海の魔女は愛を知らない

さちはら一紗

第1話 海辺の魔女は愛を知らない

   0


「恋をしたの」


 昔々、海の底。人魚の国の姫君は魔女に願う。


「愛を知りたいの」


 陸の世界へ行きたい、人間の足が欲しい、かの王子にもう一度会いたいのだと。


「わたし、永遠が、欲しいのよ」


 宝石のような瞳をきらきらと輝かせ、賛美歌を歌うように姫君は我儘を言う。


 ──愛は永遠、魂は永遠、魂には死してなお不滅の愛が刻まれる。

 人間の世界では古くからそう言い伝えられている。

 だが永遠の愛も永遠の魂も、海の底には存在しない。永遠という言葉すら、本来は人間の世界にしかないものだ。長い寿命と至上の美しさを持ち、完璧な幸福に彩られた生を送る人魚たちには、永遠など必要ない。

 都から離れた、鬱蒼とした海の森に棲む魔女は、姫君の願いに溜息と流し目で返事をする。


 ──ああ、なんてばかな娘だろう。


 人魚が、人間の愛なんてものを欲しがって、一体何になるというのか。魂を持たず、涙を流すことすらない人魚にとっての愛は、人間のそれとは違うものだ。


 魔女は醜く潰れた声で嘲笑う。


「おまえの願いは、叶うものか」


 姫君の蒼く透き通る両の瞳が、魔女の暗く澱んだ瞳を覗き込む。


「叶えるわ」


 竪琴の音色のように美しい声が、魔女の耳を刺す。


「わたし、絶対にあの人を、愛してみせるわ」


 その答えに魔女は鼻を鳴らした。

 ああそうかい。それなら好きにするがいい。こうなってはもう、この姫君は何も聞きやしないのだ。止めるような義理も、ありはしない。

 魔女は姫君に背を向けて、薬を取りに棲家の奥深くへと潜っていく。


 ──さて、魔法の対価を何にしてやろう。


 暗い海の底で、魔女はひとり、薄く笑った。 

  



   1



 その日レーラは、客人の来訪に扉を開けて、真っ先に後悔をした。


「魔女さま。どうか私を海の底へ導いてください」


 眼前に跪く少女の願いに、レーラは辟易と溜息を吐く。

 海辺の切り立った崖の上、人里から離れひっそりと建つ魔女の家。

 その戸を叩いたのは如何にも町娘といった装いの年若い娘だ。楚々としたエプロンドレスに、纏め上げた美しい栗色髪ブルネット

 齢十五かそこらの、まだ幼さを残す顔立ちは愛らしく、しかし珍しい菫色の瞳はどこか大人びた深さを湛えていた。


 レーラは眉をひそめる。

 ただの町娘にしては荷物が大袈裟すぎる。単に異邦の旅人と受け取るには、少女は不自然に品が良かった。だがその程度では、魔女の興味は引かれない。


「帰れ」


 こつりとレーラは杖を鳴らす。その声は嫋やかで、儚げで、誰もが聞き惚れるほどに美しい。だが発したのは明らかな拒絶、視線は声の優美さをかき消すほどに冷徹だった。娘の愛嬌も、魔女の前では何の意味もなさない。


 その声から受ける柔らかな印象と、魔女レーラは真逆の外見をしていた。

 凍えるように青白い肌と陰鬱に整った顔形に、不穏な月光を思わせる銀の髪。折れそうなほど細い身体に纏うのは真夜中のように黒いドレス。喪服のような装いがレーラの病的な白さを際立たせる。皺ひとつなく若々しい見目にも関わらず、暗い瑠璃色の双眸は深い老いを感じさせる。

 冷たく、鋭く、寂しげなその美しさは、例えるならば墓場の霊。

 近付いては魅入られ帰って来られない、そんな恐ろしさをどこか感じさせるものだった。栗色髪の娘の、野花のような愛らしさとは質が違う。


 しかし娘は臆さない。声の先を震わせることもない。


「どうかお話だけでも、聞いてくれませんか? 私、どうしても海の底に行きたいのです」


 恐れ知らずか鈍いのか、はたまた単なる身の程知らずか。レーラは呆れを露わに投げやりな態度をとる。


「そんなに海底を望むなら、岩でも抱えてその崖から飛び降りたら」

「もうやりました。でもうまくいかなかったんですよ。息が続かなくて」


 唖然とする。冗談には聞こえなかった。その娘の、薄暗さなど一切感じさせない微笑みは冗談にしてはたちが悪い。これ以上、取り合うのは気が進まなかった。


「ならばとっとと諦めることね」

「お待ちください」


 そのまま扉を閉めようとするレーラに、跪いていた娘はすぐさま立ち上がる。娘が荷から取り出したのは、竪琴だった。レーラは動きを止める。


「お話がだめなら、せめて一曲だけでも聞いてくださいな。海辺の魔女さま、あなたの求める魔法の対価を聞き及んでおります。きっとご満足いただけますわ」


 海辺に隠れ住む魔女レーラ。魔女としては新参、由緒もさしたる高名もない。けれども彼女の魔法は一級品だと、その筋の者たちの間では噂が流れている。


 ──気難しい海辺の魔女に耳を傾けさせるのはそう難しくない。物語さえ差し出せばいい。


 ──とびっきりの、愛の物語を。


「……おまえ、詩人か」

「はい。申し遅れました。旅の吟遊詩人、ノエと申します」


 左手に竪琴、右手でスカートの裾を摘み、綺麗なお辞儀カーテシーをするノエ。少女には似つかわしくない、随分と固く可愛げのない名だ。レーラは、声には出さずその名前を舌の上で転がした。

 杖と共にゆっくりと一歩を詰め、娘を品定めするように見る。ノエの瞳を覗き込む。濁りない紫水晶アメジストの輝きからは、不思議と真意が読み解けない。


「おまえ、人間にしてはかわいい顔をしているのね。その若さで、そんな甘い顔を引っさげて、何を語るのかしら。その小さな口で」

「お望みならばなんだって。悲しい恋の末路なんて如何です?」

「あどけない顔をして、なんとまあ悪趣味なこと」


 だが少し、興味が湧いた。


「入りなさい」

「ありがとうございます、魔女さま。きっと退屈はさせませんわ」




 杖を頼りに家の中へと戻るレーラ。その後をついて中に入ったノエは、辺りを見回した。

 魔女の家という評判に似合わず、中は質素にして簡素、がらんとしている。魔女の家の中が外観そのままであることにノエは意外そうな表情を見せる。所詮は人里から外れた海辺の粗末な家ということか。

 石造りの壁に囲まれた中央には、古びた木製のテーブルと椅子が二脚。窓は木製の鎧戸が開け放たれ、窓枠の中には青い海と空が広がっている。枠中の青はこうして見るとまるで絵画のように嘘くさい色彩だ。奥の本棚と大きな薬棚がなけなしの魔女の家らしさだった。


 異様なのは、粗末なテーブルの上には妙に作りの良い銀の燭台が置かれ、欠けのない白磁のティーカップがふたつ、並んでいること。一方のカップには中身があり、一方には注がれた形跡すらなかった。

 ノエは首を傾げる。


「私が訪れる前に、誰か来てらしたのですか?」


 その問いにレーラは足を止め、じっと空っぽの椅子を見つめる。


「──いいえ。誰も」


 きっぱりとした口調はそれ以上の追求を許さない。


 レーラはお茶が注がれた方の席へと向かう。椅子に腰を下ろしたレーラは視線でノエへ座るように命じる。ノエは躊躇いなく、空のカップが置かれた対面の席に着く。


「おまえは客人ではないからもてなしはしないわ。私に扉を開かせた駄賃を払って帰りなさい」


 尊大な物言いは薄暗い部屋に釣り合わず、優雅な座り方に粗末な椅子は似合わず、陶器の縁をなぞる指先は華奢というには骨張っていて、テーブルに立てかけた杖は今にも倒れそうなほど頼りない。

 けれどそのちぐはぐさは、決して魔女を惨めに思わせない。魔女の美しさは、どんな場違いでも褪せない。

 人ならざる不自然な美。それは人間とって、薄気味悪さを感じさせるもののはず。それなのに、ノエは。平然とした顔でくすりと笑みを零した。


「魔女さま、まるで詩でも吟じるように悪態を吐くんですね。きっとその、声のせい。竪琴を奏でるようなお声だわ」


 そのまま長い指で、抱えた竪琴の弦を弾く。響く軽やかな音が、淀んだ空気の中を跳ねる。


「歌えばさぞ素敵でしょう」


 その言葉に、レーラの瞼がぴくりと動く。


「おまえは、そんな、くだらないことを言いに来たの」


 低い声音。刺すような物言い。しかしそれでもレーラの声は、ノエの褒め称えた美しい響きを保ったままだ。耳に残る声の余韻が煩わしい。呻りを噛み殺すようにノエを睨む。睨みつけられたノエは少しだけ困り顔をした。


「不快にさせたなら、ごめんなさい。──それじゃあ、ご所望の通りに物語をひとつだけ。どうかお付き合いくださいな」


 返事代わりにレーラは硬い椅子に背を預け、不機嫌そうに眉をひそめたまま、無言で冷めきったお茶を口に運ぶ。

 ポロン、と場違いで筋違いな明るい音色を、ノエの竪琴が奏で始める。


「──これより語るは魔女の恋の物語、氷の城の魔女と心を失くした少年の、出会いと別れのお話です」





 一曲と一説話を終えて、日暮れ前に詩人の少女はあっさりと帰っていった。鍵をかけ直し、静かになった部屋の中。レーラは浅く息を吐き、椅子に深く背を預けた。


「ふざけた娘。よりにもよってあんな願いを言い出すなんて。何を考えているのかしら」


 海の底に行きたいと願う者はこれまでもいた。〝海辺の魔女〟と呼ばれるレーラに持ち込まれる願いとしてそう珍しくはない。

 何せ海には人を惑わせ恋に狂わす乙女が、乙女の姿をした怪物がいる。その怪物の名は〝人魚〟。彼女たちに魅入られた人間共が海の底にある人魚の国へ行きたがるのはままあることで。そしてレーラは、その願いに辟易としていた。

 海の底の王国へ行きたければ行くがいい。簡単だ。海に身を投げればいい。二度と帰って来れはしないし二度と呼吸をすることも叶わないが、それだけだ。藻屑となれば叶う願いなんて安いものだろう。


 あの詩人の少女がどうして海の底へ行くことを望むのかなんて、知ったことではないのだ。 

 あんな無意味な願いを、わざわざ叶えるつもりはない。

 だが。


 レーラの不愉快と不機嫌の理由は、それだけではなかった。

 窓の外を見れば、傾き始めた日は仄かに空を不吉な橙に染めている。風の音はどこか歌声のように唸りを上げる。窓際にかもめが一羽、止まった。


 ──歌えばさぞ、素敵でしょう。


 ノエの言葉を思い出し、レーラは顔を顰める。

 杖を手に椅子から立ち上がり、窓のもとへ。取り付けられた鎧戸をぴしゃりと閉める。かもめは飛び立ち、風は戸に堰き止められ、光は遮られ、部屋には静寂と闇が吹き溜まる。

 陰鬱な部屋の中、レーラは安堵と共に深く息を吸い込んだ。


「私が、歌ったとして、一体何になる?」


 レーラは空っぽの椅子を睨みながら、喉に手をやる。冷たく冷え切った指が、細い喉を、強く抱きしめる。




  2




 翌日も同じ時間に戸が叩かれた。


「おまえ、また来たの」


 扉の向こうには昨日ぶりの人懐っこい笑顔が目の前にある。薄々そんな気はしていたのだ。何せ昨日の引き下がり方は、魔女に縋る人間にしては物分かりが良すぎた。

 ノエはぺこりと慇懃に頭を下げる。後ろ髪を纏める赤いリボンが無邪気に揺れる。


「昨日は手土産を忘れてごめんなさい」


 そう言って、持ち上げて見せた籠からは甘い匂いが仄かに漂っていた。手土産、ご機嫌取り、袖の下。レーラは眉をひそめる。


「菓子なんて」

「お嫌いですか?」

「ありきたりね」

「お好きなんですね。よかった」

「誰がそんなこと言った?」

「では責任を持って、私がぺろりと食べてしまいますね。全部」

「……嫌いではない、わ」


 狙いすぎの一品だった。いっそ無礼が極まっていれば追い出し甲斐があるものを。

 魔女という存在は食事自体をあまり必要としていないし、レーラは人間の食べ物に対して忌避感すらある。だが、甘味だけは別だった。じっと籠を見つめるレーラに、ノエは微笑む。


「これで今日はお客さん扱いしてもらえますか?」

「図に乗るんじゃないわ」


 言いながらも、レーラは扉の隙間を広げる。


「礼節としてお茶ぐらいは用意します。釣り合わないなどと文句は言わないことね」

「お茶会ですね! いつぶりでしょう。喜んでお招きに預かります」

「招いてない。おまえが勝手に押しかけて来ただけでしょう。追い出されたいの?」

「それは困ります。明日も来なくちゃいけませんもの」

「……願いを叶える気はないと言っているのに。魔女の気が、そう易々と変わるとでも?」

「思ってませんわ、魔女さま。私、あなた方の意地と性根の悪さと頑固さは、よく知っているつもりです」


 慇懃無礼に愛想良く、相変わらずの恐れ知らずを隠しもしない。


「おまえは何がしたいんだか」

「そうですね。美味しいお茶とお菓子が食べたいです」


 少なくとも今日は、か。ろくでもないだけでなく食えない娘だ。




 昨日と同じ薄暗い部屋に招かれたノエは、鼻歌交じりに準備を始める。籠に被せられていたレースの小さなクロスがテーブルの上に敷かれ、台の上には黄金色に焼けた丸いパイが置かれる。パイの中にはぎっしりと赤いチェリーの甘煮コンポートが詰められていた。


 お茶ぐらいはと言った手前、レーラも億劫そうに煤けた薬缶を火にかける。あとは食器の用意をしなければ。少し迷って、ろくに使ったことのない綺麗な白い皿と銀の食器を取り出した。粗末なテーブルの上に並んでも仕方のないものだが、品物も使われないよりはいいだろう。

 そうしてしばらく。仕度を終えた二人は向かい合って椅子に座る。今日のノエは着席に許可を待たなかった。お茶とお菓子を引き換えに、これで二人は対等だ。

 レーラの手に取られた白いポットからカップの中へ、薬草を煮出した液体が満ちていく。ノエは差し出されたそれを訝しげに見つめる。


「いただきます」


 見慣れない色と嗅ぎ慣れない匂いに戸惑ったまま、恐る恐る口をつける。そのまま一口、喉を上下させる。ノエはしばらく無言で目を瞬かせ、呟いた。


「……魔女さま、これ、ちっとも美味しくないですね」


 レーラは頬を引きつらせる。


「おまえ、幾つ命があっても足りないくらいに失礼ね」

「ごめんなさい。でも魔女さま、嘘とかお世辞とかお嫌いでしょう?」


 それも噂に聞いたのか、それともただの勘だろうか。確かにレーラも自分の淹れるお茶を美味しいとは思っていないし、美味いと言われる方が腹立たしいが。


「程度があるってものよ。人間が、嘘のひとつやふたつ吐けなくてどうするの。そんな調子じゃ今頃、誰かの不興を買って蛙に変えられてもおかしくないっての」

「そうしない魔女さまは優しいお方だってわかりましたね」


 頭が痛くなりそうだ。


「おまえ、一体、何しに来たの……」

「ご機嫌取りです。媚を売りに来ました。私、魔女さまに気に入られたいんです。好ましいものだと思われたい」


 まっすぐな瞳で吐くにはあまりに酷い口説き文句だ。あけすけすぎて怒りすら湧かない。


「そんな態度で気に入られるとでも思っているのなら、相当おめでたい頭をしてるわ」


 溜息を吐いてレーラはざくりとパイにフォークを通した。不器用な手つきで口に運ぶ。パイは素朴ながらに甘ったるく、期待以上の味がした。なるほど、レーラが淹れた薬草茶とは比べものにならない。癪だ。


「お気に召しました?」


 厳めしい顔で味わうレーラに、にこにことノエが言う。返事は言うまでもなかった。


「ねえ。私、おまえの願いを叶える気なんてないのだけど」

「存じています」

「不毛だとは思わない?」

「思いませんとも。無駄も無意味も、いつかきっと実になります」

「気休めね」

「希望を語りすぎるのは職業病ですね」

「くだらない」


 その答えは嘲りよりも憎悪に似ていた。藍の瞳は一層鬱々として、ノエを見る。


「あらゆる願いは等しく無価値よ。どれほど思い焦がれても、手に入らないことを嘆いても。いつかは必ず、どうだってよくなる。

 ──永遠に失われない想いなんて、ないのだから」


 澄み切った菫色の瞳に、呪いの言葉を投げる。


「悪い魔女に対価を支払ってまで、叶える価値のある願いなんて本当にあると思う?」


 ノエはカップから口を離し、ゆっくりとレーラの言葉を飲み込んで。首を傾げた。


「あなたは、悪い魔女なのですか?」


 言葉は、出なかった。背筋を逆撫されたような不愉快。魔女は娘を睨みつける。娘は悪びれず首を竦めて、少し黙る。静かにカップを置いて、ノエはようやくフォークを手に持った。


「……そう、ですね。魔女さまの言うことも、分かります。私の願いに誰もが認める確かな価値などないでしょう。でも」


 銀色のフォークを、冷めたパイに突き立てる。さくり、と小気味よく生地が裂ける音がする。ノエは皿の上に目を向けたまま、淡々と告げる。


「叶えずには死ねないのです」

 黄金のパイが崩れ落ちる。白い皿の上でどくどくと赤い中身が流れ出す。その無感動は、いっそ感情的だった。薄っぺらな明るい笑みを絶やさなかったノエから、深い情念が溢れ出していく。


「後戻りは、いたしません。たとえこの願いが無価値で、無為に終わるものだとしても。身を焦がすことにいつか後悔するとしても」


 夢を見るように、恋に焦がれるように、言葉を綴る。顔を上げたノエは真正面にレーラを見据えながらも、レーラを見てなどいないようだった。遠い何処かを見るような眼差しは、痛々しく危うい。


「私は、私のために、叶えたい願いがあるのです」


 沈黙。薄暗い部屋の中、窓から差す光がノエの静かな微笑みを照らす。

 ノエの手が動く。パイの中から零れ落ちた果実にフォークを刺し、口に運ぶ。唇が熱っぽく。煮詰めた果実に濡れて、赤く。

 レーラは手を止めていた。口の中に残る甘さがいやに喉にへばりつく。視線は艶めくノエの唇に釘付けになる。


「ねえ、魔女さま」


 ──ねえ、レーラ。


 幻聴がした。嫌になるほど聞いた声が、今日もまた聞こえる。


 ──あなたにしか、お願いできないの。


 ノエのその笑みが、その言葉が、レーラの記憶を呼び覚ます。その微笑みは、かつてレーラが世界で一番嫌いだった女に、よく似ていた。


「さて、レーラさま。今日のお話は何にいたしましょうか」


 はっと我に返る。そうだ、目の前にいるのはノエだ。猫のように柔らかな栗髪も、異境の瞳の菫色も、あどけない顔立ちも、年嵩も、口にする言葉も、すべて似ているはずがない。

 ノエの穏やかな声に幻聴は霧散する。笑みを湛える詩人はもう、ただの少女にしか見えなかった。




 話を語り終えた頃には、昨日よりも遅い時間になっていた。空はまだ十分に青いが、雲の淵が仄かに紅色に染まり始めている。こうなれば暗くなるのは存外に早い。


「私、お暇しますね」

「ええ、精々気をつけて帰りなさい。不吉な夕暮れに追いつかれないうちにね」


 その言い回しに、ノエは不思議そうな顔をする。


「魔女さまも、夕暮れのことをそう言うんですね」

「別に、おまえたちに合わせただけよ」


 夕暮れの後にはすぐに夜が来る。月明かりしかない夜を恐れるのは人間の性で、夕暮れもまた夜と同じように嫌われものだ。少なくとも人間の世界ではそうなのだとレーラは知っている。

 確かにそうですね、とノエは頷いて、


「でも、私は……とても綺麗だと思うのです」


 窓の外を見る。まだ見えない夕暮れの景色を、赤い陽が水平線に沈むのを待ち焦がれるかのように。淡い日の光に照らされたノエの横顔に、レーラは奇妙な感覚を覚える。鏡を覗き込むような倦厭と、幾許の懐かしさ。


 ──暗くて冷たい夜の訪れを知らしめるだけの空を美しいと、この娘も、言うのか。


「あきれた変わり者ね」

「日暮れにも美しい物語はございますから」


 品の良すぎる一礼をお決まりのようにして、


「それでは魔女さま、よい夜を。次のお茶会は私に淹れさせてくださいね」

「レーラよ」


 突然の言葉に、ノエは目を丸くする。


「おまえの諦めの悪さに免じて、そう呼ぶことを許します」 


 告げられたものが魔女の名前だと理解して、破顔した。


「はい、レーラさま」




  3




 それから何度も茶会を繰り返した。

 あの日以来、ノエは一言も自分の願いを口にはしなかった。

 ただレーラが欲する愛の物語を、たわいもないお喋りと共に費やすばかり。


「そろそろレーラさまも私に絆されてきた頃合いだと思うのですけど」


 ある日ノエはそう切り出す。期待に満ちた悪戯っぽい瞳の意図はいい加減レーラにも分かる。


「残念ながら、願いを聞く気にはなれないわ」


 カップからは良い香りが漂う。透き通った中身には、レーラの不景気な美貌が映り込む。


「でもそうね。これまでの対価に教えてあげましょう。おまえの願いが叶いっこないものだということを、ね」


 それを教えれば、この娘がレーラのもとを訪れる理由はなくなるだろう。頃合いだ。別れは物事に飽く前くらいが丁度良い。レーラは陰鬱な面持ちのまま、口の端を持ち上げる。


「確かに私は、海の底へ行くための薬の作り方を知っているわ」


 茶会の席を立つ。背後の戸棚に向かい、引き出しから取り出したのは筆記具だ。レーラは魔法で紙を宙に広げ、指先を振ってペンを操る。先を尖らせただけの簡素なペンが、荒い作りの紙に文字を書き綴った。


「これが、薬を作るために必要な材料よ」


 紙をノエに渡す。材料の目録は決して短くない。それらすべてを手に入れるのはとてつもない困難だと、ノエの目にも一目でわかるだろう。鼻持ちならない西の魔女を懐柔し、話の通じない氷の魔女と交渉し、頭のいかれた灰の魔女を正気に返すくらいは必要で、そしてそんなことは同じ魔女でもなければ到底できやしない。


「命が幾つあっても足りないわね。どれほど時間がかかることやら。いっそ不老不死の秘薬でも見つけてみる?」

「……それは、例えば人ならざるものの〝涙〟とかですか」


 不死に近しい人外の存在の涙を使えば不老不死が手に入る、そういう言い伝えが確かにある。


「なに、手に入れるつもり?」

 レーラは冗談めかして言ったつもりだった。しかしノエは黙り込む。真剣にそれを考えているかのよう。レーラは呆れ顔を作る。


「まったく、説教なんて柄じゃないのに。不老不死なんて求めるのはやめなさい。おまえが人でいたいのならばね」


 昔から、この世の人間は、死ぬことよりも正しく死ねないことを恐れてきた。人間の寿命は短いけれど、人外にはない『永遠の魂』を持っているからだ。


「不死、なんて大袈裟に言っても、実態はちょっと死ににくいだけよ。本当に殺せないような生き物はいないし、殺しても死なないような生き物には魂がないと決まっている。だから人間が不死を手に入れれば──代償に、魂を欠くでしょう」


 ノエは黙って聞いていた。怯えだろうか。年頃の娘らしいかわいげがあるものだと感心する。


「ま、そもそも。人ならざるものの〝涙〟なんてもの存在しないのだけど。人外のものたちは、涙を流さないもの」

「そう、ですね……」


 ノエは渡された目録に目を落とす。じっと見つめ、紙の上の文字を指でなぞる。


「そういえば、レーラさま。私がここに辿り着くまでを、まだお話ししていませんでしたね」


 ノエが手元のカップを端に除ける。レーラが机に置いたペンに手を伸ばし、受け取った目録にひとつずつ印をつけていく。


「私はこの目録を知っています。大陸に散らばる、魔女たちに聞きました。私の願いに必要な薬の材料も、それを手に入れる方法も。そしてそれを、海辺の魔女たるレーラさまだけが叶えられるということも」


 印が意味するのは、それらをノエがもう手に入れているということだ。どこに仕舞っているのかは知らないが、印がついていないのは僅か数箇所。それも、すぐに手に入るようなものばかりが残っている。それはつまり、あの意地悪な魔女たちの協力を取り付けたということで。


「そして最後に、私は。あなたのいる此処へ辿り着いたのです」


 無意識にレーラは立ち上がっていた。椅子が引かれた拍子に立てかけた杖が床に倒れ、大きな音を立てる。


「おまえ、どうやって」

「世の魔女さまは大抵、退屈に飽きてらっしゃるので。意外となんとかなるものなのです」


 レーラを見上げながら微笑むノエ。纏うのは、薄っぺらな無邪気さだ。それを見せつけられ、ようやく気付く。──これは、嘘と隠し事をする人間の笑い方だ。


 この娘はその物語うそで、どれほどの魔女を誑かしてきたのか。


「これで、願いを聞いていただけますね」

「嫌だ」


 反射的な拒絶。そんな、とあからさまに悲しそうな声が上がる。


「お代は前払いで支払いましたのに!」

「知るか。絆しにかかっていると知って、絆されるほど私は安い魔女じゃない!」


 レーラの口調が変わったことにノエは目を丸くする。素が出てしまったことに気付いたレーラは、顔を一層しかめる。立ち上がったまま深く息を吐いて、冷静を取り繕う。


「……だいたい、海の底に行きたいだなんてろくな動機じゃないでしょう」


 願いを叶える気がないならば動機を聞くことも無意味だ。だが、腑に落ちなかった。海の底の世界など望まなくてもきっとこの娘は欲しいものをいくらでも手に入れられる。実際に、手に入れてきた。なのに何故──そんな、願いを抱いてしまったのか。


「確かに、ろくな動機ではないですね」


 ノエはゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。ノエは歩みを進め、テーブルの横、窓のもと、手を伸ばしてもレーラには届かない距離で止まる。

 薄暗い部屋の中で、窓枠の向こうの青を背後に立つ二人。吹き込む柔らかな潮風が、髪を纏める赤いリボンを揺らす。真顔のノエは、何故か微笑を浮かべているときよりも幼く見えた。

 高さの揃った目線で、ノエはレーラを見る。


「会わなければならない相手が、いるのです。会って語らなければならない物語が、確かめないといけないことが、決着をつけねばならないことがあるのです」


 ノエは、揺るぎない眼差しで、言う。


「この願いが果たされるまで、私は死ねません」


 レーラは冷めた目で見つめ返す。


「……果たしたって無意味なのよ」


 吐き捨てる。


「たとえ私の薬で尾を手に入れても、薬の毒に人間の身体は耐えられない。海の底に行けば遠からず、おまえは死ぬわ」


 願いを叶えたとしてそれではどうしようもない。真っ当な理屈だ。だから諦めなさい、と促そうとして。ノエの瞳が、暗く淀んだ。光の届かない、深い泉の底のように。


「──それの、何がいけないのでしょう?」


 レーラは息を飲んだ。

 『何がいけないのか』その、人として真っ当ではない理屈は、魔女相手には正当な理屈だった。いけないことなどひとつもない。願いには代償が付き物だ。魔法の対価を受け取った後は相手がどうなろうかなど知ったことではない。魔女とはそうあるべき生き物だ。

 止める理由は、義理は、魔女レーラにはない。


 苦々しく表情を歪める。刺草を飲み込んだような不愉快が喉を焼くようだった。ノエの瞳に燻るその熱を知っている。溜息も流し目も、こうなっては無意味だ。


 ──きっとこの娘は、本当に欲しいものだけは手に入らない生き方をする。


「……対価が足りていないわ」


 立ち尽くしたままやっとのことで絞り出した言葉は、嘘ではなかった。




「では、話を続けましょう」


 ノエは、明るい声を取り繕った。切り替えだった。これ以上、暗い空気で場を満たすことに利はない。


「対価が足りない、と仰いましたが。対価について、その詳細を伺わなければ払えるものも払えません」


 レーラが欲しがるものをノエはひとつしか知らない。それ以外をレーラは言おうともしなかったから。


「お聞かせください。レーラさまはどうして、魔法の対価に〝愛の物語〟を求めるのですか」

「好き好んでいるわけじゃないわ」

「知っています。だってつまらなさそうですもの。いえ、お話それ自体は、楽しんでもらえているとはわかります。私も詩人としての技量に自負があります。飽きやすい魔女たちの興味を何度だって引いてきた。でもレーラさまは少し、違っていて。初めからずっと耳を傾けてくれているのに、どこか芯で冷めている……」

「よく見ているのね。見えすぎているのかしら」


 レーラは杖を拾い、ノエのもとへ歩いていく。二人は窓の前に立ち、レーラは杖を持たぬ方の手を窓枠にかける。

 差す日が宙を舞う埃を浮かび上がらせ、銀の髪は光を吸って輝いた。レーラの人間離れした作り物のような横顔。整いすぎたそれは生気が無く、ノエには何故か寂しげに見えた。


「──知りたいの、愛を。そしてそれが、私には絶対に理解できないことを確かめたい。それだけのために、私はそれを知りたい」


 甘いはずの言葉が、苦い響きを伴って。愛を語るレーラの瞳には、得体の知れない暗い色が浮かんでいた。ノエは大きく目を見開く。


「愛を、知りたい……」


 レーラの言葉は、魔女らしくないものだ。魔女らしかぬ、迷いや憂いを含んでいた。その声音こそ平坦だったが、ノエは言葉を操る詩人だ。だから、わかる。レーラの言葉には正体不明の、けれど切実な、確かな、重みがあった。

 胸が、とくんと高鳴った、気がした。じわりと、ノエの瞳に火が灯る。



「レーラさま!」


 呼びかけに驚いてノエを見た。ノエは胸に手をあて、熱に浮かされたように言葉を吐く。


「私もなのです。私もずっと、そうでした。愛を知りたい、そう思っていたのです」


 急に何を言い出したのかと言いたげに、レーラは訝しげな目を向ける。だが、ノエの両目にあるのは熱ばかり。謀りごとも含みも何もなく、純粋で真っ直ぐな感情だけ。

 ノエの言葉がひとつふたつと急く。


「……これはただの身勝手な共感で、そして、愛を物語る詩人の矜持を賭けた取引です。私、あなたがそれを、愛を知るのを手伝います。手伝わせて下さい。対価はそれで、足りますか?」


 ノエが持ちかけたのは賭けであり、契約だ。その内容をレーラは考え込み、俯いた。沈黙の間はほんの僅か。再び顔を上げた時のレーラの目は、できるはずがないと、雄弁に語っていた。そしてだからこそ、薄い唇が三日月に吊り上がる。


「いいわ。やってみなさい」

「ええ。楽しみにしていてください!」



 そうして、詩人の少女と海辺の魔女の契約は結ばれた。

 海の底を目指す詩人と、その願いを疎む魔女の。


 愛を知るまでの、契約が。

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