身代わり令嬢は愛し、愛される
真白燈
フィーネ
前世
「私の名前は、ニコラス・ブライヤーズと申します」
その人はフィーネが今まで出会ったなかで一番綺麗な身なりをしていた。背は高く、服の上からでもはっきりとわかる鍛え上げられた身体つき。豊かな黒髪は後ろでゆるく、赤いリボンでまとめられていた。
すっきり通った鼻梁に、男らしい太い眉。アメシストのような紫の瞳は、光の加減によってうっすらと赤い色が混じっているように見え、不思議な美しさがあった。
人の上に立つのが相応しい高貴さが感じられて、フィーネはただただ目の前の男性から目が離せなかった。
いったいどうしてこの人はこんなところまでやって来たのだろうか。
フィーネの家族は、こんな辺鄙な村まで足を運んだニコラスのことを胡散臭そうに眺めていた。だが彼が大量の金貨を今にも朽ち果てそうな机の上にばらまくと、すぐさま目つきを変えた。
「そこのお嬢さんを譲ってほしいのです」
両親は断った。その本心は大事な娘を見ず知らずの男に渡したくないからではない。男がもっと金を弾んでくれることに賭けたからだ。
そして男は両親の賭けにのってやり、さらに多くの金貨を机の上に重ねた。今後一切フィーネと自分に関わらないと約束させて。両親たちは金貨に夢中で、生返事をした。あとは好きにしてくれと、娘の顔をろくに見ぬまま、男の方へと押しやった。
フィーネは一人事態について行けぬまま、呆然と目の前の男性を見つめる。ニコラスはフィーネに安心してくれと微笑むと、彼女の手を取った。不思議と恐怖はわいてこなかった。ただ馬車の中で、綺麗な身なりをした彼にじっと見つめられるのは、少し恥ずかしい気がした。
ともかくこうしてフィーネはニコラスの広大な屋敷へと連れていかれた。
屋敷へ到着すると、まずフィーネは纏っていた衣服を使用人たちに脱がされ、体の隅々まで洗われた。そしてゆったりとひだが流れる、綺麗な子ども用のドレスを着せられ、櫛で髪の毛を何度もとかれた。
鏡に映った自分は、まるで別人のようだった。
フィーネがニコラスの前へ再び現れると、彼はその出来栄えに満足そうに頷いた。
それから言葉遣い、礼儀作法、習い事、遊びにいたる全てにおいて、ニコラスはこうあるべきだという教えをフィーネに叩き込んだ。
特に言葉遣いや振る舞いに関しては細かすぎるくらい厳しかった。
「そんなふうに相手を責めてはいけない」
「笑う時は声を立てず、お淑やかに微笑むんだ」
「外で遊んでばかりではなく、ピアノや刺繍など、もう少し、女の子らしい遊びもしなさい」
それでもフィーネはニコラスの教えを従順に守り、一度注意された誤りは決して繰り返さなかった。
間違いを繰り返せば、また捨てられてしまうかもしれないという不安もあったが、何よりもニコラスに嫌われたくなかった。
「フィーネは、本当に頑張り屋さんだな」
幼いフィーネが正しい言葉遣いや振る舞いを身につけていくたびに、ニコラスはじつに嬉しそうに微笑むのだ。笑うと少年のような子どもっぽさが、ニコラスにはどこかあり、フィーネはそれを見るのが好きだった。
親にもめったに褒められることのなかったフィーネは、彼の笑顔と言葉がひどく嬉しく、空っぽの心が満たされていく気がした。
それに言葉遣いや礼儀作法にはひどく厳しいニコラスだったが、それ以外は優しい人だとフィーネは知っていた。
たまに両親や故郷を思い出して涙を流すフィーネを、ニコラスは眠るまで傍で手を握っていてくれたし、彼女が聞いたことのないような愉快な物語で悲しみを吹き飛ばした。
フィーネは幸せだった。ニコラスにも同じように幸せを返したいと思った。
彼の期待に応えるように、フィーネは勉強に、立ち振る舞いに、全てにおいて気をつけた。
そしてもはや彼女がかつて貧しい村で生まれ育った、痩せっぽっちの子どもだったとは誰も信じぬほど、フィーネは美しく成長していた。
ニコラスは目を細めてそんなフィーネを見つめた。
まるで懐かしい誰かに一歩近づいたように。
けれどフィーネはニコラスを盲目なまでに信頼しており、彼の本当に愛する人に少しも気づかなかった。気づこうとしなかった。
ニコラスが流行病に罹り、ベッドで寝込んでいる時だった。フィーネは愛する人がどうか助かってほしいと神に祈りながら、懸命に看病していた。
「うっ、」
彼が苦しそうに呻き、何かを言おうとしているのに気づいたフィーネは、さっとその唇に耳を寄せた。
「レティシア、どこにも……いかないでくれ」
――レティシア。
彼の熱に浮された、生死を彷徨う中で発せられた言葉は、嘘偽りない、心からの叫びだった。
「レティシア」という女性が誰か、フィーネはもちろん知らない。だが、うわ言のようにその名を繰り返す彼はどうみても異常であり、また同じ部屋にいた古参の使用人たちが狼狽えた様子で顔を見合わせたのをフィーネははっきりと見てしまった。
ニコラス・ブライヤーズには秘密がある。
そして、その秘密は「レティシア」という女性であり、彼女が彼にとって並々ならぬ人間であったことは疑いようもなかった。
フィーネはそれを知りたいと思った。知らなければならないと思った。
彼にとって愛する人間は、自分であるに違いないと今の今まで信じてきっており、それがわけのわからない女性に奪われることだけは決して許せなかった。それはフィーネが初めてニコラスに抱いた、反抗心とも言えた。
秘密を探しだすのは、案外簡単だった。ニコラスが絶対に入ってはいけないと最初に言いつけた屋根裏部屋の物置。そこに秘密が隠されているとフィーネは考えた。
彼女はニコラスの容態が落ち着き、誰もが寝静まった夜中に、一人そこへ向かう。
暗闇の中、ぎしぎしとした音を響かせ、階段を一段一段上るのは、地獄の門へ近づいているようで、もう一人の自分が早く引き返せと警告する。それでも足が止まらない。誰かに見つかってしまうのが恐ろしいようで、どこかでそれを望んでいる自分がいた。
部屋の中にはもう使わないような家具や、調度品が置いてあり、扉付きの本棚も置いてあった。それほど埃っぽく感じないのは、頻繁に訪れている証拠だろうか。
フィーネは部屋に置いてあるどれもがレティシアに関係するようなものに見えて、まるでレティシアという女性が今この瞬間、部屋にいるような錯覚に囚われた。
暗い室内を蝋燭で照らしていると、布に覆われた大きなキャンバスを机の上に発見した。自然とそちらに足が向き、フィーネは迷った末、勢いよくその布をはぎ取った。
それを見た時、彼女は思わず全身を大きく震わせた。
雪のような白い肌に艶やかな亜麻色の髪。エメラルドのような色をした目は大きく、鼻筋はすっきりと。ふっくらとした赤い唇には儚げな微笑を浮かべている。
自分より少し上の、美しい貴婦人の絵画はフィーネの心をわしづかみにした。そのあまりの出来栄えに感動したからではない。
その絵に描かれた女性の顔立ちが自分とそっくりだったからだ。
ああ、とフィーネは今までの謎がすべて解けた気がした。ニコラスがフィーネを助けたのは自分を愛していたからではない。
フィーネとそのレティシアという女性の容姿がひどく似ていたからだ。
本の隙間や箱に隠されていた、レティシアからニコラスへ贈られた手紙、ニコラスから彼女に宛てた手紙を読んで、それを確信した。
ニコラスとレティシアは互いに婚約者だった。だがレティシアが不慮の事故で亡くなってしまい、ニコラスは自分も死んで彼女の後を追いたいほど生きる気力を失ってしまう。
レティシアによく似た少女がいると聞くまでは――。
ニコラスの友人からの手紙には、自分がどこの生まれで、どういう家庭環境にいるのか、実に詳細に述べられていた。
フィーネは初めてニコラスと会った時の、彼の泣き出しそうで、狂おしいほど喜びに満ちた表情を思い出す。
ずっと不思議だった。どうして彼はこんな自分を引き取ったのだろうと。どうしてこんなにも優しくしてくれるのだろうと。でも、すべて納得がいった。
だからあんな辺鄙な場所までやってきたのだ。
フィーネではなく、レティシアを探しにやってきたのだ。
けっこうなお金まで払って家族から買い取ったのだ。
家庭教師を雇って教えるのではなく、ニコラス自身の手で礼儀作法を身に付けさせたのも、あれほど細かく言葉遣いを直させたのも、フィーネが着ないような服をプレゼントしたのも、すべて亡くなった、愛する人を取り戻すため。
「なんて、こと」
呆然としたようにフィーネはその場に座り込み、手にしていた手紙に目を落とす。
レティシアの字は少し癖があって、フィーネとよく似ている。彼女はニコラスが書いてくれたお手本を忠実に再現したつもりだったが、ニコラスがわざとレティシアの筆記に似るように仕組んだのだ。何もかも、レティシアにするために。
フィーネという少女をレティシアという最愛の人に作り変えるため。
手紙を持つフィーネの手はひどく震えていた。ごうごうと風が吹き荒む音が聞こえても、フィーネはただ石のように固まっていた。
それでもフィーネはニコラスから逃げ出そうとはしなかった。
いくら理由が誰かの代わりだという最低なものでも、あの貧しい暮らしから救いだしてくれたのは紛れもなくニコラスであり、それにフィーネが救われたのも事実だった。
教養を身に付けさせるための教育費だってばかにならない。ニコラスはフィーネに十分すぎるほど自身の財産と時間をつぎ込んだ。
いいや、そんなのはただの言い訳だ。
フィーネは最もらしい言い訳で彼のそばに居ることを正当化したかった。
ニコラスを愛していたから。成人を迎えると同時に結婚してほしいとプロポーズされた時も、彼に優しく抱きしめられた時も、フィーネは涙が出るほど幸せだと感じた。
ニコラスの広大な屋敷と領地が、フィーネの全てであった。一生ここから出ずに、フィーネはニコラスに身を捧げようと決め、それを成し遂げた。
「フィーネ」
いつか、レティシアではなく本当のフィーネを愛してくれる。そうに違いない。そう信じて彼を愛し続け、彼の最期をフィーネは看取ったのだ。
「れてぃしあ……」
それでも彼が最期の瞬間に呼んだ名前はフィーネでなくレティシアであった。
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