第9章 西行 5
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イグナティオらが早々に割りの良くない取引を成立させたのと時を同じくして、ファルシールとケイヴァーンは
ケイヴァーンは慣れた動きで次々と用事を済ませていく。ケイヴァーンは貴族階級の父を持ち、万の兵を預る将だったとはいえ、元々、母が西方解放奴隷だったために市井で育ってきた。15の時に武者修行のためにメギイトで剣闘士として名を挙げ、17の時には騎士として叙任され、各地への遠征に参戦してきた。故に、何を、何処で、どのように、どのくらい買えば良いかの心得があった。
片やファルシールは、産まれてからすぐに貴族の家々を転々とし、10の時にようやく皇宮に住まった。だが権威の象徴として、権力もなく、ただそこに居るだけであった。12の時からは、儀式や祭礼の監督役などの宮廷の雑務でシャリム国内を行き来してきた。しかしこれと言って自ら市場に寄った経験はない。生粋の宮廷人ではないが、宮廷外での生活は経験がないのである。
「シャイード。私にも何かできる事はないか……」
ファルシールは、丁度、防寒具を買い込んだケイヴァーンに寄っていった。ファルシールは何も知らず、何も出来ない事がもどかしくて仕方なかった。
「アルメス殿、お言葉は嬉しいですが、危険ですから馬から離れないで下さい。私の分の馬もお預かり下さるだけで、十分助かっております」
「シーラーズへ来るまでも、私は皆に頼ってばかりであった。食糧を分けてもらう交渉も、料理も、寝床の用意も、全て皆に任せきりだ」
ファルシールがそう嘆いて深いため息を吐くと、薄く雲が張る寒空に白い吐息が滲んだ。
「イグナティオに身を預けたが、あやつにとって私はついでに過ぎぬ。今のところ、あやつが価値のあると認めているのは与一とそなただけだ」
「アルメス殿、あなたはここに居られるだけで意味のあるお方なのです。どうか私に全てお任せを」
ケイヴァーンはファルシールの言葉に少し驚いて慌てて諭したが、ファルシールの困った表情を見て、やや弱った。君子らしからぬ言動であった。
皇子ファルシールは配下の上に立つ存在であり、守られる存在であるからには、"献身"という言葉の真逆の立場にある。そして、それを当然と疑わないのが、貴族であり皇族である。少なくともケイヴァーンはそれを当たり前だと思っていたので甚だ困った。
「……ではアルメス殿、こうしましょう。次に私は武具を揃えようと思っております。アルメス殿には、ご自身に合う武具をご自分で買って頂きましょう」
「私の分を?」
ファルシールは、思えば自身が持っている武具は皇家の者の証である
「だが武具だけで、しかも自分の分しか買わぬというのは……。確かに私には武具を見る目は無いが……」
それでは役立たずなことは何も変わっていないではないか。ケイヴァーンはファルシールの言葉の続きを想像できたらしく、穏やかに続けた。
「これより先、私や他の者がお側に居ない時、危険な目に遭われた際、ご自身の身を守れない事ほど不都合なことはございません。それに、自身に合った武具を選ぶのもそう簡単な事ではございません」
「そうであるか………」
「私もご助力いたします」
ファルシールはケイヴァーンの提案に少し考えて頷いた。
ファルシールはケイヴァーンの後ろについて市場を奥へ進み、横丁の寂れた路上に武具を売っている露店に立ち寄った。表通りには何軒か武具屋があったが、ケイヴァーンはひと目見ただけで素通りした。皆、立派な銅細工が施されたきらびやかな武具であったが、ケイヴァーンの経験上、そういった武具を売る店の品は、大抵実用に耐えない。
横丁の武具屋は客はおらず、
ケイヴァーンは露店のテントに並べられた武具を見て、片隅の一角を指した。
「アルメス殿、こちらの中からお選びになるのが宜しいでしょう」
「ああ」
ファルシールはケイヴァーンとのやり取りを不思議そうな目線で眺める老店主をよそに、しゃがみこんで色々と見分した。
ファルシールはケイヴァーンのように武の才に恵まれている自信はない。
(私に扱える武具、か……)
ふと店のテントの木の支柱に掛けられていた古い弓が目に入った。水牛の角で作られた複合弓である。
「……弓、あの弓を」
ファルシールがそう言うと、老店主は座ったまま掛け具から弓を外してファルシールに渡した。
試しにファルシールが引いてみると、強すぎて引き開けない。それを見ていた老店主は「ははは」と笑ってテントの裏手からもう1張り、弓を取り出した。
「お客さん。これならお客さんでも引けるじゃろう」
老店主が出してきたのはファルシールが手にしたものよりも反りが少なく、弓の厚さも薄いものであった。ファルシールは弓を受け取ると、また引いた。
今度はするりと開いくことが出来た。弱すぎず、強すぎず、少し引き開くのに力が要るくらいの弓である。
「うん。これなら」
狩りに出た時に何度も使ったことがある弓であれば、ファルシールにも多少は扱える。それに、近接での戦闘には自信はないので、なるべく離れて対峙できる弓なら、自分の身を守るには最適だとファルシールは考えた。
ファルシールは確かめるようにケイヴァーンに振り返ると、ケイヴァーンは静かに頷いた。
「店主殿。これを貰いたい」
「500
ファルシールは少し悩んだ。皇宮では最低でも2000デルバント以上の買い物しかしたことがない。正直な話、物の妥当な値段が分からない。だが、先程、ケイヴァーンは値切りに値切って物を買っていた。取りあえず真似をしてみる。
「高いな。50デルバント」
「それじゃあワシが飢え死んでしまう。450」
「100デルバントは?」
「400デルバントじゃ」
「200デルバント」
「矢5本と弓袋を付けて380デルバントでどうじゃな?」
「……なら380デルバントで」
「決まった」
ファルシールは小気味良いという様に笑った老店主に、懐から銅貨の入った袋を渡した。店主は気前の良い若い客に弓と矢を渡すと「少し待った」と言って、矢が12本入った矢袋を出してきてファルシールに渡した。
「これは?」
「お客さん、これオマケしとくよ。あんた良いとこのお坊ちゃんじゃろ? 次なにか買うときは、最初の言い値の半分まで下がらない品は買わない方が良い」
老店主は片目を瞑ってファルシールにいたずらっぽく笑った。ファルシールは老店主の忠言を理解した。
「店主殿、忠言ありがとう」
ファルシールが弓を買ったあと、ケイヴァーンはケイヴァーンで老店主から砥石と革ヒモを買って馬に荷をまとめた。
去ろうとするファルシールの後ろ姿に、老店主は何か気付いたように声を掛けた。
「あんたら、もしかしてこれから隊商で西へ向かうのかい?」
「そうだが……?」
「なら隊商選びには気をつけなされ。近頃は悪どい儲け方をする商人が居ると聞く」
「そうか。気を付けよう」
「では良い旅を」
「ああ」
老店主は横丁から表通りへ去っていく2人を見送りつつ、自身の定位置へと戻ってぼそぼそと独り言を洩らした。
「あの若い客人が腰に隠して下げておった
老店主は長年の記憶をゆっくりと遡って、思い当たる記憶にハッとした。
「……
店主は2人の素性の秘密を知ってしまったような気がしたが、首を振って忘れる事にした。
空は曇りの度合いを増して、寒さを垂れ込めていた。
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