サヨナラに降る

増田時雨

サヨナラに降る

「……また雨。」


夏の夕方に光る雨。

私はその中に彼の声を、いつも探している。




なぜ、雨の日に限って傘を忘れるのだろう。私は思わずため息をつく。

6限終了目前となって降り出した夕立は、みるみるコンクリートを灰色に濡らす。


私は意を決して雨の中に一歩を踏み出した。すぐさま髪に水滴が付き、前髪が額に張り付く。私はそれを振り払うように駅まで走り出した。


途中でコンビニが目に入ったが、もう濡れてしまったし、今更傘を買っても意味はないだろう。明日は絶対に折り畳み傘持ってくるし。私はそう決心して駅へと急いだ。



自宅の最寄り駅である富士見駅へ着くと、静寂が私を包んだ。電車に乗っている間にも降り止まなかった雨が私だけの世界に降り注ぐ。


もう少し雨宿りしてから帰ろうか。

私は無人駅のベンチに座って本を開いた。

しかし、むっとした風が顔にまとわりついて、集中して本が読めない。


「っくぁ〜……。」


私はぐっと体を伸ばして空を仰ぐ。まだ降り続いているものの空に雲はなく、夕焼けが街を赤く染める。狐の嫁入り、だったっけなぁ、こういう天気。


ぼーっとそれを見ていると、私の前に影が落ちた。ぼんやりしたままで目の前を見ると、見知った顔と目があった。


「お、やっぱヤヨイだったー、久しぶり〜!」


「久しぶり。」


何年ぶりだろうか、湿度の多い空気とは似合わないような爽やかな声で私を呼んだ彼は、私の隣に腰を下ろした。



「小学校の卒業式ぶりかぁ、今はどうしてんの?」


「あー、まぁ、普通。」


「普通ー?つれないなぁ。」


そう言ってへらりと笑う。彼は小学校時代の同級生で、中学で別れてしまってから会う機会がなかった。それなのに、まさかこんなところで会うとは。


「いつもここの駅使ってるの?」


私は何気なく彼に質問する。


「いや〜?雨のときだけだよ。基本はチャリ通。」


「へぇ〜、一緒だ。」


私達は今の会話を続けようともせず、空を見上げた。少し弱まった雨は夕焼けの光を浴びて、キラキラと輝いている。静寂が二人の間を通り抜ける。


「……そろそろ帰ろうか。」


彼はそう言って、勢いよく立ち上がった。私もそれににつられて立ち上がった。



「あ、傘……。」


改札を抜けてから、雨宿りをしていた理由を思い出した自分を少し呪った。あーあ、ここで立って雨宿りしないとな。


「え、傘ないの?」


彼はそう私に聞いてから、鞄の中に手を突っ込んでなにかを探し始めた。

彼の持っていた長傘は、リュックの持ち手にぶら下げられている。傘についた雨粒が

彼の制服に透明なビーズを付ける。


「えっとー?……あ、あった!」


鞄から出てきた彼の手には、赤い折り畳み傘が握られていた。


「ナイス、昨日の俺!」


そう言いながら私に差し出してくる。


「使えよ。ヤヨイ、小学校の時すぐ風邪ひいてたし。」


「え、いいよ。もう体も丈夫になったし。」


「でも、ヤヨイを雨の中帰らせるとか、俺が嫌なんだよ。」


そう言って彼は私にぐぐっと傘を突きつける。


「……分かった。ありがと。」


私は彼の好意にちょっと恥ずかしく思いながら傘を受け取った。ぱっと傘をさすと、綺麗な夕焼けに赤い傘が溶け合って、優しく私を包む。


「どこらへんだっけ、ヤヨイんち。」


「えっとね、富士見小の近くだよ。」


「お、じゃあ途中まで一緒じゃん!一緒に帰るわー。」


そう言って彼は私の隣に並んで歩き始めた。

私たちの間に、しばしの静寂が訪れる。

黙ったままで歩き続ける通学路は嫌な空気じゃなくて、心地よく感じた。



次の日。

せっかく折り畳み傘を持ってきたのに、残念ながらそれを使うことはなかった。

昨日からは考えられないほどの強い光が地上に降り注ぐ。

私は昨日置いていった自転車で、晴れ渡った天気の中、帰路を走った。



その日から、夕立はぱったりとなくなり、傘の出番はめっきり減っていった。

だからだろう、完全に油断にしていた。

6限が終わり、冷房のきいた教室から出ると、ザーザーと水がコンクリートを叩く音が廊下に響いていた。


「なんで傘のない日に限って……。」


私は思わず独り言を言ってしまった。今日も走って帰らないと。はぁ、とため息を漏らしながら昇降口へと歩く。友達は今日も部活に忙しいようで、私に口々に挨拶をしながら横を通り過ぎていく。


私は憂鬱な気分のままで階段を降りていく。もう今日は諦めて濡れて帰ろうかな。

そう思った途端に彼の顔が思い浮かぶ。

……やっぱやめておこう、うん。

あんなふうに心配してくれた彼に急に申し訳なくなって、私は途中のコンビニで安いビニール傘を買って帰った。



富士見駅で降りると、一つだけのベンチに彼が座っていた。鞄を前に抱え、遠くを見ている彼に話しかけようか迷っていたら、前と同じ爽やかな声が私を呼んだ。


「ヤヨイ!久しぶり〜」


「やっほ、誰か待ってるの?」


「いや?ヤヨイが来るかなぁと思って。」


よっ、と言って彼は立ち上がり、自慢げにこういった。


「つまり、俺の予想は大的中だったわけだ!」


ふふんと鼻を鳴らして、私の隣へと歩いてくる。

私はそんな彼を見て思わず笑みをこぼす。


「来なかったらどうするつもりだったの?」


「んん〜、頃合いを見て帰るんじゃない?」


「テキトーすぎ」


彼は私の反応を見てにっと笑い、言葉を続ける。


「だからヤヨイが来てよかった!」


彼の屈託のない笑顔を向けられ、思わず目をそらす。


「それはよかったです」


私は口早にそう言って歩き出した。

改札を抜けると、雨はすでにやんでいて、すぐ目の前に真っ赤な太陽があった。

彼の笑顔みたいだな、そう思った。



それから、雨の日は彼と帰る事が増えていった。

学校のことなどを話すこともあったが、ほとんど話すことはなかった。

話さなくても、心地良い空気。

彼にとっても、そうだといいな。私は密かに夕焼けに祈った。



しかし、ある雨の日。

彼は来なかった。待てど暮らせど彼の影は私の前に現れなかった。

どうしたのだろう、雨の中、自転車を走らせて帰ったのだろうか。

この電車結構本数少ないもんな。自転車のほうが速いし。

私はそう言い聞かせて、一人の帰り道に空を見上げた。

どんよりとした雲が、真っ赤な夕焼けを隠していた。



その後も、彼は駅に姿を現さなかった。

ベンチに座った私の横に空いた、一人分の空間。

それを見つめているのが苦しくて、私はイヤホンをつけた。

自分の好きな音楽が流れ込んでくるのに、私の心は曇ったままだった。




夏の終わり。

もう夕立がほとんど降らなくなったときに、ある噂を聞いた。


『どうやらアオハがトラックと正面衝突したらしい』


その言葉を聞いた瞬間、全身の鳥肌が立った。思考が凍結した。

アオハ。それは雨の日だけ駅で会う、彼の名前だった。

思わずその話をしていたクラスメイトの声をかけた。

その子達は一瞬怪訝そうな顔をしたものの、詳しく彼のことについて教えてくれた。

彼が初めて駅に来なかった日に事故にあっていたこと。

トラック運転手の居眠り運転が原因だったこと。

今はここから三駅先にある総合病院にいること。

「ありがとう。」

そういった私の顔は、さぞひどいものだったろう。



私は自分の鞄を落ち着いて取り、静かに教室を出る。

休み時間の廊下には人が溢れており、それをすり抜けるようにして昇降口へ向かう。

流石にそこまで行くと歩いている人はまばらで、私はそっと靴に履き替え、学校を出た。

外へ出ると、透き通るような青空が広がっていた。

夏の最期に声を振り絞るセミたちが、その空に別れを告げている。


私は空を見つめたまま、駅へと歩いた。

初めて授業をサボってしまった。あーあ、明日怒られるかな。

そんな他愛もないことを考えていないと不安で押しつぶされそうになっている自分に、思わず苦笑する。

私は大きく深呼吸をしてから、駅の改札を通った。


病院内に入ると、クーラーの効いた風が私を包んだ。

私は少し緊張しながら、受付の女性に声を掛ける。


「あの、清水アオハという人は、ここに入院しているでしょうか?」


「少々お待ちください。」


受付の間に、しばしの静寂が流れる。私は近くにおいてあったパンフレットの表紙をぼんやりと見つめていた。


「清水アオハさん、いらっしゃいますね。お会いしますか?」


「はい、お願いします。」


「ここにお名前を。」


私は女性からペンを受け取り、自分の名前を書く。緊張で震えた字は、なんとも情けなかった。書き終えると面会者と書かれた名札を渡され、首にかける。


「四〇七号室です。」


「わかりました、ありがとうございます。」


私は小さくお辞儀をして、彼の病室へと急いだ。


清潔感のあるドアを開けると、美しい花束の間から彼の顔が見えた。

いつも笑っていた彼からは表情が消えていて、口に人工呼吸器がつけられ、左腕には点滴が打たれている。

私はそんな彼をじっと見つめて、ただただ座っていた。


何時間過ぎたのだろうか。外からぽつぽつと、雨の降る音が聞こえる。

私は椅子から立ち上がって、窓の外を眺める。

すぐ前にある大通りでは様々な色の傘が行き交っていて、灰色の世界に彩りを与えている。ぼんやりと眺めていたら、女性の声が室内に響いた。


「アオハ、今日も来たよ」


そう言って入ってきた女性は、私と目が合うとにこりと微笑んだ。


「あら、アオハのお友達?きょうはありがとうね。」


優しい口調で話す彼女は、どうやらアオハのお母さんのようだ。


「はじめまして。小学校の頃の同級生の、星野ヤヨイです。」


「あ、あなたがヤヨイちゃん?アオハから良く聞いてたよ、雨の日だけ一緒に帰る友

だちがいるって。」


彼が私のことを家族に話していることに驚いたが、嫌な気持ちではなかった。


「今日、友達からアオハくんが入院していると聞いて、何もお知らせせずに来てしまいました。申し訳ありません。」


「いいの、謝らないで!アオハもきっと喜んでるわ、あなたと一緒にいるの、とても楽しかったみたいだし。」


彼女はとても温厚な笑顔で、私を受け入れてくれた。


彼女はアオハの状況を、わかりやすく話してくれた。

辛いと思うのに、彼女は終始微笑んだままだった。

こんな人にアオハは育てられたのか。とても納得だった。

アオハは、脳の機能が停止してしまっている、いわゆる「脳死」になってしまったと、彼女は言った。


「でもね、もしかしたら、もしかしたらアオハが戻ってくるかもしれないって、お医者様が言ってくれたの。だからね、私達はそれまで待とうって。」


彼女は、アオハの手をとって言った。しかし、アオハは動かない。

私は、何も言えずにただ黙っていた。

脳死。

いろいろな所で聞いたことのある言葉が、こんな重かったなんて。


ふたりだけで帰った通学路の景色が、脳内にフラッシュバックする。

あんなにきれいだった景色を、共有できる人はもういないんだな。

そう思った瞬間、私の中の何かが壊れる音がした。


目から、信じられないほどの涙が溢れてくる。アオハのお母さんが、私へ真っ白なハンカチを差し出してくれた。


「平気です、ちょっと外出てきますね。」


私はどうにかそう言って、逃げるように廊下へと飛び出した。

そのまま階段を駆け下り、雨の中へと走り出す。


もう、この世界には赤い折り畳み傘を差し出してくれた人はいない。

もう、あの古びたベンチで私を待ってくれた人はいない。

もう、あの二人きりの空気が心地よかったか聞ける人は、いないのだ。

私の中で、彼の存在がとてつもなく大きくなっていたことに今更気づく。

なんでもっと早く気づかなかった、もっと早く聞かなかったんだ。

いつもタイミングが合わない。

夕立と一緒だと思った。折り畳み傘を持っていないときに限って、雨が降る。

折り畳み傘がなくなってから、それの必要性を感じる。

本当に自分に飽き飽きした。


もうびしょ濡れで、病院にも帰りたくても帰れなくなってしまったとき、富士見駅に着いていた。


「ほら、風邪引くよ」


後ろから、一番聞きたかった声が聞こえた。

ぱっと振り返ると、そこに彼の姿はなかった。

しかし。

そこには、燃えるように赤い夕焼けがきらきらと輝いていた。

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サヨナラに降る 増田時雨 @siguma_rain

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