囚われの子どもたち


 目覚めれば、そこはベッドの上だった。あたりはカビと埃の籠った臭いが充満している。横たわるシーツも、お世辞にも清潔とは言えそうになかった。

 だが、目覚めたということは、命があるということだ。生命に及ぶ危険性は低かったものの、ひとまず安堵の息をついておく。しかしいまだに頭も身体も妙な酩酊に溺れていて、上手く働きそうになかった。


 起き上がる気力がわかないまま、北瀬はぼんやりと首をめぐらせた。

 とたん。彼をうかがい見る、大きな淡い緑の瞳と目が合う。


「よかった・・・・・・起きた・・・・・・」

 泣きそうな安堵の声をこぼしたのは、十二、三ほどの少女だった。丸い目元とふんわりとした眉があどけないが、年のわりに痩せた頬の線と、湛えられえた疲労が痛ましかった。明らかに整えられていないぼさぼさの髪は、明るい茶色なのに伸びるに任せ過ぎていてい重苦しい。前髪は鬱陶しく目元を覆い、一応はしばってある背にかかる髪も、櫛のひとつも通してやりたい有様だ。パッと目には分かりづらいが、衣服も着たきりなのだろう。薄い汚れに萎びて見えた。


「――きみ、は・・・・・・?」

 呂律がおぼつかないせいで、幼い声音がよけい頼りなく聞こえる。身体はまだ不調を訴えており、力がわかないどころか、那世の異能は途切れていないはずなのに、他の感覚も覚束ない。だがこれでは不安にさせてしまうと、なんとか気合を入れ直して身体を起こすと、北瀬の脇で少女のか細い声は少し嬉しそうに囁いた。


「わたし、橋中はしなか凪香なぎか。あなたは?」

「俺は、北瀬優。よろしくね」

 差し出した手を握って、起きてくれてよかった、とまた彼女は繰り返した。

「そんなに寝てた?」


 問いながら、改めていまいる場所を確認する。古びた洋館――というよりは、そういう造りのホテルの一室のようだった。ふたつ並ぶシングルベッドに、壁掛けの大きな鏡と、洒落た文机と重厚な椅子。品よく色合いや物の質を整えたようだが、どれも年季とともにぶ厚く埃をかぶっていた。

 蜘蛛が巣を張る破れたカーテンの向こうには、乱雑に板を打ちつけて塞がれた大きな窓がある。ホテルとして使われなくなって、そこそこの年数が経っていそうだ。そこを、どうやら監禁場所として利用しているらしい。


「優くんは、そんなに寝てたわけじゃない、けど・・・・・・。前に、起きなかった子が、いるから・・・・・・」

「――俺の前にも、誰か連れ込まれたの?」

 震えた細い肩に、隣に座るよう促せば、ちょこんと凪香はベッドに腰を下ろした。連れ込まれたのではなく、自分が巻き込んだのだと、ぽつりぽつりと話し出す。


 父が家族に厳しすぎ、家に帰ることを苦痛に感じていた彼女は、ふと魔が差したことがあったそうだ。店から小さな菓子をそのまま持っていこうとした。

 当然呼びとめられ、遅ればせながら事と次第に青ざめた時――助け船を出してくれたのが、北瀬と凪香をここに連れてきた男だったという。

 優しい人だと思ったと、彼女は後悔を交えて呟いた。家庭に居場所のない子どもの支援活動をしていると言い、なにかあるなら相談に乗ると申し出てくれた。それに、縋ってしまった。


 父の厳しさは苦しすぎる。母は父を怖れて彼女を見ない。だから、危ない場所と言われているのは知っていたが、彼がいつもいると言っていた活動地域に出入りをするようになっていったらしい。

 そこで、もうひとり別の人物に出会った。あの男はいけ好かない感じがすると忠告してきた、少し年上の少年だったという。


「怖い感じで、だから、その子の言うことは、その時あんまり信じなかったの」


 そしてちょうど、夏休みももうすぐという頃。家を出る口実がなくなってしまうことに恐怖を覚えていた彼女に、休みの間逃げられる場所へ連れていってあげる、と、男が誘いをかけてきたのだ。それは凪香にとって、夢のような響きだった。

 だから、信頼と期待を胸に、彼の車に乗り込もうとした。それを――どこで見ていたのか、ふいに現われたくだんの少年が腕を引いて止めたのだ。行かない方がいい、と。


「行こうとしちゃった、わたしが馬鹿だったの・・・・・・」


 少年に制止されて、惑った一瞬。それを男はよしとしなかった。凪香を強引に車に押し込み、抵抗する少年に注射を刺して、凪香のあとから放り込んだ。移動中、意識のないままずっと苦しそうに呻いていた少年は、しばらく凪香とこの部屋に入れられていたが、目覚める前に男に外へと連れ出され、それから姿を見ることのないまま今日になったという。


「・・・・・・あの子が、どうなっちゃったのか、分からない・・・・・・。心配してくれたのに、名前も聞かなかった・・・・・・。わたしが、悪かったのに・・・・・・」

「・・・・・・そっか」


 分からないと言葉を選びながら、その顛末は予想をつけている言い様だった。凪香は、乾いた涙のあとにまた押し寄せるものを、引き寄せた膝にうずめて誤魔化している。

 その幼い細い背中を落ち着くようさすってやりながら、なるほど、と北瀬は思索した。


 夏休みももうすぐの頃ということは、七月の半ば手前だろう。ちょうど北瀬たちが新宿署とガサ入れを行った頃だ。その時分に見つかった少年の遺体と、時期は合う。先ほどの話で、危ない場所として彼女があげた地域の名も、埼玉にあったはずだ。


 だが、この繋がりをいまここで、自責に苦しむ少女に告げることもないだろう。

 ひと月以上ここに閉じ込められていることになるが、どういった待遇で扱われていたのか、犯人の目的を耳にしていないか、他に子どもは見ていないか――問いたいこと、確認を行いたいことも溢れているが、それも、いま聞きだすのものではない。

 北瀬は静かに、彼女を安堵させることに努めた。


(助けはすぐに来る。証言は、適切なケアが行える状態で協力願うので遅くない。それに・・・・・・)

 少し長めの半袖に隠れるように痣の痕がある。古いものだ。ここでつけられた可能性もあるが、おそらく違うだろう。彼女は父を厳しい、怖いとしか言わなかったが、秘匿したいか、または他の表現を思いつかないほど削がれているのかもしれない。たぶん彼女の父のそれは、常識的な範囲を超えている。


(救出したら、そっちの方も対応しないとな)

 ごしごしと目元を拭った少女が、「ありがとう」と、かすか顔をあげて微笑んだ。それに笑顔を返して、北瀬は彼女のTシャツの胸元を指す。

「それ、ねこ団子ブラザーズだよね。好きなの?」

 襟元がくたびれて広がっているTシャツは、新しいものではなさそうだが、大事に着られている。その胸元に、ちょこんとおしゃれに控えめに、ねこ団子ブラザーズがプリントされていた。


「あ、うん。優くん知ってるの? 誰が好き? わたしは桜もちにゃんが一番好き」

 ふっと凪香の表情がくしゃりと笑んで、わずか色がさした。当たりの話題だったと、心中で椚下くぬぎしたに感謝しながら、北瀬はゲームセンターで敗北したピンクの猫を思い出す。


「俺も桜もちにゃんかな。いま、浅からぬ因縁があるし」

「因縁・・・・・・?」

「クレーンゲームで取れなかったんだ、桜もちにゃんだけ」

「でもほかの子は取れたの? それだけでもすごいじゃない」

「せっかくならまとめて取りたいしさ。今度リベンジする予定なんだ。あ、そうだ」年相応の弾みと勢いをみせてきた声音と表情に、いいことを思いついたと、北瀬は提案した。「取ったら、凪香ちゃんにあげるよ、桜もちにゃん」


 にこにこと当たり前のように言う北瀬に、凪香は虚を突かれた様で瞬いた。緑の瞳の奥に、戸惑いをのぞかせる。

「で、でも・・・・・・それは、嬉しいけど、ちょっと・・・・・・無理だよ」

 ここから出られるわけがないのだと。出されたとして、遊びに興じられるわけがないのだと。そう言外に、彼女の顔はまた俯く。

 ひと月以上だ。助かる希望を摘むには、十分すぎた時間だろう。けれど――


「・・・・・・大丈夫だよ」

 そっと、俯く顔を覗き込んで、北瀬はおどけた口調で、しかし誠実さを込めて告げた。

「俺、実は誘拐されるの二度目なんだ。こんな悪いことする大人も、残念なことにわりといるけどさ。それでも・・・・・・そんな誰かを助けるために、寝食削って頑張ってる大人もいるから。大丈夫」

 ぽんぽんと、凪香のぼさぼさの頭をなで、青い瞳は優しい色を満たして彼女を見つめた。


「経験者の俺が言うんだ。間違いないって。大丈夫。必ず助ける。それで、桜もちにゃん、プレゼントするよ」

「・・・・・・なんか、優くん。すっごくお兄さんみたいな言い方するね」

「こう見えて俺、大人だからね」

 思わず笑みをこぼした凪香に、得意げに北瀬が己を指し示せば、「そうなの?」と信じていない声が、それでも楽しそうに微笑んだ。



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