紫陽花

じゆ

紫陽花

紫陽花


陰った雲が流れている。

窓を開けると、じめじめした湿気が肌をなでてくる。

ビルやマンションの立ち並ぶ間を車が何台も通り過ぎていく。

「だいぶ冷えてきたな。もう一枚羽織るか。」

時刻を気にしながら、夏帆さんからのメールを見返す。


「今日、彼が外せない用事ができたらしくて、

 予定を繰り越そうとしたんだけど、式まで時間もないから、

 彼抜きで申し訳ないけど、今日私だけ行くことになったの。

 せっかく予定まで開けてもらって、せっかく久しぶりに会う予定してたのに。

 そういうわけだから、予定通りに店で夜7時に。」


高校の時の先輩の昇先輩が当時同級生だった夏帆さんへのプロポーズが

成功したお祝いをする予定だったのだが、一流企業に勤めた先輩はやはり忙しいのだろうか、夏帆さんと二人で食事をすることになった。

夏帆さんとは先輩経由で知り合った人で、

おしとやかで、穏やかなイメージで長く伸びた黒髪がよく似合っている。

最初先輩から夏帆さんを紹介されたときは正直、

遊び気のある先輩には不釣り合いなのかな、なんて思っていたが、

夏帆さんと付き合ってからは人が変わったようで、

夏帆さんのほうも先輩と出会う前は暗い孤高の人みたいだったけど、

先輩と付き合ってからはだんだん明るくなってきて、

先輩の後輩である僕にもよく話してくれるようになった。

そのうち、僕と先輩と夏帆さんと三人で遊びに行ったりするようになった。

邪魔になるかなと思っていたけど、夏帆さんが二人で行くのが恥ずかしかったらしく、帰り道別れるとき、先輩も夏帆さんもお礼をしてくれた。

僕自身お世話になった先輩が素敵な人とうまくいってくれてうれしかった。先輩たちが卒業してからは、先輩を通じて付き合いの報告をたびたび受けていて、先日結婚のプロポーズが成功したと知って心から喜んだ。

本当はすぐにでもお祝いしたかったのだが、先輩と僕の予定の兼ね合いがうまく取れず、何とか行けるかなと思って決めたのが今日だった。


家を出る前に一応傘を持っていくことにした。

空はさっきよりも厚く重たくなっていた。

高校時代を振り返ると、五年もの月日が経ったんだ、だなんてしみじみ思えるのは、この天気のせいか、若さを失ってしまったのか、それとも……。

予約していた店は、おしゃれな洋食店だった。

「あ、ゆっくん。」

白いワンピースに長い黒髪を流した夏帆さんが窓際のテーブルに腰掛けていた。

「お久しぶりです、夏帆さん。お元気そうで何よりです。」

「ほんと、久しぶりだね。五年だっけ、私たちも年を取ったよね。」

「なに、年より臭いこと言ってるんですか。

 むしろ、これから新しくとっていく年のほうが多いじゃないですか。」

「それもそうだね。」

少しほおを赤らめて、コップで口をふさぐ。コップをつかむ手には指輪がきらりときらめいている。

「先輩、飲まれますかお酒。」

「あ、そうね。こういう日だから飲もうかな。」

お酒が来るまでの間、空白を埋めていくようにこの五年間にあったことを話していた。先輩が大学入学したときにモテて気が気じゃなかった話とか、

僕が受験が大変だった話とか、先輩が就活の時すごく大変だったとか。

「では、改めて。夏帆さんご結婚おめでとうございます。」

カチリと、音を出してグラスを交わす。

久しぶりに飲んだシャンパンは普段のビールとは違って甘かった。

先輩たちの門出には甘いほうがいいのか、なんて

物足りなさを感じている自分に少しバツが悪くなった。

「ありがとう、こんな優しい後輩を持てて私本当にうれしいわ。」

少し、涙ぐみながら夏帆さんは言う。

「結婚式いつ上げるんですか。」

「今、彼と着々と計画してるんだけど、あれってとても時間が

かかるんだよね。あと、三か月ぐらいってところかな。」

「え、そんな時間かかるもんなんですか。」

「そうなの、これこそ初めての共同作業よね。どんなに大変でもどうしても上げたいの。これまでお世話になった人たちへのお礼だから。」

先輩は、照れからか、お酒のせいか赤くなったほおを緩ます。

「確かに、夏帆さんも先輩も年を取りましたよね。」

「なに、失礼しちゃう。そこまで老けてないわよ。」

「いや、そうじゃなくて、もう、先輩たちが返していく番なんだなって。」

店の外で走っていく光や、ぽつぽつとともる光が目にはねる。

「どうしたの、ゆっくんらしくもない。ほんと五年でふけたね。」

いじらしく夏帆さんが言う。

ストレートの黒髪を耳にかけると、赤くなった耳が顔を出す。

「お酒のせいですよ、きっと。」


ちょうどいいタイミングで料理が来て、またたわいもない話をいくらか交わした。料理は僕が知らないおしゃれな名前のものばかりだった。

食事が終わり、そろそろお開きかなっていうときに、僕は切り出した。

「夏帆さん、今でもアジサイは好きなんですか。」

さっきまでの酔い嘘のように覚めていた。

勢いをつけるつもりが失敗に終わってしまった。

結局、こんなに緊張してしまう。

そんな僕とは裏腹に先輩はさらりと答える。

「ええ、今年も彼に渡したわ。」

「そうですか、じゃあ、そろそろ時間ですし解散しましょうか。」

そういって僕はそそくさと会計をすます。

外の冷えた空気に酒で火照ったからだが心地よい。

「では、先輩によろしくお伝えください。じゃあ、今度は結婚式で。」

「そうね、今日はありがとう。」

雲は僕らの上で今にも降りそうなほど厚く、濃く、重くのしかかっている。

酔いがさめた頭の中には高校生の頃の思い出が流れていた。


夏帆さんと先輩と僕はよく三人で出かけていた。

行く先は大概街をぶらぶらと歩くようなもので、先輩と夏帆さんが並んで

その後ろを僕が歩くようなものだった。

中でも、夏帆さんのお気に入りの場所があって、そこに行ってから町に行くときもあれば、その日はずっとそこにいるときもあった。

夏帆さんは植物が好きだった。

僕と先輩はあまり詳しくなかったが、僕は夏帆さんの影響もあって、

少し知識もついて、観葉植物とか、そういうのも買うようにはなった。

僕が知っている頃には夏帆さんは毎年、先輩の誕生花らしい

アジサイをプレゼントしていた。

育て方のわからない先輩のために、押し花とかで生花ではなかったけど。

先輩はいつも喜んで、夏帆さんの前ではクールぶって、

僕とか部活のみんなの前ではこれでもかとのろけアピールをしていた。

僕もそんな先輩がものすごくうらやましかったけど、

ひとつ気になっていたことがあった。

いつもみたいに、三人で植物園に行ったとき、

先輩がトイレか何かでどこかに行って、夏帆さんと二人になるタイミングがあった。

その時に聞いてみた。そう、僕は軽くとらえていた。

「あの、夏帆さん。気になっていることがあって。」

どうしたの、と不思議そうな顔する。

「いや、そんな堅い話じゃなくて、単純に僕みたいなあまり植物に

 詳しくない人からすれば花で気になるのは花言葉なんで、」

急にのどが渇く。唾液をのんで済ます。

「先輩に渡しているアジサイの花言葉を調べたんですけど、

 僕の勘違いじゃなければ『浮気』ですよね。」

「うん、そうだね。アジサイは咲いている時期の中でも変化をしたり、土によって花の色がいつのまにか変化したりする花で、その性質に由来して「変節」「移り気」「浮気」という花言葉がつけられたともいわれているよ。」

やっぱり、そうなのか。気味の悪い汗が流れ出る。

「夏帆さん、先輩についてどこまで、」

「彼、戻ってきたよ。昇さんこっちです。」

その時の夏帆さんはとても鋭く、冷たい声で、表情一つ変えなかった。


先輩は、もともと遊び癖があった。

夏帆さんと出会ってから、それは歴然と減った。

それは、先輩の心変わりか、夏帆さんの影響かはわからない。

けれども少なくとも数は減った。そう、数が減っただけだ。

先輩には夏帆さん以外にほかの人が常にいた。

ただ、確実に夏帆さんのことが好きで、愛していたのは本当だ。

けれど、まさにあれは先輩の悪癖だった。

よく三人で遊びに行ったのは、先輩が予定をドタキャンしても、

夏帆さんと二人で行くことで埋め合わせしやすくするためだった。

もっとも、それは先輩の心の中の話で、夏帆さんがどうかはわからない。

僕も夏帆さんがどんなに先輩がおかしな行動をしても疑わず、

本当に何も気づいていないと思っていた。

アジサイの花言葉を調べるまでは。


今日はなんだか、高校生の頃が鮮明に思い返される。

夜風に吹かれながら心地よい僕についに雨が降る。

持ってきたは刺さず、天から降る恵は僕を伝っていく。

夏帆さんもまだ好きだったんだ。

振り返ってもそこには、ひたすらに降る雨を照らす光しかなかった。

雨が降れば花が咲く。

雨の多い時期にアジサイは咲く。

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紫陽花 じゆ @4ro

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