第二章 輪廻草と大樹の蜜 その七

 ヒスイが引き金に指を掛けた瞬間、シュウの着流しが引き裂け、水音を伴って灰色の触腕が一つ、二つ、三つと躍り、シュウを抱くように包んでいく。

 四つ目が床板を叩き、シュウを飛翔させた。獣の知覚すら置き去りにする速度域は容易く天井を突き破り、シュウを人狩りの手中から青空の元へと逃避させた。幾重もの触腕を操り飛翔する様は、人の身で叶う業ではない。


「ヒスイ様! あの人も精霊成りですか!?」

「違う。精霊に寄生しているのさね」

「精霊に寄生?」

「あまりに強い人の意志に精霊が飲まれてしまっている。故に互いの身体が溶け合い、人の手足になっているのさね。人間の持つ意志の力の強大さは時に世の法則すら捻じ曲げ、我欲の内側に理を取り込んでしまう。我霊がれいと呼ばれる状態さね」

「我霊?」

「人の内に巣食う我欲が精霊を取り込み、昇華したなれの果てさね」

「どうやって止めるんですか?」


 ヒスイは答えず、小銃を手に駆け出した。

 紬も後を追って屋敷を飛び出すと、鼓膜を破り裂く程の悲鳴が雪崩れ込んでくる。

 シュウの屋敷の前の通りを人々が方々へ逃げ惑っており、騒ぎの中心にシュウが仁王立ちしていた。触腕の数は先程の四つからさらに増え、煮立ったように泡立つ大小様々な触腕がシュウを包み込んでいる。

 あまりに膨大な触腕の数は、紬に数えることを諦めさせた。


 シュウの口元が無色の笑みを作ると、特に太い一本が石畳を打ち、巨体を舞わせた。三階建ての建物よりも高く張り巡らされた電線まで跳ね、紐のように細い三本の触腕が電線に絡み付いてシュウを空中で固定した。

 愉悦のまま眼下を見下ろすシュウを、ヒスイの照準が狙い澄ます。鋭利な殺意の余波が紬の頬をちくちくと刺してくるも、狙いを付けたままヒスイは微動だにせず、引き金を絞ろうとしなかった。

 考えがあってのことだとは察している。狙いを付けてまだ三秒も経っていない。しかし体感する時間としては、何百倍にも膨張して感じられて焦れったい。

 ついに我慢の限界を迎えた紬は、ねだるような声を上げた。


「ヒスイ様!? どうしたのですか!?」

「精霊に当てるわけには、いかんさね」


 人狩りは人を狩れるが、人以外を狩ってはならない。

 それが理であり、殺す権利を与えられた者に課せられた超えてはならない一線だ。

 万が一、精霊を殺してしまえば、ヒスイは精霊殺しの大罪人となってしまう。

 シュウが銃口を前にして電線に絡まって留まるのは、人狩りの掟を見抜いているからに他ならない。

 撃てるものなら撃ってみろ。

 いざとなれば精霊を盾に逃れるさ。

 そう言いたげに、シュウは憎たらしくほくそ笑んでいる。


「まったく……」


 ついにヒスイは銃口を下ろし、外套のポケットに左手を突っ込んだ。

 シュウは降伏宣言と取ったのか、ヒスイに背を向ける。

 その行いを見た紬は、シュウの愚かさを心の中で嘲笑った。ヒスイに宿る殺意が消え失せていないことに気が付いていないのだから。


「この蜜鳥は貴重品なんだが、言ってられんようさね」


 ぼやきながら取り出したのは、小鳥の形をした折り紙だ。大きさは雀の半分程で茶色く薄汚れており、樹液に似た甘い芳香が微かに香ってくる。

 蜜鳥。ヒスイとハルとの会話の中にも出てきた言葉だ。恐らく小銃をも超越したヒスイの切り札だが、とっておきという割には随分と愛らしくて頼り気がない。


「かわいいですけど……役に立つんですか?」

「かわいい? 俺には、こいつが怖くて仕方がないさね」


 ヒスイが折り紙に吐息を吹きかけた途端、折り紙から黄金色の蜜が滲み出した。陽光の光にも似た輝きを放ちながら溢れた蜜がヒスイの手から零れ落ち、足元の石畳に落ちていく。石畳が蜜を吸い込むと、突如ひび割れ、小さな秋桜が石畳を突き破りながら咲いた。

 蜜が一滴落ちれば一輪、二滴落ちれば二輪。次第に数を増していき、やがて紬とヒスイを囲むように秋桜が咲き乱れ、即席の花畑が姿を現した。

 秋桜に見とれていた紬が蜜鳥に目をやると、それは人の身の丈を超える翼を広げてヒスイの左腕を両足でがっちりと掴んでいた。最早小鳥などではない。大鷲と見紛う気高さを纏い、蜜でできた眼で獲物シュウを凝視している。


「狩れ」


 主の命で蜜鳥は羽ばたき、疾風の追随すら許さぬ速攻で、シュウの頭を鷲掴みにした。


「この鳥め!」


 我霊の触腕が蜜鳥を引き剥がそうと伸びた刹那、シュウの左胸を夥しい熱量が貫いた。

 数瞬遅れて届いた破裂音をシュウの耳が拾うことはなく、力なく石畳に墜落した。

 既に蜜鳥の姿はなく、蜜に塗れた紙片が地面に横たわるシュウへ降り注いでいく。咽るように濃い蜜の甘い香りの中にくるまれたシュウと触腕の群れは微動だにしない。

 ヒスイはシュウに近付くと、首筋に指を当てて脈を取る。しばらくそうしてから紬を一瞥し、小さく頷いた。

 もう息はないという合図と悟った紬はシュウの亡骸に近付き、傍らに落ちている蜜塗れの紙片を一つ拾い上げた。


「ヒスイ様。これは?」

「蜜鳥さね。精霊が大樹の蜜を染み込ませて作ってくれた折り紙だ。一時生命を得て、主の命を受ける」

「密蜂と同じ原理ですか?」

「本質的にはな。とは言え、より精度の高い高級品だよ」

「大樹の蜜とは、なんでもできるのですね」

「そうさね。例えば小銃の弾丸にも大樹の蜜を仕込んだ特別なものがある」

「蜜の弾丸……でしたっけ?」


 そのような話が蜜鳥と一緒にヒスイとハルの会話で出てきたのを紬は覚えていた。


「俺も一発だけ持っているが、射手が望めば万物を焼き尽くす翡翠色の焔や大気を凍てつかせる青い冷気にだって姿を変える。今回は精霊を巻き込みかねんから使わなかったが……」


 ヒスイは紬の持つ紙片をそっと手に取り、名残惜しそうに眺めた。


「蜜鳥も蜜の弾丸も貴重品さね。それらを作れる精霊は数名しかいない上に一つ作るのに数ヶ月かかる」

「そ、そんなに!?」

「俺以外の人狩りも注文しているからな。次に蜜鳥が手に入るのは何年先か」


 ヒスイが重苦しい嘆息を吐き出した直後、突如触腕がうねり出した。咄嗟にヒスイを盾に隠れる紬であったが、当のヒスイに警戒の色はない。

 次第に動きは激しくなり、くぐもった声を上げながらシュウの身体から触腕が離れた。


「何ということを……」


 よくよく見れば触腕が伸びる根元に南瓜ぐらいの大きさをした球状の身体があり、牛の耳を持った兎の頭がついている。目は人間のモノであり、瞬きしながら涙を流した。


「すまぬ。すまぬ。人狩りよ。すまぬ」


 ヒスイは、泣き続ける精霊を抱え上げて破顔した。


「謝るのはこちらの方です。元の住処へお帰りください。人の身体に縛ってしまい、同じ人として謝罪します」

「人狩りよ。人狩りよ。すまぬのう。すまぬのう」


 繰り返し謝罪しながら精霊はシュウの亡骸を愛おしそうに見つめた。


「あれは憐れな男なのじゃ。あれは酷く憐れな顔をしておるのじゃ」


 そう言い残して精霊は霞のように溶けて行き、ヒスイの腕の中から消え失せた。

 ヒスイはしゃがみこみ、シュウの面の皮を摘まむ。

 ずるり。

 ずるり。

 熟れた桃の皮みたいにシュウの顔が剥がれていく。

 きっと尋常のモノではない光景を目の当たりにする。そんな確信を抱きながらも好奇心が勝り、目を離せなかった。

 ヒスイが皮の仮面を剥がし終えると、現れたのは醜さなど欠片もない、怖気のする程美しい面立ちの男であった。

 年の頃は四十の半ばであろうか。目元には微かに皺があるものの老いとは映らず、熟れた色香となって美貌に花を添えていた。精霊たちが口を揃えて憐れむ顔ではないように思える。


「とても男前な方に見えますが、これも誰かの皮なのですか?」

「いや。シュウの自然の顔だ」

「でも、精霊の方たちは酷く憐れな顔だって」

「憐れとは言っても醜いとは誰も言わなかった。若い頃は、誰よりも美しい男だったんだろう。だが美しさに陰りが見え、狂気に走らせた。老いを受け入れられないのは美しいが故。心持すら歪めてしまうのさね」


 美しくなければ老いに苦しむことも狂気に歪むこともなかったのかもしれないが、美しさにしがみ付くからこそ人なのだろう。


「精霊からすれば、酷く憐れな顔に違いないさね」


 紬がシュウに向けていた嫌悪の内、小さな一片が憐みへと姿を変えていた。



 × × ×



 シュウの狩りの二日後、紬とヒスイは依頼者である秋雨の元を訪れていた。


「あれは、やはり人を手に掛けていたのね。なんて憐れな男なのかしら……」


 秋雨は、ヒスイから受け取った薬莢を眺めながら苦笑を零した。


「私も……これを受け取る日が来たのね」


 巨狼の依頼を叶えた時にも空の薬莢を渡していた。

 最初は気に留めなかったが、二度目となると意味を知りたくなってくる。

 紬の思考を感じ取ったのか、秋雨は薬莢を弄びながらヒスイを問い詰めるような眼差しで一瞥した。


「ヒスイ、これの意味を教えていないのかしら?」

「聞かれてないからな」

「まったく……相変わらず意地が悪いわね」


 秋雨は呆れたように眉尻を下げ、紬を見ると一転朗らかに表情を崩した。


「お嬢さん。これはね、ヒスイなりのいじわるなのよ」

「いじわる……ですか?」

「あなたは、ヒスイが依頼者に空薬莢を渡す意味とは、なんだと思う?」

「意味するところ、ですか?」


 薬莢を渡す意味。いざ聞かれると、よくは分からない。

 旧文明の頃の習わしなのか。人狩り全員がやるのか。それともヒスイだけが行うことか。


「分かりません――」


 観念した瞬間、秋雨が食い気味に言った。


「殺しの証よ」


 獣は人を狩れぬ。精霊は人を狩れぬ。


「薬莢を渡すという行為は、引き金を引かせたのは、お前だと思い知らせるため」


 狩れぬ者の代わりに、狩るのが人狩りの仕事。


「引けぬ者の代わりに引いた証。私たちの意志がヒスイに引き金を引かせた証。実に意地が悪いでしょう?」


 狩れぬとは、自らの手では狩れぬということ。けれど言葉で頼むことは理に反しない。なればこそヒスイは一人で背負わず、狩らせた者にも責任を分け与えるのだろう。


「他の人狩りはこうはしないわ。だからこそ私たちにはヒスイが好もしいのよ。並大抵では撃たない。黄金を前にしてもぶれない。だからこそよ」


 山のような金を前にしても、ヒスイの信念は揺らがない。

 狩るに足る者しか狩らず、責は必ず依頼者にも背負わせる。

 だからこそヒスイは精霊から好かれるのだろう。人にも、獣にも、精霊にも、平等だから。


「ヒスイ、いずれまた。今度は友として会いましょう。酒か、あるいはもっと良いモノを交わしましょう」


 秋雨の提案にヒスイは、苦笑とも微笑とも取れる曖昧な表情を浮かべている。


「まぁ気が向けば、それも良いかもな」

「お前さまの気が向くのは、はて何年先かしらね」


 秋雨は、呆れ顔で手の中の薬莢を見つめている。


「次は、どこへ行くのかしら? 蛇時雨へびしぐれで次の仕事?」

「いや。輪廻草が使われたことが気になる。お前が以前聞かせてくれた噂話の場所へ行ってみるつもりさね」

くすぶりの森……お前さまがわざわざ行く話でもないと思うのだけれど。別の者に任せれば?」

「シュウの一件と絡みがあるなら、ものはついでさね」


 蛇時雨?

 秋雨の噂話の場所?

 尋ねようと思った紬だが、目的地へ辿り着けば自然と分かると踏んで何も聞かなかった。


「いずれまた。お嬢さんも元気で」

「はい。秋雨様もお元気で」


 ――また会いたいな。


 秋雨との再会を願いながら手を振ると、秋雨の口元が綻んだ。

 その表情は、紬に故郷の母を思い出させた。

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