第一章 石の芽吹き

第 一 話 里山の子(一)

 このままでは死ぬ。確実に死ぬ。


 けもの道を転がるように走りながら明星めいせいは思った。

 なんでこうなった。


 生い茂る藪を突き抜けたイノシシが、振り返る余裕を与えない勢いで追いかけてきていた。


 道に張り出した枝を全力で駆けたまま越えた。着地で転げそうになったのを、腕の振りだけで強引に戻した。真後ろから、飛び越えた枝を自分ではない別の何かがへし折る音が聞こえる。

 もう距離はない。


「明星!」


 声がした。

 宇航うこうだ。走る先、道に高く張り出した太い枝の上で、顔をこわばらせた色黒の少年が縄を握り垂らしている。


 掴めということか。


 前のめりになりながら強く地面を蹴った。体ごと、全力で縄に捕まり下半身を振り上げる。

 明星の小さな体を軽く超えるイノシシが、すんでのところでかすめていった。


「また来るぞ!」


 木の上から宇航が叫んだ。

 突っ切ったイノシシが、藪を貫いたまま大回りで軌道を戻しこちらを向いて唸っていた。


 明星が垂れた縄を駆けるようによじ登った。


「宇航、弓」


 縄に足をかけたまま、木の上の宇航に向かって左手を広げた。


「矢はないぞ」

「弓だけでいい」


 奪うように弓をとった。

 足で縄に捕まりながら、明星が体ごとイノシシの方を向いた。


 いたはずの場所から、獣が姿を消していた。


 強烈な衝突音と共に、激しく木が揺れた。思わず明星が縄にしがみついた。

 自身を超えるイノシシが、繰り返し木の根元に頭をぶつけている。叩き落す気だ。捕まれば確実に食われて死ぬ。


 瞬間、白いものが藪から飛び出した。

 真っ白な狐だった。突進するイノシシの後ろから一瞬で食らいついたかと思うと、脚を食いちぎる勢いで体をねじり始めた。


 唸りが響いた。不快感をあらわにしたイノシシが、足元の木へ跳ねるように体を叩きつけた。狐を引きはがす気だ。だが狐は牙を執拗に食いこませたまま、イノシシの動きに合わせて全く離れない。


 明星が、縄を足だけで巻き取るように掴んだ。空中で、反るように弓を構えた。


 瞬間、何もなかった右の手のひらから、緑色の細長い針が生えるように飛び出した。手のひらの針を引きちぎるように握りしめ、つかんだ針を弓の弦につがえた。


 矢を、イノシシの腹へ強く放った。


 強烈な、金切り声のような咆哮がイノシシから出た。間を開けず次を放つ。前足の付け根。首、連続でさらに打ち込んだ。


 五発目の矢が首の付け根に打ち込まれたあたりで、ゆっくりとイノシシが上を向き地面へ倒れた。



 *



「相変わらず曲芸師みたいだな」


 するすると器用に木を降りながら宇航が言った。「どういう仕組みで右手から矢が飛び出すんだ?」


 地面に降りた宇航が、腰から小刀こがたなを取り出しイノシシの首に強く切れ込みを入れた。とどめと血抜きだ。


「助かった――」


 小さく声を漏らした明星が、握っていた縄からすとんと落ちた。崩れて膝をついたたまま、両手を前に地面に座り込んだ。


 死ぬところだった。顔を手で拭った。汗か鼻水かなんだかよくわからない液体が、手についた土と混じりぐちゃぐちゃになって顔につく。立ち上がろうとする気すら起きなかった。何一つ力が残っていなかった。


 かさ、と藪が揺れた。


 狐が、藪の裾から顔を出していた。

 反射的に、宇航が小刀を構えていた。

 視線が合うと同時に、小さな音だけを残して一瞬で藪の中へ消えた。


「――あいつすげえよ」


 警戒を解いた宇航が、狐の消えた藪を見ながら言葉を出した。


「こんな体重差あんのに、よく突っ込んでいったよな」

「たまに見るんだよ」


 寝転がったままの明星が、横着するように宇航が投げた籠をたぐり寄せた。竹筒をとりだし、中身の水を一気に浴びるように口へ流し込んだ。


「あいつがいなかったら、矢が打てなかった」

「へぇ」


 宇航が軽く笑った。


「じゃあ、次は少しは分け前やらねえとな」


 縛り終えた縄を、宇航が太い木の枝にひっかけた。腰を落とし、滑車を引くようにイノシシの後ろ脚を引き上げる。

 頭が完全に浮き上がったところで縄を固定した。


「このイノシシどうする?」


 日に焼けた顔をぬぐいながら宇航が聞いた。


 座り込んだまま、隣で吊るされたイノシシを見た。

 牙があるところを見ると雄。大きさは大人の男一人分くらいの重さ。もしかしたらまだ大人になったばかりくらいかもしれない。特段大きくはないが、小さくはない。それでも人間を突き殺して食い散らかすくらいは簡単にできる。

 よくまあこんなもん仕留めたなと自分でも感心した。


「宇航が持ってけよ」


 地面に大の字になったまま、明星が適当に答えた。


「どうせ俺一人じゃ運べないし」

「せめて川までは持っていきたいよなぁ」


 イノシシを見ながらぶつぶつと宇航が言っている。肉が傷む前に、川で内臓を取ってしまいたいのだろう。


「あ」


 思い出したように宇航が声を出した。


「お前、かご無くなってるぞ」


 明星が起き上がり、背中を見た。今日山で集めた山菜入りの竹籠がない。


「ああ。多分、沢に――」


 途中で、まずいことを言ったことに気が付き言葉を止めた。


 宇航がにやにやしている。

 嫌な予感がした。


「じゃあ、取りに行くしかねえなぁ」


 失敗した、と思う明星の顔に、宇航がぶん投げた縄がぶち当たった。





「今年の本祭ほんさいは外から客が来るらしい」


 右肩に縄をかけ、イノシシを引きながら宇航が話し始めた。


「客?」


 宇航の後ろから、山菜入りの籠を背にした明星が訪ねた。


 後ろでは、内臓を取り除かれたイノシシがずるずると引きずられている。


「都から来るんだってよ」

「みやこ」


 明星がつぶやいた。今までの人生に無縁の言葉だ。


「最近の~都の人手不足を補うため~、野心あふれる若い衆を呼び込みたく~、人間の選別を~」


 台本を読むような抑揚で宇航が言った。


「とか他の連中がいってた」

「はぁ」


 村の若い衆を呼び込みたい。イノシシを引きずりながら、明星が頭の中で繰り返した。


 宇航は今年から若い衆にあたる。


 明日九月九日は、一年に一度開かれる村の本祭の日だ。一年の豊穣と厳しい冬を越せるよう、村一丸となって祈願する。出店が集まり若い衆は競争を繰り広げ、実際にはそういう名目で酒盛りの場になる。


 そんな本祭に、今年十五歳となった宇航は晴れて本行事ほんぎょうじに参加できるようになった。二つ下の明星は、まだ見物することしかできない。


 そして多分、自分は十五歳になっても参加ができないだろう。

 なぜならよそ者だから。


「お」


 竹林を抜け、村が見渡せる小高い場所につき宇航の足が止まった。

 橙色になった太陽が、空を淡く染めながら村の奥に広がる水平線に溶け込むように広がっていた。


「ちょっと話付けてくる」


 視線の先遠く、農作業をしている背の高い男の元へ宇航が走っていった。何かしら話をしたかと思うと、草刈り鎌を持った若い男と共に、宇航がやり遂げた顔をして戻ってきた。


「またすげえもん仕留めたな……」


 頭に巻いた布を脱ぎながら、若い男がイノシシを凝視していた。


「こんなのお前らだけでどうやって仕留めたんだ」

「こいつが、弓で、こう」


 宇航が、若い男の前で弓を引くように演技している。


 若い男が、奇妙な表情で明星を見た。視線の合った明星が、軽く会釈をする。

 いまいち微妙な空気が流れた。


「えっと、薬師殿の、息子さんだったっけか」

「息子ではないです」


 そうか、といいながら若い男がイノシシを調べ始めた。


 作業に入った男の視界の外、無言のままの宇航が、滑るように明星の隣に来て耳打ちした。


「これ、結構重たいだろ? んで、本祭の前に肉食うってのも、なんかこう、いろいろあるし、な。売っちまおうかなって思ってんだけど」


 イノシシを調べる男に気づかれないよう、宇航が無言で指を三つ立てた。明星が無言で宇航の指を一つ増やす。宇航の眉が片方だけ上がったまま、数字を見て悩んでいる。


「問題ねえな」


 若い男が立ち上がった。固まりだした血がこびりついた手を布でぬぐい、二人を見た。


「状態がいい。血抜きもしっかりできてる。何の問題もない。ただ、俺一人で持ってくのはきつい」

「じゃあ、俺が一緒に持っていくわ」


 宇航の言に若い男がうなずいた。

 荷車を取ってくると言い残し、男が去っていった。


「あ」


 宇航が思い出したように声を出した。明星の後ろに回り、山菜の入った背中の籠を取る。


「忘れるところだった」


 宇航が自分の籠を降ろし、籠の中身を一つにまとめだした。


 そうだった。自分もすっかり忘れていた。

 今日はそもそも山菜を採りに来たのだ。

 それがとんでもない収穫になってしまった。


「なあ」


 籠に中身をうつす作業をしていた宇航に、明星が小さく聞いた。


「その、都に来る人間を集めるっていう話、宇航はどうすんの」


 宇航が、顔についた泥をぬぐいながら軽く笑った。


「俺は、どうかな。都って言われても、いまいちわかんねえし」


 遠く、道の奥から間延びした声が聞こえた。

 荷車を引いた男の声だった。


 籠を背負った宇航が、帯に結び付けていた巾着の中をのぞいた。銅銭を数え、明星に渡す。


「イノシシの分は、明日持ってくるわ」


 明星がうなずいた。


「明日、お前も見に来いよ」

「わかった」


 宇航の差し出したげんこつに、明星が強めにこぶしを突き合わせた。


「じゃあな」


 軽快に手を振った宇航が、男とともに荷車を押しながら村へ帰っていった。小さくなっていく宇航を、小高い丘の上から手を振って見送った。


 宇航が見えなくなってから、突き合せたこぶしを見た。


 宇航のこぶしが、また一つ大きくなっていた気がする。元から二歳の違いもあったが、最近は頭一つ宇航のほうが大きい。今日のイノシシの対応も、自分にはああはうまくできないだろう。


 最近どんどんと先を越されている気がする。


 そろそろ沈む夕日が、明星の栗色の髪に当たっていた。

 道端に落ちていた木の枝を無造作に振った。


 帰ろう。明日は初めて本祭を見に行くのだ。

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