ゔぁんぱいあ(2000字の物語)

シャルロット

ゔぁんぱいあ

 目覚ましも鳴らない。窓の外も暗い。

 それでもこの時間に目が覚めるのは、多分それがあたしの体に染み付いているからだ。


 男の家に転がり込んだ母親が明け方に帰ってくる音。進学と同時に家を出てから、その音に気持ち悪さを覚えることもなくなったけど、時々何もなくても目が覚める癖は結局治りそうにない。


 隣で眠る彼を起こさないように、あたしはそっとベッドから滑り降りる。布団から出ると、この時期の朝は裸でいるには少し寒い。床に置かれた服を、あたしは音を立てないように素早く拾い上げる。


 皺にならないように軽く畳まれたワンピースと、その中に隠すように包まれている下着。初めて彼と肌を重ねたときから変わらない彼の癖だった。初めてのときはあたしが緊張していたから、彼が服を脱がせながらそんな気遣いまでしていたことにも気づかなかった。あたしに触れる手はいつも優しくて。抱きしめてくれる彼の温度があたしの体を包み込む、あの時間が何よりも好きだった。


 服を着終えてからベッドを振り返る。彼はまだ寝ている。その寝顔が愛らしくて仕方がない。何でも完璧な彼は、でもあたしと違って唯一朝だけが弱い。少し頬をつついたり頭を撫でたりしたくらいじゃ起きたりしない。そんな彼の寝坊顔をいつまでも眺めているのがあたしの幸せだった。


 でもね、それももう今日で終わり。


 なるべくがさごそと音がしないように、わざと小さい鞄で昨日は来た。それまでに、彼の家に置いていた小物や上着も少しずつ持ち帰っていた。不審がられないように、最後まで片付けられなかった歯ブラシや小物たちだけを、小さな鞄に押し込む。


 あたしが居た痕跡はすべて消した。それを確かめてから、合鍵を鞄の横のポケットから取り出す。それと同時に小さな紙がひらひらと舞い落ちた。100円ショップとかで売っていそうな手のひらサイズのメッセージカード。見た瞬間に思い出した。


 いつのことだったか、彼と喧嘩してアパートを飛び出したことがある。


『あたしのことなんてきらいなんでしょ。ほっといてよ』


それだけLINEに打ち込んでスマホの電源すらも切った。財布はひっつかんできたけど、自分の家の鍵を彼の部屋に置きっぱなしだったから帰ることも出来なくて、河辺のベンチに座っていた。


 それなのに、10分もせずに彼はあたしを見つけ出した。怒りもせず呆れもせず、ただ一言「こんなとこじゃ寒いよ」とだけ言ってあたしの手を握ると、そっと立ち上がらせた。「帰ろう」。その言葉にあたしはうなずくことしか出来なかった。


 その日あたしの打ち明け話を全部受け止めてくれて、仲直りして家に帰ってから、あたしの鞄の中にこのメッセージカードがこっそり入れられていたことに気づいた。


『どんなに嘘をついてもいいよ。僕が必ず見破ってみせる』


そう書かれていた。


 まだ起きる気配のない彼の傍に歩み寄って、あたしはそっと枕元に膝をつく。そうだった、あなたはいつも優しかった。その優しさに甘えて、すがって、あたしはあなたがくれる愛情を限界まで欲しがった。


 父親は母とあたしを捨てて出ていった。母もあたしより男をとった。そんな父も母も、祖父母たちから見放されて、そしてその子どもであるあたしは親族の恥だと言わんばかりに忌み嫌われた。


 あたしは愛されたかっただけ。誰かの温もりが欲しかっただけ。


 そしてそれを、あなたは存分にあたしに与えてくれた。


 だからもうあたしはいなくなるね。あなたが擦り切れてしまう前に。あたしなんかのために、人生を無駄にしないように。孤独だったあたしの人生を丸々包み込めるほどの深い愛情を、あたしよりもっとあなたを幸せに出来る誰かのために使えるように。


 こんな方法しか思いつかないバカでごめんなさい。


 最後まで自分勝手な女でごめんなさい。


 もう二度と会えないあなたに、最後に一度だけキスがしたかった。少し口を開けたまま寝ているあなた。でもあたしは唇じゃなくて、首元にキスをした。キスマークは残せないけど。


 あなたの愛情という血を吸えなくなったら、あたしは死ぬのかもしれないね。


 それでも良いよ。幸せだったから。本当に幸せだったから。


「ごめんね」


あたしは立ち上がった。そしてドアノブを回してゆっくりとドアを開ける。音を立てずにドアをしめ鍵をかける。合鍵はドアポストから玄関へと落とした。カランと床に鍵が当たる音が、夜明け前のアパートの廊下に響いた気がした。


―――あたし、ヴァンパイア。恩知らずのゔぁんぱいあ。

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