星空行き列車

手塚 未和

第1話


綺麗な夜景は、会社で残業をしている人達に

よって作られている。と誰がか言った。



そんな事を思いながら、

ぼんやりと目の前の景色を眺める。



私も少し前までその中のひとりだったが、

今はビルの屋上に立っていた。



限界だった。




私には何もない。







大学を卒業してから入社した会社は

朝から晩までの長時間労働に加え

毎日残業続きの激務だった。



初めての就職だった為

この状態が異常か正常かも判断できず、

こんなものだろうと必死に働いた。



いつも家に帰るとへとへとで

適当に食事とお風呂を済ませると

布団に入り、とにかく眠る。

そんな日々が過ぎていった。



そして、働き始めて3年。

仕事にもだいぶ慣れた頃、新入社員が入ってきた。



可愛らしい、背の低い小柄な女の子。



大人しそう。

それが最初の印象だった。





新入社員の歓迎会、

居酒屋での席で、彼女は私の斜め向かいに

座っていた。



乾杯のあいさつが終わり、談笑が始まると

一気に騒がしくなった個室は、熱気に包まれ

湿度がグンっと上がった気がした。



「あの新入社員の子、なんかかわいんだよね。」

同僚の由香が3杯目のビールジョッキを片手に

独り言っぽく話す。

今日もハイペースだ。



「え、関わりあるの」



「まあ、少し。美代と一緒の部署だよね」



「うん。まだ話したことはないけど」



由香は今年から別の部署に移動になったため

彼女と接点があるのは意外だった。



「廊下ですれ違った時、話し掛けたの。『すてきな髪色ですねー』って」



躊躇なく話しかける姿を想像して

思わず笑ってしまう。



遠慮がないけど、不思議と嫌な感じがしない

気立ての良さが由香にはあった。



「最初は驚いてたけど、私が変質者じゃないって分かったのね。『ありがとうございます』って、お礼を言われた。」



「彼女、怖がってなかった?」



「笑ってくれたよ。『私もこの髪色、気に入ってるんです』って言いながら照れて赤くなってた。なんかさ、リスとかハムスターとかそこら辺の小動物を思わせるかわいさっていうの?」



よほど彼女のことを気に入ったのだろう。

人の好き嫌いが激しい由香が、ここまで上機嫌に他人の話をすることは珍しかった。



「うん、大人しそうな、良い子に見える」



「大人しかったかな。いや、大人しくはないかも。女の社交辞令ってあるじゃない。例えば、かわいいって言われたら、あなたもかわいいよ。って返すあれ。彼女にも言われたの。『先輩の髪色もとてもすてきです』って。だから私も『ありがとう』って返して、大抵の話はそれで終わるはずでしょう?」



「え、由香、社交辞令として髪色を褒めたの」



「ちがう。私は本当に奇麗だと思ったから、話し掛けたの。でも大体のそういう会話は社交辞令だよねってこと。私は違うけれど」



そう言うと、心外だと言わんばかりに

ビールをぐーっと飲み始めた。



『私は違うけれど』と、

力を込めて言い切ったところに

負けず嫌いが出ていたのが、おかしかった。



「それで?」



由香のやけ酒を

止める代わりに次の話を促す。



「それで、あれ、今なんの話してたっけ」



「新入社員の髪色がすてきだった話」



「あー!そうそう!髪色がすてきで。私の髪色も褒めてくれたから、ありがとうって返して。それで確か、そのあとその子に『もし嫌じゃなければ、通っている美容室を教えていただけませんか。』って言われたんだ!そうそう、思い出した。」



だいぶ酔いが回ってきたらしい。

私がまだ1杯目を飲み進めている中、

由香は4杯目に突入しようとしていた。



「それで、社交辞令じゃなく、本当に知りたくて、聞いてきたんだろうって純粋な気持ちが伝わってきたんだよね。これは私の偏見かもしれないけど、大人しい子なら、そんな会話が長引きそうなことはわざわざ聞かずに、とにかくその場から早く立ち去るために素っ気ない対応するでしょ。私ならそうするね。だから彼女は大人しくない!」



滅茶苦茶な言い分。とんでもない偏見だ。

大人しい人代表として、抗議しようかとも

思ったが、相手は既にろれつが回っていない。



何を言っても無駄な気がしたので

喉まででかかった言葉を押し込めるように

クーニャンを一口流し込んだ。



近い将来、重たい由香を、一人で抱えてタクシーに

乗り込まなければいけないことを想像すると

深いため息が出た。



「ちょっと、トイレ。吐きそう」



もやは飲み会の恒例。

深酒をする由香を

最初は止めていたが、途中から止めても

無駄だということに気づき、今はもう

好きにさせておくことにした。




ふらふらとした足取り。

壁やら近くにいる人の肩やらに手をかけ、

バランスをとりながら中腰で

トイレへ向かう姿を横目で見送る。




残されたビールジョッキの縁には

薄ら口紅の痕が残っていた。






話し相手が退場し、手持ち無沙汰になった

私は、さっきまで話の渦中にいた

彼女を一瞥する。




彼女は、テーブルの上に置いてあるお酒を

両手で包むように握りながら、

強ばった表情で隣に座っている男性社員の

話に相槌を打っていた。




要注意人物、37歳独身男。




私も入社したばかりの頃、飲み会でこの男に

捕まったことがある。







最初は、気さくな人だと思った。

どこの大学出身なのかとか、

なんでこの会社に入社したのかとか、そんな

当たり障りのないことを質問され、

私は聞かれたことに対して、

ひとつひとつ丁寧に答えた。




それが次第に、過去の恋愛話になり、

その話題から派生して、好みのタイプや

経験人数など、踏み込んだ話を

根掘り葉掘り聞いてくるようになった。




徐々に違和感を感じ始めた私は、

曖昧な相槌を打ちつつ

何とかその場から逃れる方法を考える。




助けを求めるように周りの人たちを見たが、

それぞれが会話に夢中だったり、

おそらく気付いてはいるが、関わりたくないのか

見て見ぬふりを決め込まれたりで、

誰も助けてはくれなかった。




私が何も言わないのをいい事に、

会話の途中でさりげなく、頭や体に触れてくる

下心丸出しの行動には、もはや会社の先輩としての

威厳はない。




威厳はないが、入社したばかりの私は、

仮にも先輩という肩書を持った目の前の

人間に、逆らう勇気はなかった。




縋るように掴んでいたグラスは

氷が溶け、手の中でぬるくなっている。




帰りたい。そう思っていると、

男は水の入ったピッチャーを手に取り

自分のグラスに注いだ。




聞いてもいないのに、アレルギーで

お酒が飲めないことを説明された。




びっくりして、私はそのまま、水を

飲む様子を凝視してしまう。




これまで、下ネタやボディータッチなどの、

失礼で理性がない行動は、お酒が入っている

せいだと思っていたのに、違ったのだ。




男は素面だった。







なんとか、その場をやり過ごし

飲み会はお開きになった。




会計後、お店の外にたまって

にぎやかに談笑している

人たちに挨拶を済ませ、二次会には参加せず、

逃げるようにそこから離れた。




表に出ると、風が涼しく

気持ちいい。後ろめたさを感じながらも、

歩く度にどんどん遠くなる声に安堵した。




アパートまでの道のりには、

「タケモトクラブ」と書かれた看板を掲げる

古いレンタルビデオ店や、

明かりはついているが、営業しているのか

していないのかよく分からない中華料理店、

深夜までやっているラーメン屋の

他に、コンビニが数件。




まるで、現代に置いてけぼりをくらったかのような

空虚な佇まいの建物が並ぶ、

静かで、寂しいこの道が気に入っていた。




夏の夜風に酔いはさらわれ、

頭はすっきりと冴えている。




コンビニに寄りアイスでも買って帰ろうかと

ぼんやり考えていたところ、後からいきなり

肩を強く掴まれた。




驚いて振り返ると、

あの男が立っていた。





走ってきたのか呼吸が荒い。

通り過ぎていく車のライトに一瞬

照らされた額には、べっとりと汗が

滲んでいるのが見えた。




飲み会という名の、窮屈なハラスメント大会から

解放された喜びで浮かれていたのかもしれないが、

追いかけられていることに気付かないとは

自分でも予想外だった。




歩道に埋められている、色のついたブロックだけを

踏みながら歩くという、子供じみた遊びを

している場合ではなかったのだ。




警戒心がない、間抜けな自分を呪った。




家まで送ると言われたので、

得体の知れないこの男を刺激しないように、

ここから家までは近いから付き添いは必要ない。

という微妙な理由を説明し、そこに謝罪を織り交ぜつつ丁重に断ったが、やっぱり納得してはもらえなかった。




どう諦めてもらおうか考えを巡らせていると、

並ぶように歩いていた男が

いきなり目の前に回り込み、俯いていた私の顔を

中腰で覗き込んできたので、ギョッとした。




肉欲をどう満たしてやろうかという気迫の

こもった目がそこにはあった。




心臓の動きが一気に加速し、

胸にすうっと冷たい夜風が流れていく

感覚がした。




ガラの悪い野良犬に運悪く標的にされ、

いつ噛み付いてやろうかと様子を伺われているような生きた心地のしない恐怖が襲い、全身が緊張で

固くなる。




自分の内蔵や血液がするすると抜け落ち、

空っぽの入れ物になったような寒さに足が震えたが、怖がっていることを男に悟られるとまずい気がして平静を装った。




呆然と立ち竦む私のことなど、まるで見えていないかのように、男は第一関門を突破しようと

「家まで送る」を繰り返していた。






他人の気持ちなど完全無視で、ただ、自分の欲望を満たすことしか考えていない醜さに、吐き気を催しながらも、この場を打開する方法を探し出すことに意識を向けることで、正気を保った。




縋るように辺りに視線を向けると

白い光を捉えた。




街灯の少ない夜道の中で

くっきりと浮き出て見えるそれは、

コンビニが放つ光だった。




男の背後、ここから100mほど先に

歩道の左脇から私を導くように、煌々と光を放っている。




その清潔な明るさを見ていると、

身体の底からじわじわと温かい勇気が沸き出てきた。





コンビニが放つ光から目線を外し、

私はしっかりと男を見る。




この男の目に、私はどう映っているのだろう。

自分の思うがままに操ることができる、

都合のいい女とでも思っているのだろうか。




冗談じゃない。




今度はふつふつと怒りが沸き上がってくるのを

感じた。その火種を絶やさないようにするため、

乞食のような恰好で説得を試みている不潔な男に、あえて見下した視線を落とし、自分自身をあおった。




私がアクションを起こしたことにより

少し驚いた素振りを見せたが、男は何故かニタニタと

不気味に笑っている。




頭の中で、その男の頭上めがけて唾を吐きかける

妄想をした。




男は怒るだろうか。それとも狼狽えるだろうか。

どっちにしろ、みっともない。




この男に与えられた恐怖を、

倍にして返してやろうと唐突に思いついた。




終わる見込みのない攻防戦にくたびれていたが、

飲み会でされたことや今の状況を考えると

この男に一矢報いなければ気がすまなかったのだ。




私の目に映る男は、完全に変な奴だった。




目には目を歯には歯をのことわざに則り、

変な奴には変な奴で対抗するしかダメージを

与えられないだろうと何故か思った。




もう、震えは止まっていた。




もう一度、コンビニが放つ白い光を確認し、

口から大きく息を吸い込む。




肺いっぱいに空気がたまった瞬間、

パンっ!っとスターターピストルの

乾いた音が聞こえた。




次の瞬間、私は穿いていたヒールを素早く脱ぐと、

片手に一つずつ握り、そのまま両腕を耳にピッタリとくっつけるように持ち上げ、目を大きくかっぴらき、威嚇した。




さらに、相手を恐怖のどん底に突き落とす仕掛けとして、両腕を上げた状態の上半身を、メトロノームの振り子のように左右に振りつつ、ソプラノ歌手もたじろぐであろう高音で奇声をあげながら、

台風の如く、光を目がけて猛ダッシュした。




途中、後ろの様子が気になったが、

万が一、追いかけてきていたら怖いので

とにかく光を目指して、走る。走る。




長い100mだった。

上半身を揺らしながら走っているせいで、

もっと早く前に進みたいのに、なかなか早く進めないジレンマに陥り、焦れったくて泣き出しそうになる。




裸足になった足の裏には、地面を踏みしめるたびに小石が食込み痛かった。




なにより、奇声をあげながら走るのは、

想像以上に苦しく、久しぶりに全力疾走したせいか、呼吸をするたびに肺が軋んで痛みを伴った。

その痛みを感じるたびに、

この選択をしたことを後悔したが、

逃げ切るための御守りだと思って、叫び続けた。




フラフラになりながらコンビニの前まで辿り着き、

後ろを振り返ると、男は元の位置でマネキンのように突っ立っていた。




立ち止まると、一気に汗が吹き出し

身体がブワッと熱くなる。




乱れた呼吸を整えつつ、

男がどう出るかしばらく様子を窺ったが、

依然として動く気配はない。




身体中の力がゆるゆると抜けていった。




爽快だった。




普段なら、絶対にやらないようなことを、やり遂げてしまった背徳感と達成感に興奮していた。




私は、男の表情が読み取れないのをいいことに、

困惑した間抜けな顔を勝手に想像する。




その顔に向かって「ざまあみろ!」と心の中で

叫んだつもりだったが、

うっかり声に出てしまっていた。




今の発言に腹を立てて追いかけてきたら

どうしようかと一瞬怖くなったが、

走ってくるそぶりはなく、ほっとした。




私の声が届いたのかは分からないが、

男は踵を返して、

夜に紛れるように消えていった。






男の背中を見届けたあとは、

私に勇気を与えてくれたコンビニでアイスを

買って帰った。




どん底から自力で這い上がったあとのアイスは、

いつもより特別な味がした。

私は一口一口、確かめるように口の中で

ゆっくりと幸福を溶かした。







あの夜の一件から、男は私を見ると、

化け物にでも遭遇したかのように、

一目散に逃げていく。




そんな、あからさまな避け方をされているおかげで、その光景を目撃した人たちに、

あの二人なんかあるっぽいぞと、嫌な勘違いを

されるという二次被害を被ったが、反応したら

負けだと思い、何を聞かれても全く

身に覚えがないというような演技で乗り切った。




男が何か余計なことでも吹聴していないか、

気が気じゃなかったが、心配していたことは

起きなかった。

もしかしたら男には、あの日の出来事を話す相手が

いないのかもしれない。




どうか、そのまま誰にも話さずに

墓場までもっていってほしいと、

残酷なことを思っていた。







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