の中心で突っ立っている明星が、後ろから飛び出した何かに軽く突き飛ばされた。拍子を崩したように前のめりになる明星をよそに、冠をかぶった男たちが頭を押さえながら急ぐように奥の建物へ駆け抜けていった。


 転びそうになった明星を、先に抜けていた望天が受け止めるように腕をつかみ静かに口を開いた。


「明星。ここからが宮中だ。お前は今日、これから俺と一緒に欽天監きんてんかんに向かう」


 かがり火の灯る門の奥、手を離した望天がゆっくりと階段を下りた。


「詳しいことはあとで話す。はぐれないようについてこいよ」


 明星を一瞥したまま、望天が広場の中へ歩を進めていった。


 ついていこうとした昴宿の足が止まった。


 門の中央、下る階段の前で、明星が下を向いたまま足を止めていた。


「どうした」

「なあ……」


 明星が、昴宿に向かって小さく声を出した。

 微動だにしない明星の表情が、明らかに引きつっていた。


「なんだ」


 明星の背中を、絞り出たような冷や汗が静かに伝った。


「ここの下、なんか、いるぞ」

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