【記録】2011.3.11. 九州の熊本ではどのようなことが起こっていたか。
2011年3月11日。確か金曜日だったと記憶している。熊日新聞のトップの記事は、『九州新幹線、明日開通。』だったような気がする。皮肉にも熊本の人気ご当地キャラ、くまモンは九州新幹線の開通を記念して、小山薫堂氏がデザインして次の日に正式に発表されるはずだった。デザインと『くまもとサプライズ』のロゴは新しい熊本を観光立県にしようと希望にあふれていた時期だった。
熊本市内の高校に通っていた私は、電車通学をしていた。学年は不詳ということにしておこう。2011年3月11日。私は普通に高校へ行き、部活をし、塾に行っていた。いつも通りの、勉強とサッカーだけの日々が続いていた。当時は携帯電話しか持っていなかった。なんの情報も入ってはいなかった。先生たちも普通に授業をしていた。
異変を感じたのは、午後十時過ぎ、熊本駅で在来線を乗り換える時だった。海岸線を通る全ての電車が止まっていた。何が起きているのかさっぱり分からなかった。たまたま、部活の先輩と出会った。「和音。全ての電車が止まっとるてたい。タクシーで帰るしかない」と言われた。親に電話したら「東北でものすごい地震があったらしくて、全国の沿岸に津波警報が出とるみたいね」とのことだった。津波? 九州は全く揺れていないのに、なぜ熊本まで津波警報が? 意味がわからない。何も分からぬまま、タクシーの列に並び、自宅までタクシーで帰った。
自宅に着き、テレビを観て唖然とした。午後十一時は過ぎていただろうか。気仙沼の様子が生放送で流されていた。灯篭流しのように、あちらこちらに火が灯っていた。灯っていたように見えたのは、遠くから撮影しているからであって、気仙沼のあちらこちらに巨大な火の玉があふれていた。夜だったから異常に明るく見えた。地震でこうなるのかと疑問を持った。次の日に理由がわかることになる。
次の日。がれきの山となっていた気仙沼の様子が映されていた。津波でオイルタンクが破壊され、そのオイルに火が付き、気仙沼の津波の水で浸食された海の上を、火のついたオイルが点々と流されていたのだった。次の日は、主に福島の第一原子力発電所の映像が常に流れていた。土曜日で部活もたまたま無かったので、常にテレビに集中していた。数十分おきに緊急地震速報が流れ続けた。太平洋側だけでなく、長野県など東日本のありとあらゆるところで、緊急地震速報が流れ続けていた。緊急地震速報が壊れたのではないかと本気で思った。それでも壊れていなかった。何度も何度も大地震を繰り返すレベルの、とんでもないエネルギーが一瞬で放散されたのだった。
情報が錯綜していた。福島原子力発電所で水素爆発が起きて、原発の覆いが全て吹き飛んだ。福島というレベルではなく、世界中で語り継がれるであろう、フクシマというカタカナが思い浮かんだ。世界に影響を与える事故として永遠に残るだろうと思われた。
九州新幹線の全線開通を祝う式典も中止になっていたようだった。気付いていなかった。当時、自分の心としてもそれどころではなかった。
その後の週で、高校で新聞記事を発表する朝の会のようなものもあったが、当然、『マグニチュード9.0』の見出しの記事が使われた。テレビCMも一切無くなった。ACジャパンしか放送されなくなった。
☆☆☆
2011.3.11から11年が過ぎた。職場では追悼の黙とうがあった。当時の混乱の日々を思い出し、その後で次々と明らかになった東日本の震災の様子を思い出しながら、黙とうを捧げさせてもらった。
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