第三幕『よはなべてこともあり』8



 鳴茶木真愛はずっと探していた。ある人間を。


 その人間を探す過程で、ただの食事としか思っていなかった人間に興味を持った。その歪な生き方に興味を持った。


 魔女は本能だけに従って生きる。だが人間はそうではない。他者に従い。世界に従う。何故自らの本能に従わないのか。何故、白く純粋な心を自ら黒く染めるのか。


 いつしか彼女は、人間の心を知りたいと考えるようになっていた。魔女のそれとは違い酷く不細工だが、抗い難い魅力がある人間の心を。


 そしていつしか彼女は、人間の心を美しいと考えるようになっていた。そして、醜く歪んでしまった心を、自らが望む美しい形に戻したいとも考えるようになっていた。


 それはまるで、人間が動物を自分の思い通りに操りたいと考えるように。


 だから魔女、鳴茶木真愛は自ら人間社会に解け込み、人間、蓮堂聖として心を扱う精神科医となった。人間の心を理解してゆくその間も、ずっとある人間を探し続けていた。その人間とまた逢えることを、彼女はずっとずっと願っていた。


 そしてあるとき唐突に、その願いは叶うのであった。




「こんばんは。今朝ぶりですね輪炭さん」


「ど、どうして……」


 銃を持った右腕は脱力し、音もなく地面に着いた。


「ああ、流石に驚いていますね。大丈夫です。先ずはゆっくり呼吸をしてください。落ち着きますよ」


 陣平は無意識に鳴茶木真愛、もとい蓮堂聖の言う通りに呼吸をしていた。それに気付いた陣平はバツが悪そうに舌打ちをし、右手に持つ銃を強く握りしめる。


「アンタ、女だったのか」


「ふふ……男と言った覚えはないですけどね」


 真愛は艶やかな仕草で唇を撫でて見せる。


「精神支配をしたのは診察のときか?」


「そうです。わたしの思い通りに動くように精神を支配させていただきました。左腕が動くようになったときに微かな違和感があると言っていましたよね? それは恐らく、ずっと動かなかった左腕だけが、深い精神支配を受けているのを微細に感じとっていたからです。そのおかげで、左腕には強く精神支配の影響が出ていましたね」


 真愛は陣平の左腕を、舐めるように眺め回す。


「何故だ、何故オレを精神支配する必要があった?」


「貴方を救うためです」


 真愛の意外な答えに、陣平の頭は真っ白になる。それでも、喉元まで来ていた一滴の言葉をなんとか絞り出す。


「オレを、救うためだと? ふざけんじゃねえぞ!」


 湧き上がる怒りに任せて陣平は叫ぶ。


「ふざけてなんかいません。輪炭さん。貴方は呪われています。この魔女、まつかひをんなに。


 真愛は鈴璃に軽蔑の眼を向け言った。訊いたことのない真剣な声色に気圧され、陣平は閉口する。その頭の中には一つの大きな疑問が渦巻いていた。


 オレが、


 東京の街は、まるで誰もいなくなったかのような重い静寂に包まれる。


 パン。


 真愛が両の手を叩く音が、街中に一際大きく響き渡る。


「お前、いまなにをした?」


 敵意を込めた眼差しで陣平は真愛を睨み付ける。


「貴方の精神支配を解きました。あの魔女が死んだ今、もう必要はありません」


「なんだと? どういう意味だ?」


「魔女にかけられた呪いを人間が解く唯一の方法。それは、です」


「そうか。だからオレの精神を支配したのか。オレに鈴璃を殺させるために」


「その通りです。理解が早くて助かります」


「何故そんなことをする必要があった?」


「輪炭さん。わたしは貴方を救いたい。だからわたしは一連の事件を起こしたんです。まつかひをんなをわたしの眼の前に引き摺り出し、逃げられない状況にするためにね」


 真愛の告白に、陣平の口は硬く閉じられていた。


「輪炭さん。貴方はまつかひをんなの名前の由来をご存知ですか?」


 唐突な質問に、陣平は答えられなかったが、真愛は構わず話を続ける。


「まつかひをんなとは〝禍使まがつかおんな〟の言い方が変化したもの。禍使い。すなわち災いの使い。災いの象徴とされる魔女の中でも、まつかひをんなは特に他者に災いを齎す存在。貴方はそんな魔女に取り憑かれて呪われている。思い出して下さい。過去貴方は大切な人を多く亡くされている筈です。わたしに話してくれた同僚の死も、それが原因で左腕が動かなくなったのも、全て、まつかひをんなの呪い、〝惨禍さんかのろい〟によって引き起こされたものです」


「惨禍の呪い?」


 陣平の脳裏には、否応なしに両親、城築真古登、玉城瑞稀の顔が思い浮かぶ。彼等に訪れた死の情景が想起される。それだけではない。思い返せば、陣平は子どもの頃から多くの死を眼にしてきた。友人が火事で死んだことがあった。親戚が原因不明の病気で死んだことがあった。隠れて飼っていた野良猫が眼の前で車に轢かれて死んだことがあった。


 真愛の言葉で、忘れていたそれら過去の記憶が、次々に想起される。


 そうだ。それでオレは必要以上に他者と関わるのを止めたんだ。


 そう思った陣平の心を見透かしたかのように、真愛は二の句を継ぐ。


「魔女の眼は特殊なんです。人間の因果が見えるんです。因果絲はもうご存知ですよね」


 因果絲。全ての人間に存在する世界と繋がる絲。それを絶たれると世界との接点がなくなり、名前、記憶、それまでの人生を含め、存在の全てが消えてなくなる。残されるのは自分が誰なのかもわからない空っぽの魂が入った、物質としての肉体のみ。改めて思い返して陣平は身震いする。


「輪炭さん。貴方の因果絲は魔女の因果絲と絡まり、非常に歪な形をしています。偶然街で貴方を見かけたとき、貴方がまつかひをんなに呪われているとわかりました。まさかその貴方が患者として、わたしの病院を訪れるとは思いませんでしたが。貴方との接点を探していた私にとっては、降って湧いたような幸運でした」


 陣平は既に動かなくなってから数分経つ鈴璃へと眼を向ける。


「今までの貴方の身、及び、その周辺で起きた全ての不幸な出来事は、全て惨禍の呪いが原因でなのです。まつかひをんながこの世に存在している限り、貴方は大切な人を失い続ける。その様な因果が形成されてしまった。『悪魔と遊べば悪魔になる』という言葉があるように、『魔女と出逢えば呪われる』ということです。理解しましたか? これがあの魔女の秘密。まつかひをんなの正体です」


 陣平は困惑し、混乱していた。全ての不幸は鈴璃の呪いが原因? 鈴璃は何故自分に呪いをかけた? なにか目的があったのか? 何故だ? 何故だ? これが答え? これが鈴璃の伝えたかったことだっていうのか? 疲弊してうまく回らない頭の中を様々な疑問が駆け巡る。


「そもそもお前は、どうして東京をこんなにしてまでオレを救おうとする? そんな義理なんてねえだろ」


 陣平は、溢れそうなほど頭を支配する疑問群の中から一つを選び出し、質問として口にする。


「義理はあります。だってわたしは、あなたを心から愛していますから」


「は?」


 真愛の唐突すぎる愛の告白に、陣平は頭の中が真っ白になる。


「愛しています輪炭さん。貴方が無事でいてくれて本当によかった。まつかひをんなにわたしの本心を悟られるわけにはいかず、辛い選択ではありましたが、貴方を危険に晒してしまった。本当にごめんなさい。でも、生きていてくれて本当によかった」


 真愛は陣平の手を取り、安堵と、心からの謝罪を口にする。


 ようやく我に返った陣平は、乱暴に真愛の手を振り払う。


「なに言ってやがる。そもそもオレらが会ったのも偶然だろ。オレがアンタの病院に行かなければ出会うこともなかった」


「いいえ。だって貴方は……まあ、いいでしょう。本来、愛に理由なんて必要ありませんからね」


 真愛はなにかを言いかけるが、一旦口を噤み、また口を開く。


「わたしは壊れていたり、歪な物を見ると正しい形に、美しい形に直したくなるんです。貴方の因果絲を初めて見たとき、余りの歪さに鳥肌が立ちました」


 真愛は両腕を掻き毟る。なるほど、鳴茶木真愛は病的に潔癖な性格らしい。折り目ひとつ付いていない着物を見てもその性格の一端が窺える。


「それになにより、貴方はわたしの患者です。患者を救いたいと思うのは医者として当然のことです」


 そう言い放つ真愛の優しい声色に、嘘偽りは感じられなかった。その言葉は、染み込むように陣平の心に入り込んでくる。これでいい。こうなるのが正しかったんだ。なにも間違えていない。疲労により思考が鈍化した陣平は、心地良い水の中に揺蕩うような感覚の中で、そう思い始めていた。


「輪炭さん。好きです。大好きです。心の底から愛しています。わたしは貴方の力になりたい。わたしは貴方の望むことなら何でもしたい。わたしは貴方と、人生を共にしたい」


 真愛は陣平の頬に手を置くと、眼を閉じ、その身を寄せてくる。


 二人の唇が触れそうになり、陣平の右手から銃が離れかけたとき、彼方で大きな爆発が起きる。その衝撃で陣平は現実に引き戻される。陣平は真愛の肩を掴むと、彼女の身体をゆっくりと押し返す。


「輪炭さん?」


 俯く陣平の顔を覗き込むようにして、真愛は語り掛ける。


「……患者を救うためなら、愛していたら、人を殺していいのかよ」


 陣平は右手を振り上げ。銃を真愛へと向ける。


 真愛は黙って陣平を見据える。


「理由はなんであろうと、お前は大勢人を殺した。魔女を操って瑞稀を殺した。それは許されることじゃねえ」


「輪炭さん。診察室にあった絵を覚えていますか?」


「絵、だと?」


 陣平の脳裏を病院の診察室に飾ってあった抽象画が掠める。


「わたしは、あの絵の、飛び散った絵の具一つ一つが人間の生命だと思っています。一見意味がないように見えるものでも、しっかりと体系を形作っている。つまり、こうなることが彼等の天命だったのです。貴方を惨禍の呪いのから解き放つ為に必要な犠牲だったのです。そう考えれば、死んでいった方々は、適切に自分の役目を、天寿を全うしたとは思いませんか?」


「思わねえな。お前はただ、テメェの歪んだ正義感に酔っているだけだ。自分の犯罪行為をそれらしく正当化しようとしているだけだ。犯罪者となにも変わらねえ」


「ではどうするのですか? その銃でわたしを撃ちますか? そんなことをしてもなにも変わりませんよ。時間を戻すことも、死んだ人間を蘇らせることも。勿論わたしを殺すことも出来ません」


「んなことは分かってるんだよ。でも、お前の思い通りにさせてたまるかよ」


 陣平は意を決したように、銃口を自らのこめかみに当てると、指先に力を込める。


「輪炭さんっ!」


 真愛は咄嗟に陣平の行動を止めようとするが、陣平が引き金を引く方が早かった。


 しかし、銃の引き金が引かれることはなかった。急に誰かに腕を掴まれたからだ。


「やれやれ。感情で行動するなと再三言った筈なんだが、やはり人間の本質は幾星霜を経ても変わらないものだな」


 陣平の腕を掴んだのは鈴璃だった。撃たれた身体中の傷は既に塞がっていた。


 ボロボロの服に包まれる身体と、恐ろしいほどに美しい顔いうアンバランスな対比が醸し出す不気味な色気が、通常感じることのない退廃的な美さと恐怖を、陣平に感じさせていた。


「鈴璃、お前、死んだんじゃ……」


 なにが起きたのか理解し切れていない陣平は、そう口に出すのが精一杯だった。


「死なないさ。あんな程度ではな」


 鈴璃は陣平の手から、力なく握られた銃を引き抜くと、あまり興味がなさそうに自らの手の中で弄び始めた。


「まだ生きているなんて、まるでゴキブリみたい」


 真愛は鼻で笑いながら、侮蔑が色濃く現れた低い声でそう吐き捨てる。しかしその眼は僅かに落ち着きと余裕を失っていた。


「こんばんは。先生」


 鈴璃は、弄んでいた銃を飽きたように陣平の掌に戻すと、真愛に向け会釈する。


「……なんで生きてるの?」


 真愛は真剣な声色で尋ねる。その表情は鈴璃に対する嫌悪感で満ちていた。


「簡単だ。お前も坊やも私を殺し切れなかった。それだけだ。しかし坊やに撃たれたのは思った以上にショックだったようで、少し気絶していたようだ」


 鈴璃は左手薬指の指輪を外す。そこには小さな螺旋状の刺青が刻まれていた。


「惜しかったな。あと二回だったのに」


 そう笑いながら言う鈴璃に対して、真愛は幾分か落ち着きを取り戻した様子だった。


「なあんだ。ならもう二回死んで貰えばいいだけの話だね。輪炭さん、もう二回まつかひをんなの頭を撃ち抜いてください」


 真愛の言葉を脳が認識したとき、陣平の身体は彼の意思とは無関係に動き出し、握られた銃を鈴璃のこめかみに強く押し当てる。


「な、なんで身体がっ……テメェ、まだオレの精神支配を解いなかったな」


 陣平は真愛を睨み付け叫ぶ。真愛は肩を震わせ、笑いながら答える。


「知っていますか? 輪炭さん。魔女って嘘つきなんですよ。そんなことより、これで本当に惨禍の呪いを解くことができます。良いことじゃないですか」


 鈴璃に眼を向けた真愛は、その表情を、微笑から無味乾燥な無表情へと転化させる。


「銃を彼に返したのは誤算だったね。そういう訳でさようなら。まつかひをんな」


 必死で抗おうとする陣平の意思とは無関係に、無慈悲に銃の引き金が引かれ、火薬の音が響き渡る。


 パン


 しかし銃口から発射されたのは、大量の紙テープや紙吹雪だった。それらは鈴璃の頭に降りかかったあと、踊るように風に舞い、音もなく地面に落ちる。


「え?」


 想定外の事態に、真愛は明らかに狼狽えた表情を見せる。しかし一番驚いていたのは引き金を引いた本人である陣平だった。


「どういうことだ……こりゃあ」


「あっはっはっはっはっ。お前たちのその顔、傑作だな」


 紙テープや紙吹雪を全身にかぶった鈴璃は、地面を転がり腹を抱えて笑いだす。その様子はまるで悪戯が成功し喜ぶ子どものようだった。


「銃に魔術をかけて細工したんだ。小賢しい真似をするね」


 真愛は即座に左手から数百本のコイル鉄筋を吐き出す。そしてその全てを宙に浮かせ鈴璃へと向ける。


「なら身体の自由を奪った後で、ゆっくり殺してあげる。いい加減貴女に付き合うのも飽きちゃったよ」


「おや、気が合うな。私もそろそろお前の相手に飽きてきたところだ。もう終わりにしようか。


 一瞬、真愛の動きが完全に止まる。


「あれま。いつの間にその名前を?」


「これさ」鈴璃は右手を胸の前に突き出すと、掌から狐面の欠片を落とした。


「だいぶ小さかったから、記憶観にも時間がかかってしまったが、ようやくお前の諱を知ることが出来た」


「だからなに? 諱喰みはその対象に触れなければ発動しない。つまり、触れられなければ諱が判明したところで、なんの意味もなさない」


 真愛は鈴璃の言葉にかぶせるようにそう言った。


「それに、貴女が私に触れるのと、このコイル鉄筋が貴女を貫くのと、どっちが早いと思う?」


「そんなの、決まっているだろう」


 その言葉を発した瞬間、鈴璃は真愛の背後に一瞬で移動していた。


「貴様は本当に私がなにもせずに、ただやられているだけの度を越したマゾヒストだと思っていたのか? おめでたい奴だな」


 鈴璃は真愛の首元を力任せに掴む。着物の衣紋部分には五ミリ四方の小さな魔法陣が貼り付けられていた。


「お前、私になりたかったのだろう? 最初はただ医者が患者に異常に固執しているだけかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。お前の攻撃から、私への嫉妬と羨望と憎しみ、そして陣平への愛が痛いほど伝わってきた。これが、お前がこの一連の事件を起こした本当の動機だったんだな」


「はは、わたしが蓮堂聖だってことも全部バレちゃってたのか」


 真愛は力なく笑う。


「そう。わたしは貴女になりたかった。わたしが彼の隣にいたかった」


 真愛は遠い眼で自らの本心を吐露する。その声はどこか悔しそうで、そして悲しそうだった。


「だが、この場所は誰にも譲る訳にはいかないな」


「あれ? もしかして貴女も彼のことを?」


 鈴璃は真愛の質問には答えずに、その手に力を込める。


「僅かではあったが楽しかった。感謝するぞヤタメグラ。メリークリスマス」


「あれま」真愛は、諦めたように微笑んだ。


「諱喰み」


 大気が、一点に凝縮されるかのように、鈴璃に向け吸い込まれる。


 静寂が訪れた後、真愛は無言で脱力し、その場に膝をついた。


「終わった……のか?」


 鈴璃が真愛の諱を喰んだことにより、完全に精神支配から解放された陣平は、小さく呟いた。そして暫くその場に佇んだ後、腰から手錠を取り出す。


「蓮堂聖……いや、鳴茶木真愛。内乱罪及び、複数の事件の殺人教唆の容疑で逮捕する」


 冷たい鉄の輪が、真愛の細い手首にかけられる。


「あーあ……捕まっちゃった。というか、法律って魔女にも適用されるんですか?」


 真愛は手首にかけられた手錠をしげしげと眺めながら言う。


「さあな。だが、もうお前は人間だ。人間に法律は適用されるだろ?」


 陣平はそう言いながら手錠のもう片方を、近くの捻じ曲がった鉄骨にかける。真愛は抵抗する素振りを見せずに、薄く笑う。


「はは、確かに」


 陣平は黙って鈴璃の隣に並び立つ。鈴璃が無言で差し出してきた煙草を自然に受け取った陣平は、静かに火を点け、煙を吐き出す。


「さて」鈴璃は伸びをすると、深く息を吸い込み、吐き出す。そして真愛に背を向けながら言い放つ。


「これでお前の力は私のものだ。この馬鹿げた悪夢を終わりにさせてもらうぞ」


 鈴璃は爆発魔法陣を解除しようと両手を広げ、瞑想をするように眼を閉じる。しかし、すぐに異変に気付き、真愛へと向き直る。その顔には明らかに動揺が現れていた。


 鈴璃の表情を見て、真愛は心底楽しそうに笑い出す。


「あははははは。。ようやく気付いた? そう。爆発魔法陣を仕掛けたのはわたしではなく、わたしが精神支配した東京中の魔女たちだよ」


 真愛の言葉に、鈴璃の動揺はさらに深まる。その顔は、今まで見たことない程切迫していた。


 鈴璃は足早に真愛へ近づくと、彼女の胸ぐらを乱暴に掴み上げる。


「精神支配した魔女たちをどうした?」


「もうわかってるくせに」


 意地の悪い不気味な笑みを浮かべながら、真愛は刺青の消えた自らの右手を、鈴璃の眼前へと突き出す。


「全員食べたよ。わたしの……おっと、もう貴女のだったね。まあ、その右手で」


 真愛はゆっくりと鈴璃の右手に自らの右手を這わす。


「その右手で食べた生物は死ぬ訳じゃない。生きたままこの世界ではない何処かを永遠に彷徨い続けるんだよ。わたしの諱を喰らった貴女は今それを肌で感じているでしょう?」


 真愛はうっとりした表情で言葉を紡ぎ続け、鈴璃の腹を、壊れ物を扱うかのように優しく撫で回す。鈴璃は無言で唇を噛む。


「或はその左手から、食べた魔女を全員吐き出して、一人一人の諱を喰めば、きっと爆発は止まるよ。でも、そんな無駄な戯れをしている時間が貴女にはあるのかな?」


 そのとき、すぐ近くで爆音が鳴り響く。それと同時に、足元が大きく揺らいだ。真愛は大きな眼をさらに見開き、鈴璃の眼をじっと覗き込みながら言う。


「まつかひをんな。貴女はなにも護れない。貴女はなにも救えない。わたしの諱を喰んでも、わたしを捕まえても、わたしを殺しても、東京この街の破壊は止まらない。貴女が出来ることは不幸と恐怖と厄災と死を撒き散らすことだけ。貴女は初めから負けている」


 支えを失ったビルがゆっくりと傾き始める。足元にある無数の瓦礫が重力に従い、波のように一方向へ転がり始める。


「諱を喰まれた今、わたしはここで死ぬかもしれないけど、貴女の思い通りにならなければそれで本望だよ」


 真愛は満足げな表情を見せると、脱力し、壁にもたれかかる。


「くそっ」


 咄嗟に陣平は真愛の元に駆け寄り、鉄骨にかけた手錠を外しにかかる。咥えていた煙草が音もなく地面に落ちる。


「輪炭さん? なにをしてるんですか?」


 陣平の行動に真愛は心底驚いてる様子だった。


「わたしを助けようとしているんですか? 多くの人間の命を奪ったこのわたしを?」


「ああ、そうだ。人の命を奪ったのは許せねえ。でもオレはな、もう誰かが死ぬのを見るのは沢山なんだよ。それがお前みたいな人殺しの魔女でもな。人間だろうが、魔女だろうが、そんなの関係ねえんだ。絶対に死なせねえ。みんな一つしかない命なんだ」


「貴方は……相変わらず優しいんですね」


 真愛は戸惑いを見せながらも、眼を細めて微笑した。その眼は陣平を捉えていたが、どこか虚だった。


「黙ってろ」


 陣平は鍵穴に鍵を差し込み、手錠を外そうと試みるが、断続的に起こる激しい揺れと焦りのせいで、鍵を瓦礫と瓦礫の隙間に落としてしまう。


「畜生、だったら」


 苦々しい顔で舌打ちをする陣平は、側に落ちていた銃を拾い、手錠の鎖に向け引き金を引くが、弾室にはもう空の薬莢しか入っていなかった。


 陣平が忌々しげに銃を投げ捨てるのと同時に大きな揺れが起こり、地面が急激に傾く。


「うわっ」


 唐突な強い揺れに陣平は大きくバランスを崩す。しかしその手は手錠の鎖をしっかりと掴んでいた。


「こんな状況でも他人の命を助けようとするなんて、貴方は本当に優しい……いや、今の時代は、大莫迦者と言ったほうが良いですかね?」


 真愛は微笑を携えたまま陣平に言う。


「輪炭さん。貴方は消えかけていたわたしの命を救ってくれた。わたしはただ貴方を救いたかった。貴方に恩返しがしたかった。そして、わたしが貴方の隣にいたかった」


 真愛の言葉を訊いて、陣平の動きがピタリと止まる。


「恩返しだと? お前、なにを言って……」


「ふふ、やはり覚えていませんか。だいぶ昔のことですからね」


 次の瞬間、真愛は陣平の腹に強烈な蹴りを見舞う。不意に蹴り飛ばされた陣平は、勢いよく後方に倒れ込む。


 それとほぼ同時に、真愛が座り込んでいた場所が轟音と共に瓦解し、辺りの瓦礫と共に一気に地面に向け吸い込まれ、落下してゆく。


 真愛が大量の瓦礫に飲み込まれる寸前、陣平の眼は、真愛の唇の動きを捉えていた。彼女は静かに、しかし確実にこう言った。




「ありがとう。ヒーロー」




 間一髪のところで落下を免れた陣平は、地面に尻餅をついたまま呆然としていた。


 真愛の言葉を認識したとき、それまで凍っていた記憶が溶け、陣平の頭の中を一気に満たす。


 それは遠い幼き日の記憶。彼方に聞こえる祭囃子。生まれて初めて食べた綿菓子。そして、暗い路地裏でボロボロになって泣いていた女の人。


 バラバラだった記憶の断片が時間という絲で紡がれ、現在に顕在化する。陣平は全てを思い出していた。


「お前……まさか、あのときの……」


 陣平は地面が抜け、誰もいなくなった空間に向け語りかけていた。陣平の瞳には、あの暗い路地裏の風景がはっきりと写っていた。


 自らの発した言葉が耳に届くより先に、陣平の座っていた床が一気に抜ける。身体が自由落下を始めようとするその時、襟元が強い力で引き寄せられ、陣平の身体は一気に宙へと浮き上がる。


「鳴茶木は諦めろ。飛ぶぞ」


 陣平の襟元を掴み、宙へ飛び上がった鈴璃は、四方から落下してくる大量の瓦礫を、どれもすれすれで躱しながら、いつの間にか雪の止んだ、雲ひとつない夜空へと飛び出す。白い月には鈴璃と陣平、二人のシルエットがはっきりと浮かぶ。


 眼下に見える、いまいた高層ビルは瞬く間に倒壊し、ただの瓦礫の山と化してゆく。


 飛び上がった二人は、ゆっくりと滑空し、近くの高層ビルのヘリポートへ降り立った。


 街の爆発は激しさを増し、それまでの東京の景色が、建造物の群れから爆炎と瓦礫にすり替わってゆく。


「どうした?」


 陣平の浮かない表情を見て鈴璃が問い掛ける。


「……オレは、鳴茶木を知っていた。ずっと昔に逢ったことがあった。あいつは死にかけていた。暗く寂しい裏路地で、たった独りで……」


「だからなんだ? それは今回、奴を救えなかった後悔か? それとも、その時に救ってしまった事への後悔か? 下を見てみろ。これが奴のしたことだ。九郎も、雨耶も、霧耶も、そしてお前の幼馴染も、皆奴のせいで死んだんだ」


 彼方を見据えながら言う鈴璃の瞳には、強い怒りと深い悲しみが宿っていた。


「んなことわかってんだよ。でもな、消えてもいい命なんてないんだ。それがどんな悪人でもな」


「ふん。お優しいことだな」


 懊悩の色が色濃い陣平に、鈴璃は煙草の煙を吐き出し、片頬だけで笑う。しかしその瞳から怒りは姿を消し、同情の色が現れていた。その顔を見て陣平はなにも言えなかった。


 少し落ち着きを取り戻した陣平は、徐にジャケットを脱ぐと、それを、そっと鈴璃の肩へかける。


「すまないな」


 鈴璃は、少し照れ臭そうに微笑する。


「さっき落としちまった。煙草くれよ」


「ほら、好きなだけ吸え」


 手渡された煙草を疑いもなく受け取り、火を点けたとき、陣平はあることに気付き、反射的に煙草を口から離す。


「あれ?」


「どうした?」


「いや、さっきもなんだが、オレはどうして当たり前に鈴璃のタバコを吸ってんだ?」


 陣平は、絲のように細い煙が立ち上る煙草をしげしげと眺めながら、不思議そうな顔で言う。


「それはな、わたしがそのように教えたからだ」


「教えた?」


 鈴璃の得意げな顔とは裏腹に、陣平は大仰に顔を顰める。


「以前に少し話したが、その煙草は私の手製だ。その煙草の葉には特殊な香が練り込んである」


「特殊な香? なんだそれ?」


「魔を払う香だ。この煙を人間が浴びれば、多少は魔の干渉を防げる」


「そうか……だからお前、いつもオレの前ではその煙草を吸っていたのか。オレが少しでも呪いの影響を受けないように……」


「だが、何度も改良しているのに、お前には満足いく効果が出ない」


 鈴璃は小さく舌打ちをしながら煙を吐く。


「なら、更なる改良が必要だな」


 陣平は、どこか嬉しそうな顔で笑うと、再びゆっくりと煙草を吸い始める。


「ふん。言うようになったな。しかし、お前のその行動。頭でなく、身体が思い出しているのか」


「ああ。いまも少しずつ思い出してきてるよ。自分の記憶なのに、まるで他人の記憶が頭の中に入ってくるような不思議な感覚だ」


「成程。半信半疑だったが、本当に記憶が蘇ってきているみたいだな。こんなことは今までに一度もなかった」


 二人は煙を吐きながら無言で街を見下ろす。柔らかく吹く風の中で、煙草の火種がチリチリと燃える音だけが一際大きく訊こえる。


 陣平は深く息を吸い込むと、意を決したかのような表情で鈴璃に問う。


「鈴璃、教えてくれ。どうしてオレはお前は忘れていた? どうしていまそれを思い出せている? それと、何故お前はオレに呪いをかけた?」


「ふむ、順を追って話そう。先ずはお前が何故私を思い出せたか。私もこのような状況は初めてだから明確に断言できるわけではないが……」


 鈴璃は言葉を探るように顎をひと撫ですると、ゆっくりと口を開く。


「陣平。お前はいま自分がいる世界が、夢の中なのではないかと思ったことはないか?」


「どういうことだ? まさかいま、眼の前に在るこの現実が夢だっていうのか? 正直夢ならいますぐに醒めて欲しいんだけどな」


 急激に今までの疲労が出たのか、陣平は感情の感じられない声色で言う。


 陣平を横目で見ていた鈴璃は、陣平の行動を見て少し笑い、話を続ける。


「いまあるこの風景は紛う方なき現実だ。しかし、同時に夢でもある」


「頼むから分かるように説明してくれ。もうオレは脳がキャパオーバーなんだよ」


 陣平は頭を掻き毟りながら言った。


「お前が現在進行形で想起している記憶の断片。それらは全て現実に起き、お前が実際に体験したことだ」


「体験したのになんで忘れてんだ? 魔術かなにかでオレの記憶を消したのか?」


「消したのではない。それに魔術でもない。書き換えたんだ。。即ち世界再構築だ。天地創造。開闢かいびゃくと言い換えてもいい」


「世界が……自らの記憶を書き換えた……?」


「そうだ。その感覚を、お前はつい何ヶ月か前に体験している筈だ」


 鈴璃の言葉を訊いて陣平は記憶を遡る。やがて、記憶がある一点に到達したことを彼の表情が告げていた。


「もしかして、因果絲となにか関係があるのか?」


「ああ。お前の話を訊く限りだと、お前が思い出しているのは今まで私たちが体験したことのほんの一部のようだ。実際には更に数多くのことを体験している。私たち二人は、出逢ってから、今回のような魔女が関わっている事件を数多く解決してきた。しかし、その度に世界に重大な損害が発生し、その損害を無かったことにする為に、事件の発生源である魔女の因果絲を絶ち、その都度世界を再構築してきた」


「重大な損害だと? 今まで世界になにがあったんだ?」


「そうだな、世界中に核ミサイルが落ちたり、第三次世界大戦が起きたり、未知のウイルスで世界の人口が半分以下になったこともあったな。その他数え切れない程様々なことがあり、お前は何度も命を落としている」


 鈴璃はまるで過去を懐かしむように眼を細めて言った。


「おい、マジかよ。オレ死んでんのかよ」


 陣平は驚愕の表情のまま、居心地が悪そうに自らの身体を眺め回す。


「しかし、成程な。つまり、今までそれらの事件を起こした魔女の因果絲を絶つことによって、世界が自ら、それが起こる前の世界に創り直ってきたってことか」


「そういうことだ」


「ん? ちょっと待て、じゃあなんでオレはそれらを思い出せたんだ? 因果絲が絶たれると、その対象は誰の記憶からも一切の痕跡を残さずに世界から消えちまうんだろ?」


「その通りだ。だからお前に起きているのは非常に興味深い現象だ。魔女は因果絲による世界再構築の影響を受けないが人間は違う。人間は忘れる。忘却する。忘却は人間が自我を保つ為に備わった防衛本能だ。人間のように弱い生物に忘却という機能が備わっていなかったら、その自我はたちまち崩壊してしまうだろう。お前たち人間が考えているほど現実は確かじゃないし、型にはまった形をしている訳ではない。現実はいま、この瞬間にも変化していっているからな」


「魔女は……鈴璃は、いままでに起きたことを全て覚えているのか?」


 陣平はすっかり短くなった煙草を尚も吸いながら鈴璃に言った。


「ああ覚えている。魔女の脳は人間のそれとは作りが違うんだ。魔女である私の役割は記憶し続けること。そして、人間であるお前の役割は忘れ続けること。と言うことだ」


 言い終わると、鈴璃は新しい煙草に火を点ける。その顔には影が差していた。


「しかし、なにもかも覚えているというのは、あまり気分の良いものではないがな……」


 鈴璃は少し寂しそうに呟き、まるでそれ以上話したくないとでもいうように、煙を吐き出した。


「話を整理すると、オレたちはいままで何度も出逢い、今回のような事件を解決てきた。でも、魔女の因果絲を絶った影響で、オレはその全てを忘れていたということか」


 鈴璃は頷いた。


「一つ気になってんだが、いままで色々なことが起こっていて、その時その時に存在していたオレは、いまのオレと同じオレなのか?」


「ほう。意外にナイーブなんだな。いままでの自分が自分でなかったら不安か?」


 鈴璃は少しからかうように言った。


「だって気になるじゃねえかよ」


「安心しろ。今までの陣平は全て同一の陣平だ。しかし、性格も趣味趣向も毎回全く違がっていたがな」


「それって同じオレって言えんのか?」


 陣平は、納得がいっていない様子で鈴璃を見た。


「言えるさ。世界を再構築するということは、時間を巻いて戻す訳ではない。文字通り、創り直すんだ。まるで同じ数本の絲を解いて、結んで、新しい一本の絲を創るようにな。一度経験した現実と全く同じ現実は二度と起こらない。結果だけ同じように見えても、必ず細部が異なっている。一度因果絲を絶てば、それまでの物語は終わる。そして世界は自然にまた新しい絲を継ぎ足す。そこから紡がれるのはまた新しい世界、新しい物語だ。私たち魔女は、その世界の継ぎ目のことを【】と呼んでいる。つまり、織り目があるだけで現実は一本の絲だ。そこに存在する全てが同一であり唯一だ」


「そんなもんかねえ……」


 未だ納得がいかないといった様子で顔を顰めたそのとき、陣平の眼は、なにかに思い当たったように見開いた。


「そうか。今回もこの一連の事件の発端である、鳴茶木の因果絲を絶って事件の起こる前に世界を再構築するってことか。そしたら死んだ皆も死ななかったことになる」


 陣平の眼には、希望の光が宿ったように見えた。


「そうしようと思っていたんだがな……やめた」


 鈴璃は、すっかり短くなった煙草を、穴があいてボロボロになった携帯灰皿に放り込むと、簡単にそう言い放った。


「なんだと……?」


 陣平は、鈴璃の言った言葉の意味が本気で理解できなかった。そして彼の感情は、怒りとしてみるみる表情に顕れる。


「おい、なにふざけたこと言ってんだよ。なにもしなかったら、この爆発で東京が消えてなくなっちまうんだ。それに、死んだ皆も戻ってこねえんだぞ」


「爆発はなんとかする。それに、生物はいずれ死ぬ。早いか遅いかの違いでしかない。なにも特別なことなどない。だから、鳴茶木の因果絲は絶たない」


「正気かよ、お前」


 余りに予想外の返答に、陣平は我を忘れて鈴璃の胸ぐらを力任せに掴む。


 鈴璃は乱暴に手を振り払う。そのとき、不意に陣平の眼に飛び込んできたのは、泣き出しそうなほど悲しそうな鈴璃の顔だった。


「なんだよ……どうしたんだよ?」


 鈴璃の顔を見て、陣平は激しく狼狽る。


「お前にかかった呪いについて話そう」


 陣平は黙って次の言葉を待つ。


「さっき話した通り、私たちは今までに何度も魔女が起こした事件を解決し、世界を救ってきた。正確には今回で、八百万と六百五回目だ。忘れているかもしれないが、お前は毎回大切な人を失い、深く傷ついてきた。心も、身体もな」


 鈴璃は俯き、その声もみるみる小さくなってゆく。


「私と関わり、私と多くの時間を共有することで、お前の因果は捩れ、歪み、人間のそれとはかけ離れたものになっていった。つまり、お前は魔女わたしに近付き過ぎたんだ。ヒトがヒトであるように、馬が馬であるように、魔女が魔女であるように、生物の魂には決まった形が存在する。それは人間の世界ではイデアと呼ばれているものだ。しかし、魔女と関わることで、お前の魂は変質し、魔女の魂に近い形になっていった。その結果が、呪いとして顕れたんだ」


 その言葉を訊いて陣平は、一つ納得するものがあった。魔女を感じたときのあの微細な違和感。あれは同族を、即ち魔女の痕跡を無意識に捉えていたのだ。魂が、無意識に人間と魔女をより分けていた。自分の魂の形が変わる。自覚しようのない現象に陣平はなにも言うことができなかった。


「私はずっと、そんなお前の姿を見ているのが辛かった……」


 口を開かない陣平の脳裏には尚も、体験した筈の、全く覚えのない記憶群が次々と想起されてくる。一つ一つの体験を自分のものと認識し、記憶として自覚したとき、陣平の胸は鈍く痛んだ。それらの中には、口に出すにはあまりに凄惨すぎる記憶も含まれていた。


「これが……本当にオレの記憶なのか?」


 陣平は絞り出すようにそう小さく呟き、その場から一歩も動けなくなった。記憶群の想起により、身体が固まっていたからだった。しかし、そのような状態でも、鈴璃の声は大きすぎる程よく訊こえていた。


「お前は私と……つまり魔女と関わりを持った。縁を結んだ。その結ばれた縁は人間にとっては、因果を歪める程に強い存在で、鳴茶木の言う通り、惨禍の呪いとしてお前を蝕んだ。今回の織り目で、お前が幼なじみや親友を失ったのも、左腕が動かなくなったのも、全て惨禍の呪いの影響。つまり私のせいだ」


 鈴璃は陣平から眼を離さなかった。彼の表情からは、困惑がありありと見てとれた。


「私は見てきた。お前が何度も大事な存在を亡くすところを……傷つくところを……そして、惨たらしく死ぬところを……その度に私は自分を憎んだよ。何度も自殺を考えたが、自殺したところで呪いは消えない。なにも覚えていないお前に殺してくれと頼んでも、お前は私を殺してくれなかった。お前は優しいからな」


 鈴璃は一呼吸おくと、煙草に火を点ける。煙草を持つ彼女の手は小さく震えていた。


「覚えているか陣平。今回の織り目で私たちが初めて出逢ったときのことを」


「お前とオレの視野を入れ替えたときのことか? 忘れる訳ねえだろ。あんなに強烈な体験」


 濁流のように溢れ出てくる記憶群の想起に慣れてきた陣平は、少し落ち着いた様子で答えた。


「殺してもらえないのなら、せめてお前をこちら側に来させないようにと、私は様々な手を使い、お前を拒絶してきた。今回より荒々しい手段を取ったことも何度もあった。しかし、いずれもうまくいかなかった。お前はまるで何かに導かれるように、世界が予めそう決めていたかのように、こちら側に足を踏み入れてきた。しかし、あろう事か、私はそれを喜んでいた。陣平がこちら側に来るのが嬉しかった。一緒に居られることに幸福を感じていた」


 自嘲的な笑みを浮かべた鈴璃は、ゆっくり煙を吐き出した。


「自分の因果を、人生を滅茶苦茶にした私が憎いだろう。恐ろしいだろう。だから……」


 鈴璃はゆっくりと陣平へ左手を差し出す。


「なんのつもりだ……?」陣平は静かに言う。


「これが、私の答えだ。お前が一度でも記憶を取り戻したら、こうしようとずっと心に決めていた」


 鈴璃の掌には一丁の銃が銃が乗っていた。


「もう、辛い目にはあいたくないだろう。傷付きたくないだろう。泣きたくないだろう。死にたくないだろう。当然だ。人間は幸せになるべき生き物だ。お前は幸せになるべき人間だ。私とは違ってな。もうお前が不幸になる必要はない。私はこの決断をずっと先延ばしにしてきた。私の隣からお前が居なくなるのが、自分が消えてしまうのがずっと怖かった。だがそれも、もうお仕舞いだ」


 陣平は黙って鈴璃の掌から銃を受け取った。鈴璃は満足気に笑って見せる。


「全てを知った今なら、私を殺せるだろう。いいか、二回だ。あと二回私の頭を撃てば、私は死ぬ。私が死ねば鳴茶木が喰い、今は私の中にいる魔女たちが仕掛けた爆発魔法陣の効果も消える。そして、お前の中の惨禍の呪いもな。変質してしまった魂の形もきっと元に戻るだろう」


 短い沈黙が流れ鈴璃は顔を上げる。その眼は子どものように綺麗で、透き通っていた。


「本当はな、鳴茶木に操られたお前に殺されてもよかった。でもな、お前にはちゃんと真実を知ってから殺して欲しかった。すまなかったな。私の最後の我儘だと思って許してくれ」


 鈴璃は少し申し訳なさそうに言うと、少し息を吐き、よく通る声で言った。


「ありがとう陣平。さよならだ」


 出会ったときのような、屈託のない笑顔を見せた鈴璃は、その言葉を最後に、眼を閉じる。陣平がいくら待っても、もう二度と口を開く事はなかった。


 微かな風の音が訊こえた。


 瞬間、鈴璃の頭部に強い衝撃が走り、眼の前に火花が散る。その衝撃は明らかに銃で撃たれたものではなかった。


「眼ぇ覚めたかよ馬鹿野郎。てめえ、なに一人でふざけたこと言ってんだ? あ?」


 鈴璃に渾身の頭突きを喰らわせ、額を真っ赤に腫らした陣平がそう言った。


 鈴璃は無意識に腫れた額に手を置き、呆気に取られた顔で陣平を見た。


「なに勝手に話を進めて、勝手に納得して、勝手に満足してんだ? オレがいつお前を憎んだ? オレがいつ終わりにしてくれなんて頼んだってんだ?」


 陣平は叫ぶと、大きく振り被り、手に持った銃を空の彼方に放り投げる。鈴璃は尚も呆気に取られた顔のままで、彼方へと消えて行く銃を眼で追った。


「時間が経つにつれ、今までのオレの記憶がどんどん蘇ってきている。本当にどれもが今のオレと同じオレで、違うオレだったが、その誰もが自分の行動に、お前の相棒でいることに後悔なんてしていなかった。すべてを知った今のオレもそれは同じだ」


「それなら、お前が受けてきた不幸と苦痛の数々も思い出した筈だ」


 鈴璃は食い下がるように言った。


「そんなの知ったことかよ。兎に角、絶対こんなところで終わりになんかしねえぞ」


 陣平の眼には固い決意の色がはっきりと現れていた。


「なぜそんなことが言える? こちら側に居続けるということは、終わらない煉獄を生き続けるということなんだぞ、死より辛い生が続くということなんだぞ。それをわかって言ってるのか、この愚か者が!」


 陣平の眼を見て鈴璃は激昂し、まるで怯えるように叫んだ。


「お前こそ馬鹿なんじゃねえのか?」


 陣平は勢いよく鈴璃の胸ぐらを掴み、大声で言った。


「オレが傷付いたり、不幸な目にあったりする度に、お前は全力でオレを助けようとしてくれただろうが。それだって全部覚えてるんだぞ。感謝こそすれ、憎んだことなんて一度もねえ」


 その言葉に鈴璃はハッとした顔になると、全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになる。陣平は慌てて鈴璃の肩に手を置くと、ゆっくりと地面に座らせた。数秒の沈黙が流れた後、陣平は少し照れ臭そうに口を開く。


「まあ……その、なんだ。お前が望むならオレは、ずっとお前の隣にいてやる」


 項垂れた頭を重そうに上げた鈴璃は、虚な眼で陣平の顔をじっと見つめ、消え入りそうな声で言う。


「いいのか……?」


「お前と一緒にいる。なにがあってもお前を独りにしない。それが、いままでのオレが一人残らず心に誓っていたことだ。いまのオレはいままでのオレの誓いを護るよ」


 陣平は自らの胸を拳で強く叩いた。このとき、陣平の頭には、九郎に言われた言葉が想起されていた。


 鈴璃を救ってやってくれ。


 救えたかどうかはわからない。だが、これでいい。これが正しい。これが最善だという強い確信が陣平の中にはあった。陣平の心の中にいる今までの陣平全員が、陣平の決断を肯定してくれた気がした。


「本当に……いいのか? 魔女の因果や呪いを抱えて生きていくことは、お前が思ってる以上に過酷なんだぞ。やっぱり、ここで全てを終わりにした方が……」


 俯いた鈴璃は、まるで自分に言い訊かせるような口調で、陣平へと語りかけるが、当の陣平はその言葉を鼻で笑い飛ばす。


「って言ってる割には、すっげぇ顔がニヤけてるぞ?」


 喜びが抑え切れないのか、鈴璃の口角はこれ以上ない位に上り切っていた。


「……当然だろう。全てを知った上で私を受け入れてくれたことが、こんなに嬉しいとは知らなかったのだからな。これがニヤけられずにいられるか」


 満面の笑顔で顔を上げた鈴璃の眼は、少し赤くなっていた。何故だか見てはいけないものを見た気がした陣平は、即座に眼を逸らし、話題を変える。


「それにだ、煉獄だろうがなんだろうが、このまま生き続けてりゃあ、今回の織り目で急にオレの記憶が戻ったように、いつかお前を殺さないで済む呪いの解き方も見つかるかもしれねえだろ?」


「前向きだな。さすがは熱血馬鹿だ。いままでのお前も全員そうだった。それが変わらぬお前の人間としての本質なのかもしれないな」


 調子を取り戻した様子の鈴璃は、その場から軽やかに立ち上がる。


「そうと決まれば、鳴茶木の因果絲を絶ち、世界を再構築するとするか」


「切り替えが早えな」


「過去には拘らない主義でな」


「よく言うぜ」


 陣平は呆れたように笑った。鈴璃の顔には、いつもの余裕のある笑顔が戻っていた。


「気になってたんだが、魔女の因果絲を絶つとどうなるんだ? 人間の因果絲を絶つのとは訳が違うんだろ?」


 鈴璃は小さな瓦礫を拾い上げ、地面に因果絲を絶つ為の魔法陣を描きながら言う。


「そういえば、いままで一度も説明したことはなかったな。そうだ。魔女の因果絲は人間のそれとは違い、とても広く深く世界と繋がっている。きっと世界は大きく再構築されることになるだろうな。どんな世界に創り変わるかは私でも見当がつかない。もしかしたら陣平は刑事ではないかもしれないな。どんな世界に創り変わるかは、それこそ世界のみぞ知るだ」


「多分……今回のことも全部忘れちまうんだろうな」


 少し寂しそうな顔をした陣平は、空を仰ぎ見て言った。


「そうだな。人間である以上、記憶は必ず忘却される。しかし今回のように突然思い出す可能性もある。きっとまた思い出せるさ」


「適当なこと言いやがって」


 陣平は眉を顰めて言う。しかし、その顔はどこか嬉しそうだった。


「大丈夫だ。私たちはなにがあっても出逢う縁が結ばれている。だから私はお前が現れるまでずっと、ずっと生き続けて待っている。どうだ? これはもう、呪いなんていう野暮なものではなく運命というやつではないか?」


 鈴璃は得意げな顔を、陣平に向ける。


「はっはっはっ、呪いをかけた本人がそれを言うのかよ」


「付け加えておくが、惨禍の呪いはお前の魂が変質したことにより顕れた副産物であって、私が故意にお前を呪ったわけではないからな」


 陣平は堪らず大声で笑い出す。その笑い声は心の底から愉快そうだった。つられて鈴璃も大声で笑った。二人は暫くその場で笑い合った。


 笑い合う二人の上空に、一つの人影があった。その人影は、逆志磨栞菜だった。


「一悶着あったみたいだけど、どうやら一件落着みたいね。さあ、次は一体どんな世界になることやら」


 栞菜はそう言うと、満足そうに微笑みながら空の彼方に消えていった。


「さて、少し名残惜しいが、そろそろ世界を救おうか」


「ああ、そうするか。派手に頼むぜ」


「任せておけ」


 鈴璃が地面に触れると、描いた魔法陣を起点に、ビルを覆うほどの大型の魔法陣が展開され、眼下の瓦礫の中から真愛の因果絲が現れる。


「また、魔女も魔術も知らない、存在するなんて夢にも思わない世界に戻るのか」


 魔法陣を見て、少し名残惜しそうに陣平は呟いた。


「戻るのではない。進むのだ。だから、忘れはするが決して消えてなくなる訳じゃない。どこかに必ず残っている。頭の中ではない別のどこかにな。それが不思議なことに何かのきっかけで思い出すこともある。今回のようにな。世界は魔女の私でも知らない不思議で満ちている。世はなべてこともあり。だ」


「違えねえな」


 陣平は片頬を上げて言う。


「そうだ。最後に一服しねえか?」


「いい提案だな」


 二人は煙草に火を点けると、ゆっくりと煙を吸い込み吐き出した。


 無意識に左手でタバコを掴み、口から離したとき、初めてちゃんと自分の意思で、左手が動いたと感じた。自分を心から赦せたのだと陣平が感じた瞬間だった。


「ときに陣平。お前は、まつかひをんなの名の由来を知っているか?」


 鈴璃は思い出したように陣平に問いかける。


「由来? 禍使いじゃねえのか? 鳴茶木が言ってたぞ」


「それは複数ある諸説の一つにすぎん。長く古い呼び名には色々尾鰭が付くものさ。本当の由来は、を待つヒトという意味だ」


「彼の日? なんだそれ?」


「誰もが幸せに過ごせる人生最良の日。それが彼の日だ。人間も魔女も、生物皆そんな、なんでもない日を待ち望む。その日を目指し生きる。それが世界の在るべき姿だと私は思っている。そんな日が来ると信じている者は誰もがまつかひをんなだ」


「なるほど、確かにそうかもな。てことは、オレもまつかひをんなってことか」


「ふふ。そういうことだ」


 鈴璃は晴れやかな顔で微笑んだ。そして彼方を眺めながら言った。


「おや、見ろ。夜明けだ」


 蒼く澄みきった空の彼方に、ゆっくりと太陽が登ってくるのが見えた。辺りに積もった雪がキラキラと陽の光を反射していた。それはまるで、ダイヤモンドの様に輝いていた。


「よし。では始めるぞ」


 輝く光の中で、鈴璃は魔法陣の中央に踏み出すと、まるで踊るようにゆっくりと真愛の因果絲を絶った。世界を創り変える為の儀式は思いの外呆気なく終わった。


 眩しくて暖かい光で、視界が白んでゆく。陣平の視線の先には鈴璃の少し寂しそうな背中が辛うじて見えた。


 視界が真っ白な光に覆われる。


 白い光の中、振り返った鈴璃は、屈託のない笑顔を浮かべると、真っ直ぐに陣平の眼を見て言った。


「また、逢おう」






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