後悔
結局彼女は亡き主人の後を追うようにして息を引き取った。最期に夫の名をつぶやいたと、仕えていた侍女が目を真っ赤にして話してくれた。
他の者たちも、つられたように涙ぐみ、生前の彼女がいかに旦那様に仕えたのかを饒舌に語り始めた。立派な人だった、可哀そうな人だったと、散々悪口を言っていた人間が死んだとたんに好意的な言葉を述べるのは、ひどく滑稽に思えた。
どんなに気に食わない相手でも、亡くなってからはいくらでも優しく振る舞えるのだと、ユアンはどこか冷めた気持ちで彼らを眺めていた。
屋敷の整理をすると言いだした後釜は、部屋のあちこちをひっくり返し始めた。ユアンは古参の使用人に付き添い、屋根裏部屋に連れていかれた。部屋に入って目についたのは、布が被せられ、隠すように置いてあったキャンバス。
ユアンは引き寄せられるように、そっとその布をめくった。
(これは……)
顔立ちは奥様によく似ていた。だが、何かが違うと思った。肖像画に描かれる女性の瞳は、エメラルドのような、明るい緑色をしていた。暗いところなど、少しもない輝き。それが、彼女とは違う気がした。
だが正面から彼女の目を見たことがないユアンには、本来彼女がどのような色をしているかわからない。そしてそれはもう永遠に確かめようがないことだった。
「これは、若い頃の奥様でしょうか」
「……いいや、違うさ」
何とも決まり悪そうな顔をして、古参の使用人は目を逸らした。なんとなくそれ以上聞くことは躊躇われて、ユアンは片づけに専念した。絵は処分されることに決まった。
「この手紙と一緒に、燃やしてきてくれ」
必ずな、と言って渡されたのは、旦那様の筆跡で綴られた手紙。宛先は奥様、ではない別の女性だった。
「中は見るなよ」
見るなと言われると、よけいに人は見たくなるものだ。
ひょっとすると、渡した本人も、どこかでそれを望んでいたのかもしれない。彼だけは、フィーネに同情的で、亡くなった際も心から涙を流しているように見えた。
その日の夜、ユアンは同じ部屋の同僚が寝静まったのを確認すると、こっそりと持ち帰った手紙を読み始めた。罪悪感はあった。もうすでに死んだ者、しかもフィーネの夫の手紙である。仕える者の立場なら、主人を思って捨てるのが当然だった。
――それでも、ユアンは読んだ。知りたかった。フィーネが最期の瞬間まで愛した人のことを。
手紙の内容は、別に何ということはなかった。ニコラス・ブライヤーズが婚約者に送った手紙。ただその婚約者が、フィーネではなく、レティシアという女性だったこと以外は本当に、ありふれた愛の告白が綴られた手紙だった。
ユアンは、あの肖像画の女性を思い出す。フィーネによく似た女性。――いや、フィーネが、肖像画の女性によく似ているとも言えた。
ユアンは興味がわいた。それは、使用人たちが仕事場でこの先誰が結婚するかなど、あの屋敷の伯爵はひどく見目が悪いとか、そういう類のものだった。他人の秘密を知りたい。知ったら、それに関係する人物がどういったものか、さらに知りたくなるのが人間だ。
彼はそう思って、かつて屋敷に仕えて、今はもう辞めてしまった使用人のもとへ訪れた。罪悪感があったのか、彼らは罪を告白するように、意外にもすんなりと秘密を教えてくれた。
フィーネは、レティシアの代わりとして、ニコラスが引き取った女性だったということを。
この事実を知った時、ユアンはふとフィーネの横顔を思い出した。視力を失いながらも、何かを求めるような、寂し気な横顔を。ユアンの問いに、笑顔で答えた無邪気な表情を。
彼女は知っていたのだろうか。ニコラスに引き取られた理由も、愛された理由も、すべてレティシアの代わりだったということを。
ユアンは、知っているような気がした。
あの屋根裏部屋に、ふと彼女が思い立って入ってしまった姿が、あの肖像画を見てしまった姿がなぜか自然と目に浮かんだ。
その時、彼女はどう思ったのだろうか。いいや、答えは決まっている。彼女は見なかったことにして、ニコラスを愛し続けたのだ。彼が亡くなっても、視力を失うほど悲しんで、死ぬまでニコラスを想い続けた。
「旦那様は最期にレティシア様の名を呟かれて旅立ちました。奥様はそれを……」
ユアンはありがとうございますと告げて、フィーネが生まれ育ったという故郷にも足を運んでみた。人家よりも、野原が多い、みすぼらしい田園風景がそこには広がっていた。こんなところで生きる人間の人生なんて、さぞちっぽけなものだろう。
――奥様は、旦那様が好きですか?
お偉い貴族の人間が、足を運ぶような場所ではなかった。一生縁のない場所だと言ってもいい。
――ええ、大好きよ。
ニコラスと出会わなければ、彼女はあの屋敷に連れて行かれることもなく、レティシアの代わりだと苦しむこともなく、視力を失うことも、早死にすることもなかった。
――たとえ同じものを返せなくても、私はニコラス様を愛しています。
「……馬鹿な人だ」
ユアンは、そう一言彼女に言ってやりたかった。言えばよかった。
もっと話しかければよかった。結局自分は彼女のことを何も知らぬまま、一人寂しく逝かせてしまった。
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