とわにさよなら

 かつて、習ったことがある。

 所謂いわゆるテーブルマジック。繋がっていたはずの二つの輪ゴムが、するりと抜けてわかれてしまう。

 だけどそれは錯覚だ。輪ゴムはもともと二つにわかれていて、ただ、繋がっていたように見えただけ。

 二つの輪は交わることはない。

 メビウスの輪みたいに、一体にはなれないのだ。


 そんなことをふと、思い出した。

 病室の、ベッドの横で。

 ベッドは空である。見舞いに来たら、丁度リハビリ中だと言う。

 立派な個室の病室でひとり。

 窓の外はこれでもかとばかりに晴れていて、春になったらここから桜も見えるのだろう。

 無論、それまでに退院しているに超したことはない。

 部屋の主はなかなか戻ってこない。

 自分で持ってきたフルーツバスケットからリンゴを手に取り、もてあそぶ。

 いとくか。

 剥き終わっても帰ってこなかったら、一人で食うか。

 そう思って持参した果物ナイフを取り出したとき、病室の扉が開いた。


「あれ?」

 人の顔を見るなり、第一声がそれか。

 倒れてから、初めて会うのに。

 そう思いながらも、こちらも見るのは元気なときぶりなわけで、思ったよりも血色の良い顔色に安堵あんどした。

 安心と不満の入り交じった表情――結果的には無表情で首を傾げる。

 するとみるみる向こうの表情が明るくなって、ぱあっ、と音がしそうなほどに、破顔はがんした。

「来てくれたの?」

「来たよ」

 そんな馬鹿みたいな言葉を交わすと、なんだか前と何も変わっていなくて、そこで心底ほっとした。それで、ああ、心配してたんだな、と気付いた。

「……刺しに来たの?」

「は?」

 視線の先を辿れば、手に持った果物ナイフ。

 思わず笑うと、いたずらっぽい笑顔を見せた。

 それを見て、なぜだかひどく、切なくなった。


 リンゴを剥いてやりながら、ぽつぽつと話をした。

 倒れたときの話、手術をして、その後の辛かったときの話、知り合いが見舞いに来た話。

 それは、共通の知人からおおむね聞いていた。だけど、本人の口から聞くそれは、不思議なことに、なんだかとても生き生きしていた。

 自分は、仕事が忙しくて今日まで一度も訪ねてこられなかった。そのことをびると、全然大丈夫、と笑った。

 その顔は、本当に大丈夫そうに見えた。

 あとは、本当に他愛もない話だけだった。くだらない馬鹿話を、それは楽しそうにしていた。

 俺と彼の話は、一度も無かった。


「じゃあ、そろそろ行くね」

 高かった陽が赤みを帯びて、俺は腰を上げた。

「うん。今日はありがとう」


 じゃあね。


 その瞬間、彼は今日初めて、少しだけ苦しそうな顔をした。

 それで、すべて理解した。

「……うん。じゃあね」

 そう答えて、病室の扉を閉める。

 

 俺はもう二度と、彼の部屋を訪れないだろう。


 わかれた輪は、永遠に一つにならない。

 彼は、それに気付いたのだった。

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