短編集
御伽切草
ある夫の手記より
名前も知らない感情を、あの日わたくしは知ったのです。
文学にも神が宿るとするのなら、あなたはその神から寵愛を賜っていたのでしょう。そう、わたくしではなく、あなた、が。
この胸に宿る激情は筆舌に尽くし難く、そんなわたくしにあなたは陽だまりのように微笑みかけました。
無邪気な笑顔を何度、何度、燃え上がる心で見つめたことでしょう。
それは愛と呼ぶにはさびしくて、憧れと呼ぶには醜く、嫉妬にかられ狂いそうになるわたくしを他所に、あなたはその才能を遺憾なく発揮しました。
「春の日差しのにおいと、夏の日差しのにおいの違いを、なんて書こうかな」
何でもない日常会話で、そう言われた時わたくしは酷く動揺したものです。あなたの才能に初めて巡り逢った時、あなたが何でもなく書いたものを見て、受けた衝撃と同じ強さで殴られたのです。
それまでのわたくしは、如何に情景を美しく描き出すかは、どれだけ崇高な表現で文章をデッサンするかだと考えていました。そしてそこに己が矜持の全てを懸けてもいました。
けれどあなたは時に可愛らしい日本語で、子どもでもわかるような易しい言葉で、ありありと世界の美しさをこの目に見せたのです。
あなたが描く文章は、わたくしにとって景色となり、音となり、においとなりました。その美しさたるや。あなたにとって世界は日々きらきらと輝いて見えるのですね。
ああ、なんと言うことでしょう。
あれだけ美を追い求めていた世界を、わたくしは憎んでいたのです。わたくしにとってこの世は彩りなどなく、ただ残酷なだけでした。どうしてこんなつまらない男が天才に勝るはずがありましょう。
そして、そんなわたくしを何故あなたは愛したのでしょうか。
わたくしはあなたの才能を愛していました。
そこに人格などは必要なく、わたくしはただその才能だけを愛していました。
震えるほどの喜びと突き動かされる激情で、この才能は日の目を見るべきだと思いました。これが埋もれるなどあってはならないと。ですから、あなたがもう書けないとすがった時わたくしにはわからなかったのです。
人生など放っておいても苦難が多いのだから、才能を与えられた人間は多少心身を削り落としてでもその責務を果たすべきだ。喉から手が出るほど欲し、とうとう得ることの出来なかった天賦の才を、あなたは賜ったのだから。人が望むものをくれてやるべきだ、と。
励ますふりをして、与え続けることを強要していたのですから、天は二物を与えず。あなたに男を見る目はなかったようです。
二度と願うまいと封じた夢をもう一度見せたのも、そして天才の前に再び挫折したのも、結局わたくしにはあなた、だったのでしょう。
だからあなたにはわたくし、だったのですか。
いつか、二人で出かけた麗らかな日、子猫のようにあなたが手にじゃれ付いたあの日に、わたくしはそんなことを思い返していたのですよ。
夏風が風鈴を涼やかに鳴らす頃また来ましょうと言うと、その時はあんみつもと楽しそうに笑うあなたは、確かに世界から愛されていたのでしょう。いつかの答えは見つかりましたか。
東風(こち)がその短い黒髪を揺らした時、わたくしの目に初めて世界が色めいて見えました。光を一身に受けて輝くあなたを、ようやく穏やかに見つめられるようになったのも、この時が恐らく初めてでしょう。
ですから心のどこかで少し、少しだけ立つ波風も、いつかのように封印してしまいましょう。
今、それでもわたくしはこの才がこれ以上世には出ないことを、やはりほんの少し憂いているのです。
わたくしはあなたの「夫」となれたのでしょうか。
その才能を誰よりも愛する激情と、世に送り出したい狂気と、美しい妬みに歪(ひず)んだ、あなたの瞳に映る、この、わたくしは。
(完)
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