徒然犬

犬居橋左右

経緯

 才能などというきらきらしく輝いた言葉が、よもや私に向って使われることがあろうとは思わなかった。


 今までの人生際立った目標もなく。その時々に楽しいことだけをやって居たいというようなろくでもない気持ちばかりを内心に押し隠し。空からかわいい女の子が降ってきて自分に惚れる物語と同程度の夢想ばかりをして身の丈に合った努力もせず。子供の時分よりこれだけは、と続けてきた趣味すら近年自信と意義を喪失して放り投げ。容姿に自信はなく、整える努力も放棄してきた。喧嘩も弱く、タバコも吸わない。酒も弱くはない程度。人より目立った所がない。長所も世辞で言われる程度。そのくせ短所は死ぬほどある。特に生来の逃げ癖で、日々やる気がなくなったことから逃げる事ばかり考えている。周囲の友人たちの趣味や生活や仕事の頑張りを聞くにつけ、自らの姿に悲しくなって、逃げるように世界とつながる魔法の箱を眺めては時間を浪費して一日が終わる。


 そんな部屋の隅に溜まった埃のような日々に、少しだけ変わったことが起きた。


 長年やっていたとある遊戯の中で行われた小規模な小説の大会に、自分と分からないよう変名で小説を出したのだ。それが、予想外の。本当に予想外の評価を受けることになった。


 それは、ただの腹にたまった黒い感情の塊で。どうしても消化しきれずに吐き戻し。気持ちにいっとう刺さった歌を加えて丸めて物語に固めたものだ。その上で、あわよくば誰か一人でも見た人をえぐれますように、などと願った悪意の産物だ。そんな、良くないものだった。


 元はといえばその遊戯関連の場であったことだ。雑談中に放たれた、胃の腑が濁るような敵意と排除の言葉。その人にとっては、ある「普通じゃない」分類の人々に感じる気持ち悪さをあたりまえに主張しただけ。自分の今仲良く話している面々にはそんな人間など存在しないと思っているのかもしれない。けれど公にしていないだけで、私はその「普通じゃない」に近しい分類がなされる人間だった。


 それから胃が重くなった。ふと周囲を見渡してみれば、他にも。以前は気にしても仕方がないと流していた別の友人の言葉が、腹にたまった消化しきれなかった感情のふちに少しずつ引っ掛かり、溜まって行くようになった。

 敵意の言葉を放った人が居る場所からはそのまま足が遠のいていった。


 そんな時に開催されたのが件の小説の大会で。折角だから何か書いてみませんかとのお誘いに、何か思いついたらねと話の流れで軽口をたたいて結果、出来上がったのがその悪意の塊だ。


 このような塊に如何様な反応がもらえる事だろうか。偏った趣味の産物として見なかったことにされるかもしれない。「普通」に属する人たちには彼らに対する不満の発露や攻撃ととられるかもしれない。むしろ、私よりももっと真摯に切実に「普通じゃない」自分と向き合う必要があった方々には嫌な顔をされるかもしれない。どこかで見たような何か、と思われたりそもそも見向きもされないかもしれない。出した直後は、それこそ何度も後悔したものだ。


 しかし、かの塊が実際に審査員の方から頂戴したのは「純文学」という、慣れない言葉だった。自分としては、そんな大層な分類に含まれる作品を書いた記憶はないし、そもそも言葉の定義すらもわかっていなかった。けれども、普段からたくさんの本を読んでおられる方に、好きな作品として挙げて頂いたことについては、非常にありがたく内心恐縮していたことを覚えている。


 さらにこの悪意の黒い塊は、この大会の主催で実際に文筆業を生業のひとつとしている文筆家の先生の心も見事にえぐって来たらしく。過分なことにその先生からは個人賞まで頂いてしまった。


 事ここに至っては、恐縮する自分とは別に天狗のような姿かたちの自分が現れ、自分が作ったこの黒い塊には人様の心を動かす力があるのだと鼻高々に誇り始めた。すぐに叩き折られるであろう事はわかっているはずなのに、無様な鼻だと思う。


 他にいくらか頂いた感想はだいたい良い悪い半々程度。それらを見た私は首を傾げ、感謝し、申し訳なく思い、苦笑した。


 それからひと月ほど経って。

やっと自分の書いたものを読み返しても、書いている時分のいかんともしがたい追い詰められた気持ちが自動的にはよみがえらなくなってきた頃の事だ。


ある親しい友人…… 仮にKとしておこう。


 純文学がどうのと書いた後に友人で「K」というのも中々な名付けではあるが、仮という事で許していただきたい。多分この文章も後で見せることになるであろうから、もはや事後承諾だ。文句を言われたら潔く別の英字を当てることにしよう。


 ともあれKとは数年来の付き合いで、自分にとっては現状最も親しいと思える友人であり、他で言いづらい相談や悩みなどもたまに聞いてもらっている。

 その上で、Kは元々私よりも文章を書く人間で文章そのものに対する造詣も深い。


 そのKに、ふと思い立ってあの黒い塊を見せた。頂いた予想外の評価はどういう事なのか、どういった理由でこの塊が純文学と呼ばれたのか、Kの意見も聞いてみたくなったのだ。


 そこで聞いた言葉が冒頭の才能という言葉である。K曰く、小説の技巧としては全然ダメだが情念の籠った良い文であったらしい。


 表情や声の調子で表現ができる歌、視覚に直接訴えかける絵や漫画と違って、文章は基本的に文字の羅列のみで構成されて他のあらゆる情報はそぎ落とされている。けれど、そこに何故だか感情や情念を込めることが出来る人が稀にいて、それは訓練したとして身につくような能力ではないのだとKは言う。

 だからこれは一つの才能だ。文筆家の先生や、審査員の方にもきっとその情念が伝わったからこその評価なのだろう。話はそうまとめられた。


 才能。この文章の冒頭で書いた通り、そのような言葉が人生で自分に対して使われることがあるとは考えもしなかった。今までの人生、周囲の優しさに生かしていただいてここまで来たが、しかしその実、自分自身は本当にどうしようもない人間で。何か一つ芸や技を磨くことも出来ず、全てが出来て中の下程度だった。


 言葉にすればばかばかしい話だろう。小規模な大会で賞をもらった。身近な友人に才能があると言われた。どちらもいい歳をした人間が自分には才能があると胸を張るには心許ない内容で、ともすれば将来詐欺にでもあいそうな滑稽な姿にすら見えるかもしれない。だがその「才能」という言葉はこのどうしようもない真っ暗な自分の中にも少しばかりの光源があるのではないか。そのような気持を抱かせてくれたのだ。


 まあ、オチはしっかりあって。純文学というのは人を楽しませるための文章とは違って「刺さる人にしか刺さらない」もの。上達したとしてたくさんの人に見て頂いて自己顕示欲を満たせるといった類のものではなく。

 しかも、ダメと言われた文章の基本を身に着けて技巧を理解して、その上でさらに感情をたたきつけるように書くというのもまた大概難しいお話らしく。


 しかし折角「才能」などという言葉を頂いたからには、不相応なりに何かを書いてみようか、などという全くもって怠惰な理由で「徒然犬」は今後書き記されていくものである。

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