終止符を打つ

 フィーネは足を止めた。ちょうど、日向と日陰の境界線。心臓が痛いほど鳴り響いていて、胸の前でぎゅっと手を握りしめた。


 ユアンはフィーネが聞こえなかったと思ったのか、もう一度繰り返した。


「俺が、わざとあなたに近づいたことです。レティシアが打ち明けたそうですよ」


 フィーネは震えそうな唇をとっさに噛みしめた。血が出てもかまわないくらい強く。


「最初は少し驚いていたようですが、特に咎めることはありませんでした。あなたのことをよほど信用なさっているんでしょうね。退屈しのぎに楽しませてやって欲しいとじきじきにお願いまでされてしまいました」


「嘘です」


 だって彼はユアンと二人きりで話した自分に嫉妬した。だから教会へ行くことも許さなかったのだ。フィーネには認めることはできなかった。信じたくなかった。


 けれどユアンのくすりと笑う声が、フィーネを守っていた最後の砦を壊そうとする。


「そうですね。俺の存在は確かにニコラスにとってあなたの存在を繋ぎ止めておく鎖になったのかもしれない。でも、それもいつまで続くでしょう。レティシアをこの屋敷へ招き、共に生活するようになった彼は、まだあなたという存在を必要とするでしょうか」


 ユアンがゆっくりとこちらへ近寄ってくる気配がしても、フィーネは一歩も動こうとしない。動くことが、できなかった。

 彼の声が、遠くから聞こえてくる。


「あなただって、もう気づいているはずでしょう。ニコラスの心がレティシアの方へ傾きかけていることに」


 自分のすぐ目の前まできたユアンを、フィーネはぼんやりと見つめる。琥珀色の瞳が、今はぼやけて滲んで見えた。


「あなたは、可哀想な人だ」


 ゆっくりと吐き出されたユアンの言葉が、フィーネの耳に響く。

 彼が手を伸ばし、流れる涙を細く綺麗な指で拭った。可哀想だと言いながら、彼の顔はちっともそうは見えなかった。


「あの時も、あなたは泣いていらした」


 あの時とはいつだろうか。ユアンと初めて会ったあの夜のことだろうか。


「報われない想いだと気づいていた。けれどあなたは、愛すると、誓いましたね」


 そう、誓った。ニコラスに捨てられるまで、彼のそばにいようと。彼を愛そうと。


「今も、そう思っていらっしゃいますか」


 フィーネは頷こうとした。そうだと、言おうとした。


「わたしは……」


 ――ニコラス様……。


 今ここにニコラスがいてくれたら。フィーネの姿を見たら。フィーネ、と名を呼んでくれたら。……そうしたら、もう少しだけ、自分の心を欺き続けようと努力したかもしれない。


 でも彼はいない。自分ではない最愛の人と一緒にいる。


 疲れた、とフィーネは思った。あんなにも頑なに守ろうとした想いが、今は脆く消え去ろうとしている。それを引き止める気力は、もう今の自分にはない。


 ユアンは黙り込んでしまったフィーネをじっと見つめていたが、やがて見惚れるような微笑をその唇に浮かべた。


「もう、終わりにしてもいいのではありませんか」


 フィーネにできることは、もはやゆっくりと首を縦に振ることだけだった。


***


 ふと誰かに触れられる気配を感じて、フィーネは目を覚ました。


「ニコラスさま……」

「すまない。起こしてしまったな」


 離れようとしたニコラスに、フィーネは待ってと小さく呼び止めた。


「ニコラスさま」


 身を起こして、フィーネは自身の白くまろやかな肌をニコラスの首元に絡めた。普段はつつましく、決して自分から触れようとしないフィーネの積極的な行動に、ニコラスは驚いたようだったが、すぐに彼女の華奢な体を抱きしめかえした。


「どうしたんだ?」


 優しく、心配する声だった。


「フィーネ?」

「……ニコラス様、お願いです。私のそばにいてくれませんか……」

「どうしたんだ急に?」


 いつになく甘えてくるフィーネに、ニコラスは少し困っているようだった。


「お願い。眠りにつくまででいいんです……」


 そうしたらレティシアのもとへ行っていいから。だから今だけは――


「……ああ、いいとも」


 抱擁を解くと、ニコラスは艶やかなフィーネの亜麻色の髪を優しく撫でてくれた。沈黙が心地よく、二人はお互いの目を見つめ合っていた。


「ニコラス様」

「なんだい、フィーネ」

「……いいえ、何でもありません」


 ふっと言いたい言葉が溢れたが、全て消えてしまった。

 カタカタと窓の揺れる音に耳を傾け、フィーネはこの幸福をかみしめようと思った。


 ニコラスはかまわずフィーネの青みがかった緑の瞳を眺めていた。フィーネもまた、それに応えるように愛する人をひたと見つめる。


「ニコラス様の瞳はとても綺麗ですね」

「そうか? 普通だと思うんだが……」


 そんなことはない。フィーネにとって、ニコラスは何もかも特別な存在として映った。


「神秘的で、紫の中に見え隠れする赤色が、薔薇の花びらが舞っているように見えます」


 フィーネの言葉に、ニコラスは目を瞠り、やがて可愛らしい子どもを見るかのような優しい眼差しで彼女を見つめ返した。


「フィーネは詩人だな」

「だとしたら、ニコラス様のおかげです。私に知識と教養を授けて下さったのは、あなた様ですから」

「私は授けただけだ。身につけたのは、フィーネの努力と才能があったからさ」


 それでもフィーネはやはりニコラスのおかげだと思った。愛しい人の言葉は、すべて宝石のように大切で、水のようにフィーネの体になじんでいった。


「ニコラス様、愛しています」


 ニコラスは少し照れたように頬をかいた。


「本当に今日はどうしたんだ。いつにも増して情熱的じゃないか」


 だが悪くないと、彼はフィーネに口づけする。彼女も目に涙をためながら、それにこたえた。


「私もきみを愛しているよ。フィーネ……」

「……愛しています。ニコラス様」


 いつまでも――


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