(三)知狎書とオルゴオル

 第二月四日の早朝、理天りてんでは白粉のような細雪ささめゆきがちらちらと舞っていた。

 空の色がはっきりとわかるほど晴れた日でも、あちこちの山から風にさらわれた雪が落ちてくるのだ。学院から麓へ下る土の道は、砂糖をこぼしたようにところどころ白い。山の奥深くへ続く道の方は、いまだ硬い根雪に覆われていることだろう。


 朝食の後片付けをひとしきり終えて、たまには大掃除でもしようかと鶏小屋へ向う途中、メルは背後から「ねえ」と突然声をかけられた。


「あんた僧尽そうじんになりなさいよ。契約書もあるわ」


 突然のことに、掃除道具を担いだままメルがきょとんとしていると「バカな子ねぇ」と言わんばかりの大きなため息をつかれてしまった。


「なんでため息つくんだよ。挨拶もなしに突然、失礼だろ」

「だって挨拶は嫌がって逃げるじゃない」

「ちょっとムウムウが恥ずかしい時期があったの!もう克服したもんね!」

「じゃあちょっと顔貸しなさいよ」


 意地悪そうな口調とは裏腹に、体格の良いその女性、ハイデはぺたりとメルの顔を両手で包んだ。指先が少し冷たい。今日のハイデは寺院の制服と私服を混ぜこぜにしたような服装だったが、おそらく彼女が所属する理天東鹿寺院りてんとうかじいんから理天学院を訪れたのだろう。昨日はエルメが留守で用が足せなかったため、これで二日続けての訪問となる。


「出来立ての蒸しパンみたいなほっぺ。泥がついてるけどね」

「普段から言われてるからな。可愛いほっぺを食べられないように、いつも泥つけとけって」

「あら。ここにそんな過保護なこと言うひといた?」

 ハイデは首を傾げたが、メルはにやりと生意気そうに笑う。


「昔ハイデがロッカ先生にそう言ったんじゃないか。忘れた?」

「……呆れた。あんた、何でもかんでもすぐ忘れるくせに、どうでもいいことは案外覚えてるのね。今後は認識を改めることにするわ」


 メルに触れて温まった指先で、ハイデは軽くその頬をつまんだ。



  * * *



 東世とうぜで使われる言語は一般的にアルカディア語というが、西世せいぜの人々が付けたその名称をするまで、彼らの言語には特定の名がなかった。

 西世で使われる言語に比べると、アルカディア語は極端に名詞が少ないらしい。


 例えば、東世の人々は、ぜんまい仕掛けで動くもののみならず、ぜんまいそのものもすべて「オルゴオル」と呼ぶ。大雑把なのである。


 メルにとっては不思議なことに、東世では『眼鏡』を指して「オルゴオル」と呼ぶ。

 顔の側面、こめかみの辺りにぜんまいを取り付け、それを自ら調整することで視力を矯正するためであるが、医師兼教師であるシャートによれば、視力を直接回復する魔法のことまでオルゴオルと呼ぶらしい。


 理天東鹿寺院りてんとうかじいんの僧尽であるハイデは、まだ幼い春学生しゅんがくせいらから「オルゴオルの人」と認識されている。


 彼女はエルメとメルがかつて冥裏郷むこうで見た『眼鏡』と似た形状の凹凸鏡を愛用しているが、彼女以外でそれを着用している人を、姉弟はほとんど見たことがない。濡れも汚れもしない、取り外しも不要のぜんまい式と比べると、古典式のものは少なからず不便であり、今は不人気なのだという。


 しかしハイデは、西世の古い絵画に描かれた古典式オルゴオルをかけた女性の姿に憧れ、長年それを忘れることができなかった。彼女が十二歳の頃、念願叶ってくだんの絵画とよく似た凹凸鏡を両親から贈られた。以来、ずっと同じものを愛用している。


 どのような形状でも「オルゴオル」と呼ぶのに変わりはないが、ハイデは呼び方にこだわりはないらしい。メルは幼い頃から、そのオルゴオルを着用しているハイデの姿を「格好良い」と思っていた。

 幼いながらに、彼女がいついかなるときも自らを誇りに思い、余裕や品格を漂わせる大人のように感じていたのである。


 もともとハイデは優秀な夏学生であった。頭が良いだけでなく、手先も器用で要領も良い。もし本人が望めば、大学へ進学することもそう難しくはなかっただろう。

 しかし彼女は「田舎暮らしが気に入っているから」という理由から、理天の寺院に勤めることを決めた。


 ある時、当時まだ紫錦しきんの寺院に勤めていたロッカが帰省した際、ハイデの噂を聞いた、とメルたちに話してくれたことがあった。


「おれの聞いた話では、どんな仕事でもこなせるから、あちこちの寺院から応援のお呼びがかかるとかで。今じゃ、青の国の中では相当ほうらしい。少なくとも、東鹿寺院の中では一番強い決定権を持ってるんじゃないかって、もっぱらの噂だ。さすがに一番ていうのは大げさだと思うけどな」


 それが三年前の話である。

 果たして今は、ハイデが一番になったのだろうか。

 彼女を見かけるたび、メルはひそかに考えてしまうのだった。



  * * *



「それじゃあ、少し繰り返しになるけれど。今日は一から十まで説明するわよ。そのために来たんだから。いいわね、ぼんやりしてたらほっぺ千切るわよ」

 やたらと迫力のあるハイデの言葉に、エルメとメルは姿勢を正して頷いた。


 学院の南館には、大小合わせて四つの応接室があつらえられている。二階の角部屋もその一つで、半円型の窓や花柄の壁紙が小洒落ているが、狭すぎて長椅子ソファが入らない。大きな家具がないぶん、あぐらをかいて床一面に紙束や羊皮紙を散らかすにはうってつけである。

 目の前に散らばった紙の束を適当に脇へ押しやると「さて」と、ハイデはオルゴオル越しにエルメとメルをまっすぐに見据えた。


青龍東海寺院せいりゅうとうかいじいん所属のジュゼ法師……他七名から、エルメとメルの二人を理天東鹿寺院所属の研究士に任命してほしい、という旨の嘆願書が提出されました。七名の内訳はこの用紙に」


 ハイデは魔法の杖でひょいと一枚の紙をすくい上げた。これだけ散らかしていても、どこに何の書類が落ちているのかおおよそ把握しているらしい。


 ハイデが広げて見せてくれた紙面に顔を近づけて、メルは眉をひそめた。

「ほとんど知らない名前だな。誰だよ」

 メルは不思議そうに名前の羅列を指でなぞる。エルメはぼそりと呟いた。

「二、三人じゃ物足りないから八人かき集めよう、なんて言って適当に書かせたんじゃないか」

 東世の人々は四の倍数を好む。彼らにとって八は縁起が良い上にきりの良い数字なのである。


「案外適当でもないのよ。東世四つ国よつくにの著名な寺院のまとめ役とか、白虎びゃっこ大学の博秋はくしゅうとか、そんな人たちばっかり」

 ハイデは普段から表情に乏しく、呆れているのか感心しているのかわかりにくいが、彼女と付き合いの長い姉弟には、おそらくその両方だろう、と見当がついた。紙を指でつつきながら、メルが悪戯っぽくニッと笑う。


「白虎大の博秋ってどの人?ユノン先生じゃないの」

「そうかも。ユノン先生の偽名かもしれないから覚えておこう」

知狎ちこうが見るかもしれない大事な書類に偽名を使うわけないでしょう。あんたたちはユノン先生しか知らないからわからないでしょうけど、博秋は本来ものすごい称号なのよ。まあ、何かの役に立つというわけじゃないけど」


 ハイデはそう言いながら、こんどは紐で何重にも巻かれたままの羊皮紙を拾い上げた。


「次はこれを確認してちょうだい。先に見せたのは嘆願書で、こっちは推薦状」

 ハイデが羊皮紙を広げると、待ちかねたように紙面から小さな鹿が飛び出した。


知狎書ちこうしょ!」


 メルが驚きの声を上げる。銀色に光る鹿はハイデの指先に鼻先を近づけたり、姉弟の胴体をすり抜けたり、遊び回るかのようにしばし飛び跳ねていたが、徐々に煙のように薄くなり、やがてふっと消えた。それを見届けると、ハイデは再び手に持った羊皮紙に目を落とす。


北苑ほくえんの、ニイナジェコル様……という知狎ちこうから、ぜひエルメとメルを研究士にしてほしいと推薦がありました。一応、わたしが聞いた通りに説明すると、ニイナジェコル様は東苑とうえんでいうクルミノス様のような知狎だそうです」

「ニ、ニイナジッェ……知ってるかエルメ」

「どっちも初めて聞いた。名前じゃないみたいな名前だな」

「ざっくり言えば、各知狎苑ちこうえんの代表格といったところね。一応説明はしたわよ」


 ハイデは少し咳払いをし、説明を続ける。


「知狎から賜る書状には勅令書ちょくれいしょというものもあって、その場合は厳命を下すという形になるのだけれど、今回賜ったのはあくまで推薦の意向を伝えるものね。メルが第二月の生まれだから、最低でも若秋じゃくしゅうになるまで協議にかけることができなかったけれど、この推薦状自体は第一月に提出されたものです」


 ハイデは二人が確認できるよう、膝に広げていた羊皮紙を床に置いて見せた。


「第一月って言っても、二十八日付じゃないか。今年の一月の末日って三十日だったよな」

「メルが十五歳になったらすぐ有効になるよう準備万端で待ち構えてたみたいだ」


 メルの誕生日は二月十一日だ。七日先の日付であるが、歳を取るのは生まれ月の一日ついたちと決められている。

 エルメとメルは同じようなしかめっ面で互いの顔を見合わせた。


「至れり尽くせりもここまでだと、なんだかずるしてる気分になるな」

 眉根を寄せて唸るエルメに同意しつつ、メルは苦笑した。

「有名人が本気を出すと、ここまでえげつないことができるんだなぁ」

「ひとが知狎に推薦状を書かせるなんて、普通は考えられないのよ。ジュゼ法師や他の研究士たちがどんなに強力で有名でも、知狎にはそんなの関係ないんだから。北苑から届いたということは、知狎書これを用意したのは例の黒武王こくぶおうでしょう?どうやったのかしら、ちょっと怖いわ」


『黒武王』とは東世北部に広がる『黒の国くろのくに』で武王ぶおうとなった者の称号だ。

 毎年、四つ国では一月毎ひとつきごと玄武体術大会げんぶたいじゅつたいかいという武術の祭典が開かれる。黒の国で優勝すれば黒武王、青の国で優勝すれば青武王せいぶおうとなり、すべての国で優勝した者は天上武王てんじょうぶおうと名乗ることができた。

 ただし、玄武体術の発祥が黒の国であるため、黒武王の称号は他の三国のものに比べると少々格式が高い。


「あの黒武王と天上武王が結託したら、何でもやりたい放題なんじゃないかしらね」

 ハイデの独り言のようなつぶやきに、エルメとメルは軽く首を振る。

「心配いらない。悪だくみの相談するほど仲良しじゃないと思うから」

「おれも、めったなことでは結託しない組み合わせだと思う」

「今ちょうどめったなことが起きてるわね。この人たちの仕事ってそんなに逼迫ひっぱくしているのかしら。大変なのはわかるけれど……」


 ちょうどそのとき、ユノンとサンが様子を見にやって来た。五人分の花茶はなちゃと菓子を端に置き、無理やり彼らの座る隙間を作りながら、ハイデは先ほど姉弟にしたのと同じ説明を早口で繰り返す。


「先生たちも来たところで、本題に入る前に、改めて研究士の役職について説明をするわ」

 はーい、と行儀良く返事をしたのはユノンだけだったが、サンもエルメもメルも、神妙に頷いて見せる。無残に頬を千切られたくはない。


「研究士は僧尽の役職のひとつです。一般的には、任意の寺院に所属し、東世四つ国のあちこちを巡るのが研究士の仕事。人のいない山奥も、幽霊が出る湖も、海岸でも街でもお店でも関係なく、必要があればどこへでも行ってもらうわ。

 ただし、白の国と西世の境界には行かせないという決まりがあります。色々と細かい規則があるから、そちらはそちらで専門の人がいるためね。もちろん西世行きの貿易船に乗せたりもしないわ」


「へえ、それは知らなかったね」

 サンの小さな独り言に、エルメとメルも同意するように無言で頷いた。


「なぜあちこちへ派遣するのかは一口で説明し難いわね。必要だから、としか言えないわ。雨が少ないとなれば内陸地域の農家から話を聞いてきてもらうし、新たに学院や寺院を建てるのにふさわしい場所を見つけてと頼むこともあるでしょう。人探しやお遣いをお願いすることもあるかしら。本当に色々よ、研究士は寺院の『目』と『足』だから。

 大変な仕事だから、どこの寺院もだいたい人手不足のはずよ。ちなみに東鹿寺院には現在九名の研究士が所属しています」


「それって少ないんだよね?あと何人くらい足りないの?」

 ユノンの質問を受けて、ハイデは少し考えるように目を伏せた。


「一人か二人増えたら嬉しいけれど、よそに比べると数は潤ってるほうなの。うちは東苑のお膝元だから、就業先として人気なのよ。だけどまあ、エルメとメルの二人が研究士になったところで、この九人がそれほど楽になることはないと思うわ」


 ハイデはオルゴオルの縁を指で軽く撫でると、背筋を伸ばして正面から姉弟を見据える。


「あの嘆願書と推薦状があるからには、わたしは東鹿寺院を代表して、あんたち二人にこう言わないといけない。

 理天東鹿寺院に所属する僧尽となり、どうか研究士としての役職をまっとうしてください、と」

 ハイデはそこで一度言葉を切ったが、エルメもメルも、微動だにしない。ハイデの射るような眼差しを無言のまま受け止め、彼女の言葉の続きを待っている。


「……先ほど見せた書面の通り、ジュゼ法師以下七名があなたたちに望むのは冥裏郷めいりきょうの調査です。わたしよりあなたたちの方がよっぽど詳しいでしょうけど、藤京とうけいから冥裏郷へ渡り、調査をしてもらいたいの。変な言い方だけど、要するに何を調べるかもあなたたちの判断に委ねるということ。

 どうも数年前から、寺院が調査について細かく指示するのをやめたようね。現地を見たこともない僧尽があれこれ言っても仕方ないし、当然だけれど……」


 不意に、ハイデが口を閉ざした。


「どうしたの」

 小声でエルメがそう尋ねると、ハイデは大きく息を吐きながら頬に手を当てた。シャートの仕草によく似ている。昔から彼女は何かにつけてシャートの真似をしていたらしいが、近年ますます様相が似てきた。

 怒られる、と、反射的にメルは怯んだ。


「嫌なのよね、わたしは。冥裏郷での調査にあんたたち二人の協力が欲しいのは当然だわ。それはわかるけれど、こんな強引なやり方で何が何でも引っ張り込もうなんてろくでもないじゃない。それともあんたたちが頼み込んで根回ししたっていうの?」

 メルはうまく言葉を探せないようだった。エルメもハイデの語気に気圧されてとっくに俯いてしまっていたが、違う、違う、と激しく首を振る。


「ね、根回しってほどでは……ない。でも、いいよって……言った……」


 我ながら情けないな、と思いながらも、ぽつぽつと弁明を重ねる。嘆願書やら知狎書やら、そんなものをわざわざ用意してくれた彼らが悪いのではない、と、それだけはハイデにわかってほしかった。


「エルメは誰にいいよって言ったの?」


 エルメの頭上から、ユノンののんびりした声が降ってきて、エルメはようやく、おずおずとではあるが、顔を上げることができた。


「ソ、ソンテ法師に」

「ああ、黒武王。エルメは彼と気が合うんだって。仲が良いんだよ。ハイデ、知ってた?」

「知らない。そうなの?」

 ハイデは幼い子どものようにそっぽを向いた。いかにも不機嫌そうな声音である。


「エルメは法師に、研究士になりたいって言ったことがある?」

「それはないけど……でも、あの……えっと」

「じゃあ、『なってほしいなー』」

「うん、そう。昔からずっと、何回か、そんなふうには言われてて」


 なるべくハイデの方を見ず、ユノンの声だけに集中しているうちに、エルメは落ち着きを取り戻してきた。


「き、去年の末に藤京でソンテ法師とお会いしたとき、研究士になって働く意思はあるかって、初めて冗談じゃなく、ちゃんと聞かれたんだ。わたしは、いずれはそうすると思う、と言った。あと、メルが若秋になったら決めるとも言った」

 エルメはユノンの首のあたりに視線を向けたまま、続ける。


「メルはまだ十四歳だから、わたしにだけ聞いたんだ、とおっしゃっていた。協力してほしいと面と向かってお願いをされて、わたしは、わかったって言ったんだ。メルもわたしも遅かれ早かれ研究士になると思っていたから。


 ソンテ法師は、ジュゼ法師に協力を仰いでもいいかと、それもわたしに確認した。そしたら確定になるって言われたけど、確定で構わなかった。

 そのときは、知狎書まで用意するなんて思わなかったけど、わたしはジュゼ法師のこともソンテ法師のことも尊敬してるし信頼してるし、以前からお役に立ちたいって気持ちもあったから、だから、その、わたしがいいって言いました……」


「べつに叱ってないわよ。悪さをした子どもじゃあるまいし、めそめそ泣かないの」

「まだギリギリ泣いてないもん」


 言わなければいけないことを言い終えて肩の荷が下りたエルメは、ようやくハイデのほうを見ることができた。決して愛想良くはないが、かといって恐ろしくもない、いつもどおりの彼女がエルメの顔を覗き込んでいる。


「おねえ、ごめん。わたしメルの他には誰にも、何もちゃんと、言ってなかったから……急に嘆願書とか北苑の知狎書なんかが届いたら、驚くのも当然だと思うし……余計な心配かけて悪かったよ、ごめん」


「……別にいいわ。経緯はわかりました。……そんな顔しないで。あんたに泣かれたらわたしも泣くわよ」

 泣きそうな気配を一切感じさせない声音でそう言うものだから、エルメは思わずふっと笑ってしまう。メルは無言を貫いて姉たちの様子を伺っていたが、エルメと同様、ほっと胸を撫で下ろすような心地がしていた。


「あのね。余計なお世話だろうけど、言うだけ言わせてちょうだい」


 少しだけ懐かしい感じのする静かな声で、ハイデはゆっくりと姉弟に語りかける。


「わたしは、ふさわしいから、という理由で研究士になることに反対なの。冥裏郷のことを一番よく知っているあんたたちだもの。わたしも最適の人材だと思うわ。


 でも、冥裏郷むこうにはおそらく研究士にあたる役職はないでしょう。

 もしあんたたちが東世なんてところを知らないまま冥裏郷で育っていたら、自分の魂を満足させられる生き方がどんなものか、きっと今頃迷いながら必死に探していたと思うの。

 仕事だって、好きなことと嫌いなこと、できることとできないことに振り回されて、それでも自分がどう在りたいか、きっと何度も悩み考えながら挑戦していたことでしょう。


 ふさわしいから、という理由で道を選ぶのは、確かに誰かを喜ばせることができるわ。だけど、その選択が自分の魂にとっても良いとは限らない。

 もちろん、良い選択じゃなかったと気づいたらやめればいい。考えるところからまたやり直せばいいのよ。


 だけれど、ふさわしいとか、あなたにしかできないとか、そういう他人の思惑に囚われて自分で考えることを疎かにしていると、ずっと良い選択肢にはたどり着けないわよ。何をしたいかも、どこにいたいかも、何が良くて良くないかも、どんどんわからなくなってしまうから。


 何度間違えても、何度やり直しても構わないでしょう。

 だけどあくまで自分の責任で間違えて、自分のためにやり直してほしいと思っているわ」


 想像もしていなかったハイデの言葉に、姉弟は思わず息を止めて沈黙してしまった。ユノンとサンは一瞬だけ目配せをしたが、ハイデはそれには気づかないふりをする。


「もちろん、どうしても研究士になりたいというなら応援するわ。というか、やらせてあげるわよ。この書類の束とわたしの署名でね。

 けれど、まずは研究士ではなく、一介の僧尽となって色々な仕事に触れてほしいと思っているの。世の中にどんな人々がいて、どれほど多彩な仕事と、生活と、生き方や悩みや苦しみがあるかを知ることは、決して無駄にならないから」


 そこまで言うと、ハイデは少し俯いたが、すぐにパッと顔を上げてメルの顔をねめつけた。


「それとね、メルはうんと小さいときから研究士になるとかなんとか言っていたでしょう。いまだに同じことを言っているから、一度でもちゃんと考えたことあるのかしらって、前から思っていたのよ。研究士以外の僧尽が何をしてるのか知らなかったら困りものだしね」

「ひどいな。おれが今も昔も頭がからっぽみたいな言い草」


 咄嗟に文句を言ったものの、メルもそれ以上強くは言えないようだった。少なからず思い当たる節があるのだろう。その場にいる誰が見てもそのような表情をしていた。


「そういうわけで、正直に言えば、今日のところは保留にしてほしいと思っているの。でも決めるのはあんたたちよ」


 さあどうする、と言外に迫られ、エルメとメルは再度顔を見合わせた。しばし無言で視線を交わしていたが、ややあって、意を決したらしいメルが膝に手を置きハイデと向き合った。


「わかった、今日はハイデの言うとおりにする。だけど今月はもう冥裏郷むこうに行って手伝いをする約束をしてるんだ。そのときにできるだけ研究士や藤京のみんなと話をして、それも踏まえておれがちゃんと決める」


 ハイデは軽く頷きながら、エルメの方を見る。


「エルメも同じかしら」

「うん」


 エルメがどこか安堵したような表情で頷くと、サンがユノンに何か言おうとした。が、少しばかりためらい、結局何事もなかったような顔で花茶を口にする。ハイデは再度、見なかったふりを決め込むことにした。

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