【論考:予想】数学の証明と歴史学の関係──歴史は失敗を学ぶためだけにある

 2023年6月8日(木)。21時19分。


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 タイトルから書いています。始めのうちはタイトルとは関係のない話が続いていきます。タイトルの伏線回収は途中から書いていきます。

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 こんにちは。井上和音です。


 note にて、【歌評】を発表したら、タグで歌評が200件近くありました。元々歌評という言葉は私が使い始めた頃は世の中に存在していませんでした。私が創った日本語です。遂に私は日本語を創るところまで来ましたか。いぇーい。夏目漱石なつめそうせきさん見てるー? ピースピース、と思っていましたが。世の中にあるわずかな歌評という言葉は、そもそもの短歌の評価という意味で使われているらしくて、短歌に関係なく歌ならなんでも評価対象に入れよう! という文化はまだ生まれていないみたいです。


 私の知名度なんてその程度ですよ。


 今日は雨でした。駅まで自動車で行きました。


 そう。仕事です。


 仕事と言えどもあまり酷なことはしません。途中から単純作業でした。


 一人部屋で黙々と作業を行い続けました。


 すると、またまた何かしらがひらきます。仕事中に閃いていいのかという批判もありそうですが、閃きました。


 この少ない文章でもうタイトルの伏線を回収するのですかと言いたくなりますが、タイトルの伏線を回収しましょう。


 職場で終業後に急いでメモを取りました。メモの内容をそのまま書き写しておきましょうか。


 「人はいかに間違えるかを学ぶのが歴史学」……①


 「テレビの代わりに読書をしたら人はおかしくなるのだろうか」……②


 「あなたに本は必要ですか」……③


 3つもいらなかったですかね。①を詳しく深掘りしたいために②からいきましょう。


 ①と②は少し触れ合っています。そのうち話します。


 ②は夕飯時の食事中にテレビを見る文化が我が家にはあります。その中でもNHKnews7は毎日のように見ているのですが、このnews7、もしくは他のテレビ番組の代わりに、モニターを映してKindleの本を食べながら見ていたら人は狂うのかという社会実験です。


 社会実験というより思考実験。私の感想に過ぎないのかもしれませんが。


 まず始めになぜ狂うのかというと、NHKnews7を見てある程度の常識を付けている自信があります。これはNHKnews7が良い常識を身に付けさせる良い番組と言いたいわけではなく、NHKnews7が報道していることを真に受けて自分の常識として知らず知らずのうちに身に付けている、無自覚の自信があるという意味での自信です。


 NHKnews7で「ヘルメット着用が努力義務化されました」と報道があったからヘルメットを買いました。「マスクの着用」を推進していたからマスクを付けていました。


 ちょっと話が①の方向にずれそうなので、元に戻します。②で言いたいことは「テレビという共有する情報を人間が取らなくなったら、人社会において常識という観点はどこから生まれてくるのだろうか」という問いが根本にあります。現代の転換点って感じですね。最近の若者はテレビを見ないどころか所持すらしないという人が多いらしいじゃないのですか。NHK受信料を払いたくないと。立花孝志たちばなたかしさんの運動が地道に若者に浸透してきているような気がします。「DAZNにお金を払っているのにNHK受信料を払っていないからサッカー天皇杯が観れない」といったコメントもツイッターで見ました。


 要は共通する話題──そのまま文字通りマスコミュニケーションが無くなってきているのが現代社会です。


 テレビで情報を得ていることが多いなと自分の生活を振り返って見て思いましたが、このテレビを付けている時間にKindleを読んでいたらどうなるだろうかと思ってしまいました。本当に言いたいことが今日、2023年6月8日に言えなくなりそうな文字の長さになりそうなので、②についてはここまでで割愛かつあい


 残りは思考実験で楽しんでください。


 さて、①。ようやく①。


 というかタイトルの伏線を回収しましょう。


 まず材料として、数学の証明のあるあるからいきましょう。


 数学において、ることを証明するのは容易なのですが、無いことを証明することはとても難しいです。


 具体例を書いたら私の浅学がバレそうなのであまり言えませんが、例えば双子素数はありますかと問われれば例を示せばもう終わりです。


 では、例えば、3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない、を示してください、と問われたらどうしますか。


 無いことを示せと言われています。無いことを示せという証明の具体的な例がフェルマーの最終定理くらいしか思い付かなかったために、フェルマーの最終定理を持ってきました。


 これはアンドリュー・ワイルズさんに既に証明されていますが、もちろん難しいです。ウィキペディアによると330年経ってようやく証明されたそうです。たかだか2行の証明問題が誰も解けなかったのです。詳しくはないので深入りはしません。


 歴史の話に飛びます。「歴史が動いた」とか「歴史が変わった」と言われる点では何かが失敗した時に歴史が進みます。その当時の慣習、常識、権威、支配構造が変わったと言ったほうが少しは的確なのかもしれません。


 例えばなんで明智光秀あけちみつひでさんは三日天下で終わってしまったのでしょうか。織田信長が京都に滞在している時は軍備が薄いと薄々感じ取っていた明智光秀さんは、織田信長が本能寺に一晩を明かそうとした時に急襲を仕掛けます。問題はそのあとで、織田信長を討ち果たした後のことを何も考えていなかったことです。この場合の歴史を動かしたのは織田信長さんが京都では手薄だった失敗と、明智光秀さんのそれから先を見越していなかったことの失敗と、失敗が連続して起こります。


 それで豊臣秀吉が中国地方からとんぼ帰りしてきます。


 そんな豊臣秀吉さんも、日本を統一しただけでは飽き足らず、朝鮮出兵を仕掛けることになります。家臣は誰も止められませんでした。「秀吉さま、関白になられたのだからもう充分では」と言う家臣は誰もいませんでした。この後に豊臣家は崩壊へと向かい、夏の陣で完全に天下は徳川家へと移ります。夏の陣のきっかけは豊臣秀吉の行き過ぎた欲という失敗が遠因として残ります。


 数学の「在る」を証明することと歴史の「失敗」に焦点を当てていくことは似ている作業だと感じます。歴史の転換点は「在る」ことが誰にでも分かると思われますが、そこには必ずと言っていいほど「失敗」が存在するのです。


 「成功」で歴史は動きません。変わらないと言ったほうがいいかもしれません。なぜなら「成功」している時代というのは何も変える必要性がないために時代が変わることが無いからです。数学で言うところの「無い」を証明しようとしているのと動作は似ています。「無い」に焦点を当てていても「無い」で終わります。……私が浅学で申し訳ないのですが上手く説明できません。ただ、「在る」を上げることと「失敗」を上げることは似ているなとただ感じているだけです。


 この論法が失敗でしょうか。


 待ってください。読むのをやめないでください。一つだけ真理を上げます。これは定義でもなく真理だと確信しているのですが「自分が死ぬのと世界が終わるのは同値ではないと証明することは出来ない」という独我論ないしは実存主義のテーゼです。自分が死んでも世界は残りますよ、という人は考えてみてください。自分が死んだら世界と自分とは何も関係が無くなってしまいます。世界に対してなんの認識も保てなくなります。自分が知覚出来ないものは存在していると確信を持って言えることは無いはずなのです。


 みんなが「在るよ」と言っているから、「在る」と信じているただそれだけなのです。


 認知しているからそこに在ると確信を持って言えるのです。認知が無い存在は信じることでしか存在を定義することは出来ません。


 というわけで、「自分が死んだら世界が終わるのと同値」ということを基本概念として持つことが出来ます。


 真理は今のところこの一つだけなので、「死ぬまでに何をしようか」という行動をもってしては実は何をしようと自由なわけです。自由というか、なんでも出来るわけです。窃盗をしたり、人を殴ったり、詐欺で大金を儲けたり。


 それをしてはいけないと定められているのが法なわけです。法の他にも、常識、慣習などがあげられます。法と常識と慣習との全てに違反したことが無い人はこの世にいません。自転車で歩道を走ったことが無い人はいないかと思われます。横断歩道がない道路を横断したことが無い人はいないかと思います。道路交通法ばっかりですが、浅学なのでご容赦願います。


 ところが。法、常識、慣習というのは、時代と場所が変われば変わってしまうという可変的な要素が本質としてあります。「自転車で車道を走るなんて危ない行為をするのか」「生で魚を食べるなんてありえない」「鯨を食べるなんて」「牛は食べないだろ」「肉を食え」。


 どこに行こうと、どの時代を生きようと、真理だけは同じです。それ以外は可変的なので、現代を、現在を生きる私はその場その場に応じて行動するべき判断を変えていかなければいけません。


 そういう際に、判断の材料となるのが、もちろん、法、常識、慣習。その先なのです。その先というか、その上です。その上の判断材料で、「こういう考えを持った時にはあの偉人だったらどんな終着点に結びついていってしまっただろうか。歴史に刻まれた人物の後から見たら失敗だった考え、行動、発言」を例えることが出来ます。


 最近ミシュレのフランス革命史を読んでいますが、その中でネッケルという人が宮廷の財務大臣をしていました。フランス革命の先駆けとして三部会が開かれますが、そこで第三身分の市民代表に対して演説を行います。演説の内容は残されていませんが、考えとして貴族に認められている税金の免除さえ解けば市民は納得して三部会も穏やかに進むだろうと考えたそうです。市民は金と食事のことしか考えていないとネッケルは想定していました。ところが市民の代表団は、金、安定した生活、それらを超えたものを欲し始めます。初めの頃は立憲君主制で進んでいましたが、徐々に市民は身分制度そのものを廃止し自由を求めるようになります。宮廷が破壊されてしまった最初の要因はネッケルによる市民への偏見という失敗から始まります。


 ここで歴史を学ぶ意味というのは、失敗の例を参考にして生きていくことが出来ることです。「貧乏は金さえどうかなれば後は何も求めはしないだろう」という考えを持っていたら、後々にその貧乏だったはずの誰かが本当に求めているものに気が付いた時にはもう遅く、自分の身や味方の所在すらも分からなくなっていく危機的な状況に追い込まれていくことが、教訓として与えられます。歴史の変わり目には、後の時代からは「失敗」だったと言われる行動、言動、思考、偏見が見つけられます。それは数学の「在る」を証明するのと同じくらいに、シンプルな現象として現れ、後々の自分の生きる教訓へと変わっていきます。


 すみません。凄い思い付きをしたかのように思いましたが上手く説明できませんでした。数学の「在る」と同じくらいに歴史の「失敗」は明らかで分かりやすく自然だということを言いたかったのですが、私の力不足です。この二つには何か関係性がありそうな気がしますがいつか発見できるのでしょうか。学際的に生きていければそのうち。

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