第三章(3) 大丈夫、みたい


「それにしてもリアナ」

「…はい?」

 ノアに言いたいことを言ってスッキリしたのか、ハーバートは今度はリアナに向き直る。

「今夜泊まるのなら、時間はあるんだろう? 良いワインもあるし、僕の部屋でマソリーノ様に献杯しながら花屋の話聞かせてよ」

 そう言いながら突然、ハーバートはリアナの腰に腕を回してきた。突然の接触に、リアナの脳内には勢いよくハーバートの景色がなだれ込んでくる。

「…、ちょ」

 やばい、いややばくはないのか、見れるならラッキーである、のだが、如何せん心の準備が出来ていない状態なので流入が際限ない。

 混乱するリアナの様子に、男慣れしてないからだと思ったのかハーバートはぐいと力を入れてリアナを引き寄せた。

「成人はしてるよね? ま、ギリギリしてなくても大丈夫、食事も一緒なら問題ない」

 そう畳み掛けてくるハーバートからは、とめどなく色々な景色が流れてくる。

 ピアノやバイオリンなど楽器の映像と一緒に入ってくるのは、とてつもなく黒いモヤだった。モヤはどんどん濃くなって、次第に楽器のシルエットすら歪む。その中に何人かの姿も見えた気がしたが、誰なのか分からない。分からないがモヤの流入がすごい。

 ここまで強く流入された事は今まで無く、リアナは自分の手足が急激に冷えていくのを感じた。胃の奥から何かがせりあがってくる。昼にいただいた軽食が出てくるのではとヒヤリとする。

「はな、してください」

「そんなに照れなくても。とりあえず僕の部屋に――」

 脳内が真っ黒になってもうだめだと思った時、

「失礼、ハーバートさん」

力強くハーバートの身体が引き剥がされた。ぽすんと背中に感じた温もりが、なぜだかリアナを安心させた。

「強引なのはいただけませんね。男は紳士でないと」

 気分が悪いせいでノアの顔は見えないが、とても冷静な声だと思った。

 リアナの左肩にはノアの手が置いてあり、そこからノアが流れ込んでくる。それは例えるなら清流のような流れで、景色は一切見えないが、ただただハーバートの黒い霧を押し流して浄化するような『気』だった。

「ああ、もう19時だ。ヴェルディ家の晩餐のお時間では?」

 確かに何処からか時計の音がゴーンと聞こえてきた。玄関にあった大きな柱時計だろうか。

 ぼんやりとそれを聞いていると、ハーバートが仕方なさそうに舌打ちをして、

「リアナ嬢、またお誘いするよ」

と言って立ち去っていった。

 ハーバートを見送ってしばらくその格好だったが、ゆっくりと後ろからリアナの顔を覗き込んで、問うてくる。

「大丈夫か?顔色が悪い」

 身長の高いノアが斜め頭上から見下ろしてくるので、リアナの顔も思わず上を向く。

「え、ええ……なんとか」

 少しふらりとするが、頭の後ろにノアの左腕があるせいでがっちり支えられており、倒れずに済んでいる。

「何か見えたのか?」

 その目は探るというよりも心底心配している顔だったので、よりリアナの心は安堵する。

「見えた、ていうより……」

 侵食された、と言った方が正しい。

 どう説明しようかとぼやけた頭で考えていると、突然ノアがハッと気づいたように肩に置いた手を離した。

「ごめん、触ってしまった」

 確かに急に触るなと言ったのはリアナなのだが、その清流が心地よくて離れて欲しくないと、そう思った。ので口から出た。

「っ待って」

 急に支えを失った身体はそう発しながらふらりと後ろへ傾く。ノアは慌てて再びリアナの背中をその腕で支えた。

「…ごめんなさい、ふらふらしていて」

「いや、触っても大丈夫ならいいんだけど」

 おずおずとした様子がらしくなくて、リアナはくすりと笑ってしまう。

「?」

「なんか、あなたなら大丈夫、みたい」

「……」

 その『気』は今まで触れた誰とも違う清廉さだった。彼の心が清いのだということは、何となく気づいてはいたがこれで確信する。

 無言になったノアを見上げると、とても複雑そうな顔をしていてリアナは首を傾げる。

「…何よ」

「いや……、マジか〜と、思って」

「…何が?」

「なんでもない、こっちの話」

 歯切れの悪い回答にますます首を傾げる。

 しかしずっとこうしている訳にもいかないと思い、リアナは両足に力を入れノアから身体を離した。

「今見たものも含めて、情報交換しましょ。カメラの映像も見たいし」

「あ、ああ」

「そういえば夕食っていつもどうしてるの?」

 デイジーがいくつかささったバケツを抱えて花飾の周りを片付けながら問うと、ふぅとひと息ついたノアはハサミを拾い上げて答えた。

「カヴァリーナまで出てるよ」

 この屋敷はカヴァリーナの街から少し森に入ったところに構えているが、毎晩夕食時は、街まで食事に出ているということだろう。

「シルヴィアさんは夕食の余りを持って行くと言ってくれたけど、気分転換と情報収集も兼ねてね」

「なるほど、じゃああたしも今夜は一緒に行くわ」

「え、いいの?多分シルヴィアさんが部屋に運んでくれるよ?」

「そこまでしてもらうのは悪いって断るわ」

 ハサミを受け取り道具入れに仕舞うと、それを腰に巻き付けた。バケツを抱えなおし、大広間の扉へと向かう。

「でも屋敷内で一緒にいるのはなるべく控えた方がいいから、外で待ち合わせましょ」

「…まぁそうだな。君も充分なアットリーチェ(女優)してるみたいだし」

「……」

 どうやら色々見抜かれていそうだ。ちらりと振り返ってみると、ノアは何を思ったかサッとリアナからバケツを取り上げ、大股で扉に近寄りギィと大きく開けた。

 どうぞと視線で言われ、思わぬレディファースト対応にドギマギしながらくぐり抜ける。次の扉もさっと開けられて、イタリア男って本当にすごいなと感心する。

 大広間を出て誰もいないことを確認すると、

「そういう意味じゃなかったんだけど」

と変に気まずくなってそう漏らしてしまうが、当のノアは気にした風もなく、

「じゃあ部屋までご案内しますよ、お嬢さん」

と満面の笑みで先導していく。手にはバケツを持ったままだ。

 まだイタリア人のこういったやり取りに慣れていないためギクシャクしてしまうが、それをなるべく見せないようにしなければならない。

 すっと無表情に変えて、誰とすれ違っても不審がられないよう、『案内され役』を貫くことに注力した。


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Day's eye -匿名探偵Lの数奇な日常①- 七森陽 @7morih

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