障害年金を自分から支給停止にする人は、最初から障害年金以外の選択肢は無かったのだろうか。

 2022年12月24日(土)。16時38分。なんで仕事中の14時台はあんなに眠くて「(午後に横になれる仕事に就きたい)」とかよく分かんないことを思いながら、ふらふらになりながら仕事をしているのに、休日の14時台って全然眠くならないのでしょうね。「寝るのがもったいない」とか「休日の時にしたいことがある」とか、まあ色々考えてしまうのですが。要は他人から見られながら正気を保っていることそのこと自体がストレスで、そのストレスから疲労に変わり、昼食後に血糖値が上がり、「(と、とにかく寝たい)」という気持ちが多くなってしまうのかなと思っています。


 過去の自分は、──過去と言っても統合失調症になったあとの自分は──、統合失調症により、たとえ一人部屋にいたとしても「誰かに見られている」「人工衛星から延々と監視されている」「ほら、部屋がピキッとか、カンッとかクリック音が鳴る。自分の行動への警告だ」「プライベートで使うパソコンは既にハッキングされていて、自分がしたいこととか全て誰かが握っていて、自分がパソコンを使うたびに罪が増していく。積み重なっていく」という状態に陥り、挙句の果てには「何もできない」「何をやっても無駄」「全てを諦めろ」という状態に陥り、寝込んでしまうというのが休日の使い方でした。


 今もハッキングとか変わらないような気はするけれど。


 寝込んでしまうのは、興奮抑制剤、リスパダールの過剰投与だったのかもしれないけれど。


 まあ、寝込まなくなりました。


 統合失調症に一度かかると、非常に真面目になります。異常なほど真面目になります。先程も言った通り、全てはある者に筒抜けで、更に更に過去の統合失調症にかかった当初は「何かの試験だ」と思う、ある意味で最悪な思い込み──しかし、それが試験であるという、いつかは終わってくれるという、世界が意味の分からない壊れかたをし、自分だけが世界選抜か何かに選ばれてしまったとか、そういう思い込みが無ければ閉鎖病棟や一人暮らしを生き延びることのできなかった、ある意味で延命するための思い込みだったのですが──、すいません。──の中身が長すぎました。


 要するに、「この世は試験だ」と思い込むことで、その後の自分もずっと苦しめられてきたことになります。ある意味で自分への劣等感から「試験に合格した」(一人暮らしの頃は勝手に思い込んだりしていました)と言うことは無く、その「試験」というのは幻であると自分の理性が、当たり前のように理解してくれているので「合格することは無く」という状態になり、結局何をしても罪の意識を感じてしまう、という非能動的な人間になってしまったことは確からしいです。


 自分でお金を使い始めて、普通の人並みに趣味とかにお金を使うことができるようになって、ようやく「働くことへの対価」とか「統合失調症になってしまったことへの対価」みたいな感じは戻ってきました。


 特に障害年金は大きかったですね。統合失調症になった意味を探すのは本当に意味のないことで「たまたまなりました。残念でした。一生薬を飲んでください」と言われて、ほっとかれるような医者からの対応で「これからどうやって生きていけばいいんだ?」みたいな悩みに乗ってくれる人は全くいませんでした。


 統合失調症になった意味を探す話でしたね。ある意味で、統合失調症にならなかったら、障害年金は絶対に入ってきていないだろうなと思っています。世界がひっくり返るような出来事を体験してしまい、将来へも絶望しかありませんでしたから。不思議なもので、ここまで絶望感を与えられると「障害年金? もらえて当然だろ」ぐらいの心理になります。よくYouTuberとかで「私は障害年金を停止してもらいます!」とか言う精神障害YouTuberとか見たことありますが、「それならそもそも障害年金をもらわなくても良かったのでは? 障害年金をもらうことに罪悪感を感じるくらいに健康だったら最初から実家に帰るなりしてなんなりして、もらわなければ良かった、──まあ、YouTuberで倫理的に良いことをしてますよアピールも大事なのかもしれませんが──さらに言えば、状態が回復したから『もう障害年金を自分から拒否します』と言えるようになったのだろうというのは容易に想像できますが──、精神的に実は別にそこまで追い込まれていなかったのではないのか」とか思ってしまいます。


 なんか、テンションが低いですね。キャラクターが頭の中で喋ることもありませんね。


 これは言っていいのか、正直分かりませんが、「お金がたくさん欲しいから」「グレーの発達障害だから」くらいの気持ちで障害年金はもらわないで欲しいな、とかは思います。こんなことを言ってはダメなのかもしれません。もちろん、障害年金を申請する・しないの自由は個人の自由であり、私が何か介入するとか、そういう気持ちは一切ありませんが、自分の場合の障害年金の意義は「統合失調症になった唯一の意味」くらいに深いもので、「障害年金もらっているけれどめちゃくちゃ稼いでいます」「うつ病治ったので障害年金の支給を止めに行きます」とか見てしまうと、「障害年金のそもそもの意義ってなんなんだろうな」とか思ってしまいます。


 永遠に障害年金の申請者が増えていき、自分は障害基礎年金2級なのですが、「えっこの人が自分と同じ障害基礎年金2級? 私の苦しみへの代償と同じ扱いになるのか。うーん。なんだかなあ」とかそういう気持ちになります。閉鎖病棟隔離室とか、本人の意思なしに強制的に牢屋のような部屋に入れられて、退院時期も告げられず、大学も耐えきれず退学してしまい、未来が終わってしまった自分と同じ扱いになるのか、とか思うと不思議な気持ちになります。


 人それぞれ、苦しみはあるだろうけれど、自分と同じ等級の苦しみに入ってしまうんだ。そんな気持ちになってしまいます。


 私は馬鹿ですよね。例えば、水俣病の認定基準を国と戦う際には、水俣病の患者が一致団結して国と戦うのです。「水俣病で苦しんでいる方が少しでも多く救われるために活動していきたい」とか考えるのが、苦しんでいる人の、ある意味で正義的な立場です。


 私は、真逆のことを言っています。「精神障害を持っている者同士、障害年金が取れるように一致団結して頑張りましょうね」という精神とは真逆のことを言ってしまっています。孤独だからでしょうか。


 簡単に、数年で「障害年金が必要なくなりました」と正義のように言う人は「最初から本当に障害年金を受給するに値していたの? 実家に帰るとかやれることは全て尽くしたの?」とか思ってしまうのですが、倫理的におかしいのは私なのかなとか思ってしまいます。


 苦しんだからなんだ、という考えもあるかもしれませんが。


 全ては法律の基準で定められたものだから、誰がどんな障害で障害年金を貰おうが勝手だろうが。とも思いますが。


 上手く言葉にできませんが、途中で自分から障害年金を停止させる人には違和感しか持ちません。特に、正義感やパフォーマンスで停止させる人に対しては、本当に違和感しか持ちません。


 私は私の障害年金は永遠にもらってもいいと思っているほど、散々な思いをしました。そこに倫理観は無く、あの時の地獄を意味のあった過去にするために、もらえるだけもらっておこう、とか思っています。どれだけもらっても埋め合わせは出来ないとも思っています。それぐらい、地獄と絶望を見ました。


 私が他人に何かを言える立場にいないことは重々承知の上です。

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