【短編】ヒモだったはずの彼女に捨てられた俺は、職場の美人上司に拾われて犬になった。

じゃけのそん

第1話

 家を失った。

 いや、正しくは追い出された。


 俺には早希さきという彼女がいた。


 早希は小柄で小動物のような顔立ちながら、その見た目にそぐわないほど胸がでかく、ロリ巨乳の権化ごんげとも言えるほど、俺好みの女だった。


 しかし突如として、俺は同棲していた早希に振られた。


「浮気すんならバレずにやれやァ……」


 愚痴を溢しては、紹興酒しょうこうしゅのロックを一気飲みする。


 もう何杯このマジい酒を飲んだだろうか。わからないが、一緒に飲みに来ていた同期の山本の顔がボヤける程度には、酔いが回っていた。


「元気なのはいいが、ほどほどにしとけよ」


「断る! 飲まなきゃやってられん!」


 そうだ。

 俺はあの女に振られた。

 付き合って1年の記念日を前に捨てられたのだ。


 俺と早希は友人の紹介で知り合い、意気投合しやがて交際に発展。それと同じくして、元々早希が一人で住んでいたアパートに、一緒に住むことになった。


 初めこそ『二人で協力していこう』みたいなフワッとした約束の元、同棲生活を続けていた俺たちだったが、早希は日に日に家事も仕事もしなくなり、同棲を始めて3ヶ月で、俺に何の相談もなく勤めていた会社を退職。


 すぐに新しい仕事を探すかと思えば、そのまま2ヶ月間はニート状態。


 やっと重い腰を上げたかと思えば、始めたのは週一のコンビニのアルバイトで、それ以外の時間は、夜の街で朝まで遊び呆けている始末だった。


 そんな早希の状態もあってか、気づけば俺は、普通に仕事をしながらも、家のほとんどのことをこなす、彼氏兼、家政婦的な立場になってしまっていた。


 その上家賃、水道光熱費、食費等は全て俺の負担。


 おまけに付き合いたての頃、将来のためにと二人で立ち上げたはずの銀行口座にも、いつからか早希は一切の入金をしなくなっていた。


 それでも俺は当初の約束通り、生活費とは別に、毎月2万必ず振り込むようにしていたが、どうやらその金は、俺の知らぬ間に彼女の娯楽費に成り代わっていたらしい。





「あの女……舐めやがってチクショォォ……」


 俺から金を貪るだけ貪って、最後は他の男と浮気した。


 それに乗じて俺を家から追い出すなんてとんだクソ女だが……情けなくも、俺は今でも早希のことが好きなままだ。


 もっと詳しく言えば、あの子のたわわなオッパイが、どうしても忘れられないのだ。


「ただの便利屋でもよかったのに……ATMって思われててもよかったのに……なんであいつは他の男を家に連れ込んでんだよォォ……」


「小林さ、何回同じ話すれば気が済むわけ?」


「何回しても済むわけないだろ! こちとら捨てられてんだぞ!」


「帰る家がないのは可哀想だけどさ、そんな女と別れられたならよかったじゃん」


「よくねぇよ! 家もねぇし金もねぇ、おまけに彼女もいねぇと来た。せめてセフレにでもしてくれれれば、俺はまだ立ち直れたのによォォ……」


「ははっ、お前って控えめに言ってクズだな」


 俺を嘲笑うように苦笑し、山本はビールを煽る。


「お前はいいよな、もう結婚してるし安定してて」


「まあ、どっかの誰かさんみたいに、胸だけで女を選ぶようなことはしないからな」


「それってもしかして俺に言ってる? 流石に酷くない?」


「事実を言ってるだけだよ。言われたくないならもう忘れろ」


 確かに俺は早希の胸に溺愛していた。

 でもだからと言って、胸だけで女を選んでいるわけじゃない。それに忘れろと言われても、そんな簡単に忘れられるわけがないだろ。


「それで、今日はどこに泊まるつもり?」


「このままだと昨日みたいに漫喫かネカフェだな」


「ふーん、まあ頑張ってよ。応援はしとくから」


 応援したいなら口だけじゃなくて行動で——。





「なあ山本」


「何?」


「今日だけでいいから家に——」


「無理」


 せめて最後まで言わせてくれ。

 こっちだって無理なのは承知で頼んでるんだから。


「うちには奥さんいるし、どう考えても無理だろ」


「だよなぁ……」


 早希に家を追い出されたのが昨日のこと。その時の俺は、財布とケータイだけを持って、スーツ姿で泣きながら漫喫に駆け込んだ。


 俺が家賃を払っていたとは言え、契約上は早希が借りていることになってるし、俺がこつこつと貯金していた口座は、物の見事にすっからかんになっていた。


 故に今の俺には帰る家もなければ、家を借りるだけのお金もない。


 実家を頼れればいいが、こんな情けない息子の姿を親には見せたくないし、何よりも地方なので、都内で仕事をしている以上、帰るのは無理な話だった。


 漫喫で進◯の巨人を読みながら、人生に絶望していた俺は、すがるように同期の山本に連絡をして、一晩明けた今日、こうして飲みながら愚痴を聞いてもらっているというわけだ。


「まあ愚痴は聞いてやるからさ、それで勘弁してよ」


「勘弁も何も、俺には金がねぇんだよォォ……」


「そこに関しては次の給料日まで待つしかないな」


「それまでは家無しかよ……もしかして俺、死ぬんじゃねぇの⁉︎」


「かもなー」


「軽っ⁉︎」


 同期がピンチだというのに、どこまでも冷淡な山本。


 こうして飲みに付き合ってくれるということは、少なからず俺のことを心配してくれているのだろうが、だとしてもちょっと冷たすぎやしませんかね。


「とりあえずここは俺が奢ってやるから」


「マジですか⁉︎」


「ああ、家のない奴に払わせるのも気が引けるしな」


「ゴチになります! あ、お姉ちゃん! 紹興酒ロック!」


 ハツラツと手を上げる俺を見て、山本は大きめのため息を吐いていた。









「そういや小林。あの話聞いたか」


「んんー、どの話だぁ?」


「ほら、明日からうちの部署に新しい人が派遣されてくるって」


「あぁ、それかぁ。確か女の課長とか言ってたなぁ」


「噂で聞いたけど、結構美人らしいぞ」


「ほぉーん、で、胸のサイズは」


「知らん……それは自分で確認しろ」


 何度目かもわからないため息を吐いた山本は、やれやれと両手を広げる。そんな中俺は、相も変わらず紹興酒のロックを勢いよく喉に流し込んだ。


「奢ってやるとは言ったが、介抱するのだけはごめんだからな」


「んなのわぁってるよ。これでラストにするって」


「お前それさっきも言ってただろ……」


「えぇ? そうだったけぇ?」


 この辺りになってくると、もうほとんど酒の味はしない。


 山本に何度も何度も注意されてはいるが、俺はそれを適当に聞き流し、奢ってもらえるという安心感から、浴びるように酒を飲みまくった。






 * * *






「……おぇ……ぐっ……ぐぇぇ……」


 公園のトイレで嘔吐した。

 舌の上に胃液独特のエグ味が残る。

 それが更に俺の吐き気を増幅させた。


「……ぐぇぇ……ぎもぢわりぃ……」


 また吐いた。

 今度は食いもんやら何やらがたくさん出た。

 後味にほんのり紹興酒の余韻もある。


「大人しくビールにしときゃ良かった……」


 後悔をしたところで、またしても吐き気がくる。三度目ともなると、固形のものは何も残っていなかった。


 一度うがいしようと個室を出る。

 だがすぐに吐き気が来ては、急いで個室に駆け戻った。


「ちくしょォ……何で俺がこんな目に……」


 山本の忠告を無視して、アホみたいに酒を飲んだのは悪い。


 でもこうなったのは、きっと全部あの女のせいだ。


 あの女が俺を弄んだから、こんな酷いことになった。


 あの女さえいなければ、今頃俺は幸せだったかもしれないのに……。


「絶対に許さね……おぇぇぇ……」




 おかげで胃の中は全て空っぽだ。

 せっかく山本に奢ってもらったのに、これじゃ全く意味がない。


 多少の吐き気は残っていたが、俺は我慢してよろよろと個室を出た。そしてトイレの水で軽く口をゆすいでは、朦朧とした意識のまま、一度ブランコに腰掛ける。





 本当ならもう家に帰って寝たい。

 でも俺にはもう、帰れる家はどこにもない。


「はぁぁ、ちくしょ……ぐぇっ……」


 思わず嘔吐しそうになったが何も出なかった。前屈みになった身体を無理やり起こし、ただぼーっと街灯を見つめる。


 この後はどこに行こうか。

 確か漫喫は昨日行ったし、今度はネカフェでも試してみるか。


 そんなことを考えているうちに、気がどんどん遠退いていくようだった。








「こんばんは。酔っ払いのお兄さん」


 声が聞こえ、ふと顔を上げる。

 すると視界の真ん中にぼんやりと人影が写った。


「あんた誰だよ」


「誰でもいいじゃない」


 声的に女の声だ。

 近づいて来てわかったが、髪は長く背もスラッとしてる。胸までは暗くて見えなかったが、おそらく俺のタイプじゃない。


「それよりお隣失礼するわね」


「あいあい、ご勝手に」


 そう言うと女はもう一つのブランコに腰を下ろした。


 こんな時間に一人で公園に来るなんて、もしや酔っ払いか?


「今日は涼しいわねぇ」


「ああ、そうだな」


「それであなた、こんなところで何してるの?」


「何って、見ればわかるだろ。ぼーっとしてんだよ」


「へー、そうなの」


 話しかけて来たその顔を見ると、まあまあに美人だった。髪もサラサラとした黒髪で、目は切れ長、おまけに顔も小さい。


 でも明らかに胸はない。衣服越しでもそれはわかった。世間的に言えば美人なのだろうが、やはり俺のタイプではない。


 そんな残念美人さんは、何やら小首を傾げた。


「家に帰らないの?」


「帰る家がねぇんだよ」


「ふーん、珍しいわね”家無し”なんて」


 悪気がないのはわかっていた。

 しかし女の言葉は、やり場のない俺の怒りを刺激した。


「家が無くて悪りぃかよ! こちとら捨てられてんだ! ちくしょォ……」


「あらあら。もしかして私、傷抉っちゃった?」


「……っせぇ、笑いたきゃ笑えばいいだろクソがァ……」


 口が悪い自覚はあった。

 だが酔いもあって、俺の理性はもう機能していない。


「あんたはいいよな美人で! さぞ男にもモテるだろうよ」


「美人? それって私のこと?」


「他に誰がいるってんだよ……ちっとは自覚しやがれってんだ、この阿呆あほう!」


 目頭が熱くなる感覚を覚えながら、俺は乱暴に言った。


 初対面の女性に当たるなんて、我ながら最低だとは思ったが……。


「び、美人だなんて! そんなっ!」


 俺の言葉に女はなぜか語尾を上げる。

 おまけに暗闇でもわかるくらい、照れているようだった。


「……褒めてねぇんだよ。いや褒めてるけどさ」


 てっきり言い返されると思っていたので、この反応には拍子抜けだ。


 このどことなくフワフワした感じ、やっぱりこいつ酔ってるのか?


「とにかく、女の夜道の一人歩きは危ないぞ。わかったらさっさと家に帰れ」


「あら、褒めた後は心配までしてくれるのね」


「そんなんじゃねぇよ。ただ一人の時間を邪魔されたくないだけだ」


「そう、ならこの辺りでおいとましようかしら」


「ああ、帰った帰った」


 しっしっと追い払うように手を靡かせると、女はむくっと立ち上がった。そしてようやく帰ったかと思えば、なぜか途中で立ち止まり振り返る。


「あ、そうそう」


「なんだよ。まだ何かあんのか」


「もしあれならウチに——」


 この時女がなんと言ったのか。

 その後のことはよく覚えていない。






 * * *






 目を覚ますと、知らない天井だった。


「……ん、ここは?」


 ぼんやりとした意識のまま辺りを見渡す。


 見覚えのない間取り。

 見覚えのない内装。


 どうやらここは、俺じゃない誰かの家のようだ。


「なんで俺、知らない部屋に……」


 昨日の記憶がない。

 確か俺は山本と潰れるまで飲んで、その後は公園で嘔吐して、ブランコに座ってぼーっとして……。


「……そうだ。あの女」


 ふと脳内に舞い戻って来る記憶。

 ぼんやりと浮かび上がったのは、公園で会ったあの女の顔。


 サラサラの髪に、切れ長の目、でも胸は小さい残念美人。俺は確かあの女に言われて、家に泊めさせてもらったんだっけ。


「どこにもいねぇけど」


 思い出したのはいいが、肝心の女の姿はない。

 それに今俺がいるのは紛れもなくベッドの上。酔っ払った勢いで、床じゃなくベッドで寝てしまったんだろうか。


「——あっ! そういえば時間!」


 慌てて時計を見る。

 すると今の時刻は、午前8時を指し示していた。


 今日は月曜日。

 つまりこのままだと完全なる遅刻になる。


「一体どこなんだよここは……」


 記憶がないので今いる場所もわからない。

 会社から30分以上離れていた場合、即ゲームオーバーだが……。


「……はぁ、なんだ。会社すぐそこじゃん」


 幸い会社のすぐ近くのようだ。

 これなら15分もあれば着きそうだ。

 何がともあれ、ひとまずは助かった。


「てか、この骨みたいなのは一体なんだ?」


 先ほどから気になってはいたが、テーブルの上に『朝ご飯よ♪』と書かれたメモと共に、骨の玩具のようなものが置かれている。


 ペットを飼っているのかと思いきや、別に犬がいるわけでもないし、かと言ってネタだとするなら、いささかバカにされ過ぎている。


「鍵も置いてあるけど、これ俺が締めるんだよな」


 骨の横にはこの部屋の物と思わしき鍵。

 これを残して外出されても、俺としては困るだけなのだが。


「まあ、仕事終わったらまた寄るか」


 とはいえ、鍵を閉めないわけにもいかない。ひとまず今は預かっておいて、後で返しに来ればいいだろう。






 * * *





「えっ……えぇぇぇぇ⁉︎」


 朝礼の真っ只中。

 視界に飛び込んで来た人物を前に、俺は思わず声をあげた。


「小林くん、いきなりどうしたんだね」


「……あ、いや。すみません」


「何か言いたいことでもあるのかね」


「いえ……何でもないです」


 部長に怪訝な視線を向けられ、俺はスッと身を引く。


 にしても、部長の横にいるあの女性。

 今日うちの部署に派遣されて来るという新課長だと思うが……。


(あれって……絶対そうだよな)


 サラサラな黒髪。切れ長の目。モデルのような体型だが胸はない。俺の記憶が正しければ、おそらくあの人は昨日の女だ。


「こちらが今日から課長をしてもらう犬飼いぬかいさんだ」


「犬飼です。どうぞよろしくお願いします」


 深々と頭を下げる新課長。

 声の感じからして、やっぱり間違いない。


(あの人課長だったのかよ……)


 まさかの事実を前に、ふと昨日の記憶を思い返す。


 確か俺はあの人と公園で会って、ブランコに座って色々と会話を……。






『家がなくて悪りぃかよ! こちとら捨てられてんだ! ちくしょォ……』


 色々と……


『……っせぇ、笑いたきゃ笑えばいいだろクソがァ……」


 会話を……


『ちっとは自覚しやがれってんだ、この阿呆!』


 …………。






 思い返すほど、俺の顔から血の気が引いた。


 ちくしょぉ……クソがァ……阿呆!


 どれを取っても上司に言っていいようなセリフじゃない。まあそもそも、上司以前に他人に言うべき言葉じゃないのだが。


「どうしたんだよ小林。さっきっからおどおどして」


「……い、いや、別に何も」


 隣の山本に不審がられたが、そんなの焦るに決まってる。


 だって酒に酔った勢いで、課長にタメ口聞いたんだぞ?


 しかも家にまで泊めてもらったし、もしかして俺……クビ……?


「それでは皆さん。今日もよろしく頼みますよ」


 朝礼は滞りなく終わり、各々仕事に取り掛かる。俺もそれに乗じて、ひとまずはデスクに腰掛けた。


(さて……どうしたもんか)


 同じ職場でしかも同じ部署とは。

 偶然が過ぎて頭がクラクラして来る。


 とにかく今は様子を見ることしかできない。

 もしかしたら向こうは気づいていないかもだし、あの課長と関わらないで済むなら、それに越したことはないしな。






 そう思った数秒後。






「小林くんだったかしら」


 ギクッッ⁉︎


「犬飼よ。どうぞ宜しく」


「は、はあ……よ、よろしくお願いします」


 あろうことか向こうから接触して来やがった。

 しかもこの感じだと間違いなく俺に気づいて……。


「少しお話がしたいのだけど、いいかしら」


「お、お話ですか」


「ええ、できれば二人きりで」


「…………」


 犬飼課長の言葉に、俺の人生は終わりを告げた。






 * * *






「ごめんなさいね。急に呼び出してしまって」


「い、いえ」


 俺が連れてこられたのは社内の休憩所。始業直後ということもあり、幸い俺たち以外に人はいない。


「それでね、小林くん」


 ゴクリ。


「昨日のことなんだけど」


 課長から一言出る度に、俺の心臓はバックバク。いつクビにされるかわからない恐怖から、額には冷汗が滲んでいた。


「き、昨日のことですか……? は、はて、何のことやら」


「うふふっ、今日は敬語なのね」


「……!!」


「昨日はあれだけ元気が良かったのに」


 俺をおちょくるようにそう言った課長。

 そんな課長を前に、気づけば俺は、床にデコを擦り付けていた。


「その節は大変すみませんでしたぁぁぁぁ!!」


「あらあら、いきなり伏せなんて従順……じゃなくて、随分と真面目なのね」


「課長に無礼を働いたのですから当然です……!」


 こんな見っともない姿、他の誰かに見られたら確実にネタにされる。しかしながら今の俺には、こうして頭を下げることしかできなかった。


 例えネタにされようと、この会社をクビになったら、それこそ人生ゲームオーバーなのだから。


「靴でも何でも舐めますのでどうかクビだけは……!」


「そんな、クビになんてしないわよ」


「えっ⁉︎ 本当ですか⁉︎」


「ええ、でも……」


 すると課長は愉悦な笑みを浮かべ。


「靴を舐められるのは、いいかもしれないわね」


 と、なぜか頬を高揚させながら、意味深な一言を。


「…………」


 それには思わず俺も絶句。

 確かに靴でも何でも舐めるとは言ったが、まさかこの人本当にそれをやれと……?


「嘘嘘、冗談よ冗談」


「は、ははっ、ですよね」


「そうよ。犬じゃないんだから……まだ」


「……まだ?」


 何か良からぬ副音声が聞こえた気がしたが。


 ひとまず冗談なら良かった。

 窮地きゅうちとはいえ、流石に人の靴を舐めるような真似はしたくないからな。


「それよりも、今日はよく寝れたかしら」


「あ、はい。おかげさまで」


「そう、朝ごはんは? ちゃんと食べた?」


「いえ、食べてませんけど」


「えっ⁉︎ 食べてないの⁉︎」


 課長は急に声量を大にする。


「は、はい。普通に抜きましたけど」


「ダメじゃない、せっかく用意しておいたのに」


「え、用意……?」


 そんなものなかったはずだが。

 まさかテーブルの上にあったあの骨じゃないだろうな……。


「好き嫌いしちゃダメよ?」


「は、はあ……」


 あんなもん人間が食うもんじゃないだろ。

 そうは思ったが、とりあえず笑顔で頷いておく。


「それじゃあ、そろそろ仕事に戻りましょうか」


「そ、そうですね」


「時間とらせてごめんなさい」


 そして犬飼課長はオフィスへと戻って行った。


(何なんだあの人は……)


 クビにならなかったのは良かった。

 良かったが、あの人のテンションがいまいち掴めない。


 不思議な人。


 失礼ながら、俺が課長に対して持った最初のイメージはそんな感じだった。






 * * *






 課長に鍵を返すのをすっかり忘れていた。

 また忘れる前に、早いとこ返しておこう。


「課長、少しいいですか」


「あら小林くん。何かしら」


「これ、預かっていたご自宅の鍵です」


「そういえば、預けたままだったわね」


 ポケットから出した鍵を、課長に渡す。


「それじゃ僕はこれで」


 そしてすぐに踵を返した。

 変に絡まれる前に、さっさとマイデスクに……。


「ちょっとまって」


 が、しかし。


 案の定、俺は課長に呼び止められた。

 ため息が出そうになるのをグッと堪え、即興の笑顔で振り返る。


「な、なんでしょう」


「小林くん、帰る家がないのよね」


「まあ、今のところそうですけど」


 そんなことを聞いてどうすんだ。

 そう思っていた矢先、犬飼課長は迷いなく言った。


「なら、今日もうちに来たら?」


「はい⁉︎」







 またしてもお邪魔してしまった。

 2日連続で女性の……しかも課長の家にお世話になるとは。


「あの、本当すいません」


「いいのよ。気を遣わなくていいから、好きに寛いでね」


 あれだけ失礼を働いたのにクビにするわけでもなく、寝床まで提供してくれる。


 不思議な人だとは思ったが、それ以上に犬飼課長は、寛大な心の持ち主なのかもしれない。


「流石に明日になったら出ていきますので」


「そんな早まらなくても、家が見つかるまではここに居るといいわ」


「いやいや、流石に悪いですよ」


「いいから、あなたは何も気にしなくていいのよ」


 そうは言われても、普通は気にすると思いますよ。


 これが同期の山本だったらまだしも、課長の犬飼さんなわけで。男だったらまだしも女性なわけで。しかもタイプではないとはいえ美人なわけで。


「ご好意は嬉しいですが、やはりそういうわけには……」


「ふーん、そう」


 するとなぜか課長は不満げに鼻を鳴らす。

 そしておもむろにケータイを取り出すと。


「この画像、職場のみんなに見せてもいいのだけど」


「はっ⁉︎」


 提示された画像を前に、俺は思わず目を見開いた。


 課長のケータイにあったのは、あろうことか俺の寝顔。しかも課長のベッドでヨダレを垂らしながら寝こけている、非常にだらしないものだった。


「ど、どうしてそんな写真を……!」


「面白いから撮っておいたのよ」


「面白いからって……それは無いですよ課長!」


 焦る俺に対し、ニマニマとした笑みを浮かべる犬飼課長。


 もしこんな写真を社内にばら撒かれたりでもしたら、俺は色んな意味で終わる。着任初日の美人課長の家にお泊まりだなんて、うちの男供が黙っているわけがない。


「ついでに昨日の公園での会話も録音してるけど」


「じょ、冗談ですよね……?」


「冗談じゃないわよ。もしあれなら今ここで聴く?」


 余裕な表情でヒラヒラとケータイをチラつかせる課長。


 この感じ、この流れからしておそらくは……。


「……いえ、結構です」


「そう」


「有り難くお世話になります……」


 俺が折れると、満足そうに微笑んだ。

 まさか知らぬ間に二つも弱みを握られていたなんて……。


(やっぱりこの人常人じゃねぇ……)


 絶対何かあるとは思っていたが。

 まさかここまで狂ってやがるとは。


「あ、そうそう。うちで暮らす上で一つ条件があるの」


「条件……?」


 今度は一体なんだ。

 身構える俺に、課長はとあるものを差し出した。


「これを付けなさい」


「えっ」


 まさかの品を前に、一瞬言葉が詰まる。


「こ、これって犬の首輪ですよね」


「そうよ」


 いやいや「そうよ」って。これは愛犬に付ける物であって、決して成人男性が好き好んで付けるものじゃないぞ。


「じょ、冗談はよしてくださいよ」


「冗談じゃないわ。さっきあなたと一緒に選んだじゃない」


「選びましたけど……俺はてっきり課長の犬に付けるものかと」


 ここに来る前、俺は課長の付き添いでペットショップに連れて行かれた。そこで課長は犬の首輪とドックフードを買っていたのだが……。


「そ、そういえば課長、犬とか飼われてないですよね」


「犬なら飼っているわ」


「えっ、どこですか?」


 俺がキョロキョロと部屋を見渡していると。

 なぜか課長の指の先が俺の方に向いた。


「私の犬よ」


「はい⁉︎」


 何か今、凄く良からぬことを言われた気がするが。


「か、課長……今なんと」


「あなたは今日から私の犬。これは決定事項よ」


 自信満々に言い切る犬飼課長。

 その感じからしてただの茶番とも思えない。


「犬って……あの犬ですよね」


「その犬よ」


「えっと……俺一応人間なんですけど」


「ええ、だから私の家にいる間だけでいいわ」


「それってつまり……泊める代わりに俺に犬になれと?」


「そういうことね」


 いやいや。全然意味がわからない。

 人間を犬にするってどんな趣味してんだこの人。


「ち、ちなみに拒否すると言ったら」


「拒否権はないわ。わかるでしょ?」


 すると課長は再びあの画像をチラつかせる。

 おまけに昨日の公園での会話まで流し始めた。


「これでわかったかしら。あなたは私の犬になるしかないの」


「んなアホな……」


 がっくりと膝から崩れ落ちた俺。

 そんな俺の頭に課長はポンッと手を乗せる。


「今日からよろしくね、ポチ」


「俺の名前はポチじゃなくてさとるです……」


「そうじゃないでしょ? 返事は?」


「……っっ……ワンッ!!」


 いっそ死にたい。

 全てを諦めた俺に対し、犬飼課長は満足げに笑った。


 弱み、そして家が無いというどうしようもにない事情を逆手に取られ、俺は半強制的に、美人課長である犬飼さんの犬になったのだった。

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