避暑地の旅人たち

オダ 暁

第1話

 雨上がりの朝だった。ぬぐったような澄んだ陽射しが、ここ長野県のはずれ、軽井沢の大地全体に降り注ぐ。初夏を思わせる風が木々の梢を微かに揺らして吹き過ぎていく。

 目に映る光景はどこもかしこも鮮やかな緑だった。波のようにうねる大樹の、光きらめくライトグリーン・・・

 少年は野球帽を目深にかぶり、汗臭いTシャツと色褪せたブルージーンズを身につけていた。贅肉のない、幅広の肩に大きなリュックを背負い、朝の柔らかな陽光に包まれた遊歩道をただ黙々と歩いていた。

 舗装されていない路の両側を落葉樹の天然林がひとしきり続き、それを抜けると視界がいきなり広がり、青々とした広大な原っぱが少年の目に飛び込んでくる。そこは山のふもとだった。カラマツやアカマツの針葉樹におおわれた森の入り口でもあった。なだらかな草原のあちらこちらに、ピンクや薄紫色の可愛らしい花が咲き乱れ、夢に誘われそうな甘美な蜜の匂いを放っていた。

 少年はふいにリュックを肩から引きずり下ろすと、その辺に無造作に放り投げ、草むらに倒れこむように仰向けに寝転んだ。

 ひんやりとした湿り気が、とたん少年の背中に伝わってくる。それはたちまちTシャツ越しに彼の小麦色の皮膚を濡らす。昨夜地上に静かに降り落ちた雨の雫はまだ乾いてはいなかった。

 が、少年は横たわったまま、身じろぎもせずに、さえざえとした雲のない青空をじっと見つめていた。青空というにはまだ早い、輝きはじめたばかりの朝の空を、ぼんやり、空虚な瞳をして。

 家出をしようと決心したのは昨日のことだった。高校や塾や家庭といった、自分を取り囲む何もかもに少年は嫌気がさしていた。親や教師や友人との関係に絶望したのが、家出そのものの原因だった。わずか十七歳にして少年は人間不信に陥ってしまったのだ。

 家じゃ今頃、部屋につるされたままの制服や鞄を見たお袋がヒステリックな声を上げて大騒ぎしているかもしれないな。仕事人間の頑固親父ももしかしたら会社を休んだかもしれない。何しろ大事な一人息子が学校にも行かず、とつぜん行方をくらましたんだから。

 ざまあみろだ、少年は呟き、あはははっと、声を出して笑った。

 学校や塾の講師は口を開けば成績のことしか話さない、あげくのはてには勉強の妨げになるからクラブ活動をやめろだと?俺は野球が好きなんだ、やりたいんだ。なぜ、それを邪魔しようとするんだ、あいつらは。親も一緒だ。俺の大切な漫画本や野球のスクラップをがらくただと決め付けて、留守の間に勝手に捨ててしまいやがった。怒って抗議すると、反省するどころか


「あんなくだらないもの」


 の一言ですませようとする。全てを自分たちの価値観で支配しようとする。仲の良かった奴らも塾通いにあけくれて遊ぶのは大学に受かってからだと、それが賢明な生き方だよと、世の中をさも知ったかぶりに俺を諭そうとする。もう、うんざりなんだよ、何もかも・・

 少年は眉をひそめ苦しげに息を吐いた。

 それから両手を頭の下に組んで手枕を作り、目をしばたいて軽く伏せた。顔の上を穏やかに吹き抜けていく風がここちよかった。汗ばんだ額や首筋はいつのまにか乾いていた。

 少年の住む長野市と軽井沢は同じ県でもその印象はどこか違った。空気の色や匂いが微妙に違う。寝静まった家を抜け出し、長野駅五時二十五分の信越本線に乗ったのは今日の明け方だった。そして軽井沢に着いたのは七時前だった。

 電車を降りて人気のない改札を通って、この町に足を踏み入れた瞬間、全身を澄みきった冷水のような空気に包まれ、少年は思わず驚嘆していた。それは地の底から湧き出てくるようでもあり、遠くの山々の連なりから流れくる季節風にも思えた。軽井沢に来たのは二度目だった、一度目は両親と一緒のうんと昔のことで、殆ど記憶に残っていなかった。

 そうして駅からは、古い地図をたよりに当てずっぽうに歩き、気が付くとこの場所にたどりついていたのだった。

 これからどうしようか・・少年はぼんやりとした頭で思案した。すぐに帰る気はさらさらないし、かといって行く当てがあるわけでもない。そこまで考えると、彼は急に面倒になってきた。リュックの中には当座の身の回りの物と水や食糧が入っていた。金も今までため込んだお年玉が十万円程ある。

 どうにかなるさ、大きなあくびをしながらリュックを脇腹に引き寄せた。昨夜は家出決行計画に興奮してろくに寝ていなかった。

 鳥のさえずりが四方から聞こえていた。何種類もの鳥が遠くや近くの至る所で鳴いていた。その美しいコーラスを子守歌に、とろとろと少年はまどろんでいき、知らぬ間に、眠りに落ちていた。 

 もうろうとした目の前に漠然とした映像が現われる。夢か現実かわからない。ああ、でもこれは夢だ、俺は夢を見ていると、少年は思った。色のついた綺麗な夢。

 手の届かない所で少女が微笑んでいるのが見える。笑くぼの可愛いその少女を彼は知っていた。いつも心に想っていた隣のクラスの女生徒。彼女に恋をしていたことを思い出し、それを告げようと近づいた。少女はくるりと背を向け、軽やかな足取りで逃げていく。追い掛ける。夢を見ていることを忘れ、必死に追う。少女は蝶さながら大空を舞い上がる。その背には透明の羽があった。飛翔しながら真っ青な空に吸い込まれていく。

 行くな、大声を張り上げ、同時に右手を天の高みに向かって差し伸べていた。その恰好で目覚め、少女の消えた広々とした空を眺め渡し、彼は混乱した。ひどくリアルで夢の出来事とは思えなかった。が、すぐ現実感を取り戻すと、今度は情けなくなってきた。少女に恋心を伝えるどころか話かけることもできない実際の自分に。

 学校にいる時はいつでもどこにいても彼女の姿を目で追っていた。遠くから、傍観者のように、ただ眺めることしかできなかった。だから夢でも結局は同じ結果なのだと唇をかんだ。

 少年は身体を起こしてペットボトルの水をごくこぐと喉を鳴らして飲んだ。半分以上を飲み干し、リュックを背負い、再びゆっくりと歩きだす。


「君はどこまで行くの?」


 背後からふいに呼び止められ、振り向くと、同じ年頃の少年が立っていた。紺色の作務衣をさっそうと着こなした、涼しげな眼差しの少年だった。

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