case.3 ポラリス

未解決事件


 鈍色の空から雪花せっかが舞い落ちる。立春は先月に訪れたはずだが、この北国では春はまだ分厚い雪雲の彼方あなたらしい。鶯の涙が融けるのは、いくばくか先のようだ。


 しかし冬の盛りの勢いはさすがになく、溶けては降ってを繰り返しているせいか、雪国と聞いて思い描くほどの厚みで積もってもいなかった。少し水気の多い雪が、ビニール傘を冷たく濡らして滑り落ちていく。厚手のコートの裾を翻し、吐息をけぶらせながら、北瀬きたせ那世なせは真白に包まれた広い公立公園の片隅。そこの黄色い規制テープをくぐり抜けた。

 青いビニールシートに覆われた区画に入り込めば、いままさにひと仕事を終えた鑑識班たちとすれ違う。


 非違検察課ひいけんさつかへ連絡が入ったのは、事件発生後すぐだった。すでにチームが向かっていた他県への仕事に、別件のため遅れて合流するはずだった北瀬たちは、運よく空港にいたのをいいことに、そのまま行き先を変えてこの現場へ直行させられたのだ。


「・・・・・・足が濡れて、引くほど冷たい・・・・・・」

「あとで靴を買い替えろ」

 ひどく気落ちしきった低音で、不服たっぷりに北瀬が呻いた。当初向かう予定だった場所は、九州地方。たいして今いるのは、新潟と山形の間に挟まれた水岡みなおか県。北陸だ。備えがまるでなっていなくても仕方がなかろう。北瀬が気楽に履いてきたスニーカーでは、この積雪とは戦いも出来なかった。念のためと、コートを冬物のままにしておいたのだけが幸いである。


 だが、身支度を整え直す暇もなく、現場へと赴かなければならなかったのには、それなりの理由があった。だからこそ北瀬も、不満をこぼしつつも大人しく凍える足先の不快感に耐えているのだ。


 人目につかない植木の影。そこに打ち捨てられていた遺体を、そっと雪から庇うように傘を差しかけ、ふたりはのぞき込む。

「なるほど・・・・・・これは確かに特徴的だな」

 雪に混じるように、那世の声がぽつりと落ちた。


 二十代の黒髪の女性だった。靴は履いておらず、裸足。防寒具もないので、その首筋の絞殺あとがよく見えた。しかしそれ以上に目を引くのが、綺麗な顔を斜めに切り裂く刃物の傷痕と、上着をくつろげた左胸元に、同じく切りつけて刻まれた『13』の数字だ。

「《契約者殺し》、ね。模倣犯か、それとも、二十年ぶりのご帰還か・・・・・・」

 薄い唇に冷えた色の混ざる笑みをたたえ、鋭い青の瞳が被害者の傍らにしゃがみこむ。

「どっちにしろ、今は昔と違うんだ。けっして、逃がしはしないけどね」


 かつて水岡県で発生し、全国を震撼させた未解決連続殺人事件。それが、契約者殺しだった。二十年前は、いまでは多くが眉を顰めるような〈あやかし〉の差別が、致し方ないという空気で、時には虐げているのだと認識すらされぬまま、そこここで見受けられる時代だった。特にこの水岡県は歴史的背景からか、〈あやかし〉との溝が深く、嫌悪の意識が根強かったらしい。

 その染みついた憎悪は、いつしかそれらしい理由を失くしても絶えず、〈あやかし〉と協力的な人々へも向けられた。その代表ともいえる契約者が、殺しの標的とされたのがこの事件だ。〈人〉を裏切る敵である――その差別主義的な思想が、顔を傷つけ、十三の数字を痣の発現する場所に刻む儀式的なやり方で主張されている。


「自己顕示欲の強い陶酔型かな。そういうやからは、分かりやすくて都合のいい誰かの思想を切り張りして取り込む。そこにある宗教性や歴史性、意義や意味は無視してさ」

「だが、そうした手合いはやり方に強い拘りを持つ場合が多い。今回はどうも、機内で確認した過去の案件と相違がある・・・・・・。模倣の線の方が濃いかもな。より詳しく確認しないことには、断言はできないが」

「模倣にしても、再開にしても、二十年の空白を置いてなんでいま、ってところも気になるしね。県警の方の過去の証拠品や調書も見せてもらおう。――嫌がられるかもしれないけど」


 二十年前にかの事件が起きた時、あそこならば起こっても無理はないという空気が、やはりあったという。そして、四名の犠牲者を出したのち、ぱたりと犯行が止み、事件が未解決に沈んでいった時も、ある疑惑が囁かれたのだ。警察は、本当にちゃんと捜査を行ってくれたのか――と。


 当時、水岡県警察内も〈あやかし〉やその周りに対して、好意的でない者が多かった。そのため公然とではないが、捜査が疎かにされた部分があったのではないかと、一部週刊誌で騒がれたのである。


 無論、そのゴシップを額面通り受け取るわけではない。だが実際、非違検察課への応援要請もずいぶん遅く、捜査中も排他的な対応であったと聞いた。そしていまも、地元警察の空気が、北瀬たちに少々固くよそよそしいのが感じられるのだ。


 あまり触れられたくない事件であるからか、過去の負い目からか――もしくは、いまなおどこか拭いきれない忌避からなのか。何にせよ、彼らブルーズ・バディは、この件で一番密に関わりたくない相手ではあろう。――〈あやかし〉と、その契約者などという組み合わせなのだから。


 だが北瀬たちも、仲良く交流するために来たわけではない。協力は大切だが、親睦を深める必要もない。もっと露骨に苦い顔される経験も一度や二度ではなし、そうした些事に真っ向からかかずらわっている暇は、彼らにはなかった。


「手になにか握ってるね。ネックレスかな」

 固く握られた被害者の拳の隙間から、細い金の鎖がこぼれている。確認しようと北瀬が指を開こうとしたが、まだ硬直が強く、ここで無理にこじ開けるわけにもいきそうになかった。


 諦めるか、と彼が腕を降参の形に引き上げたところへ、「北瀬さん」と県警の刑事から声がかかった。相棒の金髪が立ち上がるのと代わるように、那世が遺体の側に腰を落とす。


 周囲に流れ落ちた血の跡もないことから、顔や胸を切りつけて、しばらくしたのちここに遺棄されたらしい。深々とはいわないまでも、浅くもない。救いにもならない感傷だが、せめて死後に刻まれたものであればいいと思わずにはいられなかった。


 ネックレスの存在に気づいてから改めて首筋を見てみれば、絞殺の痕に重なって、うっすらと鎖が押し付けられた形跡があるのが確認できた。手にあるのは犯人のものではなく、彼女が死の間際に、苦し紛れに己のものを掴んだのかもしれない。しかし一方で、その他に目立った痕跡がなく、争うことはおろか、絞殺時に抗いもしなかったようなのが気になった。意識がなかったか、動きを封じられていたのなら、ネックレスを掴んでいた意味も変わってくる。


「那世。被害者のご家族と、契約相手でもあった婚約者の方がこっちにいらしたらしい。このまま引き取らせるのも忍びないし、ちょっと会ってこない?」

「ああ。行くか」

 北瀬のあとへと続く那世の背を、他の刑事たちの隠れるような視線が追いかけてくる。過去にあまた覚えのある視線だった。敵意ほどではない。だが、じっとりと暗く陰鬱な――まるでこの重たく湿った雪雲のような灰色の視線だ。


(――久しぶりだな・・・・・・)

 ここはそういう土地柄だったと、雪の降りしきる曇天を見上げる。先ほど刑事が声をかけたのも、北瀬だけだった。ふたりに、ではない。いまさらそれで気を悪くするほど狭量ではないし、気落ちするほど繊細でもないが、薄れていた感覚を揺り起こされて、かすか苦い心地が胸裏に滲んだ。


 東京へ出て、大学で稀有な出会いを果たし、非違検察課へと入ってから続く騒々しく休まらない毎日に――誰かに、この雪国の日々を溶かされていたのだと知る。

 この鈍色に凍えた地は、那世の故郷でもあった。


 ここで〈あやかし〉と契約者であるがゆえ起きた事件の当事者になったとあっては、残された婚約者の気苦労も多いだろう。

 那世は常に傍らにある金糸を視界の端に留めながら、また規制テープをくぐった。その先で待ち受けていた人影に、北瀬とともに目を瞠る。


 同じだったのだ。涼やかな一重の目元、薄く影を落とすくっきりとした鼻筋。顔かたちから長い黒髪とその前髪の分け目まで、被害者とそっくり同じ姿の女性が、そこにはいた。


「・・・・・・双子、でいらしたんですね」

 一瞬の驚きをすぐに消して、不安げな表情に北瀬が柔らかに微笑む。動かぬ者として哀悼で見つめた相手と瓜二つの存在が、血を通わせてそこに在るというのは、なんとも奇妙な感覚に囚われた。その耳元を飾るピアスまでも同じ石、同じ形だ。よほど仲のいい姉妹であったのかもしれない。塚越つかこし綾乃あやのと名乗った彼女の方が妹。被害者が姉の琴乃ことのだというが、あえて似せているのかと疑うほど見分けがつかない。


「姉がもう・・・・・・助かりようがないということは、七森ななもりさんからのご連絡で昨日から分かっては、いたんです。ふたりは繋がっていましたから。ただどこにいるのかは探し出せなかったので、見つかったと聞いて、居ても立っても居られなくて・・・・・・」

「お気持ちお察しします」

 ともすれば泣き崩れそうな綾乃へ、静謐にこぼれた北瀬の弔意が白く霞む。そのまま青い視線は、彼女の隣でその背を気づかわしげにさする〈あやかし〉の男性へと滑っていった。


「そちらが七森さん、ですね。この件で県警へ電話をくださったと聞いています。お具合はいかがです? 倦怠感などは、お辛くないですか?」

「ええ・・・・・・大丈夫です」当たり前に北瀬からこぼれた気遣いの言葉に、少し虚を突かれた表情を見せ、七森は微笑んだ。銀縁の眼鏡の奥の瞳は穏やかだが、柔らかに悲しげに揺れる。「こんな時に、動けないではいられませんから、久しぶりに――残っていた薬を引っ張り出してきたので」


 久しぶり、という言葉の端が痛ましかった。〈あやかし〉である者たちが、契約者と出会うまで、その身の気怠さや息苦しさを軽減させるためにある薬。つまりそれは、被害者と出会ってからは不要となったはずのものなのだ。ふたりが婚約者という関係を築いたのだとしたら、それは幸せのうちに、もっとずっと長く必要とせずに過ごせたはずだ。こんな事件さえ、起こらなければ――。


 互いに相手の死を悟れる。けれど事前に、危機を察知できるわけではない。その歯がゆさを、この穏やかな彼は、彼女の死を知った瞬間、どれほど味わったのだろうか。

 抱いた慟哭をしいて伺わせない、色なく凪いだ声音は、静かに北瀬と那世に注がれた。

「おふたりは東京の非違検察課からいらしたと、取り次いでくれた刑事さんに聞きました。〈あやかし〉が少しでも関わっていると来てくださるものなんですね。もっと大きい事件じゃないと、いらっしゃらないものだとばかり思ってました」


 心強いと力なく笑む七森に、ちらりと悟られない程度にふたりは視線を交わし合う。取るもの取りあえさえせず、彼らがここにすぐ訪れたのは、未解決に終わったままの契約者殺しが疑われるからだ。だが、被害者の身内とはいえ、まだこの情報は伏せておいた方がいいだろう。

 当たり障りなく返して、今後の捜査における情報提供や、あらためて聴取をおこなわせてもらいたいことを告げる。


「あと、お気を悪くされたら申しわけないのですが、おふたりをすぐ見分けられる方は、どれぐらいいらっしゃいましたか?」

 よく似てらっしゃるので、と那世が尋ねれば、綾乃はどこか幸せすら滲ませて、嬉しそうにはにかんだ。それは彼女にとって、喜ばしいことであったようだ。


 しかし犯人からすれば、厄介な問題だったろう。ともすれば対象を間違えてもおかしくないほど似通っている。行きずりの犯行ではなく、契約者であるから琴乃を標的に選んだのだ。ならば、ふたりを見分ける必要があったに違いない。そもそも、契約者であること自体、普通、痣を除けば外見的特徴で判別できないのだ。だからこそ、どのような手法で、そのより踏み入った個人情報を得たのかが分かれば、犯人に近づきやすくなる。


「見分けられる人なんて、いないんじゃないかしら? 親以外で間違えなかった人なんて、七森さんに出会うまでいなかったくらいです。それぐらい、私たちは同じ、でしたから」

 懐かしそうに、綾乃は悲嘆の面持ちをかすか笑みに溶かし変える。それに七森も、似たような象り切れない微笑で、いとおしげに続けた。

「いえ、私はただ、見分ける必要がなかっただけなんです。見た目の前に――香りで、琴乃さんと分かったので・・・・・・」

 もうどこにもない形なき香を惜しむように、七森は静かに囁いた。


 たとえこの先、別の適合者と出会うことがあっても、同じ香りが彼に寄り添うことは二度とない。好ましいと感じることは同じでも、匂いは同じにはならないのだ。新しい相手だと、互いに感じるも変わる。契約可能な相手に絶対のひとりはないが、相手に感じる香りは唯一無二なのだ。


「その香りは、姉だけのものだったんですものね・・・・・・」

 同じ声で、同じ瞳で、同じ顔かたちで――けれど、持ち得ぬ姉のを恋うるように、綾乃の呟きがそっと、降り注ぐ雪とともに落ちて消えた。


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