第8章 ホシュウルの決意 1
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山々の稜線に日が沈んで、辺りに寒気が垂れ込めた。冬を迎えた高原の山々は、生き物の気配を感じさせない静けさと共に谷を吹き抜ける冷たい西風を呼び込んだ。夜が深まるにつれて寒さも強まる。風をしのぐ場所が必要であった。
ミナオより逃れてきた四人は、丘の中腹にあった大樹の倒木の下に作ってある石造りの山小屋を見つけて、そこに取りあえず身を寄せた。
近くの民が使っている共用の山小屋らしく、大小様々な石を積み合わせて立てた壁と、朽ちた巨木の屋根があるのみで、暖炉と子山羊を囲う石の仕切りだけが屋内にある。
ケイヴァーンが手早く暖炉に火を起こして乾いた枝葉を薪べると、小屋の中はじんわりと暖かくなった。
四人はしばらく黙って炎を見つめていた。誰もが疲労困憊していた。追手の脅威も去ったわけではない。
「······腹減ったな」
睡魔と空腹に頭をうとうとさせながら与一が溢した。何かを意図した言葉ではなかったが、沈黙はそれで破られた。
「そなたは口を開けば食事の事しか言わんな」
ファルシールも地面に座り込んで疲れきって項垂れていた。
「申し訳ございません。本当は何かご用意すべきなのですが、非常時にて食料は持ち合わせておりません。お望みでしたら馬を一頭潰しますが······」
ケイヴァーンが察して進言するが、ファルシールはすぐさま首を振って拒んだ。
「良い。そなたの馬以外はすべてイグナティオにやった。これではそなたの馬を潰さねばならぬ。戦士の馬は潰したくない」
「······は」
側で聞いていたイグナティオは騎士と皇子を交互に見てから小さくため息を吐いて、察したように「仕方ないですね······」と溢した。
「私が潰して来ましょう。
床から立ち上がったイグナティオはケイヴァーンに短剣を求めた。
「心配せずとも私には武の心得はございません」
当然ケイヴァーンほ渋ったが、ファルシールが「渡してやってくれ」と許したので渋々渡した。
「なに、逃げやしませんよ。こんな夜更けに谷を下るなんて命がいくつあっても足りませんからね」
「すまぬ」
ファルシールの言葉にイグナティオは少し驚いて止まった。
「······もとは皇子殿下の馬です」
イグナティオは向き直ると外に出た。小屋は3人だけになった。
外で冷たい風の吹く音が聞こえていた。
頃合いを見計らってケイヴァーンが居ずまいを正してファルシールに向いた。真剣な面持ちで口を横一文字に結んでいる。
「ファルシール殿下、お話ししたき事がございます」
その声から、ケイヴァーンがこれから深刻な話を始めようとしていたのは、この場に居る誰もが理解った。ケイヴァーンの視線は一度だけ与一に向いた。
(これ、またあの高官の家みたいなことになるな······)
与一はミナオで高官に邪険にされた事を思い出して、そっと距離を取ろうとした。しかし、隣に座っていたファルシールが与一の服の裾を引いて引き留めた。
「この者は問題ない。申せ」
ファルシールは与一に向くことはなかったが、ケイヴァーンと向き合って静かに言った。静かな声ではあったが、何かの覚悟を聞いてとれた。与一はファルシールの少し後ろで姿勢を正して正座になった。
ケイヴァーンはファルシールと目を合わせて話し出した。
「皇帝陛下が謀反によりご逝去なされました」
「······ああ」
「フェルキエス皇太子殿下、センテシャスフ殿下、お二方はパルソリア平原にて討死なされました」
「············ああ」
「キースヴァルトの軍は既にヘシリア山地を越え、国土を蹂躙しつつあります」
「···············ああ」
「諸侯と組んだ宰相ベルマンによって皇都アキシュバルが奪われました」
「······───ああ······」
「パルソリア平原での戦いにて皇国軍は離散しており、各都市に残る皇国の軍団も、いくつが寝返っているとも知れません」
「──························ああ」
ファルシールが答える声は次第に小さくなっていった。顔はいつの間にか下を向き、膝の上に置かれた手は震えて握られていた。
「──皇宮はどうなった」
「諸侯軍が攻め込む際、都に火を放ちました。私がミナオへ発つまでは皇宮は無事でしたが、それ以降は分かりません。おそらく、官吏や廷臣はことごとく捕らえられるか、あるいは」
「──っ!」
ケイヴァーンが冷たく答えると、ファルシールの顔は悲壮に歪んだ。唇か固く結ばれ、今にも泣き出しそうなほど震えていた。
与一はファルシールが皇宮を気にかける問いをした意味を少し思い出した。
(······奥さんたちのこと)
ミナオへの道中、戦場から逃げ延びて急いで皇都へ帰ろうとしていた訳を尋ねた時、ファルシールは迷いない声で"妻に会うため"と答えた。一国の皇子としては到底考えられない答えである。
国の有事に際して、皇子としての責務を全うしなければならない複雑さが、弱冠16歳の少年が持つ家族に会いたいという歳相応の単純さを覆い隠して、直接妻の事を尋ねない言葉を出させた。
しかし、騎士の答えは無情であった。家族はもう居ない。父も母も兄も、そして妻も、もう居ない。
「ファル、その······」
与一はファルシールの肩にそっと手を置いた。目の前で俯く自分よりも年下の少年がいたたまれなくて仕方なかった。
「殿下におかれましては、これより後、如何なさいますか」
ケイヴァーンの声は変わらなかった。ファルシールに淡々と感情を消して問うた。騎士も皇子の心中を察していた。しかし、
ファルシールはしばらく黙り込んだ。昼間と同じ事であった。誰が皇位を継ぐのか。誰が正統なのか。誰が国の内憂を収め外患を払うのか。ケイヴァーンの問いはその答えを求めるものである。
「······余に
「恐れながら、ファルシール殿下は皇帝陛下の血を引いておられます。姉君がたは嫁がれて皇家を離れております。今、皇国の
「··················余は国を治められぬ」
「殿下であれば必ずや良い臣を得られます」
「············臣下は余を
「立太子なされ、父皇陛下の仇を討たれれば、自ずと臣下は付き従いましょう」
「そして、傀儡にされ、道具にされ、弑逆されるのか」
「······」
ケイヴァーンはファルシールの強い声に押し黙った。父、皇帝は腹心のベルマンに裏切られたのである。
皇子は今16歳、成人となってはいるものの、長く中央から離れているため政を動かす力がない。立身を企む貴族たちが皇権ほしさに近寄って、良いように若き君主を操る事は目に見えていた。
「······余は貴族が信じられぬ。忠義が、信じられぬ」
だが同時に、権力の在るところでは仕方のない事でもある。宮廷とはそういうものである。その中を生きる強さの無い者は、即座に磨り潰されてきた。
ケイヴァーンは逃れ続ける皇子に少し言い淀みながら畳みかけた。
「殿下······民の事をお考えください。諸侯たちはアキシュバルを占拠し、民を虐殺しました。自領なれば何もしないでも、広大な皇国領で略奪を始めれば、どれほどの民が命を奪われ、家族を奪われるか計り知れません。それに諸侯らはキースヴァルトを呼び込んでパルソリア平原での戦を手引きしたと思われます。もしかすれば国土をいくらか譲り渡す密約があるやも知れません。国土が散れば、そこに生きるシャリムの民はどうなりましょう」
「······卑怯だ」
ファルシールがそう非力に溢すと、ケイヴァーンは閉口した。いま自分が、ひとりの少年に重責を負うことを強いていることに引け目を感じないわけではなかった。しかし、それがシャリム皇家に生まれた者の責ではないのか。そう思わずにはいられないのも自覚していた。
長い沈黙があった。互いに向かい、しかし目を合わせず、俯いていた。焚き火の枝がパチパチと弾ける音だけが流れ、3人の影が小屋の中に揺らめいた。
「もう入ってよろしいですかな。このままだと私が凍えてしまいます」
しばらくしてイグナティオが山小屋の戸板を軽く叩いて姿を見せた。片手に大きな肉塊を持って、寒そうに立っている。口調からして、話を一部聞いていたようであった。
「余った分は天井に掛けて燻しておきます」
そう言って小屋の囲炉裏の上に細かくした肉を掛けた。
「近くに良い野草もありましたので摘んでおきました。雪に埋もれていなかったのが幸いです」
イグナティオはわざと揚々と話していた。それから俯いて動かない騎士と皇子を見渡して、与一に目配せをした。
「(お、俺······?!)」
イグナティオは咳払いをした。与一はそれに急かされて2人に割って入った。
「ファルシールさんや······飯にしようぜ! 飯に! 俺さ馬肉なんて初めて食うんだよな~! もう走ったり馬乗ってしがみついたり、疲れたったらありゃしないぜ」
「「······」」
ファルシールとケイヴァーンは、与一とイグナティオのあからさまに気を遣っている態度に少し引け目を感じた。
「ケイヴァーン······さん、でしたよね······王様とか民とかの話は、今すぐに答えを出さないといけない事なんですかね·····」
ケイヴァーンの視線が与一に向いた。
「いや、ほら! もう少し考える時間があった方が良い答えが出るっていうか、なんと言うか······。おっきな話ですし!」
ケイヴァーンは与一の言葉にハッとすると、即座にファルシールに向いて勢いよく頭を下げた。地面に額が付いて、音を立てた。
「殿下、お許しを。私は焦っておりました。このような大事を急かすように詰め寄るなど······!」
「ケ、ケイヴァーン······!? 頭を上げよ!! そなたは何も悪くない!」
ファルシールは慌ててケイヴァーンを引き起こそうとしたが、力強く下げられた頭は上がらなかった。
「私はしばらく頭を冷やして参ります」
ケイヴァーンはそう言うと、さっと立ち上がって小屋を出て行ってしまった。
「······」
小屋は再び3人になった。
「なんと息の詰まる。あの騎士殿が出られるだけで、この小屋がどれほど大きく感じられることか」
イグナティオはそう言いながら側にあった手頃な平たい石を服で磨いて囲炉裏に投げ込んだ。
「······そなたはケイヴァーンが嫌いか?」
ファルシールは囲炉裏に向いた。
「包み隠さず申し上げますと、騎士が
「······犬か」
「真に受けないで下さい」
イグナティオは熱した石に
「イグナティオは余をどう思う」
イグナティオはファルシールの唐突な問いに目を白黒させて一瞬だけ止まった。
「······なぜ私に訊くのです」
イグナティオには訳が分からなかった。自分を売った相手に君たり得るかを尋ねるなど、正気の沙汰ではない。
「そなたは先程の話を聞いておったのであろう。その上でそなたは割って入って止めた。そなたにしては思いがけない事だった」
小屋の外に聞こえていた会話は、ネルウィオスの商人であるイグナティオにとって心底どうでも良いと思える話であったが、なぜか皇子に助け舟を出そうと思わせた。損か得かで言えば、払い出すばかりで損にしかならない言動である。
「それゆえ聞いてみたかった。今のそなたは何を思っているかを」
イグナティオはファルシールの言葉に内心の自覚しない所を突かれたような気がした。
二度目である。イーディディイールで皇子を売り飛ばした時にも"信頼する"と謂わんばかりの嫌なほど真っ直ぐな目で見つめられて逃げるようにその場を去った。今もそうであった。皇子の無自覚な信頼ともとれる言葉は、イグナティオを脅かした。
「わたくしは一介の商人でございます。私よりもご友人に訊かれるのが宜しいかと」
イグナティオはそう言って肉を焼いていた木の枝で与一を指した。
「へ?」
突然振られた与一はあたふたとしながら頭を捻った。
「ええと······俺はさ、ファルシールが王様って言われても信じるな」
「何故だ」
「だってさ、王様とかって偉そうにふんぞり返ってるより、なんか国民とかに優しい人の方が良いじゃんか。そこんところさ、ファルシールは迷いないと思うんだよね」
「······」
与一はホスロイでのことを思い出していた。
「初めて出会った森の中にさ、町があっただろ? 思い出したくないくらい怖い光景だったけど、あそこを通り抜ける時にファルシールは怒ってたじゃん? そんで何とかしたいって言ったじゃんか。なんか、それがすっごい王子様だなぁというか、国民のこと考えてるんだなぁ、って思ったんだよな」
「······惨殺された民を見れば誰でもやるせないし許せないであろう······」
「んんん······。俺は気持ち悪かったし、関わりたくないって思ったな。ファルシールはそこで怒ったんだよ。それって責任感じてたって事だろ?」
「······戦で負けて敵を森に入れてしまった。だからあの惨劇が起こった。皇家に名を連ねる者として、民を守る義務を守れなかった。私は戦で何の役にも立っていなかった。それがやるせなかっただけだ······」
「それって王様に成るのと、人が怖いってのに関係ないじゃんか」
「······え?」
「ファルシールは国民を守りたいしその責任を感じてる。それって王様になるのに十分な理由じゃない? 人が怖いのはさ全く別というか何と言うか」
ファルシールは与一を見つめてぽかんと口を開けていた。
「わたくしはご友人の素晴らしい意見に同意ですな。貴族を信じられぬのと、
イグナティオは自分が他人の節介をやいているのに内心驚いていた。しかし皇子を前にして、何か言わねばならないと思えた。
イグナティオは焼き終わった肉を木の枝に刺してファルシールに渡した。
「あなたが皇帝となるかどうかはわたくしに何の関係もございませんが、あなたが民を導く資格をお持ちなのは忘れてはならぬと思いますよ」
ファルシールはゆっくりとイグナティオの渡した串を受け取った。軍馬の固い肉ではあったが、匂いは香ばしい。
「食おう食おう! 食って寝よう! 細かいことは明日また考えたら良い!」
与一も焼き終わった肉をイグナティオから受け取った。
「いただきます」
夜の深まりはますます増したが、山小屋に灯る焚き火から漏れ出た明かりは、微かな温かさを感じさせた。
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