第一幕『うつしよはかくもくさのゆかり』4


「見て見て陣くん。綺麗でしょこの振袖。お母さんが仕立ててくれたんだ。どう?」


「あー……すっげえ紅いな」


「ちょっと、感想はそれだけ? もっとなんかあるでしょ、似合ってるとかさ」


 膨れた瑞稀の顔が昨日のように思い出せる。


 何故、何故、何故だ? 虚無感と疑問が竜巻のように、陣平の頭を駆け巡る。


「……っと。ねぇちょっと! 陣ちゃん!」


 自分を呼ぶ声で、陣平は現実に引き戻される。


「どうしたの? ボーッとして。それに酷い顔色よ。大丈夫?」


 源蔵が不安そうな顔で陣平の顔を近距離で覗き込む。その距離感に、陣平の眉に自然に縦皺が寄る。


「大丈夫だ。気分が悪いのはお前の濃い髭面のせいだよ」


「相変わらずの口の悪さね。ま、それだけ毒吐ければ大丈夫ね」


 源蔵はため息をつきながらカルテをめくり、遺体に関しての詳細を読み始める。


「名前は、玉城瑞稀。歳は……」


「知ってる」


 陣平は源蔵の言葉を遮る。


「知っているって、この子、陣ちゃんの知り合い?」


「ああ、幼馴染だ」


「そう……」


「源蔵。頼む。少し二人にしてくれないか?」


「……死因は老衰。死亡推定時刻は午前零時。発見したのは同居している父親よ」源蔵はそれだけ言うと陣平の肩に手を置き、黙って部屋を後にする。背後で自動ドアが静かに閉まる音がした。室内が重い空調の音で満たされる。


「おい、瑞稀。こんなところでなにやってんだよ?」


 陣平は物言わぬ瑞稀に静かに語りかけた後、フラフラと部屋中央のデスクまで行く。そこには撮ったばかりの写真が置いてあった。写っていたのは瑞稀の死に顔。その笑顔は、怖気がするくらいに幸せそうな笑顔だった。


「なに……やってんだよ!」


 陣平は拳でデスクを殴打する。その言葉は他ならぬ自分に向けたものだった。拳の皮膚が裂けて血が滲み出ていた。深い悲しみと、やり場のない怒りが頭の中を侵食してゆく。


「こいつが……自殺なんてする筈がない」


 瑞稀の死に顔を眺めながら口にした、もはや願望に近いその言葉が、陣平の思考をある一点に導く。昨晩散々否定し続けた、ある思考へと。


 魔術……。


 そのとき、いままでこの事件に感じていた違和感が、一つに繋がった気がした。頭でいくら違うと否定しても、既に思い浮かんだ考えに本能が抗えなかった。


「……クソッ」


 陣平は解剖室を飛び出し、廊下を駆け出した。


「ちょっと陣ちゃん、どこ行くの?」


 背後で源蔵の叫び声がしたが、陣平の耳には届かなかった。




 真夜中。丑三つ時。朧月が眠らない都市を不気味に照らし出す。


 陣平がタクシーで降り立ったのは、つい先日にも訪れた、家館鈴璃の店が入る商業施設だった。当然のことながら施設の灯は全て消え、建物は深く眠りについていた。


 そんなことは初めからわかっていた筈だった。なのに、どうしてもここに来られずにはいられなかった。


「なんで、来ちまったんだ……」


 陣平は、輪郭が闇夜と同化した建物を見上げ、小さく息を吐く。立ち去ろうとしたその時、不意に嗅覚が反応する。


 それは覚えのある香りだった。まだ鮮明に記憶に残っていたその香りは、あの部屋を包んでいた。


 それは彼女が吸っていた、あの煙草の香りだった。


「これはこれは、何処かで見た顔だと思ったら、先日九郎と一緒に来た坊やか。こんな時間になにをしている?」


 漆黒の闇の中から、まるで浮かび上がるように家館鈴璃が姿を現す。笑みを湛えた口元には煙草が咥えられていた。


「アンタこそ、こんな時間になにしてんだ? 良い子は寝る時間だぜ」


 背筋から無遠慮に這い上がってくる恐怖に抗うように、陣平は努めて軽口を叩く。


「その言葉、そのまま返そう。まあ、お前は良い子じゃないようだがな」


 陣平は顔を顰めて舌打ちをする。「オレが来ることがわかってたのか?」


「さあ。なんのことやら」


 鈴璃は煙を吐きながら、はぐらかすように言った。


「ところで、その手に持っているものはなんだ?」


 鈴璃が指で差し示した陣平の右手には、一枚の写真が握られていた。


 それは瑞稀の写真だった。


「彼女は?」


 鈴璃は写真を横目に尋ねる。


「幼馴染だ」


「それで?」


「死んだ」


「ほう。それはお悔やみ申し上げる」


「例の事件に巻き込まれた可能性がある」


 陣平の声が虚しく闇に溶ける。背にした道路では数台のトラックが轟音をたてて走り去ってゆく。耳に揺れるピアスがヘッドライトを反射し、鈴璃の輪郭を朧げに照らし出す。


「わざわざそれを見せにきたのか? こんな時間に? こんなところまで?」


「……魔術は、本当にあるのか?」


 陣平は鈴璃の質問には答えず、否定してきた言葉を口に出す。


「わざわざ実証して見せた筈だが? もう忘れたか?」


 あんなもん忘れる訳ねえだろ。と、陣平は思ったが、それを口に出すことはなかった。


「そもそも坊やは、頭のおかしい女の戯言など信じないのでは?」


 煙草を燻らせる鈴璃は、鼻で笑いながら言った。


「あの発言は謝る。ただ、オレは……」


「坊やは何故、先日私があの場で、私と組めと言ったかわかるか?」


 鈴璃は陣平の言葉を遮った。その声色は、初めて鈴璃の声を訊いたときの様な冷たさを帯びていた。


「それはな、坊やを私に関わらせないようにするためさ」


「なんだと?」


 陣平は鈴璃の言葉の意味がわからなかった。


「坊や。私にはな、お前が生きたがっているようには見えない。理由は知らんし興味もない。だがな、自分を大事にできないような奴と組むことはできない。だから私は魔術を見せた。坊やが確実に拒絶する方法で。他人を遠ざけるには圧倒的な恐怖が何より効果的だからな」


 陣平は、胸を鋭いナイフでえぐられるような感覚を覚えた。刃の切っ先が到達している場所は、自らの最も深く暗い場所。硬く蓋をし、忘れようとしていた真っ黒な感情。


 押し黙った陣平は、鈴璃を睨みつける。しかし、その額には冷や汗が流れていた。


「納得がいっていないような眼だな。どうやら、自我を失いかけた程度では恐怖が足りなかったと見える。いいだろう。ならば選ばせてやる」


 鈴璃は煙草を持った右手を大きく横に振る。二人の間には煙のラインができ、すぐに消えた。


「坊やが立っているその場所が、帰還不能点だ。から先でもう御伽噺は終わりだ。魔女や魔術は、世界で語られているほどメルヘンで夢溢れるものではない。こちら側は、お前たちの常識は一切通用しない、優しい顔をした不可逆な混沌が口を開けて待っている。坊やに少しでも正気が残っているなら、いますぐここから立ち去り、日常に戻って穏やかに暮らすことをオススメする」


 陣平は俯いたまま、黙って鈴璃の話を訊いている。


「心配するな。例の事件は解決し、その可愛い幼馴染とやらの仇もとってやる。坊やはデスクで吉報を待っていろ」


「ごちゃごちゃうるせえな」


 陣平は大股で歩を進めると、額が接触しそうなほど顔面を鈴璃に近づけて言った。


「こっちは幼馴染が殺されてんだぞ。それを全部他人に任せて、てめえは傍観決め込めってか? ふざけんじゃねえぞ」


 陣平の獣のような眼光に全く臆することなく、鈴璃は二の句を継いだ。


「いいのか? こちら側に来るということは、もう元の場所には二度と戻れないということだぞ? それをわかっての言動か?」


「あんな煽るような真似しといて、私に関わるなだ? そもそも自分の身が可愛かったら刑事なんてやってねえんだよ。それともお前の思惑通り、尻尾巻いて逃げると本気で思ってたか? だとしたら見込み違いだよボケが」


 鈴璃はおもむろに手を伸ばし、陣平の胸ぐらを掴むと、自らの方へと勢い良く引き寄せた。二人の額がしたたかに衝突し、頭の中に鈍い音が響く。


「私の知ってる人間は二種類だ。愚か者と、度し難い愚か者だ。どうあっても坊やは後者でないと気が済まないらしいな」


 お互いの唇が触れそうな距離で鈴璃は話し続ける。間近で見る鈴璃の顔は、寒気がするほど美しかった。


「いいだろう。こちら側に来ようというのなら、もう止めはしない。存分に後悔するがいい。人間風情が」


「望むところだ。人間なめんなよ」


 頭突きによる耳鳴りの中で、ある感覚が具現化してくる。一線を超えたという、もう取り返しのつかないという感覚が身体中を支配してゆく。この選択が正しくないことは自分が誰よりもわかっている。抗ってみたところで、まるで予めそう決まっていたように現実はその場所に到達してしまう。初めから選択肢など存在していなかったのかもしれない。


 しかし、例え繰り返すことになろうとも、間違えたままでも、その事実に希望がないという証明にはならない。次こそは。今度こそは。いまはただ、そう考える。


「それで、アンタなら、犯人を……魔女を捕まえられるのか?」


 鈴璃の手を振り解きながら陣平は言う。


「アンタじゃない。家館さんと呼べ」


「…………家 館 さ ん なら、魔女を捕まえられるのか?」


「当然だ。まつかひをんなを甘く見るなよ坊や」


「まつ……なんだって?」陣平は訊き返す。


「魔は、古来よりそこに在った。魔はその時代により、名を変え形を変え、人間の歴史に


その足跡を残してきた。神話や、童話。悪魔、鬼、妖怪の様な魑魅魍魎。絵画に描かれ、文献に記され、実在を信じられてるものから、嫉妬、恨み、悲しみ、劣等感、苦しみ、憂鬱、はたまた殺意、形の無い感情と呼ばれる代物まで、魔は実に多種多様だ。魔は常にそこに在る。眠らない大都市に揺蕩い、喧騒と混沌が渦巻く通りを往き交い、幸せが溢れる家庭に忍び込み、陰鬱な路地に立ち込め、陽光が降り注ぐ清々しい公園に充満し、疲労困憊の終電車内を包み込み、善悪に揺れる魂にこびり付く。坊や、お前の着ている服の隙間にだって魔は在る」


 その言葉に不快感を覚え、陣平は自らの身体に視線を落とす。何かが見えるはずもないのに、身体中を何かが這い回ってるような不快な感覚が拭えなかった。


「長い歴史の中で、魔を使う超的存在を、人間は畏怖と畏敬の念を込めて、様々な名で呼んできた。神や、巫女。森羅万象、天災、ことわり、妖怪、天使、悪魔、バーバヤガー、ブギーマン。それはもう、数え切れないほどにな。この呼称はその中の一つで、私たちの存在、その本質を表している。魔を使つかい、魔をつかい、魔をつかう、それらはかつて〝まつかひ魔使い〟と呼ばれていた。今では魔女や魔法使いという呼び方の方が一般的だがな」


 まつかひをんな。その名前を訊いた時、陣平の中で、なにかが壊れる音を訊いた。その音は、頭の中で鳴っているほど近くにも感じられたが、とても遠くで鳴っているようにも感じられた。これがなんの音なのか、この時は知る由もなかった。


「で? オレはなにすりゃいいんだ?」陣平は耳の辺りを不快そうに擦りながら言う。


「そうだな。今日は帰れ」と、鈴璃は吸殻を携帯灰皿に放り込む。


「はあ? そんな悠長なこと言ってる場合かよ?」


「場合だ。私はもうオネムなんだ。良い子は寝る時間だと坊やが言ったんだろ? 坊やも少し休め。酷い顔色だ」


 鈴璃は口に手を当てると、気の抜け切った欠伸をする。


「明朝迎えをやる。事件の捜査資料はまとめておけよ。ではな」


「え。おい、ちょっ」


 まばたきをした一瞬の間に、鈴璃はその場から姿を消していた。陣平はたったいま彼女がいた場所に立ち、辺りを見回すが、鈴璃の痕跡など塵一つ感じられなかった。


「気持ちわりぃ。あいつ、本当にいたのかよ……」


 陣平の身体からは、今更ながら緊張による汗が吹き出していた。


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