揺らぐ自己

 ニコラスは前世と同じように、貴族という上流階級に位置している。そのため本人がどう思おうとも、周囲の人間は彼に世間の目を気にするよう強要した。


 ニコラスが初めてそれに背いたのは、フィーネと出会ってからだ。自分より身分が下の女性に夢中になっていく彼の様を、最初人々はただの遊びだと考え、そのうち飽きるだろうと楽観視していた。


 だがニコラスがフィーネと結婚すると伝えた時、彼が本気なのだと気づいた。当然ニコラスの親戚や親しい友人たちは、考えを改めるよう彼の説得を試みた。


 何を馬鹿げたことを言っている。早く目を覚ませと。


 いつもはその忠告を素直に受け入れるニコラスだったが、今回は決して首を縦に振ることはしなかった。


 フィーネだけが、例外だった。


 ――私はフィーネを愛している。誰が何と言おうと、彼女と結婚する!


 だがその例外も、時間の問題だろう。ニコラスは何かと理由をつけてレティシアのもとへ足を運んでいるし、またこっそりと手紙を書いていることも、すでにフィーネは気づいていた。


 いや、彼に仕える使用人たちもうっすらとだが勘付いている。


 けれどフィーネは、それらすべての反応を無視した。ニコラスが隠したいと思っているうちは、それに従う。


(むしろ隠し続けて欲しいと、私はどこかで望んでいる)


 そうすれば、まだ自分は彼のそばにいられる――

 

 フィーネはくだらないことを考えるのはやめようと、首を振った。


 それよりもニコラスに任された屋敷のことを少しでも片づけておこうと帳簿や書類に目を通す。


 ニコラスがフィーネをこの屋敷に連れて来た時から、彼はフィーネを屋敷の女主人として迎え、仕事を任せた。そしてフィーネも前世と同じように、従順に仕事をこなしていった。


 彼女の有能さゆえに、ニコラスとの仲を良く思っていない人間をなんとか我慢させることができているのだ。


 だがすぐに粗相をしでかしたら、といつでもフィーネの行動に目を光らせていることをフィーネは知っていた。


 特にニコラスに長年仕えていた古参の使用人からは、フィーネが大切な主人を誑かそうとする悪女に見えるそうで、遠回しに出ていくよう言われたこともあった。


 間違えることは許されない。


 一通り、いつもの日課を終えると、次の週末に開くパーティーで料理人たちに何を作らせるか相談しようと、フィーネは厨房へ向かった。


 朝の慌ただしい時間を終えてひと段落ついたのか、賑やかな声が廊下まで聞こえてきた。


「あのお嬢さんも可哀そうよね。せっかくニコラス様に見初められたと思ったのに」


「ねえ。旦那様も何を考えているのかしら。あんなにフィーネ様に似た人を好きになって」


「でも、むこうのお嬢さんの方が、華があって、洗練されているようにも見えるわ。根っからの貴族というのかしら。旦那様はそこが気に入ったんじゃないかしら」


「そうねえ……言われてみれば、そうかもしれないわね。それに一見儚げそうに見えて、話してみると明るく楽しい方だと聞くもの。フィーネ様はその点ねえ、」


 いつまでも続くと思われたおしゃべりは、メイド長の出現によって中止になったが、フィーネには十分な打撃を与えた。とても話をする気にはなれなかった。


 打ち合わせにはまた後でこようと、フィーネは素早く部屋へ引き返した。やりかけの仕事があったはずだと、椅子に座り、ペンを握る。けれど何をすればいいか全くわからず、頭が働かなかった。


『フィーネ様はその点ねえ、』


 先ほど彼女たちが話していた内容が頭から離れない。嘲笑うような声が何度も聞こえてくる。


 口さがないお喋りを酷いと思うよりも、確かにという納得の方が強かった。前世で見た肖像画の印象が強くて、フィーネはレティシアを儚げで繊細な女性だと思い込んでいた。


 でも、実際会ってみると、彼女はじつに表情豊かで、明るく活発な女性であることがわかった。


 理不尽で、女性をないがしろにする発言には、彼女の聡明な知識を武器に男性相手にだって容赦せず反論する。


 古い考えの貴族には、女性が男性より前へ出るべきではないと彼女の言動に眉を顰めるだろうが、ニコラスや彼女を慕う者はそれをどこか楽しんでいるように見えた。


 ――ひょっとしたらニコラスも、前世で自分に厳しく礼儀作法を身につけさせたのは、どこかで自分が彼に反発するのを望んでいたからかもしれない。


 そう、フィーネは思った。


 従順すぎる態度よりも、自分の意志を貫く気高さを、ニコラスはフィーネに望んでいたのではないだろうか。


 フィーネは、自分が重大な間違いを犯していたかもしれないと血の気が引いた。


(だとしたら、私という存在はいったい何なのだろう……)


 レティシアを目指して生きてきた自分は、レティシアになれず、かといって本来あるべきフィーネという人間でもない。


 いったい自分という存在は――


 日差しの降り注ぐ暖かな書斎で、フィーネはただぼんやりとペンを握りしめていた。



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