(二)冥裏郷とレオタード
「黒髭先生」の愛称で知られるサン先生は、理天区内ではちょっとした有名人である。十数年前に理天学院へ赴任して以来、彼は何十人もの赤ん坊を取り上げてきた。
出産を控えた妊婦のみならず、産褥期を過ぎた女性や乳幼児の面倒も看るし、積極的に男性の相談相手も務める。サン自身に子どもはいないが、理天の人々にとって彼は間違いなく、父でも母でもない『産み育てる者』の象徴的存在であった。
しっとりとした黒髪と濃い色の肌を持って生まれたシャートとサンの二人は、並んで歩くとまるで親子のように見える。しかし長身のシャートと比べ、サンは小柄な体型だ。
ロッカは髪も肌もあまり濃い色ではないが、ユノンやシャートと比べて背が低いため、彼もまた最近、サンと親子のように見える、と言われるようになってきた。
学院内で群を抜いて身体の大きいユノンは、白くそばかすの目立つ肌に濃い色の髪の持ち主で、相貌はサンにもシャートにも似ていないが、どちらからも気安く末子をあしらうように扱われるのが常であった。嫌われているわけではない。例えば考えごとや調べ物に没頭し、飲まず食わずで何日も過ごすような、不健康でだらしないところがあるのを心配されているのである。
かつてユノンの教え子であったロッカでさえ、彼をたしなめることは少なくない。
理天学院にエルメとメルの姉弟が住まうことになったとき、すでにこの四名は学院内に揃っていた。ロッカは十歳の夏学生であり、ユノンは前年に大学を卒業し、赴任してきたばかりの頃である。
当初エルメとメルは、青の国東部
「言葉が通じないんです。
『西世』は異世界と考えられている。こちらの世界である『東世』とは陸続きであり、一部の港では貿易もしているが、魂の管轄が違う。西世と東世では『神』が異なるのだ。
神が異なれば、文化や慣わしも、言葉も変わる。また、もし東世の人間が西世の食べ物を食べ続ければ魂が弱り、やがては死んでしまう。そのため、東世で生まれた者が西世で暮らすことはほとんど不可能である。
それを知っている藤京の住民たちは、海岸で発見された幼い姉弟に食べ物や薬を与えることができず、ひどく困惑した。
寺院に属して人々のために働くものを総じて
メルの名乗った名は東世でも西世でも聞きなれない響きであったという。僧尽はもしやと思い、メルたちに尋ねた。
「あなたがたのお家があるのは
幼子たちには聞き覚えのない言葉だったようだが、言語ではなく魔法を通じて話していたため、二人は感覚的に意味を掴んだらしい。
「地獄でも天国でもない」
そのようなことを言って、彼らは首を振った。
東世では、すべての魂は何度死んでも必ず生まれ変わるという信仰がある。幸せに生きたものは再び東世に生まれるが、不幸せのまま死んだ者や神に罰を与えられた魂は、東世ではなく冥裏郷に生まれてしまう。
冥裏郷は困難や悲しみばかりが多い世界である。そこで生きることは大変な苦痛を伴うが、幸せに生きようと努力し、あるいは神から許されれば、再び東世へ生まれることができるのだ。
「神様のいるところが天国だから、お家は天国じゃない」
「神様はいないかもしれない。わからない」
「たぶん髭が生えてるお爺さんの神様だと思う。見たことはない」
決定打となったのは、幼い姉弟がそう言ったことだった。
東世にしろ西世にしろ、目に見える形で神は存在する。どんなに無知な子どもであっても、それはわかるはずだ。神のいない世界といえば、冥裏郷に他ならない。
奇しくも藤京には、いにしえから冥裏郷に通じる古道があると伝えられている。青の国最東部に位置する藤京区は東世最東の地でもあり、冥離郷や死者の魂にまつわる伝承が殊の外多い。そのような土地柄であるから、なんだそういうことか、と案外暢気に姉弟は受け入れられた。
冥裏郷から人が流れてくるなど聞いたこともなかったが、もしこれが西世の子であれば、食べさせても食べさせずとも弱らせて死なせてしまうところであった。だからよかった、と喜んだのである。
冥裏郷の食べ物を食べてはいけない、という伝承はない。西世は異世界、つまり相容れない世界だが、冥裏郷と東世は裏と表のようなものと考えられている。そのため東世の人は「冥裏郷の人の魂は自分たちの魂と似たようなもの」と感じるのだ。
理天区には神の住処である『
理天学院よりさらに西に建つ理天東鹿寺院はその東苑のお膝元で、藤京で食事と衣服を与えられた姉弟は、すぐさま理天へ連れて行かれた。
神から直接言葉を賜ることができる神僧は、神が二人を東世の人間として扱う準備がある旨を伝えたが、要するに「二人分の魂が増えたところで良くも悪くもならないから、好きにしていい」ということらしい。
そこでもやはり「西世の子でなくてよかったですね」という話になったそうだ。
以来姉弟は理天学院の寮館で、他の子どもたちに混ざり学生として暮らすこととなった。
二人の世話役にあてられたのは当時まだ
彼は勉強を教えるのだけは上手かったが、料理や裁縫の類は苦手であったし、常駐しているわりにできることが少なく、持て余されていたのだ。
当時の姉弟は知らないことが多すぎた。冥裏郷と東世では、空の星一つとってもまったく別物なのである。彼らは魔法の使い方もろくに知らず、身を守る手段もない。誰かが一から十まで東世のことを、そして生きるすべについて、じっくりと教えなければならなかった。
* * *
「あたしもあんまり覚えてないね。エルメがメルをぶったの?暴れん坊ロッカじゃなくて?」
サンはしっとりとした頬の髭を撫でながら首を傾げた。彼の隣にはロッカが、向かいにはユノンとシャートが座って寛いでいる。
夕飯の片付けを終えた食堂で、茶器を片手に歓談するのがここ数年の彼らの日課なのだ。寮館にはほとんど赤ん坊のような子どももいるが、この時間は大きい子たちが手分けをして年少者の面倒を見ている。
「おれは覚えてますよ。びっくりしましたからね。あれは結局、なんで殴ったんだったかな。エルメがすごく怒って泣いてたから、何も聞けなくてそのままだったかも」
ロッカはそう言ってから、答えを求めるようにユノンの方を見た。シャートとサンもそれに倣う。
「ぼくも具体的には聞いてないんです。エルメはメルと違って、自分のことを言うのがあまり上手じゃないでしょう。寮館に帰ってきてから、なんだかしばらく考えてるなぁと思って見てたんですけど、もしかしてまだ解決してないのかな」
ユノンは眉尻を下げながら笑った。ロッカは不思議そうに口を少し曲げる。
「……確か、メルとアサンが一緒に遊んでいて、アサンがエルメに何か……悪いことではないと思うんですけど、とにかくいつもみたいに話しかけたら、エルメが急に顔を真っ赤にしてこっちに来て、べチンッてやったんですよね」
「そのあとぼくを呼びに来たロッカもちょっと泣きそうだったよね」
「おれも叩かれるんじゃないかと思ったから……」
ロッカは眉間にしわを寄せて苦笑いした。
「なんだろうね。よっぽど嫌なことがあったんだろうけど、アサンならエルメに変なことは言わないんじゃないの」
サンの言葉に、ロッカが頷いた。
「そりゃあそうですよ。だからおれなんかも、幼いながらに尋常じゃないと思ったんです」
アサンとはライヒの兄である。この兄妹は少々年が離れており、アサンはロッカよりも年上だ。彼は面倒見の良い性格で、妹と背格好が似ているエルメのことを可愛がっていた。
ロッカから見れば、アサンは深遠な配慮ができる子どもであったから、彼がエルメを傷つけるようなことなど言うはずもない、と思うのである。
シャートは頬杖をついてユノンの方を向いた。
「アサンはユノン先生に何か言わなかったの?」
「うーん。アサンもなんだかよくわかってないみたいでしたよ。正直、そのあとの始末のほうが大変で、あんまり覚えてないですけどね」
「メルのやつ、ずーっと泣いてましたからね。それでアサンがどっちも可哀想だって言って、自分の家にエルメを連れて帰ることにしたんでしたっけ」
「あぁ、そういうことだったの」
エルメと仲が良いから、という曖昧な理由でライヒの家へ置かれたわけではなかったのか、とシャートは合点がいった。
サンはふふっと笑う。
「それだけ覚えてるのに、なんで叩いちゃったのかは誰もわかんないのね」
「じゃあ、わからない話はこれくらいにして」
シャートはそう言うと、佇まいを正すように豊かな黒い髪を両手で撫でた。
「そろそろ、私にもハイデの話を聞かせてちょうだい」
「元気でしたよ」
ユノンが即答する。
「知ってるわ、この前会ったばかりだもの。だけど今日はお茶を飲みに来たんじゃないでしょう」
「エルメが留守だったからね。今日はお茶を飲みに来ただけになっちゃったけど」
サンはそう前置きしながら、茶菓子をかじる。
「二人の今後の話をしに来たんだろうね。例の話が正式に決まったんじゃないの」
サンの言葉に、ロッカは眉をひそめた。
「でも、ついこの間までは、大学か寺院か、とにかく推薦が複数なければ無理だって話じゃありませんでした?」
「ジュゼ法師が二人を推薦したみたい」
ユノンの漏らした言葉に、思わず全員が目を
「推薦という形かはわからないけど、ジュゼ法師から寺院へ何らかの働きかけがあったみたいです。さっきエルメ宛ての慈慈果でそんなことを言ってたのを、ぼくも聞きました。法師はエルメたちを冥裏郷へ連れて行きたいようですね」
シャートが戸惑ったようにユノンの肩に手を置く。
「エルメはなんて言ってたの?」
「何も。でも喜んでましたよ。冥裏郷に行けることが嬉しいのか、法師から慈慈果を貰ったことが嬉しいのかまでは、わからないですけど。行きたくないってことはないんじゃないかと思います。ぼくにはそう見えました」
エルメは戻りたいのだろうか、自分が生まれた冥裏郷に。
ロッカは動揺した。エルメもメルも、幼い頃からここで一緒に学び暮らしてきた、彼にとってはきょうだいのような存在なのだ。
「ロッカ。エルメは何を考えてるのかよくわからないことがあるから」
ユノンはロッカの目を見据え、わからずやの子どもに言い聞かせるようにゆっくりとそう言う。
サンとシャートも、ユノンとそっくりな目つきでロッカを見つめていた。
「どんなときでも、本当のことを言っているとは限らない。いいねロッカ。エルメはぼくたちに嘘をつく。あの子の言うことを簡単に信じてはだめだよ」
ユノンの静かな声に、ロッカはただ頷くしかなかった。
* * *
あの日は確か、ユノンに来客があったのだったか。仲の良い
しゃがんだ姿勢のままエルメが振り仰ぐと、予想に違わず、人懐こい笑みを浮かべたアサンが立っている。エルメが綺麗な色の石を集めているのを知っている彼は、ときどき山や畑で見つけたという石を持ってきてくれるのだ。
「ありがとう」
曇り硝子の欠片のような石とアサンの顔を見比べながら、エルメはひとまず礼を言う。アサンが見つけてくる石はいつも変わっているが、これは白っぽい水晶のようで、一際美しい。エルメは一目見てその石を気に入った。
「エルメ、喜んでくれた?」
「うん」
「よかった」
アサンはうんうん、と頷くと、なぜかエルメの両手を取って立ち上がるように促した。
「じゃあ踊ろう」
思いがけずそう誘われ、エルメは困惑した。アサンはエルメの腕を強く引っ張ったり、無理やり抱き上げたりはしなかったが、エルメが「うん、いいよ」と答えるのを待っている。彼の表情からは、そんな期待の気持ちが見て取れた。
「踊らないとだめ?」
当初はそれがなんとも異様に思えて、エルメは歌い踊る人々が恐ろしかった。しかし、エルメに付きっきりで言葉や勉強を教えてくれるユノン先生でさえ突然歌い出すのだから、慣れざるをえない。不可解なものを恐れるような気持ちは次第に失せた。
しかし、エルメは踊るのが苦手だ。感情を表すこと自体不得手である。嬉しければ勝手に身体が動く、という
「エルメは踊りが上手なんだろう?少しでいいから見せて欲しいんだ」
なぜだか楽しげなアサンの言葉に、エルメは一瞬ぽかんとした。
「わたし、踊ったことなんかないよ。いつもそうだもん」
皆知っているはずだろう、と言外に含ませたが、アサンは不思議そうに首をひねった。
「あれ、そう?メルから聞いたんだけどな。エルメは舞台の上で綺麗な服を着て踊ってたって……」
最初は何の話かわからなかったが、アサンが弟の名を挙げたことで、エルメは緩やかに理解していった。エルメの顔からは徐々に血の気が引いてゆき、すぐに全身が冷えきる。まるで真っ白な氷の塊になり果てたような感覚だった。
"エルメちゃん、あんまり上手じゃなくない?一年もやってるのに"
"ほんと、見た目だけだよね"
"すごく上手なのかと思ったのに。別に普通って感じ"
"下手なくせにウケるよね"
同じバレエ教室の子たちから、陰で嘲笑されていたことは知っている。陰口のふりをして、エルメにわざと聞かせていたのもわかっている。
そもそもエルメはクラシックバレエに興味などなかった。エルメが憧れたのはサッカー教室だったのだから。
「残念だけど、サッカー教室は男の子しか入れないんですって。だから、エルメはバレエ教室にしようね。見てごらん、ほら。可愛いチュチュのお姉さん、小学生かしら。綺麗ねぇ。エルメには
お団子頭の少女たちをうっとりと眺める母を尻目に、エルメはもう一度、窓からサッカーグラウンドを覗いた。
皆同じ体操服を着ているためわかりにくいが、女の子はいる。日に焼けていて髪が短く、男の子のように見えるが、あれは年長クラスの
しかし、母はもう、エルメをバレエ教室に入れると決めているように見えた。いつからそうだったかは覚えていないが、エルメは母が嘘をついているとわかっても、決して口答えをしないようにしている。
母がエルメのために選んだ淡いピンクのレオタードを着て、エルメは週に四回のバレエレッスンを受け続けた。レッスンには二年近く真面目に通い続けたが、あまり楽しいと思ったことはない。
ピンクのレオタードも本当は嫌いだった。同じレッスンを受けている女の子たちが、皆似たりよったりの色のものを着ていたのは、エルメにとって不幸中の幸いだったかもしれない。幼稚園や小学校の制服と同じで、これでなくてはいけない、と思えば我慢できる。
バレエの先生がエルメのことだけを「エルメ」と呼ぶのも嫌だった。他の子たちは「中野さん」や「大宮さん」と呼ばれていた。「佐藤さん」は二人いたから、姓でなく「
なのに、エルメだけが「
一度だけそのことを母に打ち明けたが、母はなぜか満足そうに笑っていた。
「可愛い名前だから先生も呼びたくなるのよ、仕方ないでしょう。だいたい、イギリスに住んでいたときはそれが普通だったじゃない。どうして急にそんなことを気にするのよ。それがレッスンに関係あるの?呼び方を変えたら、エルメは今よりバレエが上手になるの?それなら先生に言ってあげてもいいわ。どうなのよ、ねえ。今よりたくさん練習するんでしょうね。必ず上級クラスに入るテストに合格するって約束できるの?」
責め立てる母の口調に怖気づき、エルメは訴えることを諦めてその場から逃げた。あわよくばバレエ教室を辞めたい、と告白しようと目論んでいたのだが、とても無理だ。母はエルメにバレエを続けさせたいらしい、と痛いほどわかったからである。
小学校へ入学してすぐ、クラスメイトからいたって真面目な顔つきで言われたことがある。
「外人に『さん』を付けて呼ぶのって変じゃん。だからおまえはエルメ。外人なのに日本人の苗字なのも変だよ」
バレエの発表会は半年に一度だった。舞台の上では惜しみない拍手を浴びせられても、演目が終われば必ずエルメは陰で笑われた。
「手足がスラッと長くて大人びて色っぽくて。すごく目立ってたけど、演技は日本人並みでしたね」
「ひどいですよね。あんなオペラ座のクリスティーヌみたいな見た目で期待させておいて、お笑いみたいなガチガチのアラベスク披露されたら、ガッカリしちゃいますよ」
同級生からも見知らぬ大人からも、勝手なことばかり言われる。
自分の演技はそれほどみっともないのか、と自覚してからは、どんどんレッスンへ行くのが億劫になった。舞台に立つのがあまりにも憂鬱で、発表会の会場に着いて早々吐いてしまったこともある。
東世に来て以来、エルメはバレエから解放された。誰もバレエがどんなものかを知らない。ここはバレエが存在しない世界なのだ。
バレエだけではない。数え切れないほど多くのレッテルと苦痛を、エルメは
エルメは怒りに燃えた。あとから思えば、惨めで泣きたい気持ちを怒りの炎でかき消したかったのだろう。エルメは怒りの感情に自ら蒔をくべて、ピンクのレオタードをまとった過去の自分を、弟もろとも燃やし尽くそうとしたのである。
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