『存在しない「君』との思い出」

雨野瀧

Kaayo side

あまりにも暑い日だったな。札幌駅で待ち合わせしていた。

透香スイカと駅から中島公園まで歩いたんだ。透香は女子にしてはひょろっと背が高くて、右腕につけた腕時計が緩そうなくらい細身な女の子だったんだ。なんだかもう、今にも青空と化していきそうな色素の薄いヒロインみたいなヒロインだったよ。

ひとりだといつも地下を歩くのだけど、透香は景色がある方が楽しいだろうと思ったんだ。


信号を渡って、歩いて、待って、渡って、歩いて、待って、渡って、歩いて……。そう。歩いていると必ず信号で止まることになった。待ち時間を表す灯はいつも満杯から始まる。

金融機関やおしゃれなカフェのある通りを歩いて、少しすると、大通公園を横切った。テレビ塔の電光は、13:21と時刻を表していた。

「透香、あれからラーメン食べた?」

「あのときのラーメンがいちばん美味しかった」

中学校の宿泊研修で、班のみんなでラーメンを食べたときの思い出話だ。あのとき、透香は初めてラーメンを食べると言っていたのが印象深くて。あれから裁判所の見学をしたり、タクシーに乗って博物館へ行ったりしているうちに、クラスの男子グループのどこにも属していなかった僕と、女子グループのどこにも属していなかった透香は、班研修が終わった後もずっと一緒にいたんだ。「透香と両想いなんだ」って誰かに自慢したくて仕方がなかったけど、話す相手がいないことが僕と透香を結びつけたということが解っていたから、ぼっちでいることは誇らしく、むず痒かった。


大通公園の林の日陰になる目立たない通りに、ラーメン屋があったんだ。あのときは。今では見つからない。無くなってしまったのか、あのとき大通だと思っていた場所は実は違ったのか……。


「これ、マイバウムだっけ?」

「あ、ほんとだ。懐かしいな」


木のような形のオブジェがすぐ横にそびえ立っていた。

自主研修のとき、透香と僕は二人で班のメンバーからはぐれてしまったんだよなぁ。そのとき地図を見ながら目指した思い出の集合場所。


「ちょっと、コンビニ寄らない?暑すぎて……」と透香が辛そうに言った。僕も透香も歩いているだけで汗だくだった。極寒の地である北海道も、夏となれば内地の人が思うような涼しさは持ち合わせていないのさ。


「そうだな、セコマ?ローソン?」

「セコマ」


ちょうどこの地下に、大きめのセイコーマートがあったはずだ。地下への入り口階段を下る。殺風景に囲まれたとき、透香の存在を強く感じた。夕張メロンソフトを買って、また地上に上がって、大通公園のベンチで食べようってなった。ひんやりするアイスを口につけると、生き返るような思いがした。何より、透香には明るいオレンジ色のアイスがよく似合っていた。コーンのところまでたどり着くと、もう溶けて垂れることはない。僕たちはゆっくりと思い出話を語り合った。


ハトが、透香の足元に寄ってきた。「おいでおいでー」と片手を差し出す透香の指先で、ジェルネイルがキラリと光った。

女の子だなー、なんて思って。どこからかチュピチュピとさえずる鳥の声も聞こえる。やっぱ夏ってこうじゃなきゃな。


熱が収まった身体でもう少し歩くと、街には広告の歌が流れていることに気づく。賑わっていていいな。僕と透香もその賑わいを構成する大衆の一部であることも、なんだか、いいな。やがて狸小路商店街を横切り、天気予報なんかでよく映る大きな観覧車も見えた。


2階建のマクドナルドを過ぎれば、すすきの駅。その次が、中島公園だ。もう十数分で着いてしまう。

歩いて。歩いて……。透香の上品で明るい髪色は、すれ違う人々の目を奪っていくような気がした。透香のレモンイエローのワンピースはあまりに眩しくて、溶けてしまいそうだ。


最後の信号待ちで、僕はそっと透香の小さな手を握った。その手は熱くて、湿っていた。

女の子でも、汗はかく。それがまたいい。透香の人間っぽさがいい。僕も同じ人間で良かったなぁ。


✳︎ ✳︎ ✳︎


中学生のとき、僕は本当に弱虫だったんだ。受験があるというのに勉強はまるでできなかった。自分なりに家で教科書を読んだり、プリントを復習したり、できることを頑張ってはいたんだれど、読むのも書くのも人一倍遅くて、テストの問題が半分くらいしか解き終わらないという結果だった。ある数学の単元テストで僕は七点をとった。もちろん百点満点で。笑っちゃうよな。図形の証明をする単元で、ほとんどが記述問題だったんだ。


そのとき、隣の席の透香という女の子がは僕に聞いてきたんだ。「どうだった?」って。透香はクラスでいちばん優秀なはずなのに、全く嫌味っぽくなくそんなことを言うんだ。「こことここしか合ってなかったのさ」恥ずかしかったけど僕はありのままを見せた。透香は空欄だらけの僕の答案をじーっと見ると、「そっかぁ。もうちょっと速く読んだり書いたりできたらいいのかもね!」と言った。そんなの、わかってるよ。先生にも親にも言われるけど、それができないんだよ。自分でも重々承知のありきたりなアドバイスだったけど、透香が言ったことなら、許せる気がした。真摯に受け止めて、努力してみようと初めて思えた。


「でも、ここの五点問題合ってるのすごいよ。応用まで練習してたってことでしょう?夏夜カヨくんが頑張ってること、分かる人には分かるんだよ」透香は言った。透香のひとことで初めて努力が報われた気がした。家で何時間勉強しても、親にいい参考書を買ってもらっても、点数が伸びない。でも本当に、勉強したんだという自分しか知らないはずの事実を、透香が証明してくれたように思えたんだ。これこそ涙が出そうな感動だったよ。


発表もまた苦手だった。年度終わりに取り組むプレゼンとかスピーチがまた大の苦手だった。みんなの前に立つと、顔が熱くなっていくのが分かる。「顔赤くなってる」と囃し立てられ余計に恥ずかしくなる。原稿があるのに言いたいことがうまく言えなくて、吃音になってしまう。もう誰もまともには聞いてくれない。先生にも呆れられて、そうやって笑い者にされるだけの発表だったけれど唯一まじめに聞いてくれていた女の子がいた。30人ほどの聴衆の中で、頷きながら、真剣な表情で聞いてくれている彼女と目が合ったあのときは、言葉で言い表せないくらい心強くて、嬉しかった。それもまた、透香だった。


発表後の拍手は皮肉なくらい大きく聞こえる。席に戻ると僕は涙を流して机に伏せた。全ての人間という人間と縁を切りたくなるほど恥ずかしかった。そんな僕にも優しく声をかけてくれた女の子がいた。「大衆受けする必要なんてない。夏夜くんらしくできればいいんだよ。私は、夏夜くんの発表が良かったと思うよ」


透香は、成績が優秀で優しいだけでなく、だった。そんな僕が、透香と特別な関係になるなんて、あるはずがない話だった。宿泊研修の時期、クラスはどんどんカップルができていった。気づいたらあちらこちらで意味ありげな笑みを浮かべている男女がいて、僕にはついていけなかった。僕にも隣に女の子がいたらなぁ。茶化されてみたいなぁ。もしそれが透香とだったら……。いつのまにか身の程知らずな妄想をして、あるはずない夢がひとり歩きして。これが、恋なのか。透香は、まるで絵に描いたような初恋相手だった。


隣の席だった透香とは、宿泊研修で同じ班になり、バスで隣になり……。偶然が重なるたび、透香と話せるようになっていった。透香はいつでも優しいから、緊張はするけど安心して話すことができた。ほんとうに幸せだった。ずっとこんな心地いい不思議な関係でいられたらと願った。

ところが帰りのバスで透香の言ったことに、僕はショックを受けた。「夏夜くん、好きな人いるの?」まさか透香がそんなことを言うとは思わなかったから。「ん、うーん」このとき僕は発表会並みに、いやそれ以上に緊張して高揚していた。

「私もいるよ」透香はイタズラっぽく笑った。でもショックだった。それが僕であるはずがないのだから。

「それって誰なの?」透香はさらに詰めてくる。これは拷問だ。僕はもうどうでもいいと思った。投げやりになったんじゃない、ここまできて気持ちが抑えきれなくなったんだ。自分の想いを、透香に知ってほしいと思った。その後どうなるかなんて、どうでもいい。「透香です」こうして僕は、初恋相手に、初めての告白した。透香は優しく笑っていた。喜んでいた。「私もです」


夢のような甘い言葉に溶けてしまいそうだった。バスから降りて、整列までの数メートルを僕と透香は並んで歩いた。クラスのカップルが皆そうしているように。Aくんにはaさん、Bくんにはbさん。そして僕には透香。まるで神経衰弱のペアみたいにぴったりなマッチングじゃないか。勉強も発表も運動も芸術も苦手で、何も取り柄がない僕だけど、僕には透香がいる。それだけは誇れた。僕は一人前の幸せを味わっていると思った。



✳︎ ✳︎ ✳︎


何も言わない透香と横断歩道を渡り終え、都会の喧騒を忘れてしまいそうな豊かな自然に包まれた。緑は落ち着く中間色だって、やっと意味が分かったかも。気持ちのよい風が吹いて、透香の両耳で蝶のイヤリングが揺れる。

透き通る香りが僕を置いてどこかへ行ってしまうような、そんな恐怖に襲われた。


「帰りたくないな」僕は呟く。Twitterに。

僕の隣にいるはずの透香は、僕の想像上の女の子で

初めから存在していないんだから。

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