いつか、彼に振り向いてもらうために
ぱん
いつか、彼に振り向いてもらうために
雪の降った翌日だった。
浅く積もった泥混じりの雪は半溶けし、道脇の用水路へと流れていく。
ホワイトクリスマスとなった前日を惜しむように屋根から滑り落ちるしずり雪を手放せない朝の駅前は、変わらず通勤の徒で溢れていた。
「また蒸れそ……」
例年のごとく過去最低気温を更新するたび、重ね着する枚数が増える。
圧倒的なまでの人口密度を誇る通勤電車内を想像すると、今からトイレでも行って一枚脱ぐのが最善手だろう。
「あと一○分はある、と……ふむ」
袖口から覗かせる腕時計を確認し、改札口の電光掲示板を仰ぎ見る。
トイレで一、二枚服を脱いでも、近くのコンビニでコーヒーを買うぐらいの余裕があるな。
なんなら、昨日の――あの、やかましいラインの返信だって可能でもある。
「……ん~」
コートのポケットに忍ばせたスマホに触れながら、逡巡なく私は踵を返した。
「それは昼休みでもいいでしょ、別に」
「いや、よくないけど」
そうしてコンビニに直行しようとした足は、ぼやいた直後に固まっていた。
人波を逆らうように後ろを振り返ると、見知った顔があったからだ。
「おはよ、
お気に入りのチェスターコートに紺色のスーツ。未だに着せられている感の否めないその細い体躯がコートですっぽり隠されているその姿を、何度見たことか。
忘れられないほどに焼きついたこの時間、この光景を、どうして忘れていたのだろう。
昨夜まで隣にいた男。聖夜の思い出を重ねた――いわゆる、元カレ。
通勤時間も、電車も一緒だったことを忘れ、いつも通りに駅に来たのは過ちだった。いや、その生活に慣れていたからなのだろう――合わせるように無意識に動いた自分が恨めしい。
「ごめんね! いや、家帰ったらすぐぐっすり寝ちゃってさ」
「嘘だろ、それ。ソシャゲのログイン見たぞ俺」
いやそこまで見んなし。友達登録しなきゃよかった。ストーカーかよ。
「ハッと起きて、スタミナ消化しただけだから。ソシャゲあるあるじゃん、これ」
「…………」
「わかった、わかりました。起きてましたけど、何か」
駄々っ子のようにぶすっとしたままの顔に耐えきれず、私はすぐさまカミングアウトしていた。嘘とか絶対つけないのはわかってたけど、最速記録を叩きだす予定はなかったんだけどな。
さておき。
はあ、とわざとらしくため息ついて、頭一つ分高い元カレの仏頂面を睨みつける。
「あのさ、別れて、って言ったんだから返信しない理由わかるでしょ、普通」
「いや、わからない。別れる理由もわからないのに、なんで」
「話し合う必要もないし、知る必要もないし」
何を言ったところで受け入れられないのは目に見えてるし。
流し見た腕時計が、もうコーヒーを買う余裕もなくなったことを告げていた。このままだと、服も脱げずに満員電車直行だ。それだけは避けたい。
おもむろに肩に提げたバッグから定期券を取り出した私は、改札へと進路を戻した。
「やっぱいいや。電車来るし、人の邪魔だし。行くね」
「ま、待てって――」
「そういうとこが、嫌いなんだけど」
掴まれそうになった腕を振り払い、一瞥くれてから改札を抜ける。
「じゃ、そういうことなので。お達者で」
呆然とこちらを見つめるかわいそうな彼に今世紀最大の笑顔を送り、ホームへの階段を駆け下りる。パンプスの軽快な音が雑踏に混ざり、私という個を潰していく最中、思い出すのはどうしてか昨夜の出来事だった。
彼のため、信司のため。
そうやって自分を偽装し、尽くしてきた彼からのプレゼントが安っぽいネックレスだけなんて、あまりにもお粗末だ。レベルというのを合わせてほしいのだ、私は。引く手数多のスタイルと美貌を維持するのにどれだけお金がかかっているかも知らないくせに、そんな私を隣で歩かせてあげているのに、その対価がアクセサリー一つだけとか舐めくさってる以外のなんであるか。
まったく意味がわからない。なんで? どうして?
もしや私って、そんなに魅力ない?
――いやいや。そんなわけ、ないから。
「私の見る目がダメだった、ってことか……」
自己完結して階段を降りきると、同時に電車がホームへと到着した。
扉が開けば雪崩のようにあふれ出る大量の人間を無感情に眺めながら、見慣れた車内に足を進める。後ろから迫る人や前に詰まる人のこもった熱にあてられながらも扉端の奪取に成功した私は、気だるげにポケットのスマホを手に取り、スリープを解除していた。
「まあ、安いけど……良い値段で売れなくはないかも」
検索にかけた昨夜のプレゼントは案外、安値ではあるけどそこまで低くはないようだ。これなら資金の足しに――まあ、小銭稼ぎにしかならないけれど、稼ぐ意味はある。
「次は……うーん、
ラインアプリの友達欄に並ぶ候補生を眺めつつ、念頭には二月を思い浮かべていた。
三月一四日――ホワイトデーにお返しを十二分にいただくために、バレンタインを成功させなくてはいけない。本命チョコを個別に手渡しし、そのどれかと付き合って――時々、忘れてしまった恋する気持ちに思いをはせながら、私は目先の欲に意識を奪われる。
「あ、
――いつか、彼に振り向いてもらうために。
いつか、彼に振り向いてもらうために ぱん @hazuki_pun
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