第6話 事件

愛子から相談を受け、数日経ったある日の事。

最悪な事件が起った。


うちの支店には事務員が居ないので、私と愛子が交替に給湯室のお茶の葉などを補充しているのだが、今月は私が当番で、時間を見つけ給湯室で作業をしていると、そこに脇谷が現れた。

気付かない私に苛立ちを覚えたのか、態と後ろで音を立て、そして、私が振り返ると同時、脇谷は思いっきり突き飛ばしてきた。

コイツは、何かにつけて突き飛ばす。

やる事にもレパートリーの少ない奴だ。


どん、と冷蔵庫に背中をぶつけ、痛みで顔を顰める私に脇谷は鼻を鳴らした。


「お前、まだ仕事辞めねーんだな」


「つー…、辞める辞めないは私の自由よ。それを下種ヤローのアンタにとやかく言われる筋合いはない」


私は脇谷を睨みつけ、鼻を鳴らし返した。

だって、こんな奴、怖くなんてないんだもの。


「俺が出世できないのはお前のせいなんだからな!」


「は?莫迦なの?アンタが仕事しないのを上の人間が知ってるって事でしょ!?人のせいにしてんじゃないわよ!」


振られた腹いせから色々な事をされてきた。

“こいつは莫迦だから仕方がない”と思うようにしてきたが、もう、我慢の限界。

今日は専務が顔を見せに来るが、その前に彼の嫌がらせを告発させて貰おう、そう心に決めた。


その時。

支店長、課長の声が聞こえ、私は彼等が居る廊下に出ようとした、が。

いきなり脇谷は2人に用意していたお茶を自分に掛けると、外に聞こえるように叫んだ。


「あっちーーーー!井之頭!お前、何て事してくれるんだ!!!」


そして、私の手を力任せに叩き、支店長・課長2人の湯呑を床に落とした。


「きゃっ!」


ガシャーーーン、とけたたましい音を立て湯呑が激しく散らばる。

痛みで暫く動けず、私は叩かれた手を胸の前で握りしめ痛みをこらえる。


「----っ、」


そして、脇谷に講義しようと声を出そうとした処に、血相を変えた課長が現れた。


「どうした!」


「かちょ、」


助けを求めようと出口に向かう私を脇谷は押し退け


「聞いて下さい!南課長!井之頭が訳の分からない因縁つけて来た上に、茶をぶっ掛けたんですよ!」


濡れたスーツをアピール。

それを見た課長の顔が驚きに代わり、こちらを見た。

私は慌てて、違う、と首を振る。


「嘘、言わな、」


「どういう事だ!井之頭!」


反論しようとした私の声をかき消し、課長を押し退ける様に給湯室に入って来たのは、専務だった。


『…あぁ、絶体絶命。最悪な人が入って来た…』


そのまま私は会議室に連行された。


とぼとぼと3人の上司の後ろを歩きながら、この状態を脱却できる術は無いか頭を巡らせた。

しかし、密室での出来事に、目撃者は居ない。

お茶が掛かっているのは脇谷。

仕事が出来ない、いや、しない駄目社員だとしても、私の方が分が悪い。


会議室に入ると直ぐに、専務の質問攻めが始まり、私は3人の前に立ったまま、専務の質問に淡々と答えるしかなかった。


「私は脇谷さんにお茶をかけてなどいません。彼が自作自演でお茶をかけたのです」


それだけを延々と訴えかけた。


「彼女がそういった事をする人間ではあるません。私が証明します。以前から彼が彼女に嫌がらせをしていたのを知っています」


課長は何度も私を庇おうとしてくれたが、専務は聞く耳をも持ってはくれず


「お前には今週いっぱい、謹慎を言い渡す。今から帰れ」


そう言った専務は手元に運ばれて来たコーヒーを私にかけ、会議室を出て行った。

勿論、支店長は“何て事を仕出かしてくれたんだ”という目で私を見ると、専務の後を追いかけて行く。

ポタポタと落ちる雫に大きくため息を吐くと、ポケットからハンカチを取出し、ジャケットとスカートを拭いていると


「すまない。役に立てなくて…」


課長は私の頭を撫で、自身のハンカチも貸してくれた。


「でも、俺は信じてるから」


「はい。…ありがとう、ございます」


目頭が熱くなり、必死で唇を噛み締めた。

抱き着いて泣けたらどれだけいいか。

こんなにも近くに居て、触れる事も出来ない事が余計に涙を誘う。


私は再度課長にお礼を言い、自分のデスクに戻ると他の社員が陰口をたたき始めた。


『…男もこういう処は女々しいんだよな。言いたい事があるんならハッキリ言いやがれ。』


データを保存するとパソコンの電源を落とす。

冬のボーナス、ご褒美として買ったルイ・ビトンのシールスPMにスマホを入れ、立ち上がると愛子が凄い剣幕でやって来た。


「…嬉子さんって最低な人だったんですね。こんな人が先輩だと思うと虫唾が走ります」


「言いたい事はそれだけ?なら仕事に戻ったら?給料泥棒だって言われちゃうわよ」


小声で言うと、キッと睨みあげてくる。


「っ!」


しかし、反論できなかった愛子はた悔しさで唇を噛んで、自席に戻って行く。

脇谷は、にやけた顔で私を見ている。


『アイツには何と返してよいのやら。』


私は聞こえよがしにため息を吐き、部屋を出た。


コーヒー臭い。

早くクリーニングに出さなければ、と思っていると、玄関で支店長が仁王立ちしている。


「この度は大変申し訳ありませんでした」


「…今日、専務が来たのは、お前に昇給の話をする為だったんだぞ。それをお前は自ら駄目にする目真似をして…。この支店で初めて女の係長だったのに。俺の信用もがた落ちだ。本当にどうしてくれる」


私は頭を下げたままその話を聞き、支店長がその場を離れるまで顔を上げる事が出来なかった。


『…アイツは私の昇進話を知っていたんだ。だから、この話が流れるように…。』




悔しくて、私は会社を出るとひたすら走った。

ピンヒールではないけれども、結構ヒールがあるプレーン・パンプス。

これで走るのは困難だったが、一刻も早く会社から遠ざかりたく、慶史が務めるバーに駆けこんだ。


この時間、まだ、営業はしていないが、準備で店に居る。


カランカラン…、とドアにつけられたベルが鳴り、カウンターで準備をしていた男2人が振り返った。


「あれ?姉貴?どうした?こんな時間に」


「まぁ!嬉子ちゃん、泣いてるの!?」


2人は作業を放り出し、入り口で立ち止まった私に駆け寄って来る。

そんな心配そうな顔を見たら、私は我慢出来なくなり泣き出した。

子どものように泣く私を弟の慶史が抱きしめる。


「ご、ごめん…っ、じゅ、んびちゅっって、分かって、たんだけ、どっ…、行く、処、無くってっ…ごめんっ…ふ、うっ、うっ、」


こうなったら自分でも泣く、という行為を止める事が出来ず、私はひたすら弟の胸で泣き続けた。

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