第一章
第1話 名状しがたい夢から覚めて
少女はゆっくりと瞼を開け天井を仰ぎ見た。少女といっても、完全な人間ではない。人間からは亜人と言われている種族の一種だ。頭頂部に狐を彷彿とさせる大きな耳、そして尾骨の辺りには同じく狐を彷彿とさせるしっぽが生えている。それらの部分を囲う毛の色は朽葉色であり、瞳の色は橙色。肌の色はさほど人間とは変わらなかった。
耳としっぽを除けば彼女は人間そっくりである。同年代と比べて貧相な体をしているものの、見窄らしいボロ布の貫頭衣のおかげで痩躯は隠れるため見た人はそれほど気にならないだろう。
少女が見ているのは、茅葺きの天井。そして、少女が今置かれている状況を認識する。
「夢か……」
彼女が見ていたのは、何とも名状しがたい、何かと何かが接触するような夢だ。これに至っては、説明が何とも難しい。
そして、もう一つ。彼女が人間だったときの夢。それも男性の時のときのものであった。
最近はほとんど見なくなっていたので、改めて自分が男だったのだと感じさせられる。とはいえ、女性として暮らしてきて今ではすっかり年頃の少女だ。最初は自分が女性になったことに慣れなかったが、今ではすっかり慣れ男性だった時の記憶など邪魔だとすら思っていた。
「顔でも洗うか」
沈んでしまった気持ちをどうにかしようと、体に掛けられた薄い布を取る。同じ布を掛けて寝ていた妹を起こさぬように、布から出ると、太陽光が差し込む出入り口から外に出た。扉なんて概念はないのだ。
大型の茅葺き竪穴式住居から出ると、茅葺屋根で造られた同じような住居がいくつも並んでいる。一際目立った建物もなく、村長の家ですら少女の家よりも一回り大きい程度だ。
辺り一帯に見える草原の中に造られたこの村は、人口百名もいないとても小さな村だ。村の外を見れば、平気で野生動物たちが生息している。とはいえ、ここらに住む動物は温厚な性格ばかりで向こうから攻撃してくることなどほとんどない。少女は、村の中心部にある井戸へと向かった。庇も手押しポンプもない普通の井戸だ。
底に溜まっている水に容器を落としそれを組み上げるという簡単な動作だが、水が思いの他重く、しかも地上まで持ち上げなければならないためその苦労は前世で想像していた何倍も苦しい。
少女は容器を井戸のそこへと垂らす。そして、容器内に水と空気が混ざった音が聞こえ、水が入ったことを確認するとロープを引っ張る。
「んんっ……」
少女はロープに力を込めて、自分の体重もかけるとやっとのことで井戸の囲いである石垣に組み上げた容器を乗せる。そして、水を中に零さないように顔を洗い口に含む。雑菌が入っているだろうが、この世界ではそんなことわからないし誰も気にしない。ノーシーボ効果を出さないためにも、あまり考えないようにしているが夢に現れた前世の記憶は瞼の裏側からそう簡単に消えてくれそうにはない。
前世の記憶を思い出す中で、異世界転生ものを読んだことがあったことを思い出す。
作中に出てくる主人公は前世で得た知識を用いて活躍していった。
少女がこちらの世界に転生し、ふとその作品のことを思い出すなり自分も前世で得た知識を使い活躍しようと計画したものだ。
しかし、現実はそううまくはいかない。転生ものの主人公は平然と知識を知っていたが、普通の生活を送っていた少女に人に教えられる知識などなかった。
少女が知っているのは学校で習うようなものばかりだ。文学の知識、日本の歴史、世界地理、英語。それらは、こちらの世界では役に立つわけがないのだ。
作中の主人公は、一体どこでそのような知識を知る機会があったのか。ぜひ教えてもらいたいものだった。その結果、少女は何の知識もこの世界に享受させることも叶わずこの年まで生きてしまったのだ。
「はぁ」
少女は大きなため息をついた。それが不甲斐ない自分に向けたものなのか、全く現実的ではない転生ものに落胆してしまったのかは正直自分でもよくわからないくらいに。
そんな中、足音が聞こえた。少女の家の方からだ。警戒する間もなく、足音の正体が姿を表した。
「ヘムカお姉ちゃん? どうしたの?」
現れたのは、少女──ヘムカの妹であった。彼女も、ヘムカと同じ両親から産まれたこともあって、同じ髪色、瞳の色をしている。外見は、成長しているか成長していないかでしか大別できないが、中身はまるっきり違っていた。
前世の知識のあるヘムカと違い、妹は正真正銘この世界で初めて生を受けた。天然で無垢な性格は、前世の経験がありどうしても熟慮してしまうヘムカとはまるっきり正反対のものだ。
「ちょっと変な夢見ちゃったけど、何でもないよ」
ヘムカは慣れきったように姉が妹に見せるべきの笑みを浮かべる。
「変な夢? どんなの? 教えて!」
妹はヘムカの見た夢に興味があるようだった。妹はヘムカに小走りで近づくと、そのままその大きな耳としっぽを動かして興味津々な瞳でヘムカを見つめた。
その瞳に映っている自分はどれほど魅力的なのだろうか。そんなことを考えつつも、ヘムカは慈母のような顔で妹の頭を撫でた。
「ここではないどこか。部屋を縦に重ねたような石で造られた建物がいっぱいあって、私はそこを歩いていたんだ」
ヘムカが語ったのは、ヘムカの死の直前の記憶だった。
実際に見た夢を妹にわかりやすく脚色して述べるヘムカを、妹は目を光らせて欽慕している。
いくら何でも夢に興味もちすぎではと思い、少し考えてしまう。
「お母さんが言ってた。夢はいろんなことが知れるからできる限り覚えておきなさいって」
妹は、ヘムカの考えを察したかのように説明し始めた。仮にも姉妹だ。ある程度はわかるのだろう。
夢なんて前世の知識があるヘムカからすればただの脳の錯覚だが、こんなことが解明されていないこの世界では違う。迷信や宗教的な意味合いも含むのだ。妹がヘムカを欽慕しており夢の話を聞いているのも少なからずそれが理由である。
「そしたら、自動車……うーん?」
自動車なんてわかるわけもない。どうやって説明しようかと考え倦ね自動で動く石の車に落ち着いた。このことを説明すると、妹は首を傾げる。
「牽いているわけじゃないのに、どうして動くの? 魔法?」
夢に現れた謎の車に興味津々の妹。
異世界ものに出てくる主人公だったらどうして作り方を知っているのかはさておききっと自動車も造れるのだろうなと思う。
「まあ、そんなもんだよ」
妹には悪いが答えをはぐらかす。
「きっと、予知夢だよ。魔法で動く車がいつか現れるんだよ」
妹は声を弾ませて想像に胸を膨らます。そんな妹にヘムカは柔らかい視線を送る。
「そうだといいね。じゃあその車が現れるのを見るためにも、長生きしなきゃね」
その車が現れるためには、こちらの世界でも産業革命が起きるかあるいは車を発明できる転生者が現れなければならない。
尤も、そう簡単に高度な技術を持った転生者が現れるのであればこの世界はとっくに産業革命を迎えているだろう。
そんな残酷なことをヘムカは妹には告げられない。ただ妹の心に寄り添うように、同調する他なかったのだ。
「他には? 他に何か夢見てない?」
「そ、そうだね──」
ヘムカは何の夢を話そうかと考えると、今朝見た謎の名状しがたい夢を思い出す。妹にとっては難しいとはいえ、妹であればきっと喜んで聞いてくれるだろう。名状しがたい夢をどうにか口頭で説明しやすいように言葉を選んでいく。
「あるところに、二つの大きな玉がありました」
「玉? 何の玉?」
「透明で、とても大きな玉です。人間どころか、この世界を包み込んでしまうくらいのものです」
妹の方を見ると、妹は頭の中で考えているのか腕を組み唸っている。
「その玉同士がぶつかると、ほんの僅かな穴が空きました。やがて、その穴が大きくなり二つの玉は一つになってしまいました」
これが夢の内容だった。しかし、妹は意味がわからないのか首を傾げ唸り続けている。
「ううーん?」
妹は一度考えると当分は考えっぱなしなのでどうにかしようと、話を変えることにした。
「そっちはどうなの?」
ヘムカが話しかけたことにより、妹はヘムカの方を向き自分自身を指差した。
「私? 夢を見ていた記憶はあるんだけど、覚えてないんだよ……」
そんな中、妹から変な音が鳴る。発生箇所は妹の腹部で、胃を収縮させたなんとも情けない音だった。
「そろそろ朝ごはんの時間だ……帰ろうか」
「うん!」
ヘムカに向かってにっこりと元気に微笑んだ妹は、そのまま家へと何とも鈍くさい動きでで走って戻っていった。
けれども、どこか愛しい。
ヘムカは、そんな妹の様子を微笑みながら眺めると両親の待つ家へと帰っていった。
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