第二章 輪廻草と大樹の蜜 その六

 定食屋での食事を終えた紬とヒスイは、シュウと呼ばれる男の屋敷に向かった。シュウの屋敷は町の中心部にあり、紫電樹で最も大樹に近くて最も広い敷地に建てられている。

 二階建てや三階建てが珍しくない紫電樹にあって平屋であり、また石造りや煉瓦造りではなく木造だ。塀は木製の縦格子である。

 ヒスイは縦格子を指でなぞりながら、したり顔になった。


「なるほど……」

「どうなさいました?」

「使われている材木がな。面白いもんさね」

「材木?」

「まぁ聞いてみな」


 ヒスイは縦格子を平手で叩いた。随分と強く叩いた様子だったが、音が響くことはない。


「どうだね?」


 何をしたかったのか理解できず、紬は首をひねった。


「どう、と言われましても……」

「ならもう一度」


 ヒスイが再び縦格子を叩く。

 これと言って何かが起きるわけではなく、先程とまったく同様である。

 またもヒスイは縦格子を叩いたが、やはり今までと同じ。

 しかし三度目にしてようやく気付く。


「……音がしない?」

「正解。こいつは振食(しんしょく)と呼ばれる木だ」


 ヒスイは笑んで頷くと、縦格子の木材を軽く拳で叩いた。普通ならコツコツと小さいながらも音がするはずだが、如何なる音も聞こえてこない。


「音は噛み砕いた表現をすれば、空気を伝わる振動だ。振食は振動を栄養素にして育つのさね」

「音を食べるということですか?」

「厳密には違う。こいつはあらゆる振動を喰うのさ。大地震なんかは最高の餌さね」

「でも地震って、大和ではめったに起きないのでは?」


 紬が読んだ本にはそのように書いてあったし、これまでの人生で地震を経験した記憶もない。


「大和は古来、地震が多発する土地だったそうさね」

「そうなのですか?」

「だが大樹が生まれ、大樹から振食が生まれ、地震は起きなくなった。これは振食が地脈にまで根を伸ばし、地震が起きた時、地表に影響が出る前に揺れを喰っちまうからさね。だから振食がよく育った時には、地下が激しく揺れていた証拠とも言われている」


 振食でできた縦格子にヒスイは拳を叩きつけたが、一切の音が生じることはなかった。


「材木になったら、さすがに成長はせんが、振動を喰らう性質は消えん。防音材としてこの樹木程優れたモノはない」


 振食の解説は理解したが、理解したからこそ生まれた疑念が一つある。


「でもどうして、そんなものを使っているんですか?」

「中の音が外に漏れんようにだろうさね。振食は木材にすると檜に似ているから遠目じゃ見分けが難しいんだが、恐らくこの屋敷に使われている木材全てが振食のはずだ」


 外に音が漏れない木材で作られた屋敷。浅ましい行いをしてヒスイに狩られようとしているシュウという男。屋敷の中で何が行われているのか想像に難しくない。


「聞かれてはいけないことをしているのですね……」


 恐らくは密蜂の中で行われていたような――。

 思い返しただけで、魂が無数の氷柱で串刺しにされるような感覚に支配される。


「紬、怖いか?」

「……はい」


 あのような場所にはもう二度と行きたくない。見たくもない。けれど甘えてばかりではいられないと悟った。

 旅で思い知らされたのは、世界について何も知らないということ。何の役にも立たない子供であること。


「でもヒスイ様と行きます」


 故郷の村を出なければならないのは辛いし、今でも帰りたいと願っている。

 それでもせっかく得られた機会を無駄にしたくなかった。

 ただヒスイの後ろをついて歩くだけで終わりたくない。外の世界で学び、世界の真実を知れば、村の人たちの役に立てるかもしれない。


「ヒスイ様、私はちゃんとした精霊になって世のことをちゃんと知って、時々でいいから村に帰りたいんです。たとえ数年か数十年に一度でも……一日だけでもいいんです」


 紬の宣言を受けて、翡翠色の瞳は好奇心に揺れた。


「その一日で何をするね?」

「旅の中で知ったたくさんのことを村の人たちに伝えたいんです。例えば寒い場所でも作物を育てる方法とか。そんな方法があるか分かりませんけど」


 でも、それが叶うならどんなに素晴らしいだろう。

 故郷の村の人々はそれなりに裕福な暮らしをしているが、本来は寒く痩せた土地だ。分不相応な豊かさを支えるのは数十年の一度のいびつな奇跡。奇跡を支えるのは贄となる子供たち。


「未来の村の人たちが遅れ米に頼らなくてもいいように、私のような犠牲は私で最後にしたいんです。ヒスイ様は知っておられますか? 私の村には稀遅れと呼ばれる現象があるんです」

「稀遅れ? それは初耳さね」

「村を出た精霊成りがちゃんと精霊になれた証として実る遅れ米だと母から聞いたことがあります。だから私の稀遅れを村の最後の遅れ米にします。そして遅れ米に頼らなくても済む方法を見つけます。もし精霊の力を使ってそうできるなら私がそうします。だから私は世界の全部をちゃんと見ないといけないと思うんです。ヒスイ様と一緒に見なくちゃいけないんです。悍ましいことでも浅ましいことでも」


 子供なりに精一杯考え抜いて出した答えだった。ヒスイからすれば幼子の戯言に聞こえたかもしれない。鼻で笑われやしないかと不安に駆られたが、彼の視線は尊敬をもって紬に注がれていた。


「いい覚悟さね。一緒に中へ行くなら俺から離れんことだ。どうやら面倒な仕事になる」


 紬が無言で頷くと、ヒスイは紬の手を引いて門を潜った。

 二人が屋敷の玄関前に立つと、引き戸が開かれた。やはり音はせず、玄関の戸も振食で作られているらしい。

 戸を開いたのはボロを纏った男だった。顔には幾重にも包帯が巻かれており、茶色い染みが所々を汚している。鬼灯のように充血した瞳と剥き出しになった黄ばんだ歯だけが包帯に隠れておらず、ぬらぬらとした淀んだ光を放っていた。


「ど……ちらさま……で?」


 男は明瞭としない声でたどたどしく言った。随分と話し辛そうだ。


「人狩りのヒスイという者だ。ここにシュウという方がいると聞いたのだが」

「人……狩り? そんな方が、主人に……どのような?」

「理由は直接本人に話したい。いるかね?」


 男は唸りながらうっとうしそうに眼をかきむしっている。


 ――この人、瞬きをしていない?


「では……今、から聞いて参ります。少々……お待ちを」


 紬が訝しんでいると、男は目を擦りながら屋敷の奥へ引っ込んだ。

 言われるまま紬とヒスイが待っていると、数分もしないうちに男が帰ってきた。


「お会いに、な……るそうです。応接……間へどうぞ」


 屋敷の中に通された紬とヒスイは、男の案内に従って廊下を進んでいく。床も壁も天井も同じ材質の木材が使われており、一見すると檜にしか見えなかった。屋敷の内装にも振食を使っていると思っていい。

 何故シュウは、これほどまでに音に敏感なのか?

 屋敷の中で何が行われているのか?

 きっと密蜂の中で行われていた精霊の奉仕よりも、浅ましい何かだ。

 紬がヒスイの外套の裾を力強く握り締めて寄り添いながら歩いていると、突如男が立ち止り、障子戸を開いた。


「ここ……で主人が、お……待ち、です」


 応接間は廊下と違って畳が敷かれており、壁も漆喰である。

 天井だけはやはり振食でできているようだが、電灯の類は見受けられない。電灯の明かりを使わないのは紫電樹において珍しいことだ。

 部屋の中央に紫檀でできた座卓が置かれており、そこに一人の若い男が座している。彼がシュウであろう。

 精霊たちは憐れな顔をしていると話していたが、女子のような水気を孕んだ美しい男であった。紫色の着流しをふわりと纏った姿は紬ですら見惚れさせられる。


「どうぞ。腰を下ろしてください」


 シュウの提案に、ヒスイは従わなかった。

 そんなヒスイを見て、紬も下ろしかけていた腰を強引に立たせた。


「あんたがシュウかね?」


 ヒスイは、シュウをまっすぐ見つめ、肩から下げた小銃の入った袋に手を掛けた。


「ええ。そうですが」


 シュウは笑んでいる。だが彼が心底から笑みを浮かべているようには感じられなかった。

 紬の語彙で適当な言葉を選ぶなら空虚であろうか。感情を知らない何かがそれらしい真似事をしている。人間ではない何かが人間らしく振舞おうとしている。笑顔のような紛い物であり、笑顔ではない。

 笑みの仮面を被り続けるシュウの感情は読めない。

 しかしヒスイも内心を悟らせることを拒絶するかのように、感情の籠らない微笑みで対応している。腹の探り合いはしばし続き、先に口火を切ったのはシュウであった。


「人狩りとは、珍しいお客だ。誰ぞに私を狩れとでも?」


 シュウの言葉に、紬の肩が跳ね上がった。


「おや。お嬢さんは正直だ」


 ――やってしまった。


 反応してしまった自分を責めたくなるが、ヒスイは紬を咎めない。

 気にするな。

 そう言いたげに頭を軽く撫でてくれる。


「まぁ、そういうことさね」


 あっさりと認めたヒスイに対し、シュウは動揺を見せなかった。


「人狩りとは、必ず狩る相手の前に堂々と現れるものなのですか?」


 などと、軽口を叩く始末だ。

 ヒスイは小銃を取り出すと、空になった袋を紬に手渡した。


「状況によりけり、かね。知っているだろうが、依頼を受けたからといって人狩りが必ず狩りを行うわけではない」

「存じています。狩るに足るかをご自身の目で見定めるのでしょう? ではヒスイ殿、私は如何かな?」

「何とも言えんさね。仮面を被っていては」


 シュウの顔色が微かではあるが曇った。


「仮面とは?」


 表情以上に声音に乗る動揺は深い。最も指摘されたくない部分を見事に射抜かれたのだろう。

 さらにヒスイは畳みかけた。


「気に入った顔があると、剥ぐのだろう?」

「剥ぐ?」


 衝撃的な単語に動揺して思わず紬が呟くと、ヒスイは視線をシュウに向けたまま続けた。


「大樹の蜜を糊にすれば他人の皮でも顔によく張り付くし、剥いだ皮が腐ることもない。表情らしきものも作れるだろう」


 紬が感じたシュウの笑顔の違和感。その真実は雪のように冷たい汗となって、うなじを伝い落ちていく。


「ヒスイ様、顔を剥がれた人って……」

「当然死ぬだろうさね。あるいは生きていても人形にされるのさ。大樹の蜜を悪用すれば、それも容易い」

「人形って……」


 思い当たる節はある。紬とヒスイを出迎えてくれた男だ。

 彼の包帯に巻かれた顔の中で唯一外に出ていた充血した瞳と黄色い歯。瞬きせず瞳をかきむしり、歯を剥き出しにして酷く喋り辛そうにしていた。

 瞼や唇がないせいではないだろうか?

 だとしたら彼の瞼や唇は一体何処に?


「まさか……ヒスイ様」

「そのまさかさね。精霊との交わりを餌にして、釣れた連中の顔を剥ぎ、自分のモノにするのさね。そのためだけに密蜂や蔦虫を生み、精霊を捕え、人の顔を剥いできた」


 悍ましい真実を突き付けられたシュウだったが、却って冷静になっているようだった。

 自らの行いへの後悔や贖罪の念は微塵もない。曖昧で薄ら寒い笑顔とは違い、シュウの浮かべる無表情はこの男の本質を表しているようだった。


「さて。これを見逃すべきか、狩るべきか」


 ヒスイは銃口をシュウに向けた。

 相対するシュウからは死への恐れが匂い立っていない。


「狩れるものなら、好きにするがいい」


 シュウは微笑んだ。

 作ったような空っぽではなく、心底からの笑みだった。

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