【短編】ヒモだったはずの彼女に捨てられた俺は、職場の美人上司に拾われて犬になった。
じゃけのそん
第1話
家を失った。
いや、正しくは追い出された。
俺には
早希は小柄で小動物のような顔立ちながら、その見た目にそぐわないほど胸がでかく、ロリ巨乳の
しかし突如として、俺は同棲していた早希に振られた。
「浮気すんならバレずにやれやァ……」
愚痴を溢しては、
もう何杯このマジい酒を飲んだだろうか。わからないが、一緒に飲みに来ていた同期の山本の顔がボヤける程度には、酔いが回っていた。
「元気なのはいいが、ほどほどにしとけよ」
「断る! 飲まなきゃやってられん!」
そうだ。
俺はあの女に振られた。
付き合って1年の記念日を前に捨てられたのだ。
俺と早希は友人の紹介で知り合い、意気投合しやがて交際に発展。それと同じくして、元々早希が一人で住んでいたアパートに、一緒に住むことになった。
初めこそ『二人で協力していこう』みたいなフワッとした約束の元、同棲生活を続けていた俺たちだったが、早希は日に日に家事も仕事もしなくなり、同棲を始めて3ヶ月で、俺に何の相談もなく勤めていた会社を退職。
すぐに新しい仕事を探すかと思えば、そのまま2ヶ月間はニート状態。
やっと重い腰を上げたかと思えば、始めたのは週一のコンビニのアルバイトで、それ以外の時間は、夜の街で朝まで遊び呆けている始末だった。
そんな早希の状態もあってか、気づけば俺は、普通に仕事をしながらも、家のほとんどのことをこなす、彼氏兼、家政婦的な立場になってしまっていた。
その上家賃、水道光熱費、食費等は全て俺の負担。
おまけに付き合いたての頃、将来のためにと二人で立ち上げたはずの銀行口座にも、いつからか早希は一切の入金をしなくなっていた。
それでも俺は当初の約束通り、生活費とは別に、毎月2万必ず振り込むようにしていたが、どうやらその金は、俺の知らぬ間に彼女の娯楽費に成り代わっていたらしい。
「あの女……舐めやがってチクショォォ……」
俺から金を貪るだけ貪って、最後は他の男と浮気した。
それに乗じて俺を家から追い出すなんてとんだクソ女だが……情けなくも、俺は今でも早希のことが好きなままだ。
もっと詳しく言えば、あの子のたわわなオッパイが、どうしても忘れられないのだ。
「ただの便利屋でもよかったのに……ATMって思われててもよかったのに……なんであいつは他の男を家に連れ込んでんだよォォ……」
「小林さ、何回同じ話すれば気が済むわけ?」
「何回しても済むわけないだろ! こちとら捨てられてんだぞ!」
「帰る家がないのは可哀想だけどさ、そんな女と別れられたならよかったじゃん」
「よくねぇよ! 家もねぇし金もねぇ、おまけに彼女もいねぇと来た。せめてセフレにでもしてくれれれば、俺はまだ立ち直れたのによォォ……」
「ははっ、お前って控えめに言ってクズだな」
俺を嘲笑うように苦笑し、山本はビールを煽る。
「お前はいいよな、もう結婚してるし安定してて」
「まあ、どっかの誰かさんみたいに、胸だけで女を選ぶようなことはしないからな」
「それってもしかして俺に言ってる? 流石に酷くない?」
「事実を言ってるだけだよ。言われたくないならもう忘れろ」
確かに俺は早希の胸に溺愛していた。
でもだからと言って、胸だけで女を選んでいるわけじゃない。それに忘れろと言われても、そんな簡単に忘れられるわけがないだろ。
「それで、今日はどこに泊まるつもり?」
「このままだと昨日みたいに漫喫かネカフェだな」
「ふーん、まあ頑張ってよ。応援はしとくから」
応援したいなら口だけじゃなくて行動で——。
「なあ山本」
「何?」
「今日だけでいいから家に——」
「無理」
せめて最後まで言わせてくれ。
こっちだって無理なのは承知で頼んでるんだから。
「うちには奥さんいるし、どう考えても無理だろ」
「だよなぁ……」
早希に家を追い出されたのが昨日のこと。その時の俺は、財布とケータイだけを持って、スーツ姿で泣きながら漫喫に駆け込んだ。
俺が家賃を払っていたとは言え、契約上は早希が借りていることになってるし、俺がこつこつと貯金していた口座は、物の見事にすっからかんになっていた。
故に今の俺には帰る家もなければ、家を借りるだけのお金もない。
実家を頼れればいいが、こんな情けない息子の姿を親には見せたくないし、何よりも地方なので、都内で仕事をしている以上、帰るのは無理な話だった。
漫喫で進◯の巨人を読みながら、人生に絶望していた俺は、
「まあ愚痴は聞いてやるからさ、それで勘弁してよ」
「勘弁も何も、俺には金がねぇんだよォォ……」
「そこに関しては次の給料日まで待つしかないな」
「それまでは家無しかよ……もしかして俺、死ぬんじゃねぇの⁉︎」
「かもなー」
「軽っ⁉︎」
同期がピンチだというのに、どこまでも冷淡な山本。
こうして飲みに付き合ってくれるということは、少なからず俺のことを心配してくれているのだろうが、だとしてもちょっと冷たすぎやしませんかね。
「とりあえずここは俺が奢ってやるから」
「マジですか⁉︎」
「ああ、家のない奴に払わせるのも気が引けるしな」
「ゴチになります! あ、お姉ちゃん! 紹興酒ロック!」
ハツラツと手を上げる俺を見て、山本は大きめのため息を吐いていた。
「そういや小林。あの話聞いたか」
「んんー、どの話だぁ?」
「ほら、明日からうちの部署に新しい人が派遣されてくるって」
「あぁ、それかぁ。確か女の課長とか言ってたなぁ」
「噂で聞いたけど、結構美人らしいぞ」
「ほぉーん、で、胸のサイズは」
「知らん……それは自分で確認しろ」
何度目かもわからないため息を吐いた山本は、やれやれと両手を広げる。そんな中俺は、相も変わらず紹興酒のロックを勢いよく喉に流し込んだ。
「奢ってやるとは言ったが、介抱するのだけはごめんだからな」
「んなのわぁってるよ。これでラストにするって」
「お前それさっきも言ってただろ……」
「えぇ? そうだったけぇ?」
この辺りになってくると、もうほとんど酒の味はしない。
山本に何度も何度も注意されてはいるが、俺はそれを適当に聞き流し、奢ってもらえるという安心感から、浴びるように酒を飲みまくった。
* * *
「……おぇ……ぐっ……ぐぇぇ……」
公園のトイレで嘔吐した。
舌の上に胃液独特のエグ味が残る。
それが更に俺の吐き気を増幅させた。
「……ぐぇぇ……ぎもぢわりぃ……」
また吐いた。
今度は食いもんやら何やらがたくさん出た。
後味にほんのり紹興酒の余韻もある。
「大人しくビールにしときゃ良かった……」
後悔をしたところで、またしても吐き気がくる。三度目ともなると、固形のものは何も残っていなかった。
一度うがいしようと個室を出る。
だがすぐに吐き気が来ては、急いで個室に駆け戻った。
「ちくしょォ……何で俺がこんな目に……」
山本の忠告を無視して、アホみたいに酒を飲んだのは悪い。
でもこうなったのは、きっと全部あの女のせいだ。
あの女が俺を弄んだから、こんな酷いことになった。
あの女さえいなければ、今頃俺は幸せだったかもしれないのに……。
「絶対に許さね……おぇぇぇ……」
おかげで胃の中は全て空っぽだ。
せっかく山本に奢ってもらったのに、これじゃ全く意味がない。
多少の吐き気は残っていたが、俺は我慢してよろよろと個室を出た。そしてトイレの水で軽く口をゆすいでは、朦朧とした意識のまま、一度ブランコに腰掛ける。
本当ならもう家に帰って寝たい。
でも俺にはもう、帰れる家はどこにもない。
「はぁぁ、ちくしょ……ぐぇっ……」
思わず嘔吐しそうになったが何も出なかった。前屈みになった身体を無理やり起こし、ただぼーっと街灯を見つめる。
この後はどこに行こうか。
確か漫喫は昨日行ったし、今度はネカフェでも試してみるか。
そんなことを考えているうちに、気がどんどん遠退いていくようだった。
「こんばんは。酔っ払いのお兄さん」
声が聞こえ、ふと顔を上げる。
すると視界の真ん中にぼんやりと人影が写った。
「あんた誰だよ」
「誰でもいいじゃない」
声的に女の声だ。
近づいて来てわかったが、髪は長く背もスラッとしてる。胸までは暗くて見えなかったが、おそらく俺のタイプじゃない。
「それよりお隣失礼するわね」
「あいあい、ご勝手に」
そう言うと女はもう一つのブランコに腰を下ろした。
こんな時間に一人で公園に来るなんて、もしや酔っ払いか?
「今日は涼しいわねぇ」
「ああ、そうだな」
「それであなた、こんなところで何してるの?」
「何って、見ればわかるだろ。ぼーっとしてんだよ」
「へー、そうなの」
話しかけて来たその顔を見ると、まあまあに美人だった。髪もサラサラとした黒髪で、目は切れ長、おまけに顔も小さい。
でも明らかに胸はない。衣服越しでもそれはわかった。世間的に言えば美人なのだろうが、やはり俺のタイプではない。
そんな残念美人さんは、何やら小首を傾げた。
「家に帰らないの?」
「帰る家がねぇんだよ」
「ふーん、珍しいわね”家無し”なんて」
悪気がないのはわかっていた。
しかし女の言葉は、やり場のない俺の怒りを刺激した。
「家が無くて悪りぃかよ! こちとら捨てられてんだ! ちくしょォ……」
「あらあら。もしかして私、傷抉っちゃった?」
「……っせぇ、笑いたきゃ笑えばいいだろクソがァ……」
口が悪い自覚はあった。
だが酔いもあって、俺の理性はもう機能していない。
「あんたはいいよな美人で! さぞ男にもモテるだろうよ」
「美人? それって私のこと?」
「他に誰がいるってんだよ……ちっとは自覚しやがれってんだ、この
目頭が熱くなる感覚を覚えながら、俺は乱暴に言った。
初対面の女性に当たるなんて、我ながら最低だとは思ったが……。
「び、美人だなんて! そんなっ!」
俺の言葉に女はなぜか語尾を上げる。
おまけに暗闇でもわかるくらい、照れているようだった。
「……褒めてねぇんだよ。いや褒めてるけどさ」
てっきり言い返されると思っていたので、この反応には拍子抜けだ。
このどことなくフワフワした感じ、やっぱりこいつ酔ってるのか?
「とにかく、女の夜道の一人歩きは危ないぞ。わかったらさっさと家に帰れ」
「あら、褒めた後は心配までしてくれるのね」
「そんなんじゃねぇよ。ただ一人の時間を邪魔されたくないだけだ」
「そう、ならこの辺りでおいとましようかしら」
「ああ、帰った帰った」
しっしっと追い払うように手を靡かせると、女はむくっと立ち上がった。そしてようやく帰ったかと思えば、なぜか途中で立ち止まり振り返る。
「あ、そうそう」
「なんだよ。まだ何かあんのか」
「もしあれならウチに——」
この時女がなんと言ったのか。
その後のことはよく覚えていない。
* * *
目を覚ますと、知らない天井だった。
「……ん、ここは?」
ぼんやりとした意識のまま辺りを見渡す。
見覚えのない間取り。
見覚えのない内装。
どうやらここは、俺じゃない誰かの家のようだ。
「なんで俺、知らない部屋に……」
昨日の記憶がない。
確か俺は山本と潰れるまで飲んで、その後は公園で嘔吐して、ブランコに座ってぼーっとして……。
「……そうだ。あの女」
ふと脳内に舞い戻って来る記憶。
ぼんやりと浮かび上がったのは、公園で会ったあの女の顔。
サラサラの髪に、切れ長の目、でも胸は小さい残念美人。俺は確かあの女に言われて、家に泊めさせてもらったんだっけ。
「どこにもいねぇけど」
思い出したのはいいが、肝心の女の姿はない。
それに今俺がいるのは紛れもなくベッドの上。酔っ払った勢いで、床じゃなくベッドで寝てしまったんだろうか。
「——あっ! そういえば時間!」
慌てて時計を見る。
すると今の時刻は、午前8時を指し示していた。
今日は月曜日。
つまりこのままだと完全なる遅刻になる。
「一体どこなんだよここは……」
記憶がないので今いる場所もわからない。
会社から30分以上離れていた場合、即ゲームオーバーだが……。
「……はぁ、なんだ。会社すぐそこじゃん」
幸い会社のすぐ近くのようだ。
これなら15分もあれば着きそうだ。
何がともあれ、ひとまずは助かった。
「てか、この骨みたいなのは一体なんだ?」
先ほどから気になってはいたが、テーブルの上に『朝ご飯よ♪』と書かれたメモと共に、骨の玩具のようなものが置かれている。
ペットを飼っているのかと思いきや、別に犬がいるわけでもないし、かと言ってネタだとするなら、いささかバカにされ過ぎている。
「鍵も置いてあるけど、これ俺が締めるんだよな」
骨の横にはこの部屋の物と思わしき鍵。
これを残して外出されても、俺としては困るだけなのだが。
「まあ、仕事終わったらまた寄るか」
とはいえ、鍵を閉めないわけにもいかない。ひとまず今は預かっておいて、後で返しに来ればいいだろう。
* * *
「えっ……えぇぇぇぇ⁉︎」
朝礼の真っ只中。
視界に飛び込んで来た人物を前に、俺は思わず声をあげた。
「小林くん、いきなりどうしたんだね」
「……あ、いや。すみません」
「何か言いたいことでもあるのかね」
「いえ……何でもないです」
部長に怪訝な視線を向けられ、俺はスッと身を引く。
にしても、部長の横にいるあの女性。
今日うちの部署に派遣されて来るという新課長だと思うが……。
(あれって……絶対そうだよな)
サラサラな黒髪。切れ長の目。モデルのような体型だが胸はない。俺の記憶が正しければ、おそらくあの人は昨日の女だ。
「こちらが今日から課長をしてもらう
「犬飼です。どうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げる新課長。
声の感じからして、やっぱり間違いない。
(あの人課長だったのかよ……)
まさかの事実を前に、ふと昨日の記憶を思い返す。
確か俺はあの人と公園で会って、ブランコに座って色々と会話を……。
『家がなくて悪りぃかよ! こちとら捨てられてんだ! ちくしょォ……』
色々と……
『……っせぇ、笑いたきゃ笑えばいいだろクソがァ……」
会話を……
『ちっとは自覚しやがれってんだ、この阿呆!』
…………。
思い返すほど、俺の顔から血の気が引いた。
ちくしょぉ……クソがァ……阿呆!
どれを取っても上司に言っていいようなセリフじゃない。まあそもそも、上司以前に他人に言うべき言葉じゃないのだが。
「どうしたんだよ小林。さっきっからおどおどして」
「……い、いや、別に何も」
隣の山本に不審がられたが、そんなの焦るに決まってる。
だって酒に酔った勢いで、課長にタメ口聞いたんだぞ?
しかも家にまで泊めてもらったし、もしかして俺……クビ……?
「それでは皆さん。今日もよろしく頼みますよ」
朝礼は滞りなく終わり、各々仕事に取り掛かる。俺もそれに乗じて、ひとまずはデスクに腰掛けた。
(さて……どうしたもんか)
同じ職場でしかも同じ部署とは。
偶然が過ぎて頭がクラクラして来る。
とにかく今は様子を見ることしかできない。
もしかしたら向こうは気づいていないかもだし、あの課長と関わらないで済むなら、それに越したことはないしな。
そう思った数秒後。
「小林くんだったかしら」
ギクッッ⁉︎
「犬飼よ。どうぞ宜しく」
「は、はあ……よ、よろしくお願いします」
あろうことか向こうから接触して来やがった。
しかもこの感じだと間違いなく俺に気づいて……。
「少しお話がしたいのだけど、いいかしら」
「お、お話ですか」
「ええ、できれば二人きりで」
「…………」
犬飼課長の言葉に、俺の人生は終わりを告げた。
* * *
「ごめんなさいね。急に呼び出してしまって」
「い、いえ」
俺が連れてこられたのは社内の休憩所。始業直後ということもあり、幸い俺たち以外に人はいない。
「それでね、小林くん」
ゴクリ。
「昨日のことなんだけど」
課長から一言出る度に、俺の心臓はバックバク。いつクビにされるかわからない恐怖から、額には冷汗が滲んでいた。
「き、昨日のことですか……? は、はて、何のことやら」
「うふふっ、今日は敬語なのね」
「……!!」
「昨日はあれだけ元気が良かったのに」
俺をおちょくるようにそう言った課長。
そんな課長を前に、気づけば俺は、床にデコを擦り付けていた。
「その節は大変すみませんでしたぁぁぁぁ!!」
「あらあら、いきなり伏せなんて従順……じゃなくて、随分と真面目なのね」
「課長に無礼を働いたのですから当然です……!」
こんな見っともない姿、他の誰かに見られたら確実にネタにされる。しかしながら今の俺には、こうして頭を下げることしかできなかった。
例えネタにされようと、この会社をクビになったら、それこそ人生ゲームオーバーなのだから。
「靴でも何でも舐めますのでどうかクビだけは……!」
「そんな、クビになんてしないわよ」
「えっ⁉︎ 本当ですか⁉︎」
「ええ、でも……」
すると課長は愉悦な笑みを浮かべ。
「靴を舐められるのは、いいかもしれないわね」
と、なぜか頬を高揚させながら、意味深な一言を。
「…………」
それには思わず俺も絶句。
確かに靴でも何でも舐めるとは言ったが、まさかこの人本当にそれをやれと……?
「嘘嘘、冗談よ冗談」
「は、ははっ、ですよね」
「そうよ。犬じゃないんだから……まだ」
「……まだ?」
何か良からぬ副音声が聞こえた気がしたが。
ひとまず冗談なら良かった。
「それよりも、今日はよく寝れたかしら」
「あ、はい。おかげさまで」
「そう、朝ごはんは? ちゃんと食べた?」
「いえ、食べてませんけど」
「えっ⁉︎ 食べてないの⁉︎」
課長は急に声量を大にする。
「は、はい。普通に抜きましたけど」
「ダメじゃない、せっかく用意しておいたのに」
「え、用意……?」
そんなものなかったはずだが。
まさかテーブルの上にあったあの骨じゃないだろうな……。
「好き嫌いしちゃダメよ?」
「は、はあ……」
あんなもん人間が食うもんじゃないだろ。
そうは思ったが、とりあえず笑顔で頷いておく。
「それじゃあ、そろそろ仕事に戻りましょうか」
「そ、そうですね」
「時間とらせてごめんなさい」
そして犬飼課長はオフィスへと戻って行った。
(何なんだあの人は……)
クビにならなかったのは良かった。
良かったが、あの人のテンションがいまいち掴めない。
不思議な人。
失礼ながら、俺が課長に対して持った最初のイメージはそんな感じだった。
* * *
課長に鍵を返すのをすっかり忘れていた。
また忘れる前に、早いとこ返しておこう。
「課長、少しいいですか」
「あら小林くん。何かしら」
「これ、預かっていたご自宅の鍵です」
「そういえば、預けたままだったわね」
ポケットから出した鍵を、課長に渡す。
「それじゃ僕はこれで」
そしてすぐに踵を返した。
変に絡まれる前に、さっさとマイデスクに……。
「ちょっとまって」
が、しかし。
案の定、俺は課長に呼び止められた。
ため息が出そうになるのをグッと堪え、即興の笑顔で振り返る。
「な、なんでしょう」
「小林くん、帰る家がないのよね」
「まあ、今のところそうですけど」
そんなことを聞いてどうすんだ。
そう思っていた矢先、犬飼課長は迷いなく言った。
「なら、今日もうちに来たら?」
「はい⁉︎」
またしてもお邪魔してしまった。
2日連続で女性の……しかも課長の家にお世話になるとは。
「あの、本当すいません」
「いいのよ。気を遣わなくていいから、好きに寛いでね」
あれだけ失礼を働いたのにクビにするわけでもなく、寝床まで提供してくれる。
不思議な人だとは思ったが、それ以上に犬飼課長は、寛大な心の持ち主なのかもしれない。
「流石に明日になったら出ていきますので」
「そんな早まらなくても、家が見つかるまではここに居るといいわ」
「いやいや、流石に悪いですよ」
「いいから、あなたは何も気にしなくていいのよ」
そうは言われても、普通は気にすると思いますよ。
これが同期の山本だったらまだしも、課長の犬飼さんなわけで。男だったらまだしも女性なわけで。しかもタイプではないとはいえ美人なわけで。
「ご好意は嬉しいですが、やはりそういうわけには……」
「ふーん、そう」
するとなぜか課長は不満げに鼻を鳴らす。
そしておもむろにケータイを取り出すと。
「この画像、職場のみんなに見せてもいいのだけど」
「はっ⁉︎」
提示された画像を前に、俺は思わず目を見開いた。
課長のケータイにあったのは、あろうことか俺の寝顔。しかも課長のベッドでヨダレを垂らしながら寝こけている、非常にだらしないものだった。
「ど、どうしてそんな写真を……!」
「面白いから撮っておいたのよ」
「面白いからって……それは無いですよ課長!」
焦る俺に対し、ニマニマとした笑みを浮かべる犬飼課長。
もしこんな写真を社内にばら撒かれたりでもしたら、俺は色んな意味で終わる。着任初日の美人課長の家にお泊まりだなんて、うちの男供が黙っているわけがない。
「ついでに昨日の公園での会話も録音してるけど」
「じょ、冗談ですよね……?」
「冗談じゃないわよ。もしあれなら今ここで聴く?」
余裕な表情でヒラヒラとケータイをチラつかせる課長。
この感じ、この流れからしておそらくは……。
「……いえ、結構です」
「そう」
「有り難くお世話になります……」
俺が折れると、満足そうに微笑んだ。
まさか知らぬ間に二つも弱みを握られていたなんて……。
(やっぱりこの人常人じゃねぇ……)
絶対何かあるとは思っていたが。
まさかここまで狂ってやがるとは。
「あ、そうそう。うちで暮らす上で一つ条件があるの」
「条件……?」
今度は一体なんだ。
身構える俺に、課長はとあるものを差し出した。
「これを付けなさい」
「えっ」
まさかの品を前に、一瞬言葉が詰まる。
「こ、これって犬の首輪ですよね」
「そうよ」
いやいや「そうよ」って。これは愛犬に付ける物であって、決して成人男性が好き好んで付けるものじゃないぞ。
「じょ、冗談はよしてくださいよ」
「冗談じゃないわ。さっきあなたと一緒に選んだじゃない」
「選びましたけど……俺はてっきり課長の犬に付けるものかと」
ここに来る前、俺は課長の付き添いでペットショップに連れて行かれた。そこで課長は犬の首輪とドックフードを買っていたのだが……。
「そ、そういえば課長、犬とか飼われてないですよね」
「犬なら飼っているわ」
「えっ、どこですか?」
俺がキョロキョロと部屋を見渡していると。
なぜか課長の指の先が俺の方に向いた。
「私の犬よ」
「はい⁉︎」
何か今、凄く良からぬことを言われた気がするが。
「か、課長……今なんと」
「あなたは今日から私の犬。これは決定事項よ」
自信満々に言い切る犬飼課長。
その感じからしてただの茶番とも思えない。
「犬って……あの犬ですよね」
「その犬よ」
「えっと……俺一応人間なんですけど」
「ええ、だから私の家にいる間だけでいいわ」
「それってつまり……泊める代わりに俺に犬になれと?」
「そういうことね」
いやいや。全然意味がわからない。
人間を犬にするってどんな趣味してんだこの人。
「ち、ちなみに拒否すると言ったら」
「拒否権はないわ。わかるでしょ?」
すると課長は再びあの画像をチラつかせる。
おまけに昨日の公園での会話まで流し始めた。
「これでわかったかしら。あなたは私の犬になるしかないの」
「んなアホな……」
がっくりと膝から崩れ落ちた俺。
そんな俺の頭に課長はポンッと手を乗せる。
「今日からよろしくね、ポチ」
「俺の名前はポチじゃなくて
「そうじゃないでしょ? 返事は?」
「……っっ……ワンッ!!」
いっそ死にたい。
全てを諦めた俺に対し、犬飼課長は満足げに笑った。
弱み、そして家が無いというどうしようもにない事情を逆手に取られ、俺は半強制的に、美人課長である犬飼さんの犬になったのだった。
【短編】ヒモだったはずの彼女に捨てられた俺は、職場の美人上司に拾われて犬になった。 じゃけのそん @jackson0827
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