第33話 かくして、彼は壊れてしまった

 樹は浪人した。それも二回も。

 掛かった費用を全額負担するということでかろうじて母親の怒りを抑えているが、これ以上を待たせたらいつ怒りが爆発するかわからない。

 そのため、来たる試験に向けて勉強中だった。しかし、成績は一向に伸びないどころか下がってきてすらいる。そのたびに散々罵倒され、殴られ、食事を抜かれている。

 高校を卒業してからは、ただ家で勉強し既卒生専用の予備校で勉強し、家に帰り勉強するというルーティーンを延々と繰り返していた。

 さすがに予備校からおかしいと思われたらしく、保護者である母親に電話がかかってきたようだがやんちゃして怪我しただのと吹聴されすっかり予備校は樹の怪我を何とも思わなくなっていた。

 会話は予備校と家での簡素な会話しかなく、現代文の勉強に必要な語彙を除けば非常に貧しい語彙力になってしまっている。


「わかんない、わかんない……」


 樹は国公立大学向けの共通入学試験の問題集を開いていた。内容は教科書レベルであり、ましてや医学部を目指す樹にとってみればあまり難しいものではないはずだ。しかし、樹は目を虚ろにさせたまま頭を抱えて呪詛のように呟いている。

 しかし、わからないものはわからない。苦しんでいると、樹の部屋へと足音が近づいてきた。


「ちょっとうるさいんだけど!?」


 勢いよくドアを開ける音の方がよっぽどうるさいのだが、そんなことは気にせず母親は樹の顔を引っ叩くと問題集を覗き見る。


「全然進んでないじゃない!? 三浪する気なの!? あんたがさっさと医学部に受からないから、おばあちゃんも亡くなっちゃったのよ? さっさと受かったら最期に孫の顔くらい見せてあげれたのに」


 いつものように母親は樹を罵倒する。


「ご、ごめんなさい……」


 樹は何一つとして悪くないのにも関わらず、謝る。謝らなければさらなる罵倒と暴行の追い打ちを受けるのだ。


「ったく。さっさと夕食食べなさい」


 樹がダイニングへと向かうと、テーブルには大量の青魚料理。


「あなたの頭が良くなるようにわざわざ青魚を毎日調理しているのよ? DHAを多く含むから頭が良くなるらしけど、あなたには全く効いてないみたいね」


 食事のときさえ母親は罵倒は忘れない。もう、習慣づいてしまっているのだ。


「いただきます……」


 樹は小さな声で呟くと、食事を開始する。しかし、母親にその気はないようだ。


「三浪とか絶対許さないからね。絶対に国公立医学部受かりなさいよ?」


「はい」


「そういえばお隣の息子さん、旧帝医学部に受かったんですって。すごいわよね、うちのポンコツと違って」


 母親は全く悪意がないのか平然と隣の家の話をしてくる。


「うん……」


「私も再入学しようかしら? おばあちゃんの遺産も入って車も買っちゃったし、仕事もやめたし。一応言っておくけど、私高校時代は頭良かったのよ。数学で満点取ったことあるし、ちょっと勉強すれば旧帝医学部なんて余裕ね」


 この人に受験の苦労の何がわかるんだと、樹は内心苛立っていた。


「私の遺伝子受け継いでるのにどうしてこんなのになっちゃったんだろうね、ああ。夫か。まあ、しょうがないか、あの人頭良くないし」


 さも楽しい食事中の会話のような雰囲気で喋る母親。けれども、樹はもう我慢の限界だった。精神的にも、侮辱され、暴行を受けて軟禁同然の扱いを受けて。

 樹は勢いよく立ち上がった。


「ん? 何? 反省して食事も忘れて勉強する気になったの? だった別にいいけど」


 台所まで行くとシンクにある包丁を取り出した。魚を切った時に使っておりまだ洗っていないためどこか粘ついている。


「ちょっと何してるの? 早く包丁降ろしなさい!」


 すぐに母親は静止するが、そんなこと樹の耳には入っていない。自制するための良心など、すっかり壊れてしまったのだ。


「うっせぇよ……」


 何の躊躇いもなく、樹は母親に襲いかかるも椅子から転げ落ちた母親は間一髪のところを免れる。


「ちょ、ちょっと落ち着きなさい。わかった、三浪してもいいからさ、ね?」


 ここまで来ても母親は考えを改めない。きっと、もうとっくの昔に壊れてしまっているのだ。

 だったらもう、生かす意味なんてどこにもない。

 樹の中をそんな感情が支配した。

 腰を抜かし必死に這い蹲っている母親に対し、樹は左胸へと包丁を突き立てた。左胸からは夥しい量の出血を起こすも、こんなことでは樹の気は治まらない。

 何度も、何度も、何度も。

 左胸だけではない。体のあちこちを突き刺した。

 樹が気がついたときには、母親は全身刺し傷だらけであり、ほんの少し動いた後にやがて動きが止まった。

 樹は、ようやく自分の犯したことを冷静になって考えられた。

 目の前にあるのは胸を刺されている実母の死体。手に持っているのは、血まみれの包丁。

 そう、自分がやったのだ。そう思うと樹は恐怖を感じたものの、それ以上の高揚感に襲われた。


「やった、やったぞ。僕は自由だ!」


 次第に笑いが抑えられなくなり、ついには大きく口を開け哄笑する。

 樹は、のだ。

 けれども、そんな高揚感と未来への希望に駆られた時間は長くは続かなかった。

 やがて、自分が犯罪を犯した。それも殺人罪という大罪であることを徐々に脳が理解し始めていた。


「やばい……どうしよ」


 高揚していた気分が一気に消沈する。


「逃げないと」


 そう思うと、すぐに樹は母親の鞄から財布と車の鍵を取り出した。また、ビニールシートで母親を包み込むと、車に載せるために外へと出る。

 幸いにも、外は雨で夜。外出している人はかなり少なく見えた。急いで車のトランクに死体を詰め込み運転席へと座る。今年で21になる樹だったが、自動車教習所に行く時間など行く余裕などなかった。

 碌に運転方法すらわからず、ただアクセルとブレーキがあるという曖昧な概念でしか理解していなかった。


「どこに逃げよう……」


 逃げる先などなかった。ただ、頭を抱えて樹は考え込むと一つの可能性を見つける。


「羽黒市、あそこなら」


 樹の祖母が住んでいた家がある。幸いにも、住宅自体はそのまま放置しているらしい。

 目的地を決めると、樹は一切躊躇わなかった。アクセルとブレーキを間違えつつも、樹は車を運転し羽黒まで向かうことにした。

 万が一のことを考え、すぐに農村部へと向かいそこからは人通りの滅多にない山間の道を進む。他人の目に映らないようにするためだ。

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