あの頃、百合香は二人だった。
水池亘
あの頃、百合香は二人だった。
目覚めると、二人の百合香が両脇から僕を見下ろしていた。
「……あれ、百合香、双子だったっけ……?」
「そんなわけねぇだろ」
右側の百合香が僕の頬をパンとはたいた。そして腕を掴み、ベッドから引きずり下ろす。その様子を、左の百合香が呆れたように見つめていた。
「駄目だよ、リカちゃん。乱暴は良くないよ」
「仕方ねぇだろユリ、今何時だと思ってんだ。俺たちまで遅刻しちまうぞ」
「その時は私たちだけで行けば……」
「そっちのほうがひどくねぇか?」
そんなやりとりを、全く同じ顔をした二人が繰り広げている。僕は床に転がったまま、ぼんやりそれを眺めていた。窓から穏やかな秋の朝日がさあっと降り注いでいる。さえずる鳥の声が聞こえて、ようやく僕は目の前の光景がどうやら夢ではないことを悟った。首を何度か横に振り、深く長いため息をついた。
「……とりあえずさ、百合香」
同時にくるりとこちらを向く百合香たちに向かって、僕は言った。
「いったん出てってくれないかな。早く制服に着替えたいんだ」
冷たく澄みわたる空気の中、僕たちはイチョウ並木を早足で進む。百合香は間違いなく僕を挟むように両脇に一人ずつ居るのだけれど、しかし周りからはその片方しか見えないのだ、と彼女たちは主張していた。確かに、出がけに顔を見せた母さんも「いつもありがとね、百合香ちゃん」と笑うだけだった。
「幽霊みたいなものなのかな」
僕がそう言うと、右側の百合香がじろりと僕を睨みつけた。
「俺たちが死んでるように見えるか?」
「悪かったよ。でもそうすると、君はいったいどういう存在なんだろう。見た目は百合香だけど、あんまり百合香っぽくもないし」
「そんなことねぇよ。俺みたいな一面も元々あったんだぜ。ただ、心の奥に押し込めていただけだ」
「それが分裂して生まれたのが君ってこと?」
「だろうな、たぶん」
「たぶん、って何だよ」
「わかんねぇんだよ、俺にも。気づいたらここに居たんだから」
「生まれた理由とかきっかけとか、ないの?」
「俺が訊きてぇよ」
昨夜、二十七時。よくわからない夢を見て目覚めた百合香は、同じように隣で寝ている百合香を見て息を呑んだ。ただ、驚きや恐怖はなかった。ああ、この人は自分だ、と直感的に理解した。眠る百合香を揺り起こし、二人で少し話をした。いちばん気になったのは、他人にどう見えるのか、だった。朝方、起きてきた両親に二人並んで顔を見せたところ、父も母もまったくいつもと変わらず「おはよう」と挨拶するだけだった。外に出て、少し散歩して近所の顔見知り何人かと挨拶を交わした。驚く人は一人もいなかった。
「でもね、なゆ君には、私たち二人とも見えるような気がしたの」
「どうして?」
「何となく」
二人はお互いに名前をつけた。
これまで表に出していた百合香→ユリ。
これまで裏に隠していた百合香→リカ。
「なるほどね。僕もそう呼んでいい? ユリ」
「許可する前に使うんだ」
「嫌なら、どっちも百合香って呼ぶけど」
「ユリのほうがいいかな、今は。混乱しちゃうから。ね、リカちゃん」
「まあ、仕方ねえな」
「不服そうだね」
「正直、百合香って呼んでもらいたい気持ちがあるからな」
「何で?」
僕が尋ねると、リカは少し寂しげに笑った。
「今まで一度だって、俺は百合香と呼ばれたことねぇからな」
*
初めて会ったのは三歳になりたてくらいの頃だったと思う。家が隣同士で、まず親から仲良くなった。夕食も終わり落ち着いたあたりを見計らってうちに押しかけてくるしゃんとした細身の女性は、明るく上品な笑い方をした。その後ろに隠れるようにして百合香はいた。ひょいと顔だけのぞかせて、僕の表情をちらっと見るやまた影に引っ込んだ。それを五回も繰り返した。僕は首を捻った。この人は、一体どういう人なのだろう。おそらくはもの静かな、女の子なのだろう、とは見当が付いた。それ以上のことはまるでわからなかった。そもそも同世代の少女という存在にそれまで出会ったことがなかった。
「ねえ」
六回目の瞬間を捕まえて僕は声をかけた。びくっと体を震わせた彼女は、でも影には引っ込まなかった。明らかに怯えた表情なのに、僕の顔を正面から捉えて離さなかった。
「……なに?」
「遊ぼう、あっちで」
「……遊ぶ?」
「遊びに来たんじゃないの?」
「……ママについてきただけ」
「そうなの? でも遊ぼうよ」
僕は彼女の手を引っ張る。予想より遙かに小さくて、柔らかかった。その時僕はただ退屈で、純粋に誰かと遊びたかっただけで、それ以上の思いはなかったし、今振り返ってもそれは確かなことだと思う。でも、もしかしたら、不意に現れたその不可思議な存在が、いったいどういうものなのか知りたいという思いが、心のどこかにあったのかもしれないとも思う。
僕の手を握り返した彼女は、困ったように首をかしげた。そして、僕に向かって少しだけ、でもはっきりと、柔らかく笑った。
それから僕たちはあたりまえのように隣にいて、気づけば高校二年生になった。
*
「では柴崎さん、次の文を読んでください」
「は、はい!」
立ち上がり、少したどたどしい発音で未来進行形の例文を読み上げるユリは右前方の席にいる。そのずっと後ろ、教室の壁に寄りかかるようにして、リカがそれを見つめている。どこかつまらなそうな表情をしていた。
「授業、当てられそうだろ? そんときゃ俺が代わってやるよ」
そんなリカの提案をユリはあっさり断った。
「いいよ、私がやるから」
「でもユリ、苦手だろ? 人前で音読とかさ」
「それはそうだけど……でも、嫌ってほどじゃないよ」
「つってもさ、代われるなら代わったほうがいいだろ。なあ、そう思うよな、ナユ」
いきなりこちらに振られても困る。
「そもそも代われるものなの?」
「当然。俺もユリも、百合香だからな。どっちかが百合香代表をやって、残ったほうは待機して見えなくなる、って感じだな」
「なるほどね」
本当に背後霊みたいなものなんだな、と僕は思ったけれどもちろん口にはしなかった。
「代わるリスクも別にねえからさ、バンバン代わればいいじゃねえか。なあ?」
「代わりたいの? リカちゃん」
「いや、俺も音読は苦手だ」
「なら私がやる。やりたくないけど私のために交代したい、ってのは無しだよ、リカちゃん」
「何でだよ。それでいいじゃねえか」
「まあまあ、リカ」
堂々巡りになる前に僕は会話に割って入った。
「ユリがそう言うなら、任せようよ」
「でもよお」
「それに、どうせユリは折れないよ。リカもわかってるだろ?」
僕の言葉に、無言になるリカ。彼女がユリを心から心配していることはよくわかったけれど、しかし実際、百合香はそこまで弱い人間じゃない。それを僕はよく知っていた。リカだって、本当は理解しているはずだ。それでも「代わりたい」と願うのは彼女のエゴでもある。
今もふくれっ面のリカを眺めながらそんなことを思い出していると、不意に彼女がこちらを向いた。目線が合うなり、眉をひそめる。
「いいのかよ、生徒会役員様がよそ見してて」
その台詞をリカははっきりと声にした。それは僕とユリだけに聞こえる声だ。広く一般的に、リカは今存在しない。その声も、体も、雰囲気も、僕たちにしかわからない。
「ま、退屈だよな、こいつの授業。堅っ苦しくて、ユーモアの一つもねぇ。ほんと、つまらねぇ。つまらねぇから、遊んでやるよ。おまえで」
え?
困惑する僕に向けてにやりと笑った彼女は、おもむろにセーラー服の裾を掴んで一息にめくりあげた。透き通るように白い素肌と薄ピンク色のブラジャーが、僕の網膜を突き刺した。
「うわっ!」
思わず僕は叫び声を上げ、椅子から転げ落ちた。派手な音がして、教室中の空気が凍った。クラスの全員が僕に視線を向けた。ユリが教科書を持ったままぽかんとこちらを見ているのがわかった。たっぷり五秒も経ってから、僕は「すみません……」と立ち上がった。ひとしきり叱られている間、後ろから鳴り続けた笑い声は、間違いなく百合香の声の色だった。
*
人付き合いは、二人とも苦手だった。
何を話せばいいのかわからない。どうやって話せばいいのかわからない。そもそも、なぜ話さなければいけないのかわからない。
結局のところ、誰だって無関係の他人なのだ。
それでも僕は、中学生になる頃には何とか他人と付き合う術を身につけていた。むしろ周りからしたら「優しくて気づかいのできる、誰とでも友達になれる人」のように見られていたかもしれない。成績は常に上位二十%以内。スポーツは中の上。部活動の代わりに生徒会に入って、最終的には書記にまでなった。学校生活を生き延びるための選択の結果だ。人間関係において最も重要なものはバランスだと思う。あまりに人を拒絶してしまうと、不快に思った者からのいじめや、熱意ある教師からのお節介を受け続けることになる。かといって八方美人的目立ち方をすると、やはり謎のやっかみや要らぬ信頼を浴びることになる。それでもそういう生き方をするのだという人種もいるのだろうけれど、凡人たる僕としては、そんな茨の道は御免被りたいところだ。そこで僕は思考し、一つの策に行き着いた。
トップ層には居る。でもトップは取らない。
これこそが最適解であり、そしてそれを具現化した存在が生徒会書記なのだ……と思っていたのだけれど実際は想定より多めに人目を集める役職だったらしく、僕は中三の一年間で四回告白を受けた。中にはプロのモデルと遜色ないほどの美人もいた。背が高く、スタイルが良く、清楚かつ快活で、二年生ながらバレー部のエースとして活躍していて、男子にも女子にもおしなべて人気が高い、つまりは学園随一のスターだった。そんな彼女が、まさか下駄箱に手紙なんて古風な手法を取るとは予想できなかったからよく覚えている。
「……それ、ラブレター?」
隣の百合香が僕の手元をのぞき込み、訊く。
「うん、たぶん。シールがハートだから」
「入れ間違いじゃない?」
「星野那由多先輩へ、って書いてあるよ」
「じゃあイタズラとか……」
「差出人の名前もある。直筆だね」
「誰?」
「それはちょっと、僕の口からは」
「見せて」
言うが早いか、百合香は手紙を奪い取った。
「あ、駄目だよ、ちょっと」
「望月優芽……って望月さん!?」
「大声出さないでよ。はあ……」
僕は大きくため息をついた。
「誰にも言っちゃ駄目だよ」
「望月さんって、あの、二年の?」
「そうだろうね。望月って名字、一人しかいなかったはずだし」
「ニセモノだよ絶対」
「いや、たぶん本人だよ。この筆跡、何かの書類で見たことある」
「でも、でもあの望月さんだよ? なゆ君に告白なんて、ありえない」
「そんな断言するなよ。まあ、僕もかなり意外だけど……」
「返事、するの?」
そう呟く彼女の声は少し動揺しているような気配がする。
「え、それは、しないわけにはいかないよ。まあ文面にもよるけど」
「……そっか、そうだよね。ちゃんと断らないと、失礼だよね」
「何で断る前提なのさ」
「えっ、断らないの?」
「そんなすぐには決められないよ」
「じゃあ、OKかもしれないんだ……」
百合香は見るからにしょんぼりと下を向く。それは理解できる反応ではあった。僕に恋人ができれば、今までみたいに毎日遊ぶこともできなくなるかもしれない。関係性も、何か変化があるかもしれない。そう彼女が思ったとしても不思議ではない。
僕は小さなため息をついて、彼女の頭にぽんと手を乗せた。
「まあ、心配しないでよ。僕がどうなろうと、百合香との関係は何も変えないから」
「本当?」
「うん」
「……嬉しいけど……それはそれで困るんだよ、なゆ君」
「え?」
意味がよくわからなかった。
「それ、どういうこと?」
僕の言葉に、彼女は舌を出して不満そうに微笑んだ。
「何でもないよ」
それから放課後、日が暮れかけた夕暮れの空き教室で、涙を流す望月さんから「柴崎先輩とは何でもないんですよね?」と問われて一瞬言葉に詰まった、あの瞬間こそが、僕の中学生活のハイライトだったかもしれない。遠くで何かのサイレンのような音が鳴っていたことをぼんやりと覚えている。
このことは、きっと最後まで百合香には話さない。なぜって、もちろん、あまりにも恥ずかしすぎるから。
*
百合香たちは常に二人でいるというわけではなかった。
ユリもリカもそれなりに自由に動き回っていて、二人並んで歩いている時もあれば、一人きりで空を眺めているような時もあった。ただし姿が見えないからといってこの世から存在が消えているわけではなく、僕の知らないどこかで何かをしているというだけのことだった。
冬になりかけた木曜日の放課後、グラウンドの片隅で空を見上げている彼女に、僕は「リカ」と声をかける。
「おう、どうしたよ、ナユ」
振り向いた彼女の長い前髪が揺れる。陽の光を浴びてきらめく大きな赤色のリボンを前頭部の真ん中につけたリカは何だかとてもかわいらしかった。
「どうした、じゃないよ。百合香がいないと帰れないじゃないか」
「仕方ねえだろ。ユリが帰ってこねぇんだ」
「どこに行ったの?」
「職員室だよ。中村の指示で書類整理をやってる。そんなもん自分でやれってんだよな」
「そういえば日直だったね」
「ユリもユリだぜ。俺がやるって言ってんのに、『リカちゃんは学校見学でもしてて』って。そんなんもう飽きるくらいやってんのによ」
「で、暇を持て余してこんなところに立っている、と」
「毎日毎日いい天気だよな、嫌んなっちまうぜ」
「雨でも降ってほしいの?」
「雨なんか大嫌いだよ」
そう言って足下の石を蹴り飛ばす。
「しかしナユ、こんな場所で俺と話してていいのか?」
「え、何で?」
「周りから見たら完全に不審者だぞ」
「ああ、そういうことか」
周りを見回すと、校舎の窓越しに二人の女子と目が合った。二人は悪いことをしたかのようにさっと顔を背けて、何事か話しながら去っていく。
「ほらな。こんなこと繰り返してたら噂になっちまうぞ。ナユのいちばん嫌なことじゃねえか」
「それは……確かに嫌だね」
「だろ」
「でも百合香がそこに居るとわかっていながら無視することのほうがもっと嫌だ」
そう言うとリカは少しだけ首をかしげ、不満そうに唇を歪めた。
「ちっ、格好つけやがって」
「お褒めの言葉をどうも」
その時、遠くから夕方を告げる馴染みのメロディが聞こえてきた。
「ああ?」
リカは校舎の大時計を見上げて、「マジでもう五時じゃねえか」と呟いた。
「流石に遅すぎる。どうなってんだ中村の野郎」
「まあ、待ってればそのうち戻ってくるんじゃない」
「そうはいかねえよ。不当な労働は許しちゃおけねえ」
そう言ってリカは大股で歩きだす。明らかに校舎の方角だった。
「ちょ、ちょっと待って。職員室に行く気?」
「当然だろ」
「たぶん、もうそこにはいないと思うよ」
「あん?」
振り返り、不審そうな顔で僕を見つめた。
「何でだよ。心当たりでもあんのか?」
「まあ、一応……」
「歯切れがわりぃな。教えろよ。さっさと合流して帰ろうぜ」
「うーん」
僕は腕を組み、ひとしきり悩んでから、「仕方ないか」とため息をついた。
「じゃあ、一緒に行こうか。でも、一つだけ頼みがある」
「何だよ」
「ユリのこと、あんまり怒らないでやってほしいんだ」
ずらりと並ぶ本の檻に守られたお姫様のように、ユリはその床に座っていた。
「何してんだ、ユリ」
その言葉に彼女は「ひゃっ!」と飛び跳ね、手に開いていた文庫本をさっと体の後ろに隠した。普段の彼女からは考えてもあまりに素早い挙動だった。
「ど、どうしたのリカちゃん」
「どうしたもこうしたも、何で図書室なんかにいるんだよユリ。いや別にどこにいようと勝手だけどよ、俺に一言くらい声かけてくれよ」
「ご、ごめんね、リカちゃん。ちょっと言い忘れてたの」
「あのなあ」
リカは呆れたようにため息をついた。
「自分が自分に嘘ついて通ると思ってんのか」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけでもねえ。理由が知りたいんだよ、俺は」
その言葉に責めているようなニュアンスはなかった。リカはただ純粋に疑問に思っているだけで、そのことはたぶんユリにも伝わっている。それでも、ユリは何も言わず俯いていた。両の頬が紅色に染まっていた。
「もう教えてあげたら、ユリ」
僕は声を挟んだ。
「恥ずかしいのはわかるけどさ」
「恥ずかしいって、なゆ君、知ってるの!?」
「部屋の本が急に無くなってたら、誰だってだいたい想像はつくと思うよ」
「うー……」
ユリは顔を手のひらで覆い隠した。
「何だよ。どういうことだよ、いったい」
「……なゆ君、説明してあげて」
「え、僕が? 自分で言いなよ、ユリ」
「だって、恥ずかしすぎるもん……」
ユリはふるふると首を振る。僕は何度目かのため息を盛大についた。
「わかったよ。じゃあその本貸して」
「……はい」
手渡されたその文庫本は古ぼけてくすんでいる。表紙には『雅』という一文字の明朝体と、よくわからない抽象的な絵が描かれていた。
「見てみなよ、リカ」
「おう。……小説か、これ。知らねぇタイトルだな」
「平成初期の純文学だよ。有名なんだ。特に、綿密な性描写で」
「性描写」
「かなり過激なんだよね。未成年が読んじゃいけないくらいの。でも名作だし、もちろん必然性があっての描写だから、問題ないってことで置いてあるんだ」
「ってことは、つまり……」
リカはしばし宙を見上げて考える。そしてポンと手を打った。
「ユリはそのエロシーン目当てにこそこそ読んでたってわけか」
「違うよリカちゃん! 私は、ただ純粋にこの本が面白そうだからって、それで……」
「ならそんなに慌てる必要ねえだろ」
「それは……」
ユリはそのまま固まった。次の言葉が思いつかなかったのだろう。
「てかさ、何でナユが知ってんだよ」
「だって読んだことあるから。普通に本屋で買って、部屋の本棚にもしまってたよ。そんなに恥ずかしがるものでもないと思うけどな。面白かったし。で、少し前に、また読もうと思って本棚を見返したら、どこにも無かった」
「ほう」
「僕は最初に入れてから一度も取り出してないし、親が何も言わずに借りていくってことも考えられない。とすると、もう犯人は一人しかいないよね」
「なるほど、そりゃそうだ」
「でも別に、僕に被害があるわけでもないし、下手に問いただしても傷ついちゃいそうだし、放っておくことにしたんだ。そしたらその後すぐに、リカが現れた」
「あー、それで読めなくなったのか。俺が横にいるから」
「そういうことだろうね。リカにバレないように持ち歩くのも難しいし、続きを読むには図書室に来るしかなかった」
「そういうことか。ようやく腑に落ちたぜ。だが、まだわからねえことが二つある。どうしてユリは俺にバレたくなかったのか、そもそも何で俺はこの本を知らなかったのか」
確かに、ユリもリカも百合香なのだから、少なくとも分裂前の記憶は共有していないとおかしいと言える。それは他ならぬ彼女たち自身がよくわかっているはずだ。
「まあ、これはナユに訊いても仕方ないよな」
「だね。ほら、ユリ。顔上げなよ。ちゃんとリカと話したほうが良いと思うよ、きっと」
それだけを言って、僕はその場を離れた。少し遠くのソファに腰掛け、今来た方向を見やった。二人は向かい合って床に座っていた。何事かの言葉のやりとりをしているように見えた。
自分で自分に嘘をついたり、何かを隠したり、知らないように思い込んだり。そんなことはごく当たり前のことだと思う。少なくとも僕はそうやってこの十六年を生き延びてきた。きっと百合香だって、僕と同じだ。
そういうことについて話し合っているのか、それとも全然別のことなのか、それは僕にはわからない。知ろうとも思わない。それは極度にプライベートな事柄だった。いくら幼なじみであろうとも、勝手にのぞき見して良いものではない。
しばらくして、二人はゆっくり立ち上がった。こちらへ向かってくる彼女たちを、僕は腰を上げて出迎えた。
その夜、眠る直前になってスマートフォンがブルッと一度震えた。手に取ると柴崎百合香の文字が浮かんでいた。彼女がメールを送ってくるなんて、ほとんど記憶にないことだった。伝えたいことがあるのなら、直接会って話せばいい。今までずっと、僕たちはそうしてきた。今回に限り彼女がそうしなかった理由は、読めばだいたい想像がついた。
ごめんね、なゆ君。勝手に本、持っていって。本当は「貸して」ってきちんとお願いしたかったの。でも、すごく恥ずかしくなっちゃって、結局言えなかった。それでも絶対読みたかったんだ。新品じゃない、なゆ君が持っていた、その、エッチな小説を。覚えてる? 今年の夏のこと。二人でゲームして遊んでて、その時ちょっと大きな地震が来た。私、怖くてなゆ君にしがみついた。そしたらなゆ君、ぐっと体を遠ざけたの。なゆ君のそんな反応初めてだったから、地震よりそっちのほうが怖くなって、その夜はあまり眠れなかった。覚えてるかな、覚えてないよね、きっと。でも、私にはすごく大きなことだったんだ。何でなゆ君はそんなことをしたんだろうって一生懸命考えて、それでわかったの。たぶん、なゆ君は、私に抱きつかれて、私が女性なんだって強く意識した。それで、反射的に体を離したんだ。勝手に想像してごめんね。でも私はそう考えたの。そして、なゆ君にとって「女」ってどういうものなんだろうって、すごく気になった。それでこっそり君の本棚を見たら、『雅』があった。なゆ君、こういうエッチなの読んで、興奮したりしてるのかなって、そう思ったら、私もどうしても読みたくなって、気づいたら持って帰ってた。本当にごめんね。私、読んだよ。ゆっくり、少しずつだけど。エッチな気分ってどんな感じなのか、初めてわかったよ。一緒に観覧車乗ってドキドキしたときに似てるね。なゆ君も、そうなのかな。良かったら、今度教えてね。
もちろん、僕も覚えている。あれは不可抗力だった。高校二年生の僕はもう体としては十分に男性で、性欲だって人並みにあった。だから、いつかはああなってしまうとわかっていた。これからも、僕たちはどんどん大人になっていくから、似たような事は次々に起こる。その時、僕はどれだけ冷静でいられるのだろう。
*
ジェットコースターなんて乗りたくないのだと、何度言っても百合香は聞かなかった。
「でも、なゆ君がいないと嫌だよ、私」
「なら乗らなきゃいいよ」
「そうだけど……楽しみだったのに……」
しょんぼりと下を向く百合香。
「だから、一人で乗ってって言ってるじゃないか」
「なゆ君と一緒がいいの」
「なら諦めるしかないね」
「そんないじわる、言わないで」
意地悪というわけではもちろんなくて、僕はいわゆる絶叫アトラクションが昔からひどく苦手だった。五年前、小学三年生の夏。初めてのテーマパークで子供向けコースターに乗った僕は、降りるやいやなバタンと倒れた。あまりにも目を回しすぎたのだ。近くのベンチで横になる僕に、マスコットキャラの描かれたうちわを仰いでくれたのは他ならぬ百合香だった。「そんなにつらかった?」と訊く百合香に僕がやっと頷くと、「私は楽しかったけどな」と少しつまらなそうに呟いて、体を僕にぐっと近づけた。その記憶を、彼女が忘れたとは思えない。つまり百合香は僕のトラウマを知っていて、それでも一緒に乗りたいとわがままを言っているのだ。
僕は大きくため息をついた。
「一回だけだよ、百合香」
「いいの?」
「うん。その代わり、どうなっても知らないからね」
ぱあっと彼女の顔に光が射した。
「ありがとう!」
言うが速いか、僕に飛びついて両手を回した。長い前髪がさらさらと僕のシャツを撫でる。思わず僕は辺りを見回した。もしかしたら、周りの人たちにカップルのように見られているかもしれない。それが何となく気恥ずかしかった。
「わかったから、ほら、離れて」
「あれに乗りたいの、なゆ君」
彼女が指さしたのはこの遊園地で最も大きくて、最も激しくて、最も怖いと評判の大型コースターだった。僕は息を呑み、何度か首を振った。
「あれじゃなくても良くない? すごく並ぶと思うよ」
「なゆ君とあれに乗れたらどんなに楽しいだろうなって、ずっと前から考えてたの」
「……わかったよ」
五秒の瞑想の後【のち】、僕は覚悟を決めた。
「乗り終わったら、昼ご飯にしよう」
それから一時間後、僕たちは観覧車の中にいる。平日にしては長い行列の先に待っていた黒い乗り物が三分半の運行を終えた時、僕はもちろん昼飯なんて食べられる状態になかった。必要なのは食べ物ではなく休息だった。たまたま近くの観覧車が列もなく空いていた。百合香に引きずられるようにして僕たちはそれに乗り込み、そしてぐおんという音と共にゆっくり上昇していった。
「ごめんね、なゆ君」
百合香は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「私のわがままのせいで」
「大、丈夫、もう少し、したら、落ち着く、から」
「やっぱり乗らなければ良かったね」
「そんなこと、ないよ」
「ううん。私、我慢しなきゃいけなかった。でも、どうしても、どうしても、どうしてもなゆ君と乗りたかったの」
「わかってる。だからこそ、僕も、乗ろうと、思ったんだ。僕が、そう、決めたんだから、それで、いいんだよ」
「うん。ありがとう」
穏やかに笑って、百合香は僕の額に手のひらを当てた。それはひんやりと冷たく、そして柔らかかった。僕は瞳を閉じた。ゆっくりと揺れる小部屋の中で、彼女と二人きりでいる時間の静けさに身を委ねていた。
*
本を読んでいたかったのだ、本当は。
一瞬で食べきった冬季限定シロクマパンの袋を机の隅に追いやり、片ひじをつきながらミステリ小説の単行本を読んでいた僕の右前方あたりから、嫌な雰囲気のざわめきが漂ってくる。まさか、と顔を向けた場所に立っていた百合香は案の定、リカだった。
「うるせぇんだよ、いいかげん」
そう吐くリカの前にいるのは、クラス委員長の高杉さんだった。彼女はとても親切かつ責任感のある生徒で、周囲からの信頼も大きく、人望も厚い。僕も生徒会役員として、よく頼っている。百合香と揉める理由があるようにはあまり思えなかった。
「う、うるせぇ、ですって?」
「ナユについて俺から言えることは一つもねえよ」
「ナユ……って、星野さんですか? 彼は関係ありませんわ」
「あるだろ。俺なんかをしつこく昼食に誘うのは、それが目的としか思えねえ」
「変な誤解はやめてくださいませんか」
「あんた、よくナユのことチラチラ目で追ってるよな。気づかれてねぇとでも思ったか?」
「な、何を馬鹿なことを!」
叫んで机をバンと叩いた。
「あなたがそういう方だとは知りませんでしたわ!」
高杉さんは激高しつつも混乱しているように見えた。それはおそらく百合香の言葉の内容ではなく、その乱暴な話し方、「俺」という一人称、そして普段の百合香とは似ても似つかない刺々しい態度による混乱だった。百合香はまさしく豹変していた。僕以外の全ての人にとって、それはあまりにも意外な変貌だった。
「誓って、邪念などありません。私はただ、あなたと共に食事したかっただけです!」
「信じらんねえよ。俺をそこまで気にかける理由がどこにある?」
「ありますわ!」
高杉さんはバッとリカの顔を指さした。
「あなたがめちゃくちゃかわいいからですわ!」
「は?」
リカは一瞬、きょとんとした顔を見せた。そして目を険しくして高杉さんを睨みつけた。
「適当な嘘言ってんじゃねえよ、バカ!」
「もうやめろ、リカ」
僕が後頭部を強めに叩くと、くるりと振り返ったリカがあっけにとられたように口を丸く開けた。
「リカ、どう見ても君のほうが間違ってる」
「そ、そんなことねえよ。だってこいつ、俺がかわいいとか、デタラメを」
「もっと自分に自信を持ちなよ、リカ」
「いや、でも……」
言葉にならないままおろおろするリカは本当にかわいらしい。僕は大きくため息をついた。そしてこの場を納めるべく次の声を発そうとした瞬間、
「謝りなさい、リカちゃん!」
もう一つの影が僕とリカの間に飛び込んだ。
「親切にしてくれた高杉さんにあんなこと言って、最低だよ!」
「ユ、ユリ、俺は、俺たちのためを思ってだな」
「言い訳しないの!」
彼女にしてはとてもめずらしい強さでユリは言い放ち、そしてそのままリカの頬を平手で叩きつけた。
パン、と乾いた音が教室に響いた。
僕以外の人たちにこの光景はいったいどう見えているのだろう、なんてことを僕はちらりと思った。でももちろん、そんなことはどうでも良い話だった。
今、僕の目の前で、リカが涙を浮かべている。
「……何でだよ。俺たちに優しくしてくれるのはナユだけだって、そう思ってこれまで生きてきたじゃねえか。何でそんな簡単に他人を信じられるんだよ。俺にはわかんねぇよ」
「私にだってわかんないよ」
そう言って、ユリは穏やかに笑った。
「でも、信じていかなくちゃ駄目だよね。なゆ君のためにも」
ほどなく昼休みが終わって、百合香と高杉さんのいざこざは何となく有耶無耶になった。放課後、僕は高杉さんに声をかけた。
「どうしました? 星野さん」
そう答える高杉さんはもう、普段通りの凜とした態度だった。
「さっきの、百合香の件だけど」
「柴崎さんのことは柴崎さんご本人から聞きたいものですわね」
「それはその通りなんだけどさ」
僕は思わず頭を掻く。
「まあとにかく、僕からも彼女に言っておくから。高杉さんも、気にしないでもらえると助かる」
「星野さん、あなた柴崎さんの何なのですか?」
「何なんだろうね、本当」
「はあ?」
高杉さんは呆れた顔で眉をひそめた。
「まったく。わけがわかりませんわ」
「気を悪くしたなら、謝るよ」
「あのですね、星野さん」
彼女は改めて僕に向き直った。大きく鋭い瞳で、正面から僕をキッと睨みつけた。
「柴崎さんは何も悪くありません。確かに彼女の口ぶりは乱暴で攻撃的なものでしたが、それは単なる勘違いから来たものであって、彼女の本意ではないはずです。それに、わたくしが無理に昼食に誘ったからこそ、このようなことになったのです。非はわたくしのほうにあります」
「いや、流石にそんなことはないと思うけど」
「そもそも、なぜ星野さんが関わるのですか。わたくしも柴崎さんも、他の誰にも迷惑をかけていません。あくまでこれはわたくしたち二人の問題です。そこにあなたが口を出すのは、お門違いというものではありませんか?」
彼女は僕から目を逸らさずにはっきりとその長台詞を発した。
僕は自分の顔を片手のひらで押さえた。彼女の言葉が体にしみこむまでよく考えた。
「……そうだね。高杉さんの言う通りだ。傲慢だったよ、僕は」
そう言って頭を下げる。
「ちゃんと君と一対一で話し合うよう、百合香に勧めておくよ」
「そうしていただけると助かります」
高杉さんは変わらぬ表情のまま言った。
「良い人ですわね、あたな」
「君ほどじゃないと思うけど」
僕は苦笑して首を振る。
「僕は、僕のためにそうするんだ。百合香が誰かとケンカし続けたままなんて、僕には耐えられない。ただそれだけだよ。本音を言えば、君のことだってどうでもいい」
「へえ」
高杉さんは一瞬目を大きく開けてから、ククッと笑った。本当におかしそうに声を出して笑った。
「やっぱり、普段のあの品行方正の塊みたいな態度は、猫かぶりでしたのね」
「別に嘘ついてる気はないけどね。ああしてたほうが楽なんだよ」
「あはは。星野さん、あなた柴崎さんと付き合っていますの?」
「は?」
あまりに唐突に予想外の質問が飛んできて、瞬間、息が止まった。
「……そんなわけないよ、もちろん」
「なら、わたくしと付き合いませんか?」
「はあ?」
気の抜けた返事をする僕に向けて、高杉さんは妖しく笑った。
翌日、百合香は高杉さんに声をかけ、学校のどこかで一対一で話し合いをしたらしい。その時百合香がユリだったのかリカだったのか、それはわからない。特に尋ねもしなかった。でも、おそらくは、リカだったのではないかと僕は思っている。
「高杉さんとは仲良くなれたよ、なゆ君」
放課後、僕の家でテレビゲームを遊びながら話し始める百合香は、いつもと変わらない様子に見えた。
「そう。それは良かった」
「でね、そのあといろいろお話ししたんだ。ね、リカちゃん」
「ああ。あいつ、いい奴だったな。いい奴すぎて逆に引いたわ」
「またそんなこと言って。悪ぶるのは中学生までにしておくべきだよ」
「あのなあ、ユリ。一応おまえは俺でもあるんだからな。ところでナユ、高杉に告られたってマジか?」
「ぶほっ」
僕は腹を殴られたように息を吐き、咳き込んだ。
「あ、それ私も訊きたかった。本当なの? なゆ君」
「……本当だよ。でもすぐ断った」
「どうして?」
「どうしてって、高杉さんとはあまり関わったこともないんだ。昨日話したのがほとんど初めての人と付き合おうって気になるほうがおかしいよ。良い人だとは思うけどね」
「じゃあ何で望月さんとは付き合ったの?」
「それは……」
僕は何も言えなくなった。その質問には答えようがなかった。あの日、夕暮れの教室で「柴崎先輩とは何でもないんですよね?」と言われて言葉に詰まった直後、反射的に僕は「やっぱり付き合おうか」と口にした。ただそれだけが事実で、それ以上のことは何もなかった。
「……確かに付き合ったけど、でも数日だけだよ。渋谷で一回デートして、それで終わり」
「気まぐれだったの?」
「そうかもしれない。でもすぐに、これは間違ってるって気づいたんだ」
あの日渋谷で、望月さんと美味しいランチを食べていた時のことを、今も時々思い出す。食後のコーヒーを飲みながら不意に、『これは違う』と思った。理由もなく、そう思ってしまった。だからその場で「別れたい」と告げて謝った。僕はできるだけ誠実に生きていたかった。特に、人の心と触れ合うような時は。
「ひでぇ奴だな、ナユ。それじゃいたずらに望月を振り回してただけじゃねえか」
「その通りだよ。だから僕は、そもそもOKすべきじゃなかったんだ」
そう言って僕が黙ると、百合香も口を閉じた。少しの時間、掛け時計のカチコチと堅い音だけが部屋に響いていた。
「……俺はどう思う? ナユ」
「え?」
「俺のことも『この人じゃない』って思うのか? ナユは」
その台詞はまるでユリが言ったかのように静かなトーンで発せられた。リカは僕を見ていなかった。まるでそっぽの、床の隅のあたりに視線を向けながら僕に話しかけていた。そんな彼女と僕を、ユリは穏やかな表情で見つめていた。
「……どうしてそんなこと訊くのさ、百合香」
「知らねぇよ」
リカはどこか吐き捨てるように言った。
「とにかく、答えられるなら答えてくれ、ナユ」
……僕はここで、適当にお茶を濁すこともできた。黙ってやり過ごすこともできた。嘘をつくことだってできた。でも、目の前にいるのは、百合香だった。他の誰でもない、小柄で可憐でかわいらしい僕の幼なじみだった。彼女に対して誠実でいられないのなら、僕はどうして生きていられるというのだろう。
「……近すぎるんだ、君は」
僕は彼女の姿を見つめながら、できるだけ正確な言葉を探した。
「何年も何年もずっと一緒に居続けて、毎日顔を見て遊んで笑って眠って。気づいたら、君が僕にとってどういう存在なのか、よくわからなくなっていた。たまに肌が触れ合うと体がぞわっと震えた。意図せず胸元が見えた時は勝手に一人で落ち込んだ。知らない人から告白されて、ぱっと君の顔が思い浮かんだ。でも、これが『好き』ってことなのか、僕にはわからない。君は僕の幼なじみだ。友達でも、家族でも、恋人でもない。たった一人の大切な幼なじみだ。だから、この感情を『好き』とか『愛してる』みたいな言葉で片付けたくない」
そこまで言って、僕はふっと息をついた。気づくと視界が少しぼやけていた。何の涙なのか、まるで見当がつかなかった。悲しい話なんて何一つしていないはずだった。
「……それでいいのか? ナユは」
「わからない。でも、最後の最後までこのままってことは、ないような気がする」
「そうか」
リカは数秒の間、目をつむった。そしてふっと笑って僕の手を取った。
「ナユ。一つ頼みがあるんだが」
「頼み?」
「デートしてくれねえかな、今度」
恥ずかしそうに頬を赤らめて、ぺこりとかわいらしく頭を下げた。
待ち合わせ場所には既に百合香が待っていた。
「遅えぞ、ナユ」
「十一時半集合でしょ。まだ十五分も前だよ」
「なゆ君、デートの時は男性側が三十分先に着いて待つのがマナーらしいよ」
「誰が言ってたの、それ」
「覚えてないけど……」
肩をすくめるユリ。もちろん本気で言っているわけじゃないだろう。
そもそも家が隣なのだから、待ち合わせなんてしなくても一緒に行けば良いはずなのだけれど、「用事があるから先に行く」と言いだしたのは百合香たちだった。「用事なら僕も付き合うよ」と提案したけれど、「いいから、なゆ君は後から来て」と頑なに断られてしまった。その理由は、二人を一目見た瞬間にわかった。ユリもリカも、見たことのないような純白のワンピース姿に着飾っていた。フリルの飾りがあちこちにちりばめられていて、色数は少ないのに華やかでキュートだった。まるで高級ドレスのようなそれを着たユリはとても美しく、リカはとてもかわいらしかった。百合香が美人であることを僕は改めて思い知った。
僕の視線に気づいたのか、ユリはこちらを向いて明るく笑った。そしてその場でくるりと一回転した。ワンピースの裾がふわりと宙に浮かんでなびく。
「この服、リカちゃんが選んだんだよ」
「えっ、意外」
「だってユリが選べって言うからよぉ……」
「それでこんな、『女の子です!』って服選んだんだ」
「いいだろ、好きなんだよ! 文句あんのか!?」
「いや、すごく似合ってると思うよ」
「うっ」
僕の攻撃にリカは頬を染めて黙ってしまった。
「なゆ君、いじわるは駄目だよ。リカちゃん、私よりずっと乙女なんだから」
「それはまあ、そうなんだけど」
「何だ、いじめか!? 俺を恥ずかしがらせて何になるんだよ!」
「ごめんごめん、すごくかわいい反応するから、つい」
「やめろって言ってるだろ!?」
おそらく、僕たちはどこか浮かれていた。少なくとも僕自身は、あまり普通ではないような気がした。
二人きりで渋谷に来たことなんて、数え切れないほどある。
それなのに、今日のこの瞬間は明らかに特別だった。
パンケーキランチは百合香の要望だった。前から一度食べてみたかったのだけれど一人で入る勇気がなかったのだと言って、「いいかな?」と僕に訊いた。仮に「駄目だよ」と言ったところで、彼女が折れる未来はまず訪れないことを僕はよく知っていた。憧れの丸いふわふわを小さく切り取って口に運んだユリは「うわー、甘いね」と舌を出して笑った。
「リカちゃんも食べなよ」
「いや、いいって俺は」
「ほら、口開けて」
差し出されたフォークに仕方なさそうにぱくついたリカの目が大きく見開かれる。
「何だこりゃ、めちゃめちゃ美味えぞ」
「そうかなあ、ちょっと甘すぎない?」
「そこがいいんだろうが」
「うーん、どう思う? なゆ君」
「どうなんだよ、ナユ」
二人分の瞳が両側からじっと僕の顔を見つめる。なるほどこれが修羅場か、と一瞬だけ思ったけれど、どう考えても違った。でも何を答えても不正解しかないという点では一緒だ。ひとしきり悩み、「確かに甘すぎるけど、でも美味しいよ」と中庸な台詞を吐いた結果、僕は二人分の不満げな視線を浴びることになった。
ゲームセンターではUFOキャッチャーの一台に釘付けになった。「えとまるくんじゃねえか!」と叫ぶリカの視線の先にはぬいぐるみがあった。何とも言えない薄紫色のふわっとした形状に、感情の読めない目と口が付いている。
「え、何? これ」
「えとまるくん知らねえとかマジかよ」
「さすがに一般常識だよ、なゆ君……」
本当か? はたして本当にそうなのか?
首をひねる僕を無視して百合香は百円玉を筐体に投げ込んだ。聞き覚えのあるメロディが流れ、アームとレールが光りだす。リカは大きく深呼吸すると、見たことがないほど真剣な表情でボタンを押し込んだ。結末は一分もせずに訪れた。空気を掴んでふらふら揺れるアームを、リカは呆然とした表情で見つめていた。
「ふざけんな……ふざけんなよ……!」
怒りに震えながら、恐ろしい勢いでまた財布を取り出す。投入。操作。絶望。それが五回も繰り返された時点で、僕はユリに「いいの? これ」と訊いた。
「大丈夫だよ、お金はずっと貯めてたから」
「それだけが問題じゃないと思うけど」
「でも、私、止められないよ。だって、あんなに楽しそうなリカちゃん、見たことないから」
その言葉に、改めて僕はリカを眺めた。確かに、これほどまで激しく前髪が揺れ動いていたことは、今までなかったかもしれない。
「リカ。ちょっと俺、両替してくる」
「いいけど、さすがに限度額はあるからね」
「わかってる、わかってる」
まったくわかってなさそうな表情でリカが答える。僕は大きく一つため息をついた。
「リカ、ちょっと待って」
「止めるな、ナユ! 俺にはどうしてもえとまるくんが必要なんだ!」
「だったら僕が取ってあげるから」
そう言って、ポンと彼女の頭の上に手をのせた。
「だから、ちょっとそこで待ってて」
それから三分後、僕はリカに謎の形のぬいぐるみをプレゼントする。彼女は熱くなって気づかなかったようだけれど、あの時のえとまるくんは、少しずらした位置からアームを下ろせば簡単に引っかかる状態だった。それさえわかれば、後はちょっとしたテクニックの問題だ。多少経験のある人なら、問題なく成功する。
「……ナユ、これで四回目だな」
「三回じゃなかった?」
「四回だ、間違いない。全部覚えてんだよ、俺は」
僕は、自分のためにUFOキャッチャーに挑んだことは一度もない。どんな時だって、まず最初に百合香がいた。
「ありがとな。いつか別の何かで返してやるよ」
「楽しみにしとく」
その後僕たちは音楽ゲームをして遊んだ。一曲ごとにユリとリカは交代していたけれど、腕前はどちらも変わらず人並以下だった。その遥か下で僕はもがいていた。叩くリズムがあまりにも不安定すぎて、二人とも哀れみの瞳で僕を眺めていた。
「なゆ君……やっぱりカラオケはやめようか」
「はい」
実は結構楽しみにしていたんだけどな、と言い出せるわけはもちろんなかった。
ボウリングをして、卓球をして、デパートで服やアクセサリーを見て、そして夕食の時間になった。レストランは既にネット予約済みだった。一昨日の放課後、僕と百合香で探して見つけた店だ。静かな個室にしたいよね、とユリは言っていた。だってデートなんだから、美味しいご飯は、私たちしかいない空間と時間で味わいたいよね。その要望をドンピシャに満たしかつ安い店がたまたま見つかって本当に良かった。個室に入りながら、自然とそう思う。この街は本当に騒がしい。それが楽しい時もあれば、うっとうしい時もある。
ひとしきりメニューを眺め、僕は天ぷらうどんを頼むことにした。「百合香はどうするの?」と訊くと、ユリは「選んでよ、リカちゃん」と隣の少女にメニューを渡した。
「あれ、僕と一緒にしないんだ」
「いつもはそうだけど、今日はリカちゃんに決めてほしいなって」
「俺のことはいいよ。ユリが食べたいもの食べろよ」
「いいから、選んで」
有無を言わさぬ口調でユリが言う。
「そ、そうか? でもよ、俺が食べたいやつは、ちょっと……」
「どれなの? 教えてよ」
「あー……」
リカがおずおずとメニューを指さした場所には、『特上天丼』の墨字が書かれていた。それはこの店で最も高価な一品だった。天ぷらうどんの倍は軽く超えていた。
「ほらな、どう見ても高すぎるだろ! だから言いたくなかったんだ!」
「いいよ、それにしよう」
ユリはあっさりとそう言った。
「リカちゃん、食べたいんだよね? だったら食べようよ。大丈夫だよ、お金なら貯めてあるから」
「でもよぉ……」
「決まりね」
言うが早いか、ユリはさっと呼出ボタンを押した。
十五分後に料理が届いた。大ぶりの海老天を噛みしめながら「マジかよ、信じらんねえ……」と真顔で呟くリカの姿はあまりにもかわいらしくて、僕は心の中で料理人に感謝した。
「ねえ、なゆ君」
食べ終えて箸を置き、口元を紙ナプキンで拭いながらユリは言った。
「どうだった? 今日」
「楽しかったよ。ひさしぶりにこれだけよく遊んだから」
「そういうことじゃないんだよ、なゆ君」
ユリは首を左右に振った。
「わかってるよね?」
僕はしばし口を閉じた。もちろん彼女の意図はわかっていた。何といっても、今日はデートだったのだ。
「……楽しかったよ、本当に。一緒にご飯食べるのも、UFOキャッチャーで遊ぶのも、ボウリングもショッピングも、道をただ歩くだけだって、これまで何度も経験してるのに、今日がいちばん楽しかった。だって今日はリカがいたから」
そう言って、僕はリカの顔を見た。瞳と、眉と、唇と、すっと白く透けるような肌をよく見つめた。
「お、俺?」
「リカ、気づいてないかもしれないけれど、君は動きがいちいちかわいいんだ。ちょっとした反応が全部面白いんだ。だから、それだけで今日、僕は幸せだった。何をしたかはどうでもいい。今日、ここに君といたってことが大切なんだ」
僕はいったん言葉を切った。顔を赤くしてうつむくリカは、やっぱりとてもかわいらしかった。
「ありがとう、リカ。僕をデートに誘ってくれて」
帰ってきた最寄り駅は、いつもよりどこか閑散としているように見えた。渋谷はこの何倍もの人に溢れていた。今はまだ、そちらに目が慣れすぎているのかもしれない。
「ナユ、これからどうする?」
「どうするって、帰るけど」
「ちょっと公園、寄ってかねえか?」
「公園って、杉並公園? いいけど、何で?」
「いや……」
「リカちゃん、まだ帰りたくないんだって」
百合香が横から口をはさんだ。
「そうだよね、リカちゃん」
「お、おう、そうだな」
リカの反応はどこか不自然だったけれど、僕は深くは追求しなかった。何となく帰りたくないのは、僕も同じだったから。
杉並公園には人の一人もいなかった。都市から離れたベッドタウンの片隅にぽつんと存在する小さな公園の夜十時に立ち入る僕たちのほうが間違いなくイレギュラーだった。
薄明かりを頼りに、僕たちは狭いベンチに座った。僕の左に、ユリ。僕の右に、リカ。二人の見た目は、初めて見たあの日から今日まで、ずっと変わらず同一だった。つやつやした綺麗な前髪が、同じ赤色のリボンでまとめられている。今日もまた、その姿は不可思議で、美しかった。
「あ、あのさ、ナユ」
地面を見つめていたリカがおもむろに言葉を発した。どこか声が震えていた。
「話が、あるんだ」
「いいけど、大丈夫? リカ」
「お、おう。あ、星! 星が綺麗に見えるぞ!」
「星?」
夜空を見上げると、確かに普段見えないような小さな星まで点々と光っている。それほどまでに冬の空気は冷たく澄みわたっていた。
「確かに星は綺麗だけど……」
「そうだろ! うん、良かった、良かった」
「良くないでしょ、リカちゃん!」
左側から声が飛んだ。
「そんな漫画みたいな緊張しないでよ。ほら、言いたいこと、あるんだよね。今しかないよ。今ここで、きちんと伝えようよ」
「……そうだな。確かに、そうだ」
そう呟くと、リカの顔つきが変わった。浮ついたような雰囲気が消えていた。「よしっ!」と頬を両手でパンと叩いて、僕のほうに向き直った。この場所に来てから、初めてまっすぐ僕の瞳を見つめた。
「ナユ。わかんねぇけどさ、俺、たぶん、これを言うために生まれてきたような気がする」
彼女はこれ以上ないほどに真剣な瞳をしていた。どこか泣いているようにすら見えた。次に彼女が何を言うのか、僕には想像がついていた。百合香のその言葉にどう答えるかは、もうずいぶん前に決めてあった。
「ナユ。俺、ナユのことが好きだ」
「僕も、百合香と最後まで一緒にいたいよ」
「好きとは言ってくれねえんだな」
「だってまだ『好き』ってどういうことなのか、よくわからないから。でもそれは、百合香と一緒に生きながら、少しずつ理解していけばいいと思うんだ」
「ちっ、格好つけやがって」
リカは口を尖らせて僕を睨んだ。そして、ふふっと笑って僕の頬をぺちんと軽く叩いた。
その時、
「あっ、雪!」
唐突にユリが叫んだ。僕とリカはそろって空を見上げる。
「わっ、本当だ。雲一つない星空なのに……」
「すげえ、こんな素敵なことってあるか!?」
思わず、といったようにリカは立ち上がった。前に一、二、三歩進んでもう一度夜空を仰ぎ、両手を広げながらその場をくるくると回転した。そしてぴたっと僕の方を向いて、これまで見たどの百合香よりも最高の笑顔で「那由多ー!」と僕を呼んだ。
「俺、今めちゃくちゃ幸せだよ!」
次の瞬間さっと風が吹いて、もうそこにリカはいなかった。僕は思わず駆け寄った。つい一瞬前まで彼女がいたはずのそこには、ただ闇が浮かぶだけだった。振り返ると百合香が立ち上がっていた。長い前髪が風に揺られて左になびいていた。
「百合香、わかってたの?」
「……何となくね。でも、いなくなったんじゃないよ。リカだって、百合香だもの」
「うん……そうだね。ごめん」
僕だってそれは理解しているつもりだった。ユリも、リカも、たった一人しかいない僕の大切な幼なじみだ。わかってる。わかってるんだよ。それでも、胸の奥からにじみ出す、ふわっとした形の悲しみを僕は止められなかった。止めようとも思わなかった。
雪はだんだんと強さを増していた。いっそこのまま全てを白で覆い尽くしてしまえば良いと僕は願った。
*
ぼんやりした夜の闇の中、刻み込まれた無数の小さな光が色とりどりに輝いている。辺りは大勢の人でざわざわと騒がしい。日本有数のイルミネーションスポットと言われるだけあって、その質と量は想像を超えていた。とはいえ、人工物は人工物だ、とも思う。チカチカと規則的に瞬いているあたりの光をぼんやり眺めていると、「何考えてるの? なゆ君」と隣から訊かれた。
「いや、綺麗だなって」
「本当?」
「本当だよ。今まで見たどんなイルミネーションより綺麗だ。綺麗だけど……」
「だけど?」
「杉並公園の星空のほうが綺麗だなって」
「ああ……」
百合香は頷いて、どこか宙を見つめた。
「もう、三年前だね」
あれから彼女は分裂することもなく、僕の彼女として付き合ってくれている。大学は別々になったし、顔を合わせない日も増えたけれど、それで大きく変化するほど僕たちの関係はひ弱ではなかった。
「ねえ、なゆ君」
僕の目を見ながら、百合香がはっきりとした声で言う。
「キスしてもいい?」
「え、今ここで?」
僕は周囲を見回した。そこにはもちろん、見知らぬ多数のカップルと家族とその他大勢がひしめいている。
「本当にここでするの? 流石に恥ずかしくない?」
「だって今、したくなったから」
百合香がわがままを言うことは珍しくないけれど、彼女はかなり人目を気にするタイプだ。どこか変だな……と彼女の瞳を見ると、不意に、あの頃、百合香が二人だった頃、いつも僕の右側にいた、乱暴で、ぶっきらぼうで、全てがかわいらしい女の子の姿が思い浮かんだ。
「もしかして、リカ?」
「百合香は百合香だよ。ほら、するよ」
そう宣言して、彼女は強引に僕の頭を引き寄せた。
あの頃、百合香は二人だった。 水池亘 @mizuikewataru
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