さて、そんな晩夏とは名ばかりの熱帯夜が明けて――。

 早朝、地味な風体の男子大学生が三人ばかり、缶コーヒーやエナジードリンクを買って行った。

 昨日で夏休みが終わり、駅前ロータリーのバス停留所には久々の行列ができている。

 ここ二三日、ほとんど客の相手をしていなかった静枝は、思わず地声で礼を言いそうになったが、かろうじて思いとどまった。初日の深夜、暴走族の若者が顔面蒼白になって急発進し、停留所の案内板にバイクごと激突する姿を思いだしたからである。あの手の不良ならともかく、真面目そうな学生さんを朝っぱらから脅かしてはいけない。

 静枝は機械的に音声データを再生した。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 二人連れの女子大生も、アイスココアとメロンソーダを買ってくれた。

 こちらの娘たちは頭から指の先まで色とりどりで、むしろ不良青年の横に置きたい風体だが、ちゃんと早起きして一限に出席する学生なら、まあ脅かしてやるほどではない。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 順調に売り上げを増やしながら、静枝はしみじみ思った。

 ここに店を出したのは、大正解だったなあ――。


 十数年前、営林署を定年退職した孝吉が駅前に洋品店を開こうと言いだしたとき、静枝は内心、退職金を減らすだけなのではないかと訝った。本業が山仕事のわりには、休日になると小洒落た洋服を着こみ、静枝にもしっかり装わせて都会に連れ出すのが好きだった旦那ではあるが、当時のこの駅は、朝晩に僅かな林業関係者が乗降するだけの、ちっぽけな無人駅にすぎなかったのである。あとは紅葉シーズンにオマケ程度の行楽客を見るくらいか。土産屋や食堂ならまだしも、洋品店は無謀である。

 それでもお互い、成人前の怪我や病気で子供が作れない二人ぼっち、遺産を残したい親族もいない。じきに年金だって出るし、ただ遊んで暮らすよりは店番でもやっているほうが二人とも呆けにくいだろう、そう思っておとなしく従った。

 ところが数年後、さほど遠からぬ山裾に、都心の私立大学がまるまる引っ越してきた。いわゆるBランクながら伝統的に就職率が高く、少子化が騒がれる昨今も生徒が増え続け、都心の狭い敷地では収まりきれなくなったらしい。

 当然、駅周辺に賃貸物件や店舗が増える。遊び好きの学生は数駅離れた繁華なターミナル駅周辺に居を構えたが、毎日そこから通ってくるので、いきおい電車が増えるし到着駅も整備される。結果、赤字続きだったちっぽけな洋品店は、あっという間にコンビニや外食チェーンの支店に挟まれ、窮屈ながらも、手堅い黒字経営が続くようになっていた。


 思えば孝吉さんは、昔から上々の旦那様だったなあ――。

 停留所の若者たちを眺めながら、静枝はしみじみと懐かしんだ。

 若い時分の孝吉は加山雄三に似ていた。まあ田舎の男衆の中では若大将寄りに見えただけかもしれないが、他の男衆はたいがい青大将寄りだったから、孝吉に憧れる娘は多かった。仕事も手堅いし、もし普通に子種があったら、いくらでも良縁に恵まれただろう。いっぽう静枝は当時から、若大将の祖母を演じる飯田蝶子のような顔をしていた。今と違って産めよ増やせよの時代、子を望めない娘が近隣に静枝しかいなかったからこそ、仲人なこうど主導の見合い結婚が成立したのである。

 その若大将も近頃はすっかり老いぼれて、認知症の気配すら漂うようになり、静枝もついつい粗末にあしらいがちだったが、こんな形で離ればなれになるなら、もっと優しく世話してやればよかった。アクセルとブレーキを間違えたのだって、当人と妻にしか迷惑をかけなかったのだから、見ず知らずの母子を轢き殺しておいて堂々と居直っているどこぞの上級国民に比べたら、遙かに上出来ではないか。

 しかし、めったに人通りのない山道から底深い林に落ちてしまった以上、二人の失踪は、とうぶん誰にも気づかれないだろう。葬式さえ出してもらえば、自分も成仏できそうな気がするのだが――。

 元若大将に再会できるのは、夏の終わりかそれとも秋か、まさか来年の雪融け待ちか。

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