短篇集

@Kyu1904

これからは

 ――ねえ、隣町の商店街が潰れるんだって。

  

  何時ものように帰り道にりんちゃんはそう言った。うん、とうつむいたまま首でうなずいて

  返事をする。それ以上に返す言葉は要らないとは知っていた。けれど、何かを言いたいよう

  な気持ちになって少しだけ喉の奥に力を込めた。


 ――この街も、隣町みたいにすぐに寂れちゃうのかなあ。

  

  りんちゃんは少し悲しそうに話を続ける。けれどまだ返す言葉が見つからない。


 ――私達が大人になっちゃったら、ここも変わっちゃうんだろうなあ。

  

  りんちゃんは少し淋しそうに、遠くの夕暮れを見上げるように眺めていた。私が返事しない

  まま、それからちょっとだけ楽しそうな目をこちらに向け、

 

 ――あ!でも私が大人になったらきっと身長抜してるからね!

 


        真っ直ぐ、キラキラとした眼差しを横目に、


   

             私はまだ返す言葉を探していた。

 






 「―ねぇ聞いてる!?」

 急に大声を出されて、また返事をしてないことに気がついた

「う、うん、ちゃんと聞いてるよ」

「もぉ、るかったらここんとこ、いっつも考え事ばっかなんだからぁ」

 まったくもうと、少しいじけたように怒ったフリをするりんちゃんをみて、さっき返したいと思った言葉をもう一度探しかけた。それを見たりんちゃんは

「ほら!また考え事しようとしてるでしょ!」

「そうやってまた一人にするんだったら拗ねちゃうんだから!」

「りんが駄々こねたら大変だってこと分からせないといけないね!」

 そう言って冗談交じりに頬を膨らませたりんちゃんをみて、思わず笑ってしまった。

 それを見たりんちゃんも一緒に笑った。何時も通りの様な何気ない会話だった。

 


 りんちゃんは私の幼馴染だった。

 小学生の頃から一緒で、どこへ遊びに行くのも、何をするのも、何を考えるかもおんなじで、嬉しいときは一緒に喜んで、悲しいときは一緒に泣いて、今までも、これからもずっと一緒にいるんだろうなと、何となくそう思っていた。

 「でもるかっていつも静かで考え事してるから、なんだかちょっと大人っぽいよね。それに背もりんより全然高いし」

 そんなことないよと、道半ばに返事をしたけれど、その答えにりんちゃんはまだちょっとだけ満足していないみたいだった。

 「だって、りん、勉強するより遊び回ってるほうが好きだし、辛いもの食べれないし、考え事 するの苦手だし、背も低いし…。」

「とにかくりんは早く大人になりたいの!」

 そうやってツンと可愛らしく唇を尖らせて、いつもの様に不満げに言う愚痴を聞いていた。

 どうやったら喧嘩せずにいられるか、どうやったら頭がよくなるのか、どうやったら身長が伸びるのか、そんな息を吹けば飛んでしまうような他愛もない時間が、歩くことを忘れてしまうくらいの心地よさで私達を包み込んでいた。

 丁度、分かれ道の目前に差し掛かった頃だろうか、ふと会話が途切れた。いつもはりんちゃんが自分が思ってること、感じていることを矢継ぎ早に、楽しそうに教えてくれるりんちゃんだけど、ここ最近少し遠くを見上げて静かに歩く時間が、ぽつぽつと生まれ始めた。

 居心地が悪い、というわけではないのだけれど、いつもとちょっと違うりんちゃんに、どんな言葉を投げかけたらいいのか分からなくて、少しだけ俯いて言葉を探してしまう。けれど見つかりそうにないので、丁度いい良い話題を投げかけてみることにした。

「―ねえ、りんちゃん、この前教えた映画、どうだった?」

「うん…、あー…」

 りんちゃんが考える素振りをする。けれど、こういうことを言葉にするのはどうやら苦手らしく、私が代わりに言葉にすることをよくしている。

「多分、りんちゃんだったら草原で歌う場面とか好きなんじゃない?」

「あ!確かにそこすごく感動した!」

「やっぱり。気に入ってもらえてよかったよ」

「うん、それとあと―」

「うんそうだね、それに―」

 途切れていた会話がまた賑やかに進みだした。笑ったり、喜んだり、ころころと表情を変えるりんちゃんが私はすごく羨ましく思った。そして私はそんなりんちゃんがやっぱり好きだった。

「―あの列車のシーンもすごく良かったねぇ。海の上を走るのがきれいだったぁ」

「りんも、あんな列車に乗ってどこか遠くに行ってみたいな」

「ね、行ってみたいね」

 そして分かれ道に着いてまだ、私達は他愛もない話を続けていた。どうしてか、いくら話しても話足りず、いつも分かれ道の側にある小さな公園に入って、ブランコに座ってゆらゆらと揺られながら話を続けていた。そんな緩やかな時間と、話題と、言葉が通り過ぎていく最中、ふと先週くらいだったかな、に見たりんちゃんの顔を思い出して、そのことについて尋ねてみた。

 するとりんちゃんは突然、え!という大きな声を出し、大きな目をまん丸にした。それ見てたの!?と驚いた顔をしたかと思うと、さっと目をそらして恥ずかしそうな顔を見せ、またすぐにさっきみたいなツンとした顔に戻すふりをした。その目まぐるしいほどの表情の変化に気をとられてぼうっとしていると

「それは忘れて。」

 そう言ってまた表情を変えて、薄い眼でじっと見つめるりんちゃんに、何が何だかわからないまま、困った顔をしてもう一度どういうことか尋ねようと口を開きかけると

「何も、聞かずに、忘れて。」

 と、こっちが何かを言おうとする前に、手のひらを鼻先に触れそうなほど近づけて決して聞かせまいとしたまま、変わらずこっちを薄い目で伺っている。そしてふと徐に出てきた疑問を聞こうと、口を開いた。

「あ、もしかしてカイくんの―」

「あぁぁ! もう言わないでって言ったじゃん!」

「それよりなんで知ってるの!? りん言ってないじゃん!」

「まぁ…、えっと、最近カイくんと話すとき、いつもとぜんぜん違うなぁって思って…」

「うっ、やっぱりるかには隠し事はできないかぁ…」

 いや、りんちゃんがダダ漏れなんだよなあ。という言葉は胸にしまっておいた。


 カイくん、そう私が呼んでいるのは、少し前にこの街に越してきた人のことだ。年も名前もどんな仕事をしているのかも、何を聞いてもにっこりするだけで答えてくれない。けれど、いろいろなところを旅しているらしくて、たまにふと現れては、やぁ、と呑気な挨拶をして、それから沢山の面白い話を聞かせてくれる。だから私達はいつも話をしてくれるのを楽しみにしてる。話しをし終えると決まって「お話は面白かったかい」と聞き、面白かったと答えると「そうかい、そうかい」と少しだけ嬉しそうに言うのがどこか面白かったので、その語尾を取ってカイくんというあだ名で呼ぶようになった。

 それからたまに出会っては話を聞いて別れるということを繰り返した、この前の、先週の真ん中あたりくらいに、遠い遠い名前も知らないような街の、知らない女の子達のお話を聞いた。段々人も建物も減っていく街に暮らす女の子達のお話。その話の途中、その女の子達がどこか自分たちに似ているような気がして、ふとりんちゃんの顔にちらりと目をやった。その時のりんちゃんの表情はどこか上の空で、話を聞いてそうもないのに、とてもキラキラした目でカイくんを眺めていた。それを見た途端、何故か最近よくそんな表情をしていることを思い出して、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ胸がチクリとしたような気がした。

 そんなりんちゃんのいつもと違う様子を見てしまって、私も話が上の空になっていると、途中カイくんに「ちゃんと話を聞くんだよ」と、よくわからない注意を受けてしまったことをぼんやり覚えている。

 

 「ねえ、上手くいくかなぁ」

 その呟きにまた一人でしていた考え事から急に現実に引き戻された。

「あ、えっと、りんちゃんはカイくんのことが、えっと、…好きなんだよね?」

結局答えを聞かないままでいたので、もう一度答えを尋ねた。

「うん…、初めてだもんなぁ」

しかし、要領を得ない返答に私は戸惑ってしまう。

「ん?えっと、好き…?」

「うん?どうしたの?」

「「?」」

 あんまりにも話が噛み合わないみたいで、つい二人は目を合わせて首を傾げた。

  お互いの間の抜けた顔に思わず笑いだしてしまった。それからひとしきり呼吸をおいてからまたりんちゃんから話をし始めた。

「ええと、りんがカイくんのこと、好きになっちゃったっていうのはいつから知ってたの?」

「あ、えっと、そのさっきりんちゃんがすごく慌ててたから…、それとなんか、やっぱりカイくんと話してるときとか、いつもとぜんぜん違うなって思って、もしかしたらそういうことかもしれないなって思って…」

「え、もしかして知ってたわけじゃなかったの?」

「う、うん…」

 どうやらりんちゃんは、私がりんちゃんがカイくんのことが好きなことをとっくに知っていると勘違いしていたみたいだった。私は、今の今まで、りんちゃんがあんな表情を見せるまで気づかなかったと言うのに。

 一方、その答えを聞いたりんちゃんは、途端にまた顔をそらして、今度は両手で表情を見せないようにした。こんなりんちゃんを見るのは初めてだ。

「あぁぁ、完全に自爆したよ、りんは…」

 それからすぐに顔を上げて、得も言えぬ表情でこちらを伺っている。

「てっきりるかにだったらとっくにバレてるかなぁって、ずっと思ってたよ…」

「なんだか初めて、だね。こんな風に噛み合わないのって」

「いつもだったらもっと気楽に話せてた気がするんだけどなぁ…」

「うん、そうかもね。それに、最近なんだかりんちゃんちょっと変わったよね」

 その私の何気ない言葉にりんちゃんは急に声を荒立てた。

「るかも変わったよ!ここんとこあんまり返事してくれないもん」

 どうしてか、そう言われて私は凄く驚いた。いや、どちらかというとショックを感じた。

 私が、りんちゃんがいつもと違うと思ってるのと同じ様に、りんちゃんの目には私が変わって見えていたことなんて全く考えもしなかった。そんな私を他所に、またりんちゃん続ける。

「なんだかずっと、りん一人で喋ってるみたいでバカみたい」

 りんちゃんはまた口をとんがらせていじけたふりをした。でも私はその言葉に私は罪悪感を感じて、今までりんちゃんに返すための探していた言葉が、急に何か恐ろしいものの様に感じた。

「ご、ごめん、そ、その悪気はなくて…」

 思わず謝ってしまった私を見たりんちゃんはまた大きな声で

「違う!別に謝ってほしいわけじゃなくて…!」

「―あ、いやごめん。ちょっと今のは言いすぎだった…」

 もちろん、私にはさっきのりんちゃんの言い方に棘はないのはわかっていた。でも、りんちゃんにちゃんと言葉を返したいのに返せないもどかしさと、返せなかったことで少しりんちゃんを傷つけてしまったことが、何よりも私の胸の奥の方をチクチクと刺した。

「でも、るかが何考えてるか言ってくれないのはなんか、すごく嫌」

「思ってることはちゃんと言ってほしいよ。りん達ずっとそうやってきたじゃん」

「えっと、それはその、言いたいは言いたいんだけれど…」

 ああ、早く伝えないといけない。そればかりが心を埋め尽くし、ただ必死に言葉を探した。

「―ほらぁ。やっぱり考えてばっかで言ってくれないじゃん」

「別に思ったことをそのまま言ってくれたらいいのに…」

「あ、ご、ごめん…」

 不満そうな声で非難するりんちゃんに、私はそれでも謝ることしか出来なかった。それからふたりとも顔を背け、これ以上何か言えることもなく暫く黙ったままでいた。

「りん達、どうしちゃったんだろうね…」

  誰に言うでもないその呟きに、少し気まずくなってふと顔を上げてりんちゃんの目を見てみると、どこか寂しくて、なぜか悲しくて、それでも言葉にできないキラキラに似た何かが遠くを見つめていた。

 あぁ、そういえば最近りんちゃんの目をよく見ていなかったんだっけ。

 そんな二人の間をまるで遮るかのように風の通り過ぎる音だけが辺りに木霊している。

「ねえ、一人になるってどういうことなのかなぁ。」

 不意にゆらゆらと揺れることもなくなったブランコからさっと立ち上がって、りんちゃんはそう呟いた。

 それはいつもの様な、何も変わらない調子だった。なのに、それなのに何故か少しだけ、ほんの少しだけ胸がチクリとした。だから何かを答えたいと思ってまた返事を探し始めた。

 りんちゃんは、ふうっと息を吐いて振り返る。

「―それじゃありん、そろそろいかなきゃ。また明日ね!じゃあね…!」

 そう言ってりんちゃんはいつもみたいに、笑顔で手を降って角を曲がっていった。

 それを横目に、まだ、まだ私は返事を見つけることすらできないでいた。

 そんな私を焦がすように、夕日は遠く沈みかけていた。

 私はそのまま、帰れないままりんちゃんと別れた公園で、ずっと見つけられないでいた何かを探していた。いつもは何を話したかもあんまり覚えてなくて、ただ楽しかったことだけが胸を満たしてたはずなのに、それなのに、最近はずっと何を話したかということがどうしても胸に支えてしまう。私は、私がちゃんと返事をできていたことをあまり覚えていない。それが今になってとてもとても大きな不安となって喉元に触れるのを感じた。でも、どうしても私が心に浮かぶ、私の好きなあのキラキラした目が、どこか懐かしかった。というより、どこか寂しかった。

「りんちゃんも私もどうしちゃったのかな」

 その呟きは誰にも届くことなく、宙に消えてどこかに行ってしまった。





「やあ、元気かい?」

 行方のない考え事をしている最中、急にかけられた声に思わずびっくりして顔を向けた。そこには例のカイくんがいた。あまりに驚いて返事をするのに手間取っているとまた、元気かい?と再び尋ね、先程の返事を待っていた。が、私が返事をする前よりも早く

「おやどうしたんだい?なんだか元気がないぞ?何か変なもんでも食ったかい?」

「あ、いや別にそんなことは…」

 この人は嫌に勘がいいみたいで、本音ダダ漏れのりんちゃんはもちろんのこと、あまり表に出さない私でさえも考えを読まれてしまう。まるで言葉を使わず本音で話しているみたいに。

「ふーん、そうかいそうかい。まあさしずめ悩み事かなにかだろう」

「いやあ若いっていいねえ。いつだって悩みたまえよ、よ」

 そう言ってカイくんは、さっきりんちゃんが座っていたブランコに腰をおろした。

 そして、私がなにか言葉にする前にまたカイくんが口を開く。

「さあて、何を悩んでいるのか、このくんに教えてごらん」

 余裕のある優しい表情でこちらを伺っている。やっぱりこの人にはどうしても口を閉ざしておくことは出来ないみたいだ。そう思っている間にも、私は既に口を開いていた。

「えっと、最近、りんちゃんがいつもと違うなって、あ、りんちゃんだけじゃなくてなんか私も違うみたいで…えっと、なんて言ったらいいのか…」

「―あ、そうじゃなくて、最近私が何かりんちゃんに言いたいことがあるはずなんだけれど、それが全然見つからなくて…」

「いや、りんちゃんの雰囲気が違うから私も変わっちゃったのかな…」

 そうやって促されるままに口を次いで言葉を出したはいいものの、思っていたことや感じていたことを言葉にするほど、私が本当に言いたいこと、理解したいことが遠のく様に感じた。

 俯くそのままに結局私はまた、言葉を探し始めた。

 一人でブツブツと言葉を繋ぎながら、ああでもないこうでもないと考え事に夢中になっていると、また私が話している人を置いてきぼりにしていることに気がついた。

 そして、今一度言葉を探すのを中断し、カイくんの方を見上げた。

 そこにはニヤケ面の張り付いたカイくんの顔があった。

 「え、何、カイくん…」と困惑する私と裏腹に、「いやぁ分け入るほどに青いなぁ」とニヤニヤと嬉しそうな顔をみせて、そうかいそうかいと妙に納得したように頷いていた。

 私が困ったままでいる様子を見て、うんうんと言って、それから少し何かを考える素振りを見せ、私にこう尋ねた。

「殊に君、一番君が答えを出したい悩み事は何なんだい?」

「一番答えを出したいこと…?」

唐突な難しい質問に私は思わずカイくんの目を見て固まってしまった。カイくんはそれを見て

「ああ、ゆっくりでいいさ。いや、ゆっくりの方がいい。焦らずに一番必要な答えを探すんだ」

 カイくんがニヤッとして、何か企んだ顔をしている。私にはなんとなくそういう風に見えた。

「とりあえず、じっくりと、とっくりと考えてみるんだ。時間ならこれから十分にあるだろう」

「でも何をどうやって、それに探したところで見つかるの?」

「そんなもん僕にわかりっこないさ。無いなら無い、有るなら有る。そういうもんさ」

 ―無責任な。そう思ったことは言わずに置いておこう。と、カイくんが唐突に


           「あんまりに無責任かい?」


 ドキリと背筋が鼓動した。ああ。読まれてしまった。私は面食らってカイくんを見つめた。

「ははは。冗談さ冗談。たださっき言ったことは強ち間違いというわけでもないんだな」

「僕には分かることはなんにも無い。けれど感じることは有るってことさね」

 私は戸惑った。カイくんは普段から言うことが難しくて、説明がないとあまりわからないのだけれど、今回に限っては、さっきの質問に続いて、何を話したいのかが益々わからなくなった。

「えっと、ごめんなさい。どういうことか全然わからない…」

「はは、そうだろうね。大丈夫、順を追って説明するよ」


「―そうだな。今君は僕に心を読まれたと思っただろう?」

「 けれど別に僕は君の心が分かるわけじゃないんだ」

「え、そうなの?」

「ああ、そうだとも。僕は精神科医でもなければ臨床心理士でもない。況や、超能力者なはずがない。寧ろそういう方面にはめっぽう疎い方さ」カイくんは肩をすくめて戯けたように言う。

「じゃあいつもどうやって考えてること当ててるの?」

「当てている訳じゃない。こころだ。こころを見ているんだ。」

 カイくんはそう言って遠くを見据えた。その目はどこか、りんちゃんのキラキラに似ていた。けれど、すぐにまた何かにやっと企んで話を続けた。

「ああ君、人の存在と感情、と言ってピンと来るものは有るかい?」

 人の存在と感情、ちょっと考えようとしてみたけれどさっぱりなんのことだかわからない。

「まあ僕が勝手に使っている言葉だから分かることもないだろうけれどもね」

 そう言って意地悪そうな笑顔を向けるカイくんに、私はムッとした顔を返した。

「カイくんはまたそういう意地悪言うんだから」

「ははは、ごめんごめん。でもこれって結構大事な視点だと思うんだ。」

「さて、僕がここで言う存在って言うのは、誰が聞いても同じ様に理解できるもの。感情っていうのは誰にとっても分からないものっていう意味なんだ。分かり易く言うと一方は、その人の名前は何か、年齢は幾つか、性別は何れか。そういう誰でも分かるもの。もう一方は人によって感じ方が変わるもの。そして正解がないもの。例えば君がりんちゃん、彼女の怒っている表情を見て本当に怒っているか、そうでないかなんとなく分かるだろう?」

「うん」

「でも、君以外の他の人が彼女の姿を見たとして、どう思うだろうか。分かるかい?」

「ああええと、怒っているって思っちゃうのかな…」

「そう思うかもしれないし、思わないかもしれない。人によって答えが変わるね」

「あ、うん、確かにそうだと思う」

「しかしどうだろう、もし君が彼女の知らない表情を見たとき、それが何なのか分かるかい?」

 そう言われて、私はあの淋しげでどこかキラキラしたあの表情をすぐに思い浮かべた。

「多分、いや、あんまりわからないと思う…」

「そうだろうね。君には初めて出くわした感情が何なのか判断する方法がないだろうからね。 きっとここ数日の間でもそんな心当たりがあるんじゃないかな?」

 そっと見つめられたカイくんの目に吸い込まれるようにうん、と頷いた。ふふ、そうかいそうかいとまた納得した嬉しそうな表情を見せた。

「 つまるところ、君が分からない感情に対しては答えが出せない。正解が見つからないということでいいかい?」

うん、そうだねと、確信をもってカイくんの言葉に同意する。

「さあ、ここで一つ質問だ。今君は判断が下すことが出来ない感情に対しては、正解が出ないことに同意したね?」

 うん、と私が頷くと同時にカイくんの目が、何か熱のようなものを帯びたのを感じた。

「そして君はさっき、彼女の感情には理解できる部分があるって言ったね。ならば尋ねよう、君は一体どうやって、何を根拠に、彼女の感情を決定しているのかい?」

 この問に一瞬困った。これに答えられるだけの考えを持ち合わせていなかった。だけど今からまた答えを探すには、カイくんは待ってくれない様子をしていた。

「え、どうやってって、りんちゃんがそういう風に見えるから…?」

 仕方がないので思うままを言葉にするしかなかったが、すぐにカイくんからまた質問された。

「それは彼女がそう教えてくれたことかい?」

「う、ううん。それを教えてくれたわけじゃなくて…」

「じゃあ誰かがそれを教えてくれたのかい?」

「え、えっと。誰…?べ、別に誰かが教えてくれた訳でもないと思う…」

「じゃあ一体そう考えたのは、誰だい?」

 カイくんはじっと私の目を見つめる。私もカイくんの目を見つめ返す。

 数瞬の沈黙の中、私はふと思い立った答えを口に出した。

「わ、私…?」

「そう、きっと君だよ」

「君が彼女と関わる中で、経験として彼女の感情に対して定義付けをしていったんだ」

「だがしかし、故に君が彼女の感情に知りうる全ては、君が勝手に考えたことに過ぎないのさ」

 熱を帯びながらも、カイくんの目は冷たく輝いて、力強くそう断言した。

 その言葉に私は、急に恐ろしくなって、言葉を止めることが出来なかった。

「で、でも!りんちゃんと私は幼馴染の頃からずっと一緒だったんだよ…!」

「だから、私はりんちゃんのこと、他の誰かよりも知ってる―」

 少し荒いだ声が口を次いで出たと思うと、その言葉が私の口を急に閉ざした。

 あれ、そういえば私はりんちゃんの何を知ってるんだっけ。確か、りんちゃんは私の幼馴染で、同い年の女の子で、私の一番の友達だ。でも、それがりんちゃんの全部なんかじゃない。それに、りんちゃんが私に初めて見せたあのキラキラや、遠く眺める表情は私はまだ良く知らない。それにもしかしたら私が知らないことだってまだ沢山あるかもしれない。

寧ろ、私が知らないことのほうがずっとずっと”多い”のかもしれない

 その考えが頭をよぎった途端、まるで私が世界でたった一人でいるかの様に感じ、胸の奥がまたチクチクと痛みだした。怖いのか、寂しいのか、悲しいのか、よくわからない気持ちでぐ溢れそうで、思わず助けを求めるようにカイくんの瞳を見つめた。

 そこにはさっきと打って変わって、穏やかで優しく、温かい瞳があった。



           「大丈夫、君はひとりじゃないさ」


 

 その一言で、私はずっと胸の奥に支えてた何かがすっと取れた気がした。

 

 そして、それは少しだけ、どこか私の探していた言葉のような気がした。


 私がぼうっと見つめていると、カイくんは満足したように口を開いた。

「さあて、そろそろ僕の役目は終いかな。あとは君自身でも、いや君たち自身で歩いてゆけるだろうさ。これから何年もゆっくり時間をかけてね」

 そう言って立ち上がるカイくんにつられて、私も思わず立ち上がった。

いやあ、旅立つ前にいい置き土産が出来たよ、と上機嫌そうにカイくんが呟いた。私は驚いて

「え、もうどっか言っちゃうの?」と尋ねると、「うん十分にここに長居したさ」と答えた。

それからいつ旅立つのか尋ねてみると、なんと明日にでも旅立つという。

 私は少し寂しさを覚えたが、それよりもりんちゃんのことが気掛かりになって、そのことをカイくんに話そうとした。けれどカイくんは口に人差し指を当ててそれを遮った。

「君、それを君の口から言うのは野暮ってもんだよ。あ、別に君が何を尋ねようとしているのかは僕には毛頭分かることでもないんだがね。本当に本当だよ」

そういつものようにカイくんは肩をすくめて戯けて答えた。

「まあ別れっていうもんはサッパリした方が後味もいいってもんだし、僕はこの辺で行くとするよ。彼女にもよろしく伝えてくれたまえよ」

 手を降る私を背に、カイくんはまるでそよ風のように歩いていった。

 

 



 カイくんが公園を去ったあと、私は急にりんちゃんに会いたくなった。

 

 それから居ても立ってもいられなくなり、気がつけばりんちゃんが曲がった角を走り抜けた。


 早く、早くりんちゃんに言わなきゃ。ずっと言いたいことがあったって。

 

 ちゃんと伝えたいことがあるんだって。


 いつか聞きたいことがあるんだって。


 私は走って、走って、走った。


 そうしてりんちゃんがいつも使う駅が見えた。ホームにはりんちゃんが居た。


 「りんちゃん!」


 息を切らしながらもフェンス越しに叫んで名前を呼ぶ私に、りんちゃんが驚いて振り向く。


 「私…!私、りんちゃんに言わなきゃいけないことも、聞かなきゃいけないこともあるの!」


 「だから…!だからこれからは―――――」


 


 声が辺りに響く中、やっと見上げた顔の先には私達を照らす夕焼けがあった。

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