【人間関係:考察】「他人の判断は変えられない」と受け身になるのはネガティブな考えなのか?

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 タイトルは「何の価値もなく土曜日が終わってしまった」にしようか迷っています。

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 自動車に乗って、耳鼻科に行って、読書をして、久々にスマホのゲームをして、チキンラーメンでも食べて、読書して、土曜日が終わろうとしている。


 読んでいる本は落合陽一さんの「これからの世界をつくる仲間たちへ」。読みやすくすらすら読めるので、一日で半分くらい読んだ。医学部の友人から勧められて、「難しいよ」と言われていたが、新規の単語などもなく、ただすらすらすらすら読めていった。


 ここに感想を書いていいかわからないが、落合陽一さんが訴えてるIT社会は、東京だけの話だと思う。人間がロボットのように働き続ける現場は、田舎ではたくさんあるよと言いたくなった。


 私が民間企業が主体の資本主義の中にいないことが、そう感じる原因なのかもしれなかった。


 本を読んで、なんの意味があるのだろうかと思ってしまうことは多いが、暇だから読む。家内政治は父親に任せているために、何もない土日が淡々と過ぎていくだけなのだ。


 家内政治ってどうでもよいと思ってしまう私のダメなところもあるのかもしれないが。家族が何にお金を使おうと、何を選ぼうと、どうでもよいと、なりゆきに任せて、「人の判断は変えられない」と考えている私は、家族が買うことに対して何も反発しない。


 「他人の判断は変えられない」と考えてしまう私の思考は非常にネガティブなものなのだろうか。諦めの境地というか、と考えてしまうのは、間違った思考法なのだろうか。


 私がたいしたお金を稼いでいないので口を出さないでいるというのが本音なのだろうけれど。


 「自分の思い通りにならないと怒る人」というのはたくさんいる。特に高学歴で稼ぎが多く、と考えている人に多いような気がする。私はそういう人に対しては、できるだけ迷惑をかけないようにして、そっと生きている。人と対立しても意味がないと思ってしまうからだ。物理的に何か起きたりとかすれば話は別だが。勝手にやってくれ、と思ってしまうのが、統合失調症になったあと、何事も成功しなかった境地としての考え方になってしまった。


 私は労働をしている。仕事は一切していない。労働である。毎日お風呂を洗うのも、合理的に考えて「ただの時間の無駄」としか考えられないが、命令されているのでやる。諦めの境地とはそんなものだ。


 友達がまた一人減った。どんどん孤独になっていくが、大丈夫なのだろうか。私は普通に生きたい。ただそれだけなのだ。ただ我慢はしたくない。幼稚すぎる考えなのかもしれない。

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