それから、天使が指をさしたのは

乙都生絹

.


「私、上手くいけば今から20分以内に人を殺す」

また馬鹿なことを言い出したなと思う。

いつもそうだ、いつもこの春日夏乃という女は、まるで虚構の物語を紡ぐかのように嘘と本音を混ぜこぜにして嘯く。

春なんだか夏なんだかわからない名前と はるひなつの という何ともまるっこい語感、それから飄々とした顔で日傘を差しながら背景に海をたたえて低い塀の上をしゃなりしゃなりと歩く姿が妙に合わなかった。

「上手くいかない場合なんてあるの」

「そりゃああるでしょう、あなたが茶々を入れるとか、私が急に血を吐いて倒れるとか、話し終わるまでにこの辺り一帯が大地震に見舞われるとか、隣の国から核ミサイルが飛んできて国家消滅、隕石衝突で地球滅亡、その他諸々エトセトラ。」

「じゃあ誰を殺すっていうわけ」

「それは内緒、言ったらもうエンディングじゃない。」

それは確かに。

別に彼女の話を信じたわけでもないけれど気になってしまってヒントをせがむと、彼女は少し迷うように天を仰いでから、傘を持っていない方の手で2本の指をこちらに立てた。

「この話の登場人物は2人だけ。

私と、あともう1人。

ヒントはこれだけ、あとはご想像におまかせ。」

じゃあ始めましょう、今から20分。

そう言って夏乃は柔らかい白の日傘をぴしゃりと閉じて、背負っていた黄緑のリュックから日焼け止めを取り出した。


「まず私がその人と出会ったのは高校に入ってから。クラスが同じだったの。

別に私、その人に興味なかったけど向こうは私のことが本当に気になるみたいだった。」

話しながら、自分の足と首に伸ばし終わった効果が高いと評判の日焼け止めの手に残った分を、小麦色に焼けはじめた私の肌にべたりと塗りつけた。

夏乃は絶対にカーディガンを脱がないから、塗るのは細っこい首と足だけでコスパがいい。

「どれだけ突き放しても犬っころみたいにくっついてきて、初めはそれこそ殺してやりたいくらいにうざったかったけれど、今では愛着が湧いちゃって。」

そういえば私も、真新しい制服でよそよそしい教室に足を踏み入れたらアンティークのように整った顔の女が窓際に澄まして座っていたのが見えて、漫画の1ページみたい なんて初めは軽い気持ちで玉砕を覚悟して毎日話しかけに行っていたな、なんて。

現実は漫画みたいに上手くは行かず、絶対零度の瞳に睨みつけられて寝込みかけたことや頼まれてもいない貢ぎ物を買うためにお財布が寂しくなってしまったことや、以下略。

いじめを心配した母への誤魔化しが大変だった。

「別に物に絆されたわけじゃない。面倒でしょうがないと思っていたそれがいつの間にか私の日常になっていた、それだけ。」

「夏乃はその人のことが好きなの」

「そんな薄っぺらな言葉で言わないで。」

カーディガンからはみ出た真っ白な指先が、心臓を一突きするように真っ直ぐ私を指した。

ムラなく桃色にコーティングされた爪を見るだけで心臓がばくばくと煩くて、嫌になる。

「殺したいくらいに、愛してる。」

言葉はあまりにも大袈裟に重々しいくせに、夏乃の口調は授業中に数式を答えるかのごとく無機質で軽やかだった。

「それで、そうね……今何分経った?」

左手にはめられた高級そうな腕時計を見るよりも早く私が10分くらいかな と答えて、夏乃は少し不満げに口を尖らせた。

「少し余分に時間を取ったかも、15分で良かった。」

物語は早くもエンディングに差し掛かっているらしい。

愛してるなんて一介の高校生である私なんかにわかりっこないけれど、私の好きと彼女の愛してるはきっと同義だ。

誰にも渡したくない、私だけを見ててほしい。

別の人を見ていたら悲しくてやりきれないのが私で、殺してやりたいと涼やかな顔で憤るのが彼女。

ただそれだけの違い。

愛だの恋だのなんて一時の気の迷いよと文庫本を片手に切り捨てそうなものなのに、可愛いところもあるものだ。

私は夏乃に、愛されたい。

彼女になら殺されてもいい。

「愛してるから殺すなんて言うのは少し端折りすぎたかな、愛故の憎悪よ」

「ぞうお、」

「そう、憎悪。愛が募って募って憎しみになって、どろどろのぐちゃぐちゃに汚らしく混じりあって、いっそ殺してしまいたいと思うの。」

私は、私ならそれでも構わない。

夏乃のものなら、ぐちゃぐちゃでもどろどろでも、愛の延長線上にある憎悪なら幾らでも受け止める覚悟があるから。

「愛してるの、愛してる。

その人のことを考えるだけで心が煮えくり返って、愛してるはずなのに憎くて憎くてしょうがないの。殺したってこの心が晴れることはないんでしょうね。」

それでも、殺すの。愛してしまったから。

青空と砂浜と海に似つかわしくない物騒な囁きも、天使のように慈愛に満ちた表情のせいで救済の祈りのように聞こえる。

そして天使は栗色のカーディガンから伸びる清らかな指先を天に伸ばして、太陽に触れた。

宗教画というにはあまりにも生々しいその光景から、私は目が離せなかった。

「神よ、私は今から罪を犯します。」

なんちゃって。

睨みつけるように太陽がぎらついて、夏乃はそれを遮ろうとまた日傘を広げた。

「ねえ」

「なに、」


透き通るような睫毛に縁どられた目と艶やかな唇が弧を描く。

とん と軽やかな音を立てて塀から降り立った彼女の背中には、天使の羽なんてものは生えていない。


「私、彼氏が出来たの」



息が、止まった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それから、天使が指をさしたのは 乙都生絹 @suzu0702

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ