第一章 どこにでも現れる野良猫みたいな その1
大卒で入社した大手菓子メーカー、ショコラ製菓。
初年度に東京の営業部へ配属されたものの、三年目の今現在はスーツを着る機会を唐突に奪われた。
「うるさい職場だな……」
失礼な独り言を呟いても機械の音に掻き消される。
機械的なトラブルが発生した途端に警報ブザーが鳴り響き、剥き出しのチョコ菓子が流れていたラインが同時に止まった。
生産オペレーターがトラブルの原因を取り除き、スタートボタンを押すと再びラインが流れ始める。
だだっ広い空間に敷き詰められた包装専用の精密機械、それを操作する従業員たち。
ショコラ製菓・埼玉工場……それが今年度からの職場だった。
四月という新年度の始まりなのに清々しさなど微塵もなく、オフホワイトの作業着を着た俺は一ヵ月間の現場実習を修了。
「失礼します。本日分の実習レポートを提出しにきました」
管理職へ報告するために会議室へ入室する。
業務用の書類が綴じられたファイルや備品が点在し、社内の伝達事項が書かれた紙がベタベタと壁に貼ってある……会議室というよりはバックヤードだ。
自分と同じ作業着に身を包む人物が一人、パソコンと睨めっこしている。
俺の声に気づいたその人物は、オフィスチェアをくるりと反転させながら振り向いた。
「大野くん、お疲れ様」
「はじめまして」
「はじめまして、じゃないでしょ。先週、工場の座学研修を私が担当したじゃない」
「ああ、とはいえほんの一週間程度の付き合いですよね。ネットで髪が隠れてるうえにマスク姿なので、ぱっと見だと
「声でわかりなさい」
「そんな無茶な」
「はあ、やっぱり生意気。だから工場へ島流しにされたのかしら」
「痛いところを突いてくれるじゃないですか」
「素敵。いちおう自覚はあるのね」
凛藤主査は呆れたように息を吐く。
工場に配属された社員に必要な教育をする研修期間があり、その際に教育係として一週間の座学を施してくれたのがこの人だった。
「作業着の左胸に名前が刺繍されているから、従業員の名前を覚えるまでは見なさい」
「了解しました」
素直に従う俺は凛藤主査の胸元を凝視する。
食品工場なので全従業員は帽子付きのヘアーネットで頭部を覆い、それに加えて凛藤主査はマスクをしているため目元しか出ていない。
わかっているのは凛藤主査が女性で係長クラスの立場だということ。
「大野くん」
「なんですか?」
「セクハラ」
「胸元を見ろって言ったのは凛藤主査ですよ」
「じっと見る必要はないでしょ。三秒以上見たらセクハラで訴えるから」
無駄に澄ました態度が面倒な上司だ。
綺麗なのは瞳だけだな、たぶん。
「面倒で生意気だわ、まったく」
露骨に疲労感を醸す向こうも似たような心境らしい。
生意気な新人から実習レポートを受け取った凛藤主査。
管理職として確認のハンコを押すため、それをパラパラと捲り始めた。
「……それで、生産ラインの現場にはもう慣れた?」
「一ヵ月も生産オペレーターの実習をやれば嫌でも慣れますよ。パートさんが休んだときの代役くらいなら問題ないですね」
「その控えめな自信と実習レポートの記述が合ってないように見えるけど?」
レポートを読み終えた凛藤主査は問いかけに含みを持たせる。
「スクレーパーの接触不良によるコンベヤの摩耗、オーブンの火力調整ミスによるチョコ剥げ、箱詰め機の不調によるホットメルトのはみ出し不良……この一ヵ月で起きた様々なトラブルにすぐ気づいて冷静に対処したばかりか、今後に向けた改善策の案をレポートにまとめるなんて立派じゃないの」
「新参者が生意気なことをしてすみません」
「まあ、可愛げの欠片もないから普通の上司には嫌われるでしょうね。他のシフトマネージャーは貴方を部下にするのは乗り気じゃないみたいだし」
「出る杭は打たれるってやつですか。困りますね」
「もっと困ったような顔をしなさい。そういうところが可愛くないの」
出向前の営業部でも似たような扱いで煙たがられたな。
「でも、安心しなさい。優しい私が生意気な貴方を引き取ってあげる」
「自分で言うのもあれですけど趣味悪いですよ」
「うるさい。つべこべ言わずに黙ってありがたがりなさい」
工場でもウザがられるかと思ったが、この人なりの思惑がありそうだ。
主にチョコ菓子を扱うここ生産二課には三つのチームがあり、そのうちの一つである凛藤班に俺は組み込まれたらしい。
「とにかく、今日から正式に大野くんは直属の部下ね。明日からはシフトマネージャー補佐……つまり私の補佐役として動いてもらうから、そのつもりで」
いきなり責任が重そうな役割を告げられ、やや困惑する。
「他にも社員はいますよね。製造業の経験が浅い自分が担える役割じゃないのでは?」
「余っている人材はいないの。若い社員は三年以内に過半数が辞めちゃうし、三十歳を過ぎて帽子に一本線も入ってない平社員が今さら育つわけもないから」
「若い社員がすぐ辞める理由が気になるんですけど」
「単純よ。仕事内容がつまらない、残業が多い、三交代がつらい……そんな理由ね」
予想通りというか、若者にありがちな退職理由だと思った。
「私は元本社の人間なの。大野くんの営業成績は元同僚を通じて耳には入ってるし、一から鍛えればそれなりに育つかも……と僅かに思っただけ」
「なぜ工場に出向させられたか理解できないほど有能でしたからね」
「その謙虚さの欠片もない態度のせいでお偉いさんにでも嫌われたんでしょう」
「もしかして凛藤主査と同じですか?」
「心外。貴方と一緒にしないで」
凛藤主査は声音を崩さず、おもむろに立ち上がる。
「……東京に戻りたい?」
やや声を低くした凛藤主査は、試すように問いかけてきた。
「私が気に入るような人材なら今後悪いようにはしないわ。せいぜい有能ぶりを発揮して私たちに多少なりともラクさせてちょうだい」
東京の営業部とは何もかもが違う職場環境。
俺の出向生活は憂鬱から始まった。
「大野さん、工場での勤務もそろそろ慣れたっすか?」
夜勤明けのロッカールーム。
ICカードで退勤を記録し、袖にチョコが染みついた白い作業着から私服へ着替えていた俺に対し、同じように着替え中の若い男が話しかけてきた。
「そうですね。はじめは大変でしたけど徐々に慣れてきた感じです」
「まあ、最初は大変っすよねー。一週間ごとに勤務時間が変わるのもきついし、僕も新卒のころはめっちゃ辛かったですもん」
「
「大野さーん! 僕のほうが年下なんで呼び捨てのタメ口でいいっすよ!」
「それじゃあ、野上くん」
「野上、でいいっす! こう見えても
この馴れ馴れしい坊主頭は野上。高校時代は強豪野球部にいたらしくて体格も大きく、俺とは正反対の生きかたをしてきたのが想像に容易い。
「これから飯でもいきませんかー? ねえ、行きましょうよー」
「明日も休日出勤だろ……勘弁してくれ……」
転勤になると職場の人間関係もリセットになるうえ、一切の興味もない業務内容では疲労の蓄積が数倍にも膨れ上がる。
営業部時代は人脈を広げるために食事の誘いは断らなかったけど、コネの欠片もない工場の同僚と食事にいく利点はない。あと、仕事以外で同僚に会うのが単純に怠い。
「あ、わかった。大野さん……これから彼女と遊ぶんでしょー?」
無駄に会話を引き延ばそうとしてくる。
どこにでもいるよね。仕事が終わったのになかなか帰ろうとしないやつ。
「遊ばないって。お互いに仕事の時間が不規則だから予定も合わせづらいんだよ」
「あー、わかります! 工場では一週間ごとに早番、遅番、夜勤と勤務時間がローテーションしますもんね。営業部ではこういう三交代の経験なんてないんすか?」
「ない。残業はあったけど基本的に出勤時間は固定されていた」
「そっちのほうがラクっすよ。三交代なんて続けてたら絶対に寿命が縮まりますもん!」
「確かに三交代はきついな。毎週毎週、就寝時間が変わるのは精神的にくる」
「僕も最初はそうでしたが、三交代手当だけが救いっすね。夜勤手当と合わせれば年収は結構良いほうですけど、残業や休日出勤で金を使う余裕がありません!」
へらへらと笑う野上はすでに環境にも慣れ、工場メンタルに染まり切っている。
俺もいずれは慣れるのだろうか。
これが〝普通〟だと割り切れるようになってしまうのだろうか。
「……お疲れさまでした」
そのうち他の社員も続々と退勤し、ロッカーの人口密度が増す。着替えを済ませた俺は窮屈さを嫌うようにさっさと場を離れ、申し訳程度の小さな声で退勤の挨拶をした。
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