遠雷

東条 朔

第1話


 遠雷が聞こえる。半刻もすれば嵐がやってくるだろう。夜風は矢が突き抜けるように屋敷の広間を駆けて、立ち込めた生暖かい熱気を追いやっていた。月も嵐を恐れたのか外界に光を落とさず、雲隠れしている。時刻は丑三つの刻で、草木さえ意識をもたない。屋敷の大広間には、暗くてよく見えないが黒い塊のようなものが点在している。ざっと6つ程だろうか......? すると、その一つがムクリと動いて、それから近くの黒い塊にこう話かけた。

「ねえ、君。そう、暗くて顔はわからないけれど君だ。どうやら君しか話し相手がいないようだ。退屈ではないか? 話をしよう」

声から男だとわかる、それもかなり若いだろう。男は激しく体を動かした後なのだろうか? 話し声には少し焦りのような荒々しさがあった。

「なに、むつかしい話ではない。僕は気になっていることがあるのだ。それについて君の意見が聞きたいのさ。君、小説は好きかい? 」

夜風が熱気をさらっていったのか、先刻より話し声に落ち着きがあった。話しかけられた黒い塊は仰向けの状態だったのだろうか? (暗くてわからない)上 体を起こして男に返答したようだ。生憎、声は小さく聞き取れない。男は僅かな月光でかろうじてシルエットが確認できる程であった。

「ふむふむ。今晩は風が強いなぁ。声も聞こえないや。まあいい、話を続けようではないか。僕は無類の小説好きでね、特にワイルドとサンテグジュペリが 好きなのだ。それというのも、言葉と言語であれほど生々しく美しい官能を表現できる作家はワイルドをおいて他にいないだろうし、心に訴えかける風のような言葉はサンテグジュペリの魅力の一つだと思うのだ。僕は彼らの作品に触れるとき生命を実感する。僕は自分が空っぽだと知っているから、強い指針のような言葉に弱いんだろうね。だから、ワイルドの耽美的で静かに破滅していくような世界が好きで、サンテグジュペリの揺らぎようのない強い言葉に依存 しているんだ。だから、君に聞きたいのは僕の生き方に関わることなんだ。つまり言葉についてなんだけど......」

男は堰を切ったように話し続けた。風は次第に強くなって、風鈴の音は荒々し く、恐怖に駆られ叫び狂うようであった。話相手の黒い塊は、時折思い出したように震えるだけで、弱っているようにみえる。狂気さは、男が黒い塊を旧知の仲であるかのように会話していることだ。


そして、ほんの一瞬風が収まり静寂が部屋を支配した。

「......セ」

虫の羽音だろうか微かに空気が振動したような音はすぐ夜風に運ばれていく。風鈴は再び叫びだして、死を直感した野生動物のように醜い。

「......シテクレェ」

黒い塊は痙攣していた。大広間には、風切り音と、サイレンのような風鈴、男の興奮した声、虫の羽音、黒い塊そして黒い塊、それが世界の全てだった。

「それでさ、ワイルドの小説<ドリアン・グレイの肖像>に登場するヘンリー 卿は神秘、美について外見的つまり目に見えるものが......」

黒い塊は痙攣しながら、なにか音を発しながら男の足首を掴んだ。しかし、男は構わず話し続けた。

「対して、サンテグジュペリは人間にとって最大の贅沢は......」

「タ......ムオネガイ......コロシテクレェ」


 再び、風が止んだ。風鈴も静かに、そして顔を出した月が外界を照らし、全て露わにした。


 まず畳は青々しさとは無縁の赤黒い液体に染められていた。障子や壁には透き通った赤が張り付き、勢いよく咲いたサルビアを想起させる。黒い塊はだんだん赤い塊となり、男のシャツは原色がわからないほど赤黒く、汗と血の脂で輝き神々しさがある。部屋には男と、3人の生き物、脳漿と、下半身、それが6つの黒い塊の正体だった。男の話し相手の赤い塊はなぜ生きているのか不思議な程の出血量で、声を振り絞っていた。隣の赤い塊は仰向けになって虫の羽音のような音を出している。喉を切り裂かれていた。

「おっと、いけない。喋りすぎたようだ。いや、悪い癖でね。姉にはよく叱ら れたものだよ。もっと人の話を聞きなさいって」

男は、たはは、と、口元を歪めてそれから血濡れたメガネを外した。

「だけど、もう姉さんはいない。最後にあったのは、祭りの日の翌朝冷たくなった姉さんだった。なあ、姉さんはなんで死んだんだ? 犯されて絞め殺される程の悪女だったのか? なんで殺したんだ? 」

男は塊に話しかける。しかし塊はもう微動だにしない。ただ部屋には男と、死体と、喉笛と、ピンク色の脳漿、それに青白くなった下半身が取り残されていた。


屋敷に火を放って、男は家路についた。そのときには既に、嵐は過ぎ去ってい た。

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遠雷 東条 朔 @shuyanatsuki

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