1/3 仮面の赦し
犬
仮面の赦し
1
「ケイちゃんってさ、ほんと嘘つかないよね」
六月半ばにして梅雨は明け、気温は三十度を超えている。黒いシャツを着てきたことを後悔するほどに蒸し暑い交差点。渋谷の人ごみの中、信号を待ちながらレイカは半分感心半分呆れといった声で言った。
「彼女には冗談以外に嘘つかないって決めてるんだよ、偉いだろ」
「バカ正直っていうかさ、嘘どころか隠しすらしないもんね。隠さなきゃいけないようなことも普段からしないし」
二週間ぶりのデート、ハチ公前の宝くじ売り場横で俺を見つけたレイカは開口一番、俺が先週の飲み会で後輩を介抱していたことを咎めた。それは一年生の女の子だった。まだお酒も始めたてなようで、飲み会が終わるころには自分では歩けないほど酔っていた。幸い大学の近くにアパートを借りているというので、その日は家まで送っていったのだ。もっとも、俺のほかにその子を送ろうとする人間はいなかった。だからそういう噂が立ったのだろう。
もちろん俺はその子に手なんか出していない。俺はレイカがいることで十分満足しているし、リスクを負ってまで襲おうと思えるほどその後輩が可愛いわけでもなかった。
人の間を抜け交差点へ向かいながら俺は細かく、そして簡潔に説明した。嘘を言っていないとわかると、レイカは小さくため息をついた。
2
「別にさ、極端に言っちゃえばワンナイトくらいはしょうがないと思うんだよね。一緒に出られない飲み会があるときは毎回ちょっと覚悟してるんだよ」
信号が青になり、俺達は黒いアスファルトに足を踏み出す。
「一途でいい彼氏だわ、ケイちゃんは」
この交差点を通るたび思う。これだけの数の人が喋りながら通り過ぎていくのに、横断歩道を渡り切るころには、横にいた知らない人たちが何を喋っていたのか忘れてしまう。それが面白い。
「これは信条なんだよ。決めたんだ、自分でね」
「ふーん。かっこつけちゃって」
俺達はセンター街を進んでいく。マクドナルドのある角を曲がると、ビルの奥に高くそびえるパルコが見えてくる。
「んで? そんなかっこつけるのにはなんか理由があるわけ」
彼女に対して誠実であること。それを信条とした理由の方は忘れていた。いや、自分でも気づかないうちに思い浮かべないようにしていたのかもしれない。誰にも話さなかったせいだ。思い出すことがなかったのだ。俺はゆっくりと口を開いた。
「理由ね。あるよ。元カノとの話なんだけどさ、聞く?」
3
その女性は水上といった。俺の四つほど年上で、なんとかいう女優に顔が少しだけ似ていたと思う。太っているわけではなかったが体のラインの出る様な服は好まなかった。おとなしい性格で、取り立てて挙げる趣味はなかった。が、俺がなにか本をおすすめした時は、次に会う時までに必ず読み切っていた。音楽はあまり聞かないようだった。
俺達はよく、ブックカフェで本を読んだり、映画を見た後適当なカフェに入って過ごした。もちろんどこかの街でぶらぶらすることもあったが、大抵は神保町や吉祥寺など、比較的うるさくない街が多かった。彼女は人ごみが苦手だった。
彼女は俺のことをケイくんと呼んでいた。交際は一、二年続いただろうか。あらゆる場面で、あらゆる抑揚で俺はケイくんと呼ばれたが、あるタイミングで発せられた『ケイくん』だけは異質だった。
一度はセックスの後だった。彼女は向き合ってするのが好きだった。大抵は俺が上で彼女が下だった。果て、二人でシャワーを浴び、ベッドに戻り一息ついたところで、彼女は呟くように言った。
ケイくんがケイくんでよかった、そんな言葉だったと思う。いつもとは違う、なにか、何者かの存在への感情が、その言葉には込められているようだった。俺は何も言えなかった。
もう一度はどこだったか、高円寺のブックカフェだっただろうか? さっきまで俺がおすすめした本を熱心に読んでいたはずの彼女が、窓の外を眺めながらケイくん、とつぶやいたのだ。
俺を呼んだのかと思って話しかけたが、彼女は何か適当なことをいってはぐらかしていたと思う。少なくとも俺にはそう見えた。
4
「言ったろ、ヌビアン来ても結局高すぎて何も買えないって」
「いいじゃん、見るだけならタダだしさ。にしてもあの店員の押し、前来た時の人よりめちゃくちゃ強かったな~」
俺達はパルコ内のショップをひと通り回った。特に何も買う気は起こらなかった。
レイカは水上についての話を聞きたがらなかった。なぜなのか聞いてみると「理由は気になるけどさ、今は私と付き合ってるんだから私がケイちゃんの一番でしょ」とのことだった。
下りのエスカレーターに乗りこむ。
「てかこないだ言ってたシーシャ屋いかん? 酒買って」
「道玄坂の? いいよ」
空には雲がまばらに浮かんでいる。外が明るいうちにアルコールを摂りたい気分だった。
5
ある日、俺と水上は吉祥寺のパルコの地下にある映画館で映画を一本見た後、商店街を道一つ外れたところにあるカフェで時間をつぶしていた。店に入って少しするとすっかり夕方だった。入ってきたドアの横にある大きな窓から、西日が店の前の道を照らしているのが見えた。
俺達は向かい合って座っていた。運ばれてきて少し経った紅茶を飲もうとした瞬間、彼女は手にカップを持ったまま一瞬固まった。そして紅茶を飲まないままカップを皿に戻した。その間、彼女の視線はずっと一点を見つめていた。俺の頭の奥、つまり俺からすると右後ろの一点を。
そこには二人の男がいた。男たちは窓際の、座りごこちの良さそうな一人がけのソファに座り、丸いテーブルを挟んで何やら喋っているようだった。一人は中性的な顔立ちで、制服のような白いシャツに黒のスラックスを履いていた。ソファに深くもたれ込み、テーブルの横の決して広くないスペースで足を組んでいた。もう一人はバケットキャップ、Tシャツにカーゴパンツと、中性的な方に比べかなりラフな格好だった。顔はちょうど俺達から見えない角度だった。
二人は仲が良いようだった。ラフな方がなにか冗談を言ったのだろうか、中性的な方があはは、とうるさくはないがはっきり聞こえる程度の大きさで笑った。店内には小さい音量で明るめのジャズが流れていた。店に入ってから俺はこの笑い声を何回か聞いていた。だがあまりにも透き通ったその声は、俺に不快感や違和感といったものを一切抱かせなかった。それが誰の笑い声なのか、あたりを見わたすことも俺はしていなかった。
俺は水上のほうに居直った。彼女はまだ二人を見つめていた。知り合いか、と俺は聞いた。彼女は何も言わなかった。ただ、目の奥の感情だけがぐるぐると変化しているようだった。怒り。悲しみ、驚き。細めた目が、そして手が、少し震えているようだった。
しばらくそのようにして彼女は固まっていた。そして三十分とも一時間とも思える時間が過ぎた後、彼女はかろうじて出せるというような小さな声で、ちょっとごめんね、と言いトイレへ向かった。テーブルには俺一人になった。ふと男たちのほうを向くと、中性的な方の男が笑みを浮かべながらこちらを見ていた。まずい。目が合った。
「お客様」
はっと振り向くと、テーブルの横にはウエイトレスが静かに立っていた。
「こちらを」
ウエイトレスは一枚の紙を差し出して厨房へ戻っていった。四つ折りになっている五センチ四方程度の長方形の紙。俺はそれをそっと開いた。紙には整った字、それも小学校の教科書のような綺麗すぎる字が並んでいた。『あの子をよろしくね』そう書かれていた。あの中性的な方だ。あの男がウエイトレスと通じて渡してきたのだ。俺は直感した。視線を紙から後ろのテーブルへ移す。
いない。店を見渡してみる。男たちの姿はどこにも見当たらなかった。俺が紙に気を取られている間に、彼らは店を出てしまったようだった。
6
店を出た後も水上の顔は晴れなかった。適当な居酒屋で酒を飲み、ホテルに入ってから俺は彼女にあの男について聞いてみた。
「カフェのあの人はどういう人なの」
彼女はその問いにどう返せばいいのか考えているようだった。彼女はベッドに座る俺と向かい合うようにソファにもたれかかりながら、目すら動かさず口をふさいでいた。
長い沈黙が続いた。その間、俺はじっと水上を見つめていた。彼女の唇は小刻みに震えていた。時折何かを言いだそうと小さく口を開き、また閉じる、その繰り返しだった。
何十分経っただろうか、彼女はゆっくりと立ち上がり、そのまま俺の横に座った。小さく、それでいてはっきりと、息を少し吸う音がした。彼女はぽつぽつと語り出した。
その男は安住というらしかった。安住は彼女の昔の恋人で、俺と出会う半年ほど前に別れたという。
彼を好きだった理由も、今でも好きな理由も、はっきりとしているが、口には出せない、言葉になんてできない、彼女はそう言うと、ゆっくりと口を閉じ、足元の一点を見つめるように俯いた。
俺は彼女の肩と顎に手を伸ばし、顔をこちらに向けさせ、キスをした。今はいくら待ってもそれ以上のことは聞けない、と思った。
唇を重ねたまま立ち上がり、顔を離した後、彼女をベッドに寝かせた。
そして俺達はセックスをした。
7
「んで、この後はどーするよ」
「今日はもう帰らねーか?歩いて疲れたしよ」
「そう?原宿とかまで行っても良いけど」
「原宿まで行って何見んだよ? 服か? 飯食ってダラけたし十分だろ今日は……」
「まー、そうだね」
ソファに座ったまま、レイカは少し身を乗り出し水たばこのパイプを吸い、ひと呼吸おいてふーっと煙を吐き出す。
俺達はセンター街のはずれにあるアジア料理の店で昼食をとったあと、道玄坂の雑居ビルの五階にあるシーシャ屋に来ていたのだった。決して広くない店内にはテーブルが七つ、それでも窮屈さを感じないよう同じ幅のソファが二つずつ添えられる形で並べられていた。
店内には俺達と、バーカウンターのようになったスペースに髭を生やした店員が一人いるのみだった。店員はカウンターの内側に自らのお気に入りのブレンドであろう水たばこの大型のパイプを置き、時々ぽこぽことそれを吸っては、店内で流れている曲が終わるのを待って次の曲をかけたりと、ゆったりと過ごしているようだった。
俺はアメリカンスピリットの箱を手に取り、一本咥えて火をつける。
「ちょっと、なんで水たばこ吸いに来てるのに普通に煙草吸うかね」
「たばことシーシャとジントニック、この三角食べが美味いんだよ」
「わかんないわー……」
俺はたばこの煙を吐き出すと、彼女の手からパイプの吸引口を受け取り、めいいっぱい吸い込む。コポポポ……という音とともに肺に暖かい空気が入ってくるのを感じる。そして煙を全て吐き出す。ブレンドした味はスイカとミントだ。天井からぶら下がったミラーボールが、煙の中に光の筋を作りながらゆっくり回転していた。
8
セックスを終え、ベッドに並んで入ってから、水上はやっとすべてを話した。
安住のことを男性としても、人間としても好きだったこと。心から想い、敬い、可愛がり、羨み、そして愛していたこと。そして彼は彼女のことを、ただ数いる女性の一人として扱っていたこと。そしてひどい振られ方で別れてしまったこと。
簡単に言えば、彼女は安住に遊ばれていたのだった。そして水上本人は遊ばれていたということに気づいていない、もしくはうすうす気づいていながらも頭では否定したいということ。
水上と安住は大分、歪んだ関係にあったようだった。水上には自傷癖こそなかったが、あまり自信があるタイプではなく、ある時期からいわゆるSMプレイをしていたようだった。
言葉責め、首輪、猿轡、道具での性感帯への刺激、ベルトによる全身拘束……それらによって彼女は制御され、愉悦を得る手段とされ、そして赦されていたようだった。
彼女には自分を罰し、自分を認め、自分を解放してくれる、儀式が、存在が、必要だったのだ。俺の愛では足りなかったのだ。薄暗い劇場で映画を見ながら、夕暮れのカフェで本を読みながら、あの時間に確かに漂っていたはずの俺の愛では彼女は満足できなかったのだ。そして彼女という存在を認めてやるための存在はたった今、俺しかいないのだと、そう悟った。
その次の夜から、俺達の関係は一般的な彼氏彼女の関係からどんどんと離れていった。昼間は今までと同じように接していたが、陽が沈み、二人きりの場所に落ち着いたとき、俺は口調を変え、彼女を支配している存在として振舞った。会った時だけでなく通話しているときでもそうだった。そういう口調は第三者に聞かれてはいけない。記録として残してもいけない。経験はなかったが、誰からも教わることもなく、そういった振舞い方のルールのようなものを認識し、理解することができた。
彼女は最初こそ戸惑っていたものの、すぐに順応し、行為中はいままで聞いたことのなかった切羽詰まったような、あるいは推敲のなされなかった文章とでも言うのか、とにかく必死に言葉を話すようになった。
彼女が一番敏感に反応を示したのは首輪だった。手足の拘束具の有無にかかわらず、首輪をつけられた彼女はいっそうとしおらしくなり、内容にもよるが基本的にされた命令にはなんでも従ってしまうほどの従順さを見せた。彼女にとって首輪は、呪術的に意味を持った道具であったらしい。それも自分で装着するのではなく俺が装着してやって初めてそのような儀式の道具となるらしかった。
アダルトグッズ専門店で買った茶色の革の首輪には、同じ素材のリードもついていた。そのリードを用い、言葉と共に彼女に何かさせることを促すことが多々あった。膝を折り曲げてへたり込む彼女をリードで引っ張ったときなど、彼女の重みともいえる様な力を腕に感じ、そしてそれが背をつたい全身へと広がるのを俺はゆっくりと楽しんでいた。そうして俺らは互いに、ほぼ完全な満足というものを味わっていた。もはや俺と彼女の間にセックスは必要なかった。彼女は俺の言葉に動かされるまま興奮し、自慰をし、そうして一人で果てた。俺はその姿を見て一人、恍惚に浸るのだった。
9
そういう関係が二か月ほど続いただろうか、その頃には直接会うことも以前よりは少なくなっていた。彼女を満足させるには電話越しに言葉責めをして最終的に自慰をさせるよう促すだけで済んだ。
その日は夜から高校の頃の友達と遊ぶ予定を入れていた。友達が夕方まで大学に行っている間、俺は遊ぶ予定の吉祥寺で時間を潰していた。いくつかの古着屋を回り、独特の香りを放つ紙袋を持つ手がちょうどよく疲れるころ、俺は以前水上と訪れたカフェに立ち寄った。
店内には変わらず心地の良いジャズが静かに流れていた。適当なテーブルを探し、空いている席に向かいながら店内を一通り見渡してみたが、あの二人組はいないようだった。あの時声をかけてきた店員も見当たらなかった。
ソファに腰かけ、手に持った古着屋の紙袋を横に置くと深く深呼吸をした。焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いがした。
あの時、俺は安住から店員を経由して紙きれを渡されたのだった。頼み事をできるほど安住は個々の店員と馴染みなのか?ということは安住はここによく来るんだろうか。紙には『あの子をよろしくね』と書かれていた。『よろしく』? 安住は水上の以前の彼氏だ。安住は俺が水上と付き合っているのを知っていた?いや、その程度は軽く推測したのか、そして『よろしく』……。過去、安住は水上と歪んだ関係にあった。そして今水上とそういう関係にあるのは俺だ。いつか水上がつぶやいた声を思い出した。ケイくん。
そうして俺はやっと気がついた。俺は安住の代わりだったのだ。安住の役を演じていたのだ。安住を好きな水上のために、俺のことも好きな水上のために、水上のことを好きな俺自身のために。そしてそれは回りまわって安住のためにもなっていた。俺は直感した。安住の下の名前を俺は水上から聞いていなかった。安住の下の名前はきっと「ケイ」なのだ。カフェで彼女と話している声を安住は聞いたのだろう。そうして彼も直感したのだ。俺が安住の役を担うのにまったくふさわしい人間であることを。そして彼は、水上のことを気にしてしまう彼の後ろめたさのようなものを、全て俺に押しつけて行ったのだ。
唖然、いや愕然とした。俺の体は無力感で固まり、テーブルの上で組んだ手は震えてすらいた。
吉祥寺に着いたというメッセージが友達から送られてくるまで、俺は指一本すら動かすことができなかった。
10
俺の心はだんだんと彼女から離れて行った。そして同時に、距離を置こうとする直前まで自分があまりにも彼女に入れ込んでいたことに驚いていた。
はじめは少し遊ぶつもりだった。確かに一緒にいるときは楽しかったが、将来を考えるほどの女ではなかった。すべては安住との関係を聞いたときに始まり、そして終わったのだ。
彼女が好きだったのは安住のつけていた「ケイくん」という仮面だった。安住はそれを外し、俺はその仮面を自ら被ったのだ。仮面は俺にぴったりのサイズだった。そうして俺はマゾヒストという仮面を被った水上と、あるいは水上という仮面を被ったマゾヒストと、二人だけで踊っていたのだった。
彼女に会うのは二、三週間ぶりだった。夜の新宿。歌舞伎町の居酒屋を出た俺は
「今日はもう帰ろう。明日授業で早いんだ」
と彼女に向かって言った。その時の彼女の顔は今でもはっきり思い出せる。目をいつもより目を少しだけ大きく開き、口も半開きにしたまま、えっ、と彼女は呟いた。いつもならばそのままホテルに向かうか、そうでなければ二軒目に向かうのが普通だったからだ。俺は駅のほうを向き歩き出す。三歩ほど遅れて彼女の靴の音も聞こえてくる。
広場の手前の交差点で、後ろをついてきていた彼女が俺の隣に並んだ。
「少し、距離を置きたいんだ」
彼女は何も言わなかった。これが俺と水上の最後の会話になった。信号が青に変わり、俺はまた駅に向かって歩き出した。彼女の靴の音は聞こえてこなかった。
11
レイカと知り合ったのは大学に入って少し経ってからだった。友達と入ったテニスサークルの飲み会で、彼女は俺の隣の席に座っていた。彼女とはすぐに仲良くなった。
会えば会うほど、俺は彼女のことが好きになっていった。水上と付き合っていた時は何となくかわいいなと思う程度だった彼女が、水上と別れてからは素晴らしく魅力的に見えた。彼女はある種のわかりやすさのようなものを備えていた。感情の起伏が乏しくなく、かといってすべてをさらけ出してはいないものの、特別気にしなくても心の内が分かる、とでもと言うのだろうか。
相手のために何らかの役を背負わなくていいということも重要だった。俺達は仮面を被らずに踊る。もちろんSMではなく二人の日常でだ。
俺は隣で眠るレイカの前髪をかき分け、彼女の白い額をそっと撫でる。水上について思い出しているうちに眠れなくなってしまった。テーブルの上にある時計を見る。四時半。そろそろ夜が明ける時間だ。ライターとアメリカンスピリットの紙箱をつかんでベランダに出る。
距離を置こうと言ったとき、水上は何も言わなかった。彼女はわかっていたのだろうか。あの奇妙な関係はいつか終わってしまうものなのだと。それとも彼女は、あくまで俺が幸せにしてやるべきだったのだろうか。安住の役を代わることなく、俺が俺として、果たして幸せにできただろうか。幸せにして……その後は? 彼女は今どこで何をしているんだろう。そして安住は?
「これで、よかったのか……」
風のない静かな朝だった。手に持ったたばこの先からは灰色の煙が五センチメートルほどまっすぐ上り、もやもやと宙へ消えて行った。煙の向こうには薄い水色に染まる空が広がっていた。
1/3 仮面の赦し 犬 @inuda
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