#13『1992年のドライバー』


 ホテルの正面玄関から石段を下りると、鈴木すずきみのるはしみじみと通りを流れていく無数の車を眺めた。

 そうしているうち、妙な感慨にふけりそうになる。あの車を運転している一人一人が自動車学校を卒業し、免許を自ら取得している。川のように流れていく車群も例外なしに、だ。冷静になってそのことを考えてみると、不思議な気持ちになった。

 実が自動車学校の教官になったのが1973年。それから40年近く運転の指導をしてきた。果たして自分は何人の生徒をこの車社会に送り出したのか、目抜き通りを行く、渋滞の中にも一台くらいは自分の教え子がいるのではないか、そんな気がした。


「で、その教習者人生も今日で最後というわけですか?」

 乗り込んだタクシーの運転手は左右を確認しながら、大通りへ出ていく。

「ああ。今日で定年退職だよ。同僚がホテルで会食を企画してくれてね」

 行き先を運転手に伝え、シートにもたれかかる。車窓からも車しか見えない。

 前を行く車が危ない運転をする。

「でも、お客さん。僕はたまに思うんですけどね、こいつには免許をやっちゃあいけねぇってやつもたまにはいるんじゃないですか? 僕なんか、こうして一日中走ってると、なんでこんな奴が免許持ってんだよって怒りたくなることありますよ」

 実は笑って、少し考えこんだ後、思い出した。

「ああ。確かにいるな。運転っていうのは基本的に慣れと臆病で構成されているものだと私は思っている。誰しも最初臆病すぎるか、舐めすぎている。でも大体の奴は回を重ねるごとに、慣れていく。運転の大半は慣れだよ。ただ、そうなると臆病を無くしてしまう。自分を過信した運転が危険なのは言わずもがなだが、かと言って臆病すぎる運転も問題だ。大切なのはバランス、バランスだよ。免許を持つ人間は、比重はそれぞれあるにしろ、慣れと臆病を秤にかけながら運転するようになるんだ。ただ、ごくまれにその二つともが欠落した人間がいる……」


 その生徒が入校してきたのは、1992年の初夏だった。最初の実地研修で顔合わせた実は思わず言葉を失いかけ、その理由が分からないことで更に混乱しかけた。別段、特異な格好をしているわけではない。今までも髪をワックスで固め、まさに怒髪天を突くような風貌で来た男や、ビーチサンダルでやってきた女を見たことはある。それに比べて、目の前の見立て、20~30代前半ほどの若者は、無地のシャツにチノパン。ナイキのスニーカー。髪型も短く刈り揃え、耳も出ている。気になるところといえば、その耳が奇妙な形に歪んでいたことぐらいだ。それも、考えてみれば武道をやっている人間によく見る耳介血種の跡だ。珍しくも、異様でもない。しかし、妙な違和感は拭えなかった。

 歳をとると長年の勘、というものを信望せざるを得なくなる。今までの微細な経験の集積が、明らかに警告を発していた。


「で、その勘は当たってたんですか?」

 運転手はウインカーを出し、車を左折させ尋ねた。

「ああ。まったくもって的中だったよ。誰しも、最初は運転が上手いわけじゃあない。まだ、ミッションばかりだったから、むち打ちになるぐらいエンストしてつんのめることもあった。だが………彼は、上手だったんだよ。初めてだと、本人は言ったし、きっとそうなんだろうが、とにかく初めての実地研修で、一度もエンストしなかった」

「え、じゃあ運転が上手だったってことですよね。勘が当たってたっていうのは……?」

「最初は上手い、ただそれだけだと思ってたんだよ」

 実地研修を以降重ねても、その上手さは箔がかかっていくようだった。ハンドルさばきも、アクセルの踏み方も非常に巧み。一見問題はないように思えた。しかし、仮免許を取得し、路上へ出たときにそれは起こった。


「何やってんだよ、ババアッ!」

 回想に浸っていた実はその声で現実に引き戻された。見ると、軽自動車に乗った老婆が右折レーンへ入ろうと、車を止めていた。運転手は舌打ちを繰り返し、容赦なくクラクションを鳴らした。

 老婆は怯えた顔でこちらを一瞥すると、スピードを出して車列に割り込んでいく。

「ったく、舐めてんのかよ、ババア」

 ルームミラーで怒った運転手の顔を見る。実は無意識のうちに、シートのカバーを固く握りしめた。

「すみませんね、お客さん。ったく、あんな間抜けは車に乗っちゃあいけねぇんですよ。で……その勘が当たったっていうのは?」

「い、いや、路上教習に出ると、運転が荒っぽかったんだよ」

 実はそう軽く返し、窓の外をながめた。まさにあの時と同じだ。あれほど運転が上手だったにもかかわらず、路上に出た途端その生徒は凶暴になった。車内では容赦なく、暴言を浴びせ、アクセルを限界まで吹かす。臆病を失い慢心している風には見えなかった。それは車という一匹の生き物と同化しているように、実は感じた。

 どんくさい運転をしている人間は攻撃しても構わない。自分が絶対的に正しいと心の底から信じ込んでいる風体だった。


「車の良くないところって、人轢いたら、百パーセントこっちが悪いってところですよね。僕は、ルールを無視して渡ってくる奴は別にひき殺したってかまわないと思うんですよ。死んで当然、じゃないすか」

 運転手はぼやき、信号の前に停車する。

 あの男に免許を出してはならない。ほかの教官や教主所にもそう伝えていた。

 彼がその後、免許を取得し教習所を卒業したのを知ったのは数週間後だった。

 あのドライバーが今もどこかで走っていると思うと、恐ろしかった。

「その、ドライバーどんな奴だったんです?」

 信号が青に変わり、タクシーはゆっくり前進し交差点へ進入していく。

「そうだな、少し変わった名前だった気がするな」

「変わった名前ですか……」

 何の気になしに、実は男の名札をちらりと見る。変わった名前だ。まさか、と妙な嫌悪がゾクゾクと体を駆け巡った。

「他にはなんかないんですか?」

 そうだ。耳。彼は特徴的な耳をしていた。つぶれた耳。咄嗟に耳は運転手の耳を見た。しかし、肝心の耳には髪の毛が覆いかぶさり、見ることが出来ない。

「み、耳を……」

「は?」

「耳を見せてくれ、」

「どうしてです」

「耳、それさえわかれば―」

 



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