主よ、人の望みの喜びよ〜6月、ぼくの課題曲

里見しおん

第1話

「えぇ、今更こんな曲簡単すぎない?」



 祖母に手渡された譜面を見て、至は眉間に皺を寄せた。



「そうね、いたるちゃんは速弾きがとっても上手だから。ゆったりな曲なんて簡単よね、この楽譜は初級アレンジだし。きっとすぐに弾けるようになるわね」



 ピアノ部屋の長椅子に腰掛けた祖母が、にこやかに言う。

 6月とはいえ今日は雨混じりの曇り空、居間から遠いこの部屋はずいぶん冷える。

 至は片手で譜面を読みながら、片手で長椅子の背に放ってある赤いチェックの毛布を祖母の体にぐるりと巻いた。





「あらありがと。さ、まずは初見」



 古いアップライトピアノの譜面台に今月の課題曲をそっと載せ、椅子に腰掛け、鍵盤に指を乗せた。

 ゆっくりと、譜面のとおりの音をなぞっていく。






「んー、初見とはいえダメダメね。いたるちゃんは誤魔化したつもりでしょうけど運指がバラバラ。いつも言うけど指番号を無視しないのよ。近くで見てなくてもね、ばあちゃんはわかっちゃうのよ、音で。他にも言いたいことはあるけどまずは右手の運指から」


「ちぇ、はーい」



 ミスをしながらも弾き切った至に祖母はにこにこと笑顔で至もダメダメだと思ったことを突きつけてくる。

 ゆったりしたテンポの曲ほど運指のミスが目立つ。至は速弾きが得意というより、祖母の耳の誤魔化しの効かないゆったりした曲が苦手なのだ。




 さらにテンポを落とし、一音一音、指運びを確かめていく。


「1」


 間違えると祖母の声が飛んでくる。

 手元が見えていないのによくわかるものだ。1の指、親指で弾きなおす。

 通しでミスをしなくなったところで祖母がぱちんと手を叩いた。


「まぁ今日のところはいいでしょう。次、スケール」


「えっ同じようなもんじゃん……」



「まったく違います。スケールは毎日やるものよって言ってるでしょ」


「はぁい……」




 スケールは正確な運指で音階を上り下がる、単調な練習だ。

 面倒だし疲れるし飽きてしまう。至の姉、みどりは毎日させられるこれが嫌で祖母のレッスンを受けるのを早々に辞めた。

 今は中学の部活で始めたソフトボールに夢中だ。


 至だって地味なスケールは苦手だが、祖母の教えを守ればかっこいい曲が弾けるようになるのが気持ちよくて頑張っている。先月までやっていた子犬のワルツをノーミスで弾けた時は感激した。

 しかし今回は課題曲も好みじゃない。

 至の不貞腐れながらのスケールは祖母の「ダメダメね」をもらった。







「いたるちゃんごはんだよ」


「ん」


 至の部屋の襖を開け顔を覗かせたのは姉、みどりだ。

 風呂上がりの適当に拭いただけの短い髪が、あちこちくるんと跳ねている。

 至は寝転んで読んでいた漫画雑誌をベッドに放り、ぴょんと立ち上がった。



「みどりちゃん、ドライヤーしなよ」


「暑いんだもん。ねえあれ今週の? 私も読みたい」


「先週のだよ。今週はまだ買ってない」


「なんだぁ」




 近頃は部活帰りのみどりが風呂を出るのを待ってから食事をするようになり、夕飯の時間が遅くなった。

 祖母は先に自室で済ませてしまうそうで、夕食を囲むのは両親と姉、至の4人になった。



「あっやっぱりからあげだ! においでわかっちゃったよ! おいしそー、いただきまーす」


「いただきます」


「はいはい、どうぞ」



 ダイニングの椅子にあぐらをかいてだらしなく腰掛け、からあげをつまんでいる父の向かいに姉と並んで座り、箸を取る。

 ごはんに豚汁、から揚げ。山盛りのレタスのサラダときゅうりの浅漬け。

 姉がスポーツをしているからか、祖母が別に食事をするからか。食卓に肉が多くなった気がする。



「ばあちゃんもからあげ?」


「おばあちゃんには鳥のおかゆにしたよ。はいあんた」


 母が父に缶ビールを渡し、よいしょ、と席に着く。



「おうサンキュー」


 ふぅん、と返しながら大皿のからあげに箸を伸ばし、かりっと噛む。

 しょうがが効いた、母のいつもの味。みどりの好物だ。隣のみどりが嬉しそうにからあげを口に運んでいる。


 ごくごくと喉を鳴らし缶ビールを飲んだ父が、ぶはぁっと息を吐いた。



「みどり、来週の日曜練習試合なんだろ。父さん見に行くわ」


「えー来てくれても一年生は出れないと思うよ」


「みどりのがんばってるところ見たいんだよ。父さんみどりがソフトボール始めて嬉しいんだよ。至が生まれた時は、息子と野球なんて夢を持ってたのに至はピアノなんかやるしよぉ」


「ほんとよねぇ、男の子なのに」


 父の言葉にぽりぽりときゅうりを齧りながら母も頷く。


「いたるちゃん、ピアノすごく上手だよ」



 みどりが至をちらりと見て困ったように眉を下げる。




「でもよぉ、男のくせに野球もバスケもしてくれないんだもんなぁ。ピアノより楽しいのによ」



 そう言ってまた缶ビールに口をつける。

 至はあまり運動神経が良くない。野球もバスケットボールも、低学年の頃に父に誘われて少し遊びでやったが、キャッチボールをしても至の投げたボールはへなへなとすぐに地に転がり、父の投げたボールは至の体に容赦なく当たる。

 バスケットボールは、父の投げたボールを取り損ない、軽い突き指をした。

 指を痛めるとピアノの練習ができないのが嫌で、父の誘いを拒否するようになった。

 スポーツは体育の授業でのらりくらりと参加するだけだ。

 両親はそんな至を男の子らしくない、といつも言う。

 至にとっては野球よりバスケットボールより、ずっとピアノが楽しいのに。





 ちらちらとこちらを窺うみどりの視線を感じながら、至は無言でからあげとレタスを一緒にかきこんだ。










 次の日も曇り空だ。

 至は一人、徒歩で登校する。

 中学校は小学校のすぐ隣だが、みどりは朝練があると一足先に出てしまうのだ。



 5年1組の教室の、窓際の一番前が至の席だ。

 おとなしく座り授業を受ける。騒ぐと先生に当てられる。おとなしくしているのが一番楽だ。算数は得意だ。もくもくと計算問題を解く。

 社会は戦争と平和について。戦後50年をテーマに作文を書けと言われた。まったく進まなかった。

 国語は漢字のテストだった。



 昼には給食を食べる。今日のメニューはカレーライスだ。給食当番にお願いして少なめによそってもらい、苦手なゆでたまごは素早くハンカチに包みこっそりランドセルに放り込んだ。

 5、6時間目の体育はサッカーで、運動が苦手な女子グループに紛れ込みぼんやりと立っているだけで終わった。そして放課後。




「おーい、サッカーしようぜ」


「やるやる、2組のやつらと勝負しよう」


「ヤスは? キーパーいないと」



 ついさっきまでサッカーをしていたというのに、クラスの男子たちはまだサッカーをしたりないようだ。

 至は誘われない。スポーツに誘ってもこないとみんなわかっているのだ。カルタや将棋をするときは誘われるから、嫌われているわけではない、たぶん。

 女子たちも数人ずつ集まりなにか楽しそうに話している。


 至はランドセルを背負い、騒がしい教室を一足先に抜け出した。

 向かう先は2階の音楽室だ。


 至は5年生になってから、校歌の伴奏者を務めている。

 音楽の先生に伴奏を習って以来、時折放課後音楽室のピアノを弾かせてもらう許可をもらったのだ。





 6時間目が音楽だったクラスがあるのだろう、グランドピアノはカバーが外され、蓋も屋根も開いたままだった。

 先生はいない。きっと職員室だろう。

 昨日祖母にもらった譜面を取り出し譜面台に置き、ランドセルを床に放る。


 まずは一度、両手で通して弾いてみた。

 テンポを落としてゆっくりと、昨日練習した右手の運指に気をつけて。



「ソ」

「ラ」

「シレド」

「ドミレ」



 最後の一音を弾き終えふわりと鍵盤から指を離すと、至の背後からぱちぱち、と拍手が聞こえた。




「シュウくん」




 振り返ると笑顔で立っていたのは、大人みたいに背が高くて、とても痩せている6年生、シュウだ。

 いつもあちこちに傷があって、服がちょっと汚なくて、周りから遠巻きにされている。

 至自身も『訳あり』の家の子どもだから関わるなと父に言われていた。



「新曲だ。なんて曲?」


「『主よ、人の望みの喜びよ』だよ」


 細く長い指で、シュウは自分を指差し目をパチリと丸くした。

 オクターブがギリギリ届かない至は、シュウのその大きな手と長い指が羨ましい。


「シュウ? ぼく?」


「主、だよ! たぶんイエス様?」


 目を合わせて互いにふふっと笑う。

 至は『訳ありシュウくん』が結構好きだ。なんとなくウマが合うのだ。

 至が音楽室にやってくるのは、グランドピアノを弾きたいのはもちろんだが、彼に会いたいからでもあった。





「シュウくん、ぼく給食のゆでたまご食べられなくて隠し持ってきたんだけど食べる?」


「食べる食べる。シュウの喜びはイタルのゆでたまご」



 ランドセルに押し込んだゆでたまごを取り出し渡すと、シュウは立ったままつるりとむいてぱくぱくと二口で食べた。



「ごちそうさまイタル」


 そう言って、窓を開けたまごの殻を外に投げ落とした。


「えっ」


「この下、植え込みだから。肥料になるよ」


「えぇ、ホント……?」


「たぶんね。イタルのお残し、証拠隠滅」




 そう言って優しげに細めたシュウの目元はうっすらと青く染まっている。

 寸足らずのシャツの袖から覗く手首にも、アザがあるように見える。




 4月、初めてシュウと放課後の音楽室で会った日。


「家では眠れないから、音楽室で寝てから帰るんだ、音楽室は床が絨毯だから。邪魔しないから気にしないで」


 シュウはへらりと笑って言ったが、きっと笑えない事情がある。

 が、深くは聞かない。

 知り合って間もない至はそこに踏み込んでいいほど、親しくないはずだ、まだ。




「イタル、もっと弾いて」


「うん」



 窓を閉めたシュウは、その場にあぐらをかいて座り込んだ。

 至は大好きな一曲、子犬のワルツをかっこよく弾いた。

 ぱんっ! と最後の音をキメてシュウを見遣ると、壁に体を預けて眠っていた。











「うーん、まぁミスはないんだけれど」




 長椅子に腰掛けた祖母が首を捻る。

 約一週間、毎日真面目に課題曲に取り組んで、ミスなく仕上げた演奏だったのが。

 もちろんスケールも毎日みっちり30分やった。


「けど?」



 家の中がとても静かだ。

 いつも日曜は母が掃除機をかける音、父が大音量でテレビを見る音などがピアノ部屋までなんとなく聞こえてくるのだが、今日はみどりの練習試合を見に、早朝から両親は揃って出かけていった。

 久しぶりによく晴れ、陽射しが暖かい。きっとみどりは真っ黒に日焼けして帰ってくるだろう。





「強弱も記号通りできてたわね。でもねぇ」



「イマイチ?」


「CDはどこだったかしら。『主よ』が収録されているものを何枚か持っているはずなの。他の人の演奏を、聴いてみると、……」


「ばあちゃん!」


 話の途中で、祖母の頭がぐらりと傾いだ。


「ごめんね、なんだか、目眩が……あぁ、走らないで、大丈夫よいたるちゃん」


 長椅子の肘置きに縋る祖母に駆け寄る。慌てて立ち上がったせいでピアノ椅子を倒してしまい、けたたましい音をたてた。

 そういえば、祖母は膝掛けをしっかりとかけていた。今日はとても暖かいのに。




「ばあちゃん熱あるよ!」




 祖母の額に触れ、その熱さに至は悲鳴をあげた。








 大丈夫よ、とうわ言のように呟いていた祖母がようやくすうっと寝息をたて始めた。

 それを確かめ、至は安堵の息を吐いた。


 至の力では、痩せているとはいえ大人である祖母を部屋まで運ぶことはできそうになかったので、そのままピアノ部屋の長椅子に横たえた。

 そして祖母の部屋のベッドから枕と掛け布団を持ってきて、かけてやった。



 病院に電話しても、誰も出ない。日曜だから休みなのだろう。

 昨夜の父とみどりの会話を思い出せば、みどりの練習試合は相手校でやっているはずだ。だがそれがどこなのか、至は知らなかった。



 途方に暮れ、涙を浮かべ祖母に寄り添うしかない至に、大丈夫よ、と祖母は何度も言ってくれた。

 おかげで少し落ち着いたのか、熱を出した時、母や祖母はおでこを冷やしてくれたな、と思い出し、洗面器に水を入れ運び込み、タオルを濡らし絞って祖母の額にのせた。




「ありがとう。大丈夫よいたるちゃん。ばあちゃんは大丈夫……」



 そう言ってようやく眠りについた。



 もう昼近かった。

 母は至と祖母の分もお弁当を作ってくれたが、きっと中身はみどりのものと同じだ。熱のある祖母は食べられるだろうか。



 起こさないようにそっと部屋を出て、キッチンを漁る。

 おかゆを作るなんてできないし、レトルトはカレーしかない。

 ゼリーはないかと頂き物のお菓子などをしまっている棚を開いて、紙袋に入ったりんごを見つけた。



「りんごなら、食べられるかな?」




 りんごと皿、果物ナイフを手に、至がそうっとピアノ部屋の戸を開くと、祖母はまだ眠っていた。


 りんごを剥くのなんて初めてだ。

 母がクルクルと剥いていくのをイメージして真似してみたが、何度やっても分厚い皮がぼとりと皿に落ちてしまう。

 指をナイフが掠め、ひやりとすることも数回。

 時間をかけて剥いたりんごはいびつでずいぶんと小さく、ところどころ茶色く変色していた。




「まさとちゃん」




 祖母の声にぱっと目をあげると、ぼんやりとした目でこちらを見ていた。



「ばあちゃ」


「まさとちゃんがきてくれたのね」




 祖母は至を見ているのに、至ではない誰かに話しかけていると気づき、胸がざわめく。

 熱で、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。





「うれしいわ。でも、お迎えには、あの人が来てくれると思ったのに。義隆さんには感謝しているわ。でもね、それでも、わたしがさいごに会いたいとねがうのは……」




 続いた誰かの名前は音にならずに途切れ、祖母はまた目を閉じ、眠った。

 義隆、は至が生まれる前に亡くなった祖父の名前。祖母の夫だ。


 祖父より会いたいと願うのは、誰なのだろうか。


「ばあちゃん」


 まさとちゃんとは誰だろう。

 夢でも見ているんだろうか。それとも、やはり自分の看病が悪いせいで祖母がおかしくなってしまったのだろうか。至の心は不安に揺れた。


 りんごの果汁で汚れた手で祖母の額のタオルを取り、濡らして絞って再び額に載せる。


 



「あれ」



 なんだか目の前が点滅して見える。体がやけに思い。ぐらりと世界が回り、そのまま意識を失った。





「至? ただいまー! あれ、お弁当食べてないじゃない。あーっ出しっぱなし! 洗濯物くらいしまってくれてもいいじゃない、ねぇ、ちょっと至ー?」




 どすんどすんと母の足音が近づいてくる。返事をしたいが体は動かず、声が出ない。


「至ーメシ食いにいくぞー」


「ピアノ弾いてるの? あ、やっぱりここだ、ちょっと返事くらい……至? 至! おばあちゃん?!」






 その日、祖母と至は救急車で隣町の総合病院に運ばれた。

 2人揃って高熱を出し、脱水症状を起こしていた。







「あれ? イタルだ。救急車で運ばれたんじゃないの?」



 放課後の音楽室。グランドピアノの下に潜り込んでいたシュウがやってきた至を見て目を丸くする。



「シュウくんなんで知ってるの? 一泊して帰ってきたよ。ねぇなんでそんなとこ入ってるの」


「店で噂聞いたよ、イタルんちの隣の家だっておっさんが息子病気で入院するみたいだって話してた。このカバーの中暗くていいかなって」


 店、というのはシュウの母親のやっているスナックだろう。

 手伝っているの? と聞いていいのか迷い、至は聞かなかった。



「……入院したのはばあちゃん。いっしょに運ばれたんだ。ぼくは脱水起こしただけ。シュウくん、そこぼくも入る」



 ピアノにかけられた黒い布は、専用のカバーではなく暗幕かなにかなのかもしれない。

 寸法が合わず長すぎるその布の中はたしかに眠るのに良さそうだ。


 祖母は肺炎を起こしかけていて、しばらく入院することになった。

 至はとくに悪いところはなく、点滴をしたらすぐ熱が下がった。知恵熱みたいなものだろう、とのことだったので、昨日退院して今日は登校した。とはいえ脱水症状で気を失ったのだ。まだ体がだるかった。




「案外明るいね」


「あっちは短いから」



 2人でグランドピアノの下に潜り込み横になる。

 シュウが長い足で示すところは幕が足りず光が入っている。

 左上の、グランドピアノが一番長い部分だ。

 暗過ぎず、狭くて、なんだかとても居心地がいい。



「子守唄歌ってよイタル」


「ヤダ、ぼく歌下手なんだ……」


「そんなことないよ」




 シュウの言葉に首を捻る。



「ぼく、シュウくんの前で歌ったことあった?」



「校歌の伴奏練習しながら歌ってたよ。あとシュウの喜び? 弾いてる時も歌ってたし」



「あーっそうか、そうだよね伴奏の練習の時いたよね。校歌はともかく『主よ』も? ほんとに?」


「ほんとに。ソラシレドって」


 至は羞恥に悶えた。

 小さい頃、祖母は楽譜を声に出して読ませた。みどりと2人並んで、ドレミで歌ったものだ。

『主よ人の望みの喜びよ』は歌いやすい旋律なので、つい口ずさんでしまったのかもしれない。



「シュウくん歌上手いから、ぼくなんか恥ずかしいんだよ」



 シュウが至に顔を向ける。薄暗い中、間近で視線が交わった。


「イタルこそぼくの歌聞いたことあった?」


「あるよ。校歌斉唱のとき、ぼくの近くにいるじゃん」



 シュウは全校集会の時、いつもピアノのすぐ後ろ、6年2組の一番前にいるのだ。




「あれでぼくの声わかるの?! イタルすごいね!」



「そうかなぁ」


 至は手元を見ていなくても音で指遣いが違うとわかる祖母を知っているので、近くで特別いい声を聞き分けるくらい、普通だと思う。





「じゃあさ、一緒に校歌歌おうよ。イタル伴奏! さんはい!」


 シュウが腕を広げ、指揮のように振る。

 つられて手を上げた至は、空中の鍵盤を弾きながら声を張り上げた。


「じゃじゃーん、じゃじゃーん、じゃーじゃじゃじゃじゃん、はい!」


「さーわやかなかぜーとー」


「じゃじゃん」


「まーぶしいあさーひー」


「じゃじゃん」


「つーどーうわれーらーのー、あは、あはは!」


「えっなんで笑うのシュウくん」


「だってさぁ、じゃじゃんって、そんないっしょけんめい、あはは」


「伴奏って言ったのシュウくんじゃん。がんはったのに!」


「ごめん、あはは!」


「もう! ほんと歌うまいね。その声、女の子がぽーっとなっちゃうと思うよ」



 音程も正確だし、なんとも甘く優しい歌声なのだ。

 歌っているのは校歌だというのに、そばで聴いている至は危なくぽーっとなりそうだった。


「イタルだって。ピアノ弾いてるのかっこいいよ。女子がきゃあきゃあ言ってるよ」


「そうかなぁ?」


 そんな気配感じたことがない。

 クラスの女子はみんなサッカーや野球が上手い男子が好きだと思う。






「ぼく、イタルのピアノ聴きながら寝るの、すごくきもちいいんだ」





 この日、至はシュウと友達になれた気がした。

 もっとシュウと一緒に笑いたいと思った。

 シュウが気持ちよく眠るために、もっといろんな曲を弾きたいと思った。






 しかしその日以来、シュウは音楽室に現れなくなった。

 母親の店が潰れて夜逃げした、と酔った父が話すのを聞いて、シュウがもう町にいないことを知った。








 祖母は入院中でレッスンはない。

 音楽室に行ってもシュウはいない。

 至はピアノへの意欲がぽっきりと折れた。


 練習しないと指が動かなくなるのに、校歌の伴奏以外でピアノに触れないまま、6月が終わろうとしていた。






「いたるちゃん、来てくれたの」




 6月最後の日曜日、至はバスを乗り継いで一人祖母の見舞いにやってきた。

 父は仕事、母はみどりの部活の遠征に着いて行った。



「うん。あの、ばあちゃんごめんね。ぼくが、気がきかなくて。お水をあげなかったせいで」



 祖母の入院は当初の予定より長引いていた。

 自分の看病が悪かったせいだと思っていたが両親の前では言い出せず、やっと今日謝ることができた。


「何を言うの。いたるちゃんはがんばってくれたわ。ばあちゃんがいきなり倒れて不安だったでしょう」


「……うん……」



 俯いた至の頭を、点滴の繋がった腕を伸ばし、優しく撫でてくれた。

 もともと痩せていたのに、更に細くなってしまった。


「練習は? ちゃんとしてる?」


「……ぜんぜん。サボっちゃってた」


「あらあら。もうやめちゃうのかしら?」


「やめない。今日からまたがんばる」


「退院したら聴かせてもらうわよ。楽しみね」



 ぜんぜん弾きたくないのに、至はピアノをやめたいとは思えなかった。

 なら弾くしかない。

 無理にでも弾いて弾いて、指を動かし続けるのだ。意欲が燃えた時に指が錆び付いていたら、後悔するのは至なのだ。









「そうだ、まさとちゃんってだれ?」



 りんごをかじりながら、ふとあの日を思い出し聞く。

 至が剥いてあげようとしたが、危ないからダメとナイフを取り上げた祖母がサッと剥いてくれたのだ。



「誰に聞いたの?」と祖母は瞳を揺らした。



「熱出した時、ばあちゃんがぼくのことまさとちゃんって呼んだんだ」


「まぁ……ごめんなさいね人違いして。そうね、たしかにいたるちゃんはまさとちゃんに似ているわ。いたるちゃんは由美子さん似なのに……血縁ってふしぎね。まさとちゃんはね、ばあちゃんの末の弟よ。たった12歳で死んでしまったの」



 由美子とは母の名前だ。

 至の顔は母によく似ているのに、父の母である祖母の弟にも似ているとは。本当にとてもふしぎだ。


「12歳ってぼくと変わらないよ。もしかして戦争で?」



 社会の授業を思い出す。戦後50年。祖母は70ちょっとだ。祖母の青春は戦時中だったのだといまさらながら気づく。


「いいえ、病気でね。でも戦時中じゃなければ、きっとあの時死ぬことはなかったわ。義隆さんの……じいちゃんのお兄さんは、戦地で亡くなったのよ。いやね。戦争はいや」




 祖母はいつものにこやかな顔で、なんてことないように言った。








 


 スケール、スケール、課題曲。

 祖母が退院するまで、至はみっちり練習した。

 体育はプール授業が始まった。得意ではないが球技よりはマシだ。

 給食のゆでたまごはシュウがいないから、こっそり持ち帰って母に叱られている。

 みどりは夏休みに強化合宿に行くらしい。

 みどりの応援で盛り上がる父に、至も中学生になったら野球をやれとしつこく言われるが、至は中学生になったら将棋部に入ろうと思っている。

 みどりの話によると、中学校は必ず部活に加入しなければいけないが、文化部は吹奏楽部と将棋部と美術部しかないのだそうだ。

 至はピアノと他の楽器を並行できる気がしないし、絵はど下手なので、将棋しか選択肢はないのだ。






 7月半ば、やっと退院した祖母の前で、『主よ、人の望みの喜びよ』を弾いた。




 シュウくんがどこかで元気に歌っていますように。

 たくさんおいしいものを食べていますように。

 いつかまた会えますように。



 あの甘く優しい歌声を思いながら弾いた課題曲は、祖母についに花マルをもらえた。

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