小説「壁画」
有原野分
壁画
ある科学者のある声明が、世界を百八十度変えてしまった。我々は科学の進歩に伴い、太古の絵空事を実現させてきた文明人である事は皆も承知の事であろう。それが大なり小なり、道徳やら人道やらを混ぜ返して来た事もご存じの通りである。その声明が発表された時には、とうとう人類も末期なのだと、誰ともならず思ったであろう。
遥か昔、まだ我々の先祖がより原始に近かった頃の科学は童話の世界の中で懐かしくもあり、少し照れも混じった微笑の発展を繰り返していた。0の発見、電子構造の検知、核エネルギーの介入、通信手段の革命、宇宙進出、DNAの解明……。もはや母体を介さない我々ですら、母の温もりが伝わってくる様な心地良いお伽の世界であった。あぁ、平和である。
そんな中、東超大陸民族(昔で言うロシア)生まれのB・M・ジョブス氏の声明が上がった。それは次の通りである。
「一回一錠、不老不死変態剤。これを飲めば誰でも今すぐ不老不死!」
――不老不死!人々は皆、度肝を抜かれてしまった。サイボーグ化に伴い人々の寿命は昔を遥かに凌いではいたが、やはり老いと死は避けられなかった。それは瞬間に近い速さで全人類の頭に衝撃を与えた。ついに人類は最後の壁を乗り越えたのだ!と。世界は今、それに夢中だったのである。
後日、世界の最たる権威の長老達がサミットを開いたのは言うまでもない。倫理に反するだとか、不死は果たして人間と呼べるのかなど、――この時代の科学に対して、我々はあまりにも思考が追いついていなかったのである。結論はその日中に発表された。
「とりあえず、不死になりたい人は、なってみたら良いんじゃないかなぁ」と力の無い声を筆頭に人類は新たな扉を開けたのであった。
その頃、当開発者のB・M・ジョブス氏は次の様な会見を開いていた。
「えー、我々は、あー、…やり遂げました!えー、この薬は勿論人類の為に、無償で配布したいと思っておりますが、一つ副作用について述べておきます。あー、特に無し!しいて言えば死なない事、老いない事、つまりが成長が止まると云う事であります。赤ん坊に投与すれば、永久に赤ん坊と云う事です。その点だけ、ふまえてご使用くださいまし」
肉体の絶頂期の永遠の輝き、死という恐怖からの解放、人々は人間の叡智をここに見たのであった。しかし、古代の人々がこれをみたらなんと言うであろうか…。
× × ×
不老不死変態剤が開発されてから数十世紀が流れた頃、人間の時間は全く止まっていた。時間が流れているのか、いないのかの判断はこれ見よがしに移りゆく自然の中でしか認識出来なくなってしまった。人類の文明、科学、思考は完全に停止していた。いや、むしろ目に見えるように退化していったのである。人々はもはや戻る処まで戻り、ただ空を眺めていた。
生きる事の無意味さ、あらゆる欲の停止、子孫を残すと云う尤もな初期本能も人々は忘れてしまっていた。ただ思う事は皆一つ、――もう死にたい。
世界の最たる権威の長老達は、もう何世紀もこの問題について議論を繰り返していた。
「我々はどうすればいい?我々はなぜ生きているんだ?」その中にはB・M・ジョブス氏の姿もあった。
「分かりません。ただ死ぬ事はできないでしょう、私の薬は完璧でしたから…」
「なんと無責任な!あれを見よ!赤ん坊には与えるなと、言っておったではないか!あの思考の欠片も無い純粋無垢な赤子はただただ、泣いているだけだ!もとに戻す薬は出来なんだか!」
「返す言葉もございませぬ、薬はどうしても出来ませんでした。完璧な科学は否定出来なかったのです。ただただその代わりといってはあれですが、こんな物ならできました、――無機物変態剤、とでも名付けましょうか。我々はもう永遠に死ぬ事は出来ないのです。しかし、無機物となり、――まあ、岩と同じになるわけですな…」
「…もう、それしかなさそうだな…」
長老のぐったりとしたその一声で、無機物変態剤は世界中の人々に配布された。
家族と一緒に飲む者、海の底に沈んで行く者、また自然の中に帰る者、皆が思い思いの場所で薬を飲み、そして我が身が自然に溶け込む事をせつに願った。
その中のごく一部の人間は、このような終焉がもう二度と来ない事を願い、自らを洞穴などに隠し、後世の――次に来たる知恵あるものの為に戒めとなる事を望んだ。いつかこれを発見しうる者に淡い希望をかけ、静かに埋もれていったのである。
小説「壁画」 有原野分 @yujiarihara
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