わかってる。

 屋上に出た私は、ドア横の壁に背を預けて座る。


 ぼんやりと空を眺める。黄色がかった水色の空に、白いカビみたいな雲が浮いている。


 時間は夕方。だけど部活動にはまだ早くて、人の声はしない。聞こえるのは、ささやかな風の音だけ。


「あぁ、何やってんだろうな、私」


 最後の授業さえ耐えれば、全てから解放される。それがわかっていても、抜け出さずにいられなかった。


 人生初のサボり。でも、今日くらいは許されるだろう。


 日和と一緒にいる教室は息苦しかった。平静を装うのは苦しかった。時折、心配げな目を向けられて、より一層苦しかった。


 昼休みの出来事を思い出す。日和は、夏が困っていると見るや、すぐに駆けつけた。危険があろうとふと体が動く。あれが本物の好きということなのだろう。


 だったらやはり私の想いは、とてもちんけなものだ。日和も言っていたじゃないか。他のことが気になるようなら、それは気持ちが小さいと。だから、諦めるのに、こんなに苦しんでいちゃいけない。


 昼休みに諦めることに決めたんだ。そしてそれが正しくて、前に進む方法なんだ。


 わかってる。


 だけど、心が痛む。吐きそうになる。目頭はもうずっと熱い。


 好きだったんだよ。目があった日には高揚した。言葉を交わさなかった日には落ち込んだ。朝には期待で胸を膨らませ、夜には想いを馳せて眠りについた。


 一喜一憂したこの想いを小さいと認めることは辛くて、どうしようもなく苦しくて、胸が張り裂けそうになる。


「なんでだよぉ。ずっと諦めてきたじゃんかさぁ」


 嗚咽混じりの声が勝手に出た。視界はぼやけ、夕日がぐじゃぐじゃに歪む。


 諦めることには慣れていた筈だった。なのに、諦めることが苦しくて苦しくて仕方ない。


 『踏み台になれて嬉しいなんて絶対に言わないで欲しい』


 『凪さんは魅力的で可愛いよ。僕の中では誰よりも可愛い』


 日和にかけられた言葉が蘇る。


 私なんかに、こんなことを言ってくれる人は、世界に一人しかいない。後にも先にもこの人だけだ。


 ……諦めたくない。


 そう思えば、恐怖が押し寄せてくる。


 そんなのってないよ。今まで間違ったまま生きてきたなんて怖いよ。


 諦めないことを正しいとするのは、諦めてきた今までの私を否定すること。ずっと諦めてきた私が一歩も前に進んでいないことを認めるようなもの。今までの人生が空虚であったと証明するようなもの。


 前に進めないのは怖い。前に進んでいなかったと認めることは怖い。過去の自分を否定することは怖い。


 それに、諦めない先に何が待っている。悲惨な末路しか待ってないじゃないか。夏と日和が付き合うことがわかっているんだ。想いが叶わぬことが決まっているんだ。


 私は何で日和を好きになった? 諦める私を、それでいいのだ、と肯定してくれたから好きになったんだ。


 諦める理由があまりにも多すぎる。だから諦めなくちゃいけない。


 でも、諦めることが死にそうなくらい辛いよ。


 諦めないことも死にそうなくらい辛いよ。


「もぅ、どうしたらいいんだよぉ……」


 体育座りをして腕の中に顔を埋めて、真っ暗な世界に閉じこもる。腕は濡れて気持ち悪いし、目元はひりついて痛い。泣いても仕方ないのに、涙がずっと止まらない。


「凪さん」


ドアの開く音。荒い呼吸音。私の名前を呼ぶ優しい声。


かき乱された心が、さらにぐしゃぐしゃになる。壊れた洗濯機みたいに心臓が騒音を立てる。目から溢れる涙は、勢いをましてぼろぼろ溢れる。


なんで、なんで、きちゃうんだよぉ。


下唇を噛む。


私は無理やりに笑う。


力を入れて、嗚咽を殺し、精一杯の明るい声を出す。


「あはは。まだ授業中だよ。もしかして心配してきてくれた。いや、ほんと私なんかのためにごめんね。私も戻るから帰ろ? ちょっと風あたったらスッキリしたからさ」


先生には私が連れ出したって説明しよう。


腰を上げる。泣き顔は見せたくないから、俯いたまま。


額がぶつかる。屋上の入り口に立った日和の胸にぶつかる。


「帰ろうよ。ちっちゃな悩みだっ……」


「凪さん、サボろうよ」


くっと歯を噛み締める。甘えちゃダメだ。


「サボりは良くないよ」


「大丈夫。先生には二人とも体調不良って言ってきた。何より、僕がこのままにしたくないんだ」


……もう、抗えそうにない。弱り切っていて、優しさに絆されてしまう。だけど、せめてもの抵抗、胸を借りることはやめて、元の体育座りに戻る。


「凪さんがさ、昼休みの終わりに気を落としてたのは、気づいてたんだ」


隣に座ってきた日和がそう言って、頭を下げた。


「僕が何かしたのはわかってる。だけど、何が悪かったのかわからなくて」


そんなのわからないに決まっている。気づかれぬため、日和にが気遣わぬため、自分を守るために、必死に平静を装ってきたのだ。


「でもさ、ついさっき、『諦めて欲しくない』ってことがあって、それで思ったんだよ」


日和は、


太陽が温めるようにじんわりと、


「凪さんには諦めたくないことがあったんじゃないかって」


土足で入り込むように乱暴に、


「凪さんは、『他のことがどうでもよくならなかったらさぁ、それってその程度の想いなのかな?』って聞いてきた。僕はそれに『他のことが気になるってことは気持ちが小さいんだと思うよ』って言った。そしたら凪さんが『まだ、諦めることで前に進める、って思ってる?』って聞いてきた」


パズルを嵌めるように的確に、


「それってさ、諦めたくないことがあるけど、それは諦められないほど小さな気持ちなのか? だったら諦めた方がいいのか? 聞いてきたってことだよね?」


私が張った壁を壊して、心の内側に入ってきた。


どうしてかわからないが、涙が勢いを増す。


「ひぐっ……ひぐぅ」


嗚咽混じりに頷く。


「ごめん。何も知らないくせに、無理に諦めろ、って言って」


「わるぐないよ゛ぉ。あやまらないでよ゛ぉ」


「いや、僕が間違ってた。他のことが気になったとしても、凪さんの気持ちは小さくないよ。泣くくらいの気持ちが小さいわけがない」


日和はふぅと息を吐いてから、話し出した。


「僕にはさ、凪さんが何を諦めようとしているかわからない。だから、同じ過ちを犯すかもしれないけど、言いたいことがあるんだ」


日和は私の目をしっかり見て、続きの言葉を吐いた。


「どうしても諦められないのならさ、僕に告白されたっていうことを思い出してほしい。それが、諦めない、と踏み切るための、自信にならないかな?」


 ずるいよ。ほんとに。


 甘えさせてくれない。私に戦え、と。そのための勇気だけくれる、と。


 もういい。この気持ちが大きくなくてもいい。前に進めなくてもいい。今までの私が一歩も前に進んでいなくてもいい。どうだって、なんだっていい。


 ただただ、日和が欲しい。


 私は、爽やかで少し冷たい風に揺れる髪を、片手で抑える。もう一方の手では、ぐしゃぐしゃになった目元を拭う。


 ちょっとましになったけれど、それでもステンドグラスみたいになった彼に向けて言う。


「夏に告白しないでほしい。私だけを見てほしい」


「え?」


「私は日和のことが好きです。大好きです」

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