第6章 雲厚く日未だ見えず 3

   3


 扉の前で兵士が止まると、扉が開けられた。


「与一、余から離れるでないぞ」


 入り際に放ったその声も、やはり微かに震えている。


「だ、大丈夫......?」


「ではない」


 ファルシールは与一の気遣いに素っ気なく即答して、努めて落ち着いた足取りで部屋へと入っていった。


(なに? 大丈夫じゃない? 何が??)


 与一も続いて入った。


 部屋の中央にはひとりの男がたっていた。遊牧民風の服シャリマーニを着て、その上からひょうの毛皮を羽織っている背の高い男で、精悍そうな顔つきに力強い笑みを浮かべている。


(おやじの知り合いの営業部の人みたいだ......)


「殿下! ご無事でのご帰還、大変嬉しゅうございます!!」


 男は跪いて頭を垂れた。


「......おもてを上げよ、ファラーマルズ卿」


 ファルシールがそう発すると、ゆっくりと立ち上がる。


「パルソリア平原での戦のこと、私も聞き及んでおります。殿下が無事でございますれば、皇国の繁栄は未だに健在といえるでありましょう」


 ファラーマルズと呼ばれた男は、自信に満ちた表情で言うと、ファルシールに椅子を勧めた。アフマザード=ファラーマルズ卿。国都を支えるミナオの守護と管理を任された高官で、長年宮廷に仕え、皇帝からの信も厚い忠臣のひとりである。


 ファルシールが上座の椅子に座ったので、与一も座ろうとしたが、ファラーマルズはきつく睨んで皇子に問うた。


「この者は?」


「......余の友人だ。ここへ来る道中、何かと助けてもらった。ヨイチという」


 ファルシールは与一をひと目見て、賢者であるかもしれないことを伏せる事にした。しかし当の与一は賢者の事をすっかり忘れていた。


「ヨイチ、そこへ座ると良い」


 ファルシールは自分の横の下座よりの椅子に座るよう誘導した。ファラーマルズは与一を注意深く観察すると、興味を持ったふりをして再び皇子に向いた。


(うわ、怖......。平民とかそういう身分系のアレか.....?)


 与一はファルシールの言うとおりに座っておいた。それを見てから、ファルシールはミナオに着いてから緩まなかった険しい顔のままファラーマルズに訊いた。


「......ファラーマルズ卿、余はいくつかそなたに尋ねたいことがある」


「わたくしの知り得ます限りお答えしましょう」


 いつの間にか部屋に居た給仕の者がファルシールと与一に金杯、ファラーマルズに銀杯を持ってきてうやうやしく葡萄酒ブーダグを注ぐと、ファラーマルズは手を払って退出させた。


 ファルシールはまずパルソリア平原での戦のことを訊いた。ファラーマルズはそれに言葉を選びながら答えていった。コムを含めた万騎将11名が討ち取られたこと、キースヴァルトがホスロイを拠点に峠越えを行っていて2日後に皇都へと迫ること、その峠越えの軍団の先頭に皇太子フェルキエスと第3皇子センテシャスフの首が掲げられていたこと。聞き終わって、ファルシールは戦慄のあまり椅子の肘掛けを強く握りしめていたことに気付いた。


 与一は生々しい話が、もはや自らの想像を越える現実味を帯び、すべて実際に起きている事だと知って呆然とした。


(まじか......。そんなの時代ドラマとかで見るような内容じゃんか......)


 また、ファラーマルズの話では、皇都へ来るまでの間にも糧食を求めて通りすがりの村むらで殺戮と掠奪が行われるという。ホスロイで見たおぞましい光景が与一の脳裏をちらついた。


 ファルシールは傍目からも分かるくらいに落胆していた。


「兄上たちが......」


「誠に無念なことながら」


 言い終わって、応接間には沈黙が流れた。暖炉に燃える薪の炎に弾ける音だけが響いていた。


 その沈黙を最初に破ったのファラーマルズの声だった。


「しかし今、殿下は継承権第一位であらせられます。立太子の儀を行えば、正式に皇太子位を戴くことになりましょう」


 ファラーマルズの言葉は熱を帯びた。その声音の強かさに、ファルシールはファラーマルズの目を真っ直ぐに覗き込んだ。この目をファルシールはよく知っている。


「ファラーマルズ卿。お主の意図するところは、余が皇太子となることであろう。だが......」


 ファルシールは目を反らした。


「......余には出来ぬ」


 そう訊いたファラーマルズの顔はにわかに険しくなった。


「なぜです」


 声音も先程とは変わって重く潜められていた。


「......出来ぬものは出来ぬ」


「なぜです!」


 ファラーマルズは勢いよく立ち上がると、机を叩いてファルシールに詰め寄った。与一はあまりの気迫に思わず「ひっ」と小さな悲鳴を漏らした。


「余は、人の上に立てぬ」


「そのような事はございますまい!! 仮にもシャリム皇国の由緒正しき第6皇子殿下であらせられるのですぞ!」


 ファラーマルズが強く言った言葉を聞いて、ファルシールは重く口を開けた。


「......余は、人が怖い、のだ......」


「なん、ですと......?」


 ファラーマルズはその言葉に唖然とした。


 ファルシールは続けた。


「余は幼い頃より貴族の家を転々とした。そこで己の立身出世のために権謀術数を巡らせ、騙し、貶め合う貴族らを間近で見てきた。時には余を擁したい貴族らが相争って一族を滅ぼしたこともあった。あのような者たちにとって、余は果たして仕えるべきくんであったか──断じてなかった。......余は余に仕えると申した者たちを信じられぬ......だからたとえ心からの忠誠を捧げられても余はそれに応えられぬ......」


 ファラーマルズは皇子の言葉に力が抜けるように肩を落とした。


 与一はファルシールの告白を聞いて、この館に入る頃からおかしかったファルシールの挙動に得心がいった。皇子は怖かったのだ。貴族や兵士たちを前にすると畏縮して震えさえするほどに。


(対人恐怖症ってやつか......王子みたいな大勢と絡む立場なら、なおさらキツいんだろう......)


 ファラーマルズは与一の沈黙を横に、頭を振って言い直した。


「......いや、この際、殿下の生い立ちがどうであれ関係ございませぬ! 今あなたがひと言、皇太子として立つ、と仰ってくだされば、皇帝の意思に関係なく必ずやそれを叶えることが出来ましょう!」


 ファラーマルズは唇を噛み締めながら耐えるように皇子を睨んだ。


「な、何を言って──」


 その時皇子は異変に気付いた。机の上に用意された葡萄酒の入った杯が、ファラーマルズの前にある銀杯だけ黒く汚れていたのだ。同時にファラーマルズが葡萄酒に手を付けていないことに思い当たった。銀の杯が黒く変色するのは、その杯に毒が盛られている証であった。


「ファラーマルズ卿、皇太子は皇帝陛下の指名で立つ。それを無しにどう儀を執り行うというのだ」


 ファルシールは懐の短剣アキナカに手を伸ばした。思考は良くない事を考える方向へ加速した。見覚えのある格好に思わず少し安堵して、見るべきものを見失っていた。皇帝の権威が絶対の皇国において、その意を介さずまつりごとると言った真意に、ファルシールは今になってようやく気付いた。


「皇帝の権威はもはや存在しない」


「......まさか」


「今朝方、諸侯軍がアキシュバルを陥落させました」


 ファルシールは椅子から飛び上がった。


「皇帝陛下は......父上は......!!」


「今頃はアキシュバルの城門に御首級みしるしがさらされております」


「......っ!」


 ファルシールの顔にはにわかに汗が滲んだ。ミナオに溢れる諸侯の軍旗は、アキシュバルを攻め落とすために集まった諸侯のものであったのだ。同時に、目の前にいるファラーマルズがそれに加担していることが確信に変わった。


 与一は大人しく座っていたが、急転した状況にしどろもどろした。


(な、なに、なに、なに、なに?! どういうこと)


 ファラーマルズは立ち上がって入口を遮るように立った。


「ファルシール殿下、わたくしはあなたに最後の望みを懸けました。あなたが皇太子となって皇位をお継ぎになられると仰ってくだされば、わたくしは全身全霊を以て殿下を擁したてまつり、反乱軍と対峙する覚悟でおりました......」


 ファラーマルズの声は抑えているように震えていた。殺されているはずの皇子の1人が偶然生き延びて、臣下ひとり連れずに自らの前に現れた時、ファラーマルズは一縷の望みと野望を見出だした。自らの擁立した皇太子が戴冠した時、最も近くで誇り高く佇み、権勢を振るえると思えたからである。そうであるならば、今からでも諸侯と渡り合っても良かったのだ。ファラーマルズはそれだけの兵士と才を有していると自覚していた。しかし、長年仕えた皇家の最後の灯火ともしびは、王たり得ないと自ら告げたのだった。


「ベルマン殿の仰った通り、お前には王たる器は無かった!! 衛兵!!」


 ファラーマルズの声は、部屋の至るところに隠れていた兵士たちを呼び出した。広かった応接間は10人くらいの兵士たちで一気に手狭になる。兵士たちが腰の剣を抜き取ると、白刃がファルシールたちの周りに並び立った。


「その臆病な子羊ハマヌフスどもを引っ捕らえよ」


「......っ!!」


 さすがの与一も状況が最悪なことは理解出来た。


「ファル! これヤバいって!!」


 喚く与一をよそにファルシールは短剣の柄に手を掛けたまま固まっていた。


「また?! ねえ、ちょっとぉ!? ファルシールさんや!」


 与一は動かないファルシールを見かねて、無理やり腕を引いた。


「うわ!?」


「動けってば!」


 2人は徐々に迫る兵士たちに壁際へと追い詰められた。与一はファルシールを引っ張って壁の窓際まで寄った。


(ヤバいヤバいヤバいヤバい。これマジもんのヤバさなんですが!? どうするよどうするよ!?)


 与一は必要以上に辺りを見回した。


 幸いにもこの邸宅は平屋で、窓から逃げ出すのに苦労は無いが、あまりに兵士たちとの距離が近すぎて、隙が生まれない様子だった。そこで、ふと自分の横にあった暖炉に目が行った。


(俺ってば、なんで"火"ばっかに目が行くんだろうな......こっちの法律とか知らないけど、どうとでもなれ!!)


 与一は暖炉の脇に置いてあった火箸を取ると、暖炉のなかで燃えていた薪を火箸をひと振りして掻き出した。


 大理石の床には細やかな刺繍が施された羊毛の絨毯が敷かれている。暖炉から放り出された薪は火の粉を散らしてその絨毯の上を転がると、次の瞬間には絨毯の表面を燃やして瞬く間に炎を拡げた。


「まずい、火だ! 火を消せ!!」


 兵士たちは慌てて足で火を消そうとするが、十人程度で消せるほど部屋全面に敷かれた絨毯は小さくない。みるみるうちに壁に掛けてあるタペストリーや調度品に燃え移った。


(やっべ、ちょっとやり過ぎた......けど)


「今のうちだ! 早く逃げるぞ!!」


「お、おい、押すな! うわっ!」


 与一はファルシールを腰の高さほどにあった組子細工の窓の扉を開けて無理やり押し出すと、後に続いて窓を乗り越えた。


「あやつら......っ!! 追え!!」


「し、しかし火が......!」


 ファラーマルズが命令するが、兵士たちは窓への行く手を阻む炎にたじろいでいた。


「増援を呼べば良いであろうが! 火はこちらで消しとめておくゆえ、お前たちは回り込んでそのまま追え! 皇子を逃がしてはならぬ! 早く行け!!」


「は!」


 兵士たちはファラーマルズの命を聞いて、すぐさま応接間を飛び出した。


 兵士たちが追い始めた時には、与一とファルシールは中庭を突っ切ってそのまま外に出ようとしていた。


「乱雑なやつだなそなたは!」


 ファルシールは無理やり押し出されて頭を打ったので文句を言いながら走ってついてきていた。


「うるせぇ! 毎度毎度固まるんじゃねえよ!!」


「......すまぬ」


 与一たちは館を囲む回廊を抜け、出口の扉を飛び出して町の中に出た。


 町の中には相変わらず人通りはない。しかし代わりに諸侯の兵士たちが居る。


「第6皇子が逃げた!! 皇子が逃げたぞぉっ!!」


 ファラーマルズの追っ手の兵士たちが町中に大声で叫び散らして、無関心だった諸侯の兵士も追跡に加わり始めた。


「路地裏に!」


 与一はすぐさま路地裏に入った。ファルシールも続く。日干しレンガで組まれた壁が入り組んだ狭い道を作り、与一たちの姿をあっという間に隠した。


「取りあえず荷馬車のとこまで戻ろう!」


「わかった」


 二人の後ろからは兵士たちが槍を持って猛烈に追い上げる。


「「待て!!」」


「待てって言われて止まる盗人ぬすっとがあるもんかってんだ!」


「我らは盗人ではないぞ!」


 与一たちは駐めてきた荷馬車に駆けた。路地裏から路地裏へ、大通りを横切って走り、途中、手狭な市場バザールの真ん中に出た。家と家の間に天幕を張って砂避けにしていて、雪雲が垂れ込める空と相まって市場バザール全体が暗くなっている。


退かんか!!」


 兵士たちは市場の両脇に並んだ店の品々を引っ掻けて散らした。赤茄子トマトや瓜が地べたに転がって、兵士たちがそれを踏みつけて潰れる。


「粗すぎんだろ! もっと丁寧に走れよぉ!!」


「追手が手荒でない事があるか!」


 与一は興奮に任せて走りながら、愚痴を喚いて回った。やりきれないのである。


(もう散々だ! こっちに来てから追い回されたり、捕まったり、殺されかけたり!! 帰る! 絶対に帰る!! 何とかして帰ってやるからな!!)


 与一とファルシールは市場バザールを必死に走り続けるが、やがて市場バザールの通りは大通りへと繋がって、障害となるものが無くなってしまった。


(まずい! 隠れられるところが無くなる!)


 与一は辺りを見回したが、脇道に逸れるには露店を踏み越えなければならない。しかし粗いことを避けたがる日本人のさがが働いて、与一は脇道へと踏み出せずにそのまま大通りに出ようとしていた。大通りに追手の兵士は居なかったが、代わりに誰もいない道の端を旅人らしい男二人が歩いて来ていた。


「んがっ!」


「......!」


 与一は気づかずに、曲がり角から歩いてきていたその男の一人と正面から激突した。ファルシールも制止が効かずに与一の背中にぶつかって、2人して跳ね返されて地面に尻餅を突いて転んだ。


「大丈夫か」


 少年二人が玉突きにぶつかってもびくともしないでその場に留まっていた男は、落ち着いた声で与一に手を差し伸べた。与一よりも頭一つ以上背が高く体躯のがっちりとした若い男で、与一たちと同様に外套で顔を覆っている。


(いってぇ......だけど......)


「すいませんすいません、急いでますんで、んじゃ!!」


「待て」


 与一が手を掴まずに立ち上がろうとすると、男は急に大きな身体を沈めてしゃがみ、与一の後ろで転げていたファルシールに寄った。


「もしや......殿下? ファルシール殿下、ファルシール殿下であらせられますか?!」


 男は先程までの平静が嘘のように、今にも跳ね上がりそうな嬉々とした声音で訊くと、外套を捲って顔を出し、さらにファルシールへと詰め寄った。


 薄く金色がかった髪をファルシールと同じように後ろで軽く結んだ、武骨そうな眉目の整った顔が曇天の下に晒された。


(なんだ?? なんだ??? 誰だこのえげつない長身イケメンは!!?)


 ファルシールは束の間、状況を飲み込めずにきょとんとしていたが、すぐに思い出したように声を出した。


「......ケイヴァーン? ケイヴァーンか!」


「はい! ダレイマーニの息子、ケイヴァーン=ファーシでございます!! 殿下をお探し申し上げておりました!」


 与一の横でケイヴァーンと名乗った若い男は、ファルシールの手をそっと掴んで引き起こした。


(え?? まさかの知り合い??)


 二人は思わぬ再会に興奮しているようであった。


「......よもや本当に居るとは」


 一方、跪いた若い男の後ろに立っていたもう一人の男は、苦々しそうな口調で与一らから顔を逸らした。


「あ」


「そなた......っ!」


 与一とファルシールが、顔を逸らした男が見知った者だと気づくのに、さほどの時間は要らなかった。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る