第32話 ぐつぐつ
皮肉にも、勉強の無理強いにより成績の上がった樹は無事に地域最難関の進学校へと合格を果たした。
しかし、同級生の多くは最初から地頭のよい者ばかりだった。遊び呆けているにも関わらず、樹以上の成績を叩き出すものもいる。
そんな者たちがいる中で、樹は劣等感を感じていた。進学校に入れば樹と同じ様な境遇の者もいるだろうと踏んでいたが、その実態は全く異なった。
好きな漫画、ゲーム、アニメ、アイドル。多くのクラスメイトは、それらを熱く語っていた。
話を振られても全く理解できない樹は、当然友人を作ることさえ叶わずすぐに校内でも孤立する。いじめられはしなかったが、樹の劣等感は日に日に強くなっていき勉強しようにも勉強に身が入らなくなっていた。
「ちょっと樹! 学年66位!? ふざけてるのですか!?」
学期の終了日、戦々恐々としながら樹は成績表を母親に渡すが、返ってきたのは案の定罵倒の言葉だった。
「いい? あなたは国公立の医学部に受かるの! 決定事項なの! 何のためにあなたを予備校に行かせたと思っているわけ? 私だって、贅沢したかったわよ。それでも、あなたのために身を粉にして働いてそのお金をあなたの未来のために使っているのよ? どうしてこれがわからないのかしら!?」
一度母親の罵倒が始まれば、延々と続く。
意味のない言葉を延々と述べられ、途中からはまたすでに言った内容について何度も何度も何度も、繰り返すように喋るのだ。
樹のメンタルはもう崩壊寸前だった。
勉強を強いているといっても、肝心の母親は何も勉強の苦労を知らない。ただ成績表を見れば激昂し、医学部のある大学のパンフレットを見れば気分がよくなる。そんな人間だ。
そして、高校三年の頃には、樹はすっかり母親を恐怖するようになっていた。
「ただいま……」
樹が学校から帰ってくると、母親は電話をしているようだった。
「え? 病気なの? 大丈夫? あ、うん。樹? 部活も勉強も意欲的に頑張ってくれてるわ。なんでも、医学部に進みたいんですって。私全力でサポートしてるわ」
誰かと話しているようだったが、その話している内容がひどく気に入らなかった。
部活なんて入らせないと母親は宣言していたし、一度たりとも医学部に進みたいと思ったことはない。嘘まみれである。
母親の行動にもはや驚きもせず、ただ呆れ返るのみだ。
「ちょっと!? 何そこに突っ立ってるの! さっさと勉強なさい!」
いつの間にか母親の電話は終わったようで、樹を目視するなり怒鳴ってくる。
「電話誰から?」
基本的に母親は何事にも威圧的だった。それが、普通の口調になるなど、誰なのかと興味を持ったのだ。
「おばあちゃんよ。たまには孫の顔見せろってうるさいのよ。まあ、医学部に受かったら一回くらいなら見せに行ってもいいでしょう。わかったらさっさと行きなさい」
樹の祖母。まだ父親が元気だったころよく遊びに行っていたのを樹は思い出す。
家は安積県の山中にあり、祖父は樹の生まれる前に亡くなっていた。
温厚な性格で、先程の話から察するに自分は親孝行のために医学部を進学した自慢の孫ということになっているのだろう。
当分会えていない祖母に思いを馳せつつ部屋へと向かった。
「さて……」
開いたのは、数学Ⅲの参考書。模試もあるので頑張らなければならないが、集中力が持たない。今日だけではない、近頃はいつもそうだった。おかげで、成績はだだ下がり。けれども、樹はただ只管に勉強することしかできなかった。
結局、やる気のなさが改善されることはなく模試を迎えた。結果は、もちろん散々だった。
学校で模試の結果表を貰い、家に帰ると玄関で母親は待っていた。
「お帰り、模試の結果どうだったの? 当然A判定よね?」
これだから模試は嫌いだった。
見せるのが嫌で捨てたこともあったが、模試の結果が知りたいと学校に怒鳴り込み、保管してあるデータを渋々学校側は保護者なのだからと渡してしまったのだ。
学校に迷惑はかけたくないので、それからはおとなしく結果表を持って帰ることになった。
樹は恐る恐る鞄から模試の結果を取り出すと、奪うように母親は雑に取る。
「私は優しいから別に旧帝じゃなくてもよしにして上げるわ。えーっと? 上川医科大学、名草県立医科大学、西原大学医学部……」
今読み上げられている大学は、国公立大学にしてはどれも偏差値が優しいものだった。しかし、その大学名を次々に告げている母親は次第に模試結果表を握る力が強くなっていき終いにはしわくちゃになっていた。
「何? これ」
母親は模試の結果を樹に投げつけて詰問する。樹は答えようがなく黙るほかない。
「ふざけんじゃないわよ!」
母親は樹の顔面を殴り飛ばした。玄関に鼻血が散るが、そんなこと一切気にしていなかった。
「私、言ったわよね!? 医学部に合格しなさいって! しかも私は別に旧帝じゃなくても許してあげるって言っているの! それはあなたの脳みそじゃ厳しいかなって思った私の優しさなのよ! これでもできないって、本当さ……」
「あ、あの……その」
ごめんなさい。
反射的にそんな言葉が浮かぶ。しかし、本来の意味とは遠くかけ離れ『殴らないでください』の意味に等しかった。
「ああ!? はっきり喋りなさい!」
「そ、その。浪人、させてくだ……さい」
浪人したいなど、樹は一ミリたりとて思ったことはない。しかし、言わねばならないのだ。母親の機嫌を取るには。
「あーもう、こんなダメ息子産まなきゃよかった……」
母親は髪の毛を散々掻き毟った後、わざとらしい大きなため息をついた。
「掛かった費用、全額私に後で払いなさいよ? ならいいわ」
全くもって愛情が感じられなかった。
その頃には、敬意や愛情といったものは樹の中からとうに消え失せ殺意しか湧いてこなかった。
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