異形の幻影
オカザキコージ
異形の幻影
愛が足りなかった。だから「彼女」を愛せなかったと言われるのは心外だった。よくある男女の出会いと何も変わらず、ただタイプだったし、話も合ったし、それに、何よりも感じるものがあって。二人きりで会うようになって、分かり合える場面が増えていって、好きな表情も確かめられて、手をつなぐようになって、何かを重ねるようになって、僕と君は…。
会えばしぜんと腕を組むようになり、会えないときは彼女のことを思う。そんなサイクルが日常になって、悲しみを打ち消し、悔しさを引き取り、怒りを鎮めてくれた。彼女が欠かせなかったし、存在自体が喜びになって、しだいに彼女を失うのが怖くなり、僕を臆病にさせて。だから、うまく気持ちを表せなくなり、僕を落ち込ませた。
いま思うと、彼女の不自然な言動も魅力の範囲内だったし、ケンカして遠くに感じたときも過ぎた正直さ、優しさの裏返しと捉えるべきだった。彼女の存在が僕を未熟にさせた。もう少し冷静に関係性を取り結んでいたら、こんな結果になっていなかった? きっとそうに違いない。僕は彼女のどこを見ていたのだろう、何を感じていたのだろう、なぜこれほどまでにずれていたのだろうか。けっきょく、本当の姿を、括弧付きの彼女を、その真実をしっかり受け止め、抱きしめてやれなかった。
いつのころからか「彼女」となって、どうにかして括弧を取っ払おうと、等身大の彼女へ引き戻そうと、素顔の彼女を愛そうと、何度も試みた。並大抵のことではなかったし、けっきょく覚悟が足りなかった、腹が据わっていなかった。一番気にしていたのは彼女だったし、振り払おうとひとり懸命だったのも彼女だった。そんな姿を見て僕は何をしてやれただろう。たじろぎ、背中を見せなかったか。彼女の真実から目を逸らそうとしたではないか。
どうしようもなかった、そう言い訳して済む話ではなかった。第三者なら無責任にそう見てくれるだろうし、そうして逃げても誰も責めなかったに違いない。「それ」に気づいたとき、怯むことなく腹をくくって真実に立ち向かうべきだった? 何が僕を躊躇させたのか、情けなくも目を背けさせたものは一体何だったのか。けっきょく括弧つきの彼女のもとへ、その世界へ飛び込めなかった。僕を引き留めたのは何だったのか。後悔というにはあまりに残酷すぎた。彼女にとって、僕の言葉、振る舞い、それこそ感じ方、考え方、思いに至るまで、すべてが死を意味していた? そういうことだったのか。
それでもこの僕に、いまさら生き永らえと言うのか。甘んじてその過酷、悲惨に身を晒すべきなのだろうか。いまさら猶予をもらって贖罪の旅へ出たところで何になるというのか。万死に値するとはこのことを言うのだ。逃げ道をふさがれ、出口を閉ざされ、身動きが取れなくなる、それは当然の報いだろう。この機に及んで何かをつかもうとか、どこかへ行こうとか、無謀にも前を見ているとしたら、天罰をくらうに違いない。選択の余地があろうはずもない、死して償いこと以外に。
◆
僕はその日、少し早めに会社を出て待ち合わせ場所へ急いだ。親しい友人が設定してくれた飲み会。最近付き合い始めた彼女のお披露目を兼ねて、その女ともだちを紹介してくれるという。喜び勇んで、という感じを出さないよう心を落ち着かせて店に入った。彼と女の子二人、隅のテーブルで先に始めていた。奥に陣取った彼はいつものように手振りを交え、楽しそうにやっていた。僕に気づいた彼が少し背伸びして手を上げると、それに合わせて彼女たちも振り返った。
彼に向かって「遅れてごめん」、彼女たちに「すいません、遅れまして」と二度謝ったあと、彼の横に腰を下ろした。斜め前が彼の彼女、正面にその友だち。彼と彼女は生ビールを半分以上、仲良く空けていた。前に座る女の子はサワー系の飲み物に少し口をつけた程度だった。僕は少し迷った末に生ビールを頼んだ。彼が彼女とのいきさつを簡単に話し、その彼女が横の女友だちついてちょっとしたエピソードを交えて紹介してくれた。ここから僕と「彼女」は始まった。
二対二の飲み会。最少単位の合コンは、選択の余地がないという点でお見合いに近いのかもしれない。当たり外れがあるとは言え、争奪戦さながら意識して場を盛り上げたりする必要がないので気分的に楽だった。僕の前に座る女の子は、彼の彼女に比べて一見して地味な感じで、話し方も、というよりあまり喋らない子だった。それぞれ自己紹介を交えた話題に一区切りがつくと、どうしても彼と彼女が話し込み、僕と女の子が置いてきぼりを喰うかたちとなる。こういう会はたいてい期待外れと相場が決まっていたが今回は微妙というか、その時点ではどっちつかず、でも積極的に行こうとは思わなかった。
趣味や休日の過ごし方、友だちと行った旅行、仕事での嫌なこと、そして好きな男のタイプ…。よくある話題でひと通り盛り上がったあと、ぎこちない雰囲気にならずに場が持つかどうかで、その日のマッチングの当否が決まる。このあと、他愛のないこと、無難な話題に終始するか、少し前のめりになって一歩踏み込むか。今回は、どちらへ傾いてもおかしくない、微妙な状況の中にいた。
こうした空気を感じ取って女の子がどう反応してくるか。どうにもこうにも生理的に端からアウトの場合は別だが、男の顔かたちのどこか一点でも気に入るところがあるとか、声のトーンが心地よく感じる、話し方がしっくり来る、それこそ、いい人そうとか。ほんのちょっとしたことでも気になるところがあれば、普通の女子ならそれなりのリアクションを返してくるはずと思っていた。
だが、僕の前にいる女の子は最後まで短い返事をするぐらいで、ほとんど反応しなかった。僕に限らず、たいていの男は脈なし、きっとタイプでないのだろうと引いてしまうに違いない。つねにうつむき加減だったし、興味がなさそうに見えた。だから、のぞき込んでまで表情を確かめようとか、気を引こうとか、ましてや無理に自分を出してまで分かってもらおうなんて、そんな気になれなかった。けっきょくタイプかどうかすらも確かめられない始末で、たんに友人と彼女の仲の良さを見せびらかされただけに終わった。彼と二人で飲み直したときも、あの子の話題を振って来なかったし、もうその時点で僕の意識から消えてしまっていた。
あれから三週間くらい経ったころだったろうか。見覚えのない女の子名でメールが届いた。“この前はありがとうございました。来週末に会えませんか”。特殊詐欺グループか何かやばいところへアドレスがわたってしまったのではないか。開かず削除しようと思ったが、送信先のアドレスを確認すると例の彼女からだった。どう考えても僕に興味があるように思えなかったし、あの愛想のない素っ気ない態度は僕に対して嫌悪さえ抱いているのではないか、そう思わせるものがあった。いまさら何の用があるというのか、ムッとして返信する気になれず、そのままにしておいた。
数日後、ふたたび彼女からメールがあった。新興宗教の勧誘か、ねずみ講のような詐欺商法か、そんな思いもかすめながら仕方なくメールを開いた。“話したいことがあるのです。来週末に会ってもらえませんか”。ますますあやしい誘いのように思えて無視をきめ込もうとしたが、少し冷静になって友人の彼女の友だちだと思い直した。考えあぐねた末に“この前はお世話になりました。来週末は出張で地方へ行く予定です。また機会あれば…”と当たり障りなく、暗に断りのメールを入れた。
すると、ほぼ間を置かずに“分かりました。再来週でも構いません。ぜひ会って下さい”と哀願調に。仕方なく“出張から帰ったらまた連絡します”と返信すると、すかさず“待っています”。なぜこうも執着して僕に会おうとするのか、思い当たるところがなかったし、うかがい知れない良からぬ意図があるように思えたが、ただ会いたいという彼女のストレートな気持ちだけは伝わってきた。もう会うつもりはなかったが、このままフェードアウトすると何かネガティブなイメージが残りそうで、こちらの精神衛生上のことも考慮し、はっきりと断らず曖昧なままにしておいた。
まだ出張に行っていることになっている週末、僕は会社の帰りに近くの大型ブックストアへ立ち寄った。小説やビジネス書は読まないので、いつものように哲学・思想関連の新書コーナーをまわり、昔の彼女に感化されて興味をもった料理本の辺りをぶらついていた。すると肩越しに「好きなのですか?」と女の声。驚いて振り返ると例の彼女が微笑んでいた。
地味な感じに変わりはなかったが、飲み会のときと比べ表情が明るく見えた。でもなぜ、彼女がここに? 驚いたふうを隠す必要はなかったが、反射的に平静を装って「どうしたのですか?」と聞き返した。彼女は「驚かせてすいません。会社の近くなので…」と申し訳なさそうに下を向いた。どちらかと言えば好みの顔つきだった。少しはにかんだ笑顔がさらによく見せていた。僕は手にしていた料理本に気づき「ああ、これね。けっこう料理するもんで」と答えた。このあと、会話が途切れて微妙な沈黙が流れた。僕はこれまでの勝手なわだかまりを脇に置いて「お茶でも飲む時間ありますか?」と誘った。
彼女はすぐさま「はい」とうれしそうに答えた。この偶然に、もっと驚いても不審がってもよかったが、不思議とそれほど意外感、違和感はなかった。もちろん、ここで彼女に会う予感があったわけでも、彼女の思いが時空を超えて伝わったのでもなかったが、僕と彼女は久しぶりに会った気の合う友人のように、並んで本屋をあとにした。
女の子と二人で入るのに相応しい、感じのいいカフェが思い浮かばなかった。戸惑っているように見えたのか「もしよければ、私がよく行く喫茶店はどうですか?」と言ってくれた。助け舟を出してくれた彼女には申し訳なかったが、頭の中ではまだ何かの勧誘ではないか、という思いがかすめて、いくぶん足取りを重くさせた。
表通りから少し入ったところにその喫茶店はあった。建てつけはくたびれていたが中へ入るとクラシカルな落ち着いた趣があり、彼女のイメージにあっていた。彼女はカウンター内のマスターに軽く会釈して迷いなく奥のテーブルへ進んでいった。僕に壁際の席を勧めて座るのを確かめてから、おもむろに腰を下ろした。店内が暗いせいか、本屋で見た彼女と違い、表情が硬く感じられた。
「何にします? 私はブレンドにしますが」と聞いてきたので「同じもので」と答えた。彼女はマスターに向かって「ブレンド、二つ」と軽く指を二本立てて注文した。僕に顔を向け直すと途端に下を向いて気まずそうにするので、飲み会の轍は踏むまいと優しく穏やかに話しかけた。「よく気がつきましたね。偶然って怖い」とあまり見せない笑顔で話しかけると、彼女はばつが悪そうに、それでいてはっきりと「待っていたのです」と答えた。
“待っていた”。僕はその意味を深く考えないように、とにかく表情に出さないように努めた。そんなフレーズ、聞いていないというふうに別の話題を振った。「外食は飽きるので、けっこう自炊しています」。かなり唐突感はあったが、彼女と再会した料理コーナーに因んだ話題のつもりだった。彼女も思わず言ってしまったと後悔していたようで、僕が出した救いの手にすがるように「男の人が料理するって素適ですね」。これまでにない明るいトーンで調子を合わせてきた。すかさず、どういうわけか「彼女がいないので仕方なく…」。完全に調子が狂い出し、言う必要のないことまで口にしていた。
次に会う約束をせず、店の前で彼女と別れた。“もしよければ今度の週末にでも…”と誘えるほど打ち解けていなかったし、正直どうしても会いたい相手でもなかった。ただ、昼休みに会社近くをぶらついていると彼女のことが頭をよぎった。近くに勤めている、また「偶然」に会うかもしれない、それこそどこかで待ち伏せされているかも…。辺りを警戒するという表現はオーバーだったが、そんなレベルで彼女を意識するようになっていた。彼女に似た後ろ姿や肩越しの声にドキリとすることもあったが、半月が経っても彼女と出くわさなかったし、メールをやり取りすることもなかった。
僕は、社長を含めて五人ほどの小さな出版社に勤めていた。書店に並ぶ一般書も出していたが、自費出版の単行本の編集・出版が中心だった。功なり名を遂げた元会社経営者らが多かったが、自分の足跡をちょっとした冊子に残したい、そんな年配者もいて、小世帯ながらも途切れることなく細々と注文があった。著者に代わって執筆する、いわゆるゴーストライターと組んで仕事をするのが楽しかった。大手新聞社の元記者や名の通った出版社の編集者上がりもいたが、業界・専門紙誌を転々とした、本人には申し訳ないが、うだつの上がらない感じの出来の悪そうなライターの方が仕事も丁寧で著者の受けもよく、いい本に仕上がった。
なかには、六十年代や七十年代の安保闘争で活躍し過ぎて、けっきょく人生を棒に振った強者(つわもの)らもいて、同じく出来のいい方でない編集者の僕に目をかけてくれた。僕の方も、彼らの生き方への憧憬というか、得にもならないことに脇目も振らず突き進んでいった姿勢に尊いものを感じていた。大きくはみ出さず、うまくかわしながら生きてきた、凡庸な者にとってその存在は特別に見えた。彼らがきっと大事にしてきた自己実現なんて言葉、僕には縁がなかったし、ただアリのように働いてささやかな趣味で息抜きするのがせいぜいのところだった。相も変わらず、ふやけた日常の繰り返しに耐えるしかなかった。
休みの日は、平日にできない掃除や洗濯をまとめて行い、ひと段落する午後に本を読んだり、ビデオで映画を見たりと、一日じゅう家にいることが多かった。外に出るのが億劫なだけで、好んで自炊をしているわけではなかったが、もともと性格的に向いていたのか、作業としての料理は苦にならなかった。でも、四十前にもなると彼女のいない男がひとり料理する姿を客観視するのに耐えられず、料理の手を止めて流し台の前で立ち尽くすこともあった。
ウイークデーに買い物ができないことが多く、休みの日に仕方なく近所のスーパーへ出かけた。コンビニで済ませばよかったが、弁当やちょっとした惣菜もすぐに飽きてしまう。けっきょく休日の買い出しがルーティンとなり、主婦や家族連れで賑わう店内をうろつくはめになった。当初は抵抗感があったが、若いころに比べて人の目を気にする感度が鈍り、歳をとることの数少ない利点と言えた。平日も半分は自炊していたので買い物はそれなりのボリュームになった。レジを打ってもらっているあいだ、いつものようにぼんやりしていると突然メールの着信音が鳴ってドキリとした。彼女と別れて半年以上、休日にメールが来ることはほとんどなかった。きっと迷惑メールだろうと削除するのも面倒くさくて、そのままにしていた。
スーパーを出ると一気に倦怠感が広がっていく。両手にかかる食材の重みも加わって、身体を引きずるように自宅へ向かった。途中、公園のベンチで一息し、先ほどのメールを削除しようとケータイを開いた。“近くまで来ているのですが、伺ってもいいですか”。例の彼女からだった。“近くって? 僕の家の近く?”。頭の中で二度、三度と繰り返した。どうして自宅の住所を知っているのか、この前偶然会ったのに続いて、今度もなぜ、また…。背筋に冷たいものが走り、身震いした。新手のストーカーか、興信所に勤める友人でもいるのか。どうメールを返したらいいか、身体が硬くなっていくのを感じた。嫌な汗をかきながら考えた末に“いま外出先なので不在にしています”とだけ送信した。
“きょうは会えない、いまは無理”のニュアンスを込めたつもりだったが、即座に“帰るまで待っています”と送信してきた。呆気に取られるとはこのことだった。とうぜん髪もセットしてないし、だらしない感じのジャージ姿、加えてスーパーのレジ袋を両手に提げて…。パッとしない四十前のおじさんの姿が頭に浮かび、気分が悪くなるほどだった。こんな冴えない格好、誰にも見せられない。これって不可抗力? いや理不尽? ほんと無防備なところを突いてくる無神経さに、だんだん腹が立ってきて思わずベンチから立ち上がっていた。ケータイの画面をにらむも、これまたどう返信しようか、苛立ちが募るばかり。“はっきり言って迷惑です”と打ちかけたが、けっきょく手が止まった。何かの間違いでありますように。そう祈るしかなかった。
“どうか、いませんように”。重い足取りで自宅マンション前まで来ていた。エントランス付近を見まわしても人の気配はなく、思い過ごしかと胸をなで下ろし中へ入った。思わず足が止まった、そのあと少し身体が震えた。メールボックスの奥に彼女の姿があった。「あっ」。一瞬怯むも、ここまで来たらやぶれかぶれ、堂々と対してやろうと開き直った。相手に対する気味悪さと、おのれの不格好さが変に相俟って、ぎこちない振る舞いになっていた。「どうしてまた…」。そう言うのが精一杯で言葉が続かなかった。彼女は申し訳なさそうに「本当にごめんなさい。こんなことするつもり、なかったのに」と泣きべそをかいてうつむいた。ここで普通に明るくあいさつされたら、さらに引いてしまって憮然とするところだったが、そこは相手も心得ていたのか…。
「こんなところで何ですので…」。僕は何に観念したのか。怒りを含んだ投げやりな感じながらも言葉遣いは丁寧に促していた。彼女はうつむき加減に僕のあとへ付いて来た。たいして親しくもない男の部屋へ若い女が一人、無防備で入っていくにはそれ相応の覚悟がなければならない。“こいつ、その意味、わかっているのか”。ドアの前で確認するように振り向いた。“本当に中へ入るの?”。彼女はそのニュアンスを察したのかどうか、軽くうなずく素振りを見せた。すると同時に、レジ袋を提げた左手が急に軽くなった。驚いて振り向くと、彼女が手を添えていた。
午前中に掃除をしたばかりだったので、こざっぱりした印象を与えて好感度が上がるかも…。彼女の手練手管なのか、一転して妙に浮ついている自分に苦笑した。もうここに至れば諦めの境地で招き入れるしかなかった。中に入るなり明るい声で「きれいにされているのですね」と彼女。いみじくも待っていた答えが返ってきて、顔がほころんでいるのが自分でもわかった。彼女を二人がけのソファーに座らせてキッチンへコーヒーを淹れにいった。彼女は背筋を伸ばして前を向いていた。澄ました横顔がこれまでにない印象を与えた。長めのワイドパンツとモノトーンのシックなカットソー。大人びた感じを引き出し、喫茶店で会ったときよりもきれいに見えた。
日が傾き、暗くなりかけていた。そろそろ…と促す言葉を探していたら彼女の方から「今日は突然にお邪魔しまして」とタイミングよく言ってきた。「いや全然。このところずっと休みの日は一人だったので…」。正直な言葉がついて出た。さらに「楽しかったです」と付け加えた。彼女は、レジ袋から無造作に顔を出した乾燥パスタの束に目を止めて「夕食はスパゲティーですか」と聞いてきた。僕は戸惑い気味に「ええ、茹で方が難しくて…」と照れ笑いを浮かべながら返事すると、彼女は少し考えているような素振りを見せて「もしよければ私、作りましょうか」。思いも寄らない展開だったが、そのときの僕に断る理由は見当たらなかった。
彼女はレジ袋からほうれん草とベーコン、きのこ類を取り出して流し台の脇に置いた。「冷蔵庫を開けてもいいですか」と聞くので「どうぞ」というと、中から僕も忘れていたニンニクのかけらを取り出し、みじん切りにして炒めだした。ぼんやりとテレビを眺めている僕の目の端に、手際よく調理する彼女の姿が入ってくる。これまでの疑問や不信感はどこへやら、自分でも驚くほど何とも言えない穏やかな気分に浸っていた。僕は、彼女の横顔をしばらくのあいだ眺めていた。気づいているのかどうか、真剣な表情でパスタの茹で具合をみていた。
長らく自炊してきた、中年に差しかかろうとしている独身者にとって、付き合ってもいない女の子に料理を作ってもらう意味は大きかった。一挙に距離が縮んで特別な存在に思えた。勘がいいのか、要領を心得ているのか、パスタに合う皿やフォークの在りかを聞くことなく、テーブルにセッティングしていく。何年も付き合っているような無駄のない動き。香辛料を効かした、薄めの塩加減も抜群だった。途中、食べる速度を意識して緩めるも、彼女がまだ半分のところで僕は食べ終ってしまった。
「サラダを先に食べた方がよかったのかな」。フォークで野菜をつつきながら話を向けると「楽しく食べるのが一番だと思いますが」。本意や理屈とは別に、こちらに合わせようとする話し振りにますます好感度が上がっていく。「まったく今日はそういう意味で一番というか…」。柄にもないフレーズが思わず口をついた。彼女は恥ずかしそうに下を向いた。その姿が本当にかわいらしくて、いとおしく思った。初めて会った居酒屋で愛想がなかったこと、突然メールが来て驚かされたこと、本屋で偶然に出会ったこと、どこで知り得たのか自宅前で待っていたこと…。なぜと聞くのも忘れて、前に座る彼女をどういうわけか、既視感の中で眺めていた。
気がつくと、思いのほか時間が過ぎていた。「駅まで送ります」。そう言うと、彼女は「後片付けしてから帰ります」。少し不満そうな表情を見せて食器を重ね始めた。流し台へ持って行こうとするので「洗いものは僕がしますから」と彼女を制して立ち上がろうとした。勢い余って身体のバランスを崩して、彼女の背中にぶつかってしまった。「ごめん…」と言うも、後ろから抱きかかえるかたちになり、彼女は食器を乗せたトレーを抱えたまま固まった状態に。僕はしばらくのあいだ、そのままでいた。彼女も動かなかった。
まだ出会って間もなかったし、彼女のことは何も知らなかった。そうであっても、いやそれだからこそ事の成り行きでこうなってしまう。けっきょくのところ、男女のあいだのことは自然に任せるしかないのかもしれない。彼女のことを好きと意識する前に、確信を持てない段階でこうなっても罪に問われることはないだろう。どこにでも転がっている恋愛の始まり。彼女には申し訳なかったが、取り敢えず付き合ってみようか、正直そんなところだった。男の部屋で二人きり、いい雰囲気になってこうならないはずはない。言い訳のように正当化している自分自身に軽い嫌悪感を覚えながらも彼女を抱き寄せていた。
身を硬くしていた彼女は、ベッドの上で解き放たれたように大胆だった。地味な感じの子が淫らに変わっていく姿に性欲を刺激され、少し乱暴に彼女の身体をむさぼった。未成熟にも見える乳房を強くつかみ、内腿から局所へ怪しく手を這わせ、華奢な腰の辺りを強く締め付けた。感じる痛みも快感に変えて身をよじるこの女は、どういうわけか何年も付き合っている彼女のように僕の性向を熟知していた。そのときはただ、相性がいいくらいにしか思っていなかった。
彼女とは週に一度会うようになった。金曜の夜に待ち合わせて食事をしたり、休日の午後に街なかをぶらついたり、郊外へ遊びに出かけたり。スロースターターの選手のごとく徐々に愛を育んでいった。穏やかに関係性を深めていき、しだいにかけがえのない存在になっていく…。付き合いだした当初は、こうしたステレオタイプの愛のプロセスを勝手に妄想したり、実際に彼女との関係性に重ね合わせて、いわゆる恋に落ちた感覚を楽しむものだが、それも四十近くになってしまうと…。
それに、好奇心が強い方でないため毎週の行き先選びに苦労した。付き合って半年も経つと、あるサイクルというか、どうしてもマンネリになりがちで、なかなか気持ちが上がらなくなかっていく。彼女には申し訳なかったが、わざと用事をつくって会うのを一週間飛ばしてもらい、ホッとすることもあった。ほかに気になる子が出てきたわけではなかったし、会えばそれなりに楽しかったが、早くもゆるんだ気持ちを立て直すには少なからずエネルギーが必要だった。
二週間ぶりにあったとき、皮肉を込めてなのか彼女が「すごく久しぶりな感じがする」と言うのに対し、僕が「そうかなあ、逆に新鮮な感じでいいじゃない」。そんな具合だったが、やはりどこか気がとがめて「寂しかったけど」と取って付けたようにフォローした。彼女がどう受け止めていたか、本当のところは分からなかったが、それも見越して気遣ってくれていたのか。“それなら許してあげる”と言わんばかりの彼女の仕草に救われた。一見じゃれ合っているような、こうしたやり取りもこれからの二人の行方を微妙に左右する何かを表していたのだろうか。
今日はどこへ行こうか。二人して少し意識の高ぶりを感じながらテーブルを挟んで向き合っていた。時間は遅かったが久しぶりに臨海部のテーマパークへ行くことにした。割引になる時間に合わせて入場し、閉園間際まで遊んで時間をつぶそうと思った。ちょっとした非日常が心地よくて、久しぶりに手をつなぎ、ときに腕を組んでアトラクションをまわった。夕暮れが近づき、華やかなパレードが始まった。キャラクターたちがきらびやかな山車の上で決めポーズを見せるたびに拍手と歓声が上がる。前のめりになって目を輝かせる彼女の横で僕は、ぼんやりとある思いにとらわれていた。
女の子と付き合うたびに考えてしまう、この先いつまでこのままでいられるのか、と。出会いに別れはつきもの、そんな使い古されたフレーズを意識する、しないは別にして、互いの不安感を打ち消しながら二人の関係性は進んでいく、いやときに退行していく。ひとたび下降曲線をたどると、よほどのことがないかぎり元へ戻すのは難しい。修正が効かず、そのまま横軸へ接近していく。例外的に底を打って上向く場合もあるのだろうが、たいがいはそのままフェードアウトしていく。別れるか、きわめて少ない確率で元のさやに収まるか、どちらに転んでも当初の、出会ったころの意識には戻れない。パレードに夢中の彼女に手を引かれ、人込みをかき分けていく。僕の、沈み込んでいく意識を打ち消すかのように、彼女は手を強く握って前へ進んでいった。
最寄り駅が混んでしまう前にテーマパークを出たかったが、けっきょくパレードが終わるまで付き合わされた。いつもは気持ちを抑えがちな彼女も、精巧に作り込まれた非日常に影響されて興奮気味だった。ゲートを出た後も手を放そうとしない彼女に「どこでごはん食べる?」と聞いた、意識を引き戻そうと。彼女は初めから決めていたようで「私の部屋で」と言った。「何か用意しているの」と顔を向けると「うん」とうなずいた。自宅前まで送ったことは何度かあったが、中に入るのは初めてだった。
築年数が五年も満たないような、きれいなマンションでエントランスも広々としていた。五階の端に彼女の部屋はあった。好奇心の薄い僕でも女の子の部屋に入るときは緊張するし、彼女の意外な一面が垣間見られるのではないかと少しは興奮する。部屋の中は予想していた通り、整理が行き届いていて、テレビのリモコンなど備品がいつも所定の位置に整然とある感じ。シンプルで遊びのない部屋全体のイメージが、男の子のようで彼女の性格ときれいに一致していた。
ただ少し気になったのが、奥の部屋にちょこんと座っているクマの存在。女の子の部屋にぬいぐるみの一つや二つ、何も不思議ではなかったが、こと彼女に関しては不釣合いに感じられた。女の子っぽい、白いクマが彼女の部屋のバランスを崩していると思った。彼女はダイニングテーブルに皿やグラスを用意していた。「そこに座って待ってて」。僕は三人がけの、ゆったりとしたソファーの端に腰を下ろし、あらためて部屋を見まわした。チェストの上の小さな写真フレームに目が止まった。
彼女はワインを掲げ持って「飲む?」と聞いてきた。僕はキッチンの彼女に向き直って「うん」と返事しただけで、ふたたびチェストのフレームへ目を戻した。「お待たせしました、どうぞ」。外で食べる時のように少しあらたまった感じでダイニングへ移り、カウンターチェアに腰掛けた。横長の白いテーブルには身体に良さそうな小鉢など純和風の料理が並んでいた。ぶりの照り焼きが出てくるとは思っていなかったので、思わず顔がほころぶのが分かった。「煮魚なんて何カ月、いや何年ぶりか」とけっこう感激している様子に彼女は本当にうれしそうだった。
ランチョンマットは色違いで同じ模様、箸も茶碗も湯のみも大きさが違うだけで一緒。それを意識してか、少し言い訳がましく「新婚さんでもないのにどうかと思ったんだけど」と彼女は顔を赤くした。僕は「いつか経験するんだから、こういうの、お互い…」と軽く返したつもりだったが、変に結婚を意識させないか、誤解を招かないか、少し心配になった。フォローする言葉を探したがとっさに出て来なかった。彼女はずっと下を向いたままだった。
外で食べる和定食とは違い、文字通り愛情のこもった家庭料理はお世辞ぬきで最高だった。箸をつける僕の表情にうそはなく、抑えてはいたが日常のささやかな幸せに感激していた。ただ、そうした思いが高じてどこで反転したのか「もうこんな幸せ、ないかもね」と口にした。取りようによってはいまこのときがピークでこの先の二人を暗示しているような、悲観的なニュアンスに受け取られてもおかしくなかった。
「あそこにいる、ぬいぐるみって小さいころの?」。いい雰囲気にもかかわらず、下がっていく気分を変えようと話を振った。彼女は少し間を置いて「最近買ったの」。「まだきれいだものね」と返すと「いろいろあって迷ったけどクマがかわいいと思って…」と奥の部屋へ目をやった。僕は話の流れから思わず告白調で「小さいころ、プラモデルよりぬいぐるみの方が好きだった」と打ち明けた。彼女は驚くそぶりを見せず、すっと立ち上がり奥の部屋からすぐにプレゼントと分かる、きれいにラッピングされた巾着状の包みを抱えてきた。
「こんどの水曜日、誕生日でしょ。仕事が忙しそうで会えないと思って」。前の彼女と別れてから、自分の誕生日を意識することはなかった。「誕生日のこと話したかなあ…。まあいいけど」。僕はそう言いながらラッピングのリボンを解いた。何となくそうだろうと想像していたが、やはり茶色のクマだった。でも、なぜ僕がぬいぐるみを好きってことを…。「なんか、子供のころ思い出すよ。ありがとう」。四十前のおじさんがクマを抱えてお礼を言った。
色違いのペアのぬいぐるみ。僕もけっこう感覚がずれている方だと自覚しているけど、控え目で奥ゆかしい彼女も結構イっていると思うとおかしくなった。でも、彼女に対する“なぜ”がまた一つ増えて戸惑うことに。言った記憶のない誕生日、子供のころに好きだったぬいぐるみ、なかでも小さいころ抱いて離さなかった、かわいいクマちゃんを…。これって、たんなる偶然? 思い過ごし? たんに相性がいいだけ? そう思うべきなのだろうか。彼女はお茶を入れにキッチンへ行き、僕は一人クマと向き合い、苦笑するしかなかった。
彼女はケーキも用意してくれていた。レーズンやオレンジ、イチジクなどのドライフルーツが入った、手作り感のうれしい特製のパウンドケーキだった。「お菓子はよく作るの?」と切り分けてもらったケーキを口へ運びながら聞いた。「小さいころ、母親と一緒によく作ったけど、独り暮らしになってからは…」と残念そうな表情を浮かべた。僕は「甘さ控え目でおいしいよ」と返したあと、意地悪のつもりはなかったけど少し調子に乗って「学生のころ、彼氏に作った?」と聞いてみた。彼女は、僕の横に座るクマちゃんに目をやり、助け舟を求めるような素振りを見せた。少し沈黙が流れて「彼氏、ずっといなかったもの…」。彼女はそうつぶやいて、はにかんで下を向いた。
それにしても、なぜクマのぬいぐるみ、なのか。誰かに聞いたのか、どこで調べたのか、僕の趣味や嗜好を知り過ぎていた。癖や行動様式まで把握されているような気がして怖くなった。もしかしたら過去のことだけでなく、いまもなにかコントロールされているような、いや、これから先も彼女によってレールが敷かれているのだとしたら…。獏然とした予感にさいなまれて身震いした。まだ、付き合い出してやっと半年を少し過ぎたところなのに…。とうぜん彼女のことをよく知らなかった。彼女が持っている、ボク情報の十分の一、いやもっと低かったかもしれない。それに引きかえ、彼女はこの短い間に僕のことを、こんなにも…。
さまざまなことが頭を駆けめぐり、時間が経つのを忘れていた。奥の部屋の壁時計に目をやると午後十時を過ぎていた。泊まるつもりはなかったので「そろそろ帰るとしますか」とおじさんふうの独り言をつぶやいて腰を上げた。でも、彼女は座ったまま立とうとしなかった。“この流れなら普通はもう少し一緒にいたいと思うでしょ”。そんな言葉が彼女の心のうちから聞こえて来そうだった。彼女は固い表情のまま下を向いていた。僕は玄関へ向かうどころか中腰のまま、不恰好に身体をフリーズさせ、けっきょく何ごともなかったかのようにバツ悪くその場に座り直した。「そうか、明日は休みか」。そうとぼけて取り成すのがせいぜいだった。
「あのチェストの上の写真って、小さいころの…」。僕は話を変えた。「うん、幼稚園ごろかな」と彼女。「こっちに持って来てもいい?」と彼女の表情をうかがいながら言うと、戸惑いなくうなずいた。僕は少し勢いをつけて立ち上がり、奥の部屋に飾ってあった小さなフレームを手に取った。彼女の方へ振り返った時だった。何とも言えない不思議な感覚にとらわれた。内心にざらつくものを感じた。よくある、どこかで見た光景というか、子供のころによく行ったところとか、学校の帰り道の光景とか。セピア色の情景が、粗めのスライド映像のようにフラッシュバックし逆回転していく、懐かしくも心寂しい幼いころの思い出、この感覚。その映像の片隅に、かわいい男の子の姿があった。
写真フレームを彼女へ手渡した瞬間、幻想はすっと消えた。このあと彼女が何やら説明するも耳に入って来なかった。写真には幼い彼女と両親が写っていた。どこか面影はあったが今の彼女とは違ってボーイッシュで服装からして男の子にすら見えた。「おもしろいでしょ、男の子が欲しかったみたいでこんな格好させられて…」といい訳するように言った。「よく見ると、いまと変わらずかわいいよ。両親に愛されている感じだし」。僕は取りあえず無難な感想を返した。
彼女はしばらくのあいだ、懐かしそうにフレームに目を落としていた。僕はその姿をこれまでにない感覚、妙な親近感をもって眺めていた、何年も前から愛情を重ねてきたパートナーのように。しみじみとした思いに耽っていると「どうする?お風呂にお湯入れようか」。いつもの愛想のない口ぶりに現実へ引き戻された。彼女は、コーヒーカップやデザート皿をトレーに乗せて立ち上がった。僕はつられて中腰になり「手伝おうか」と声をかけたが、彼女は笑顔で制して流し台の方へいった。
風呂から上がると、スウェットの上下がきれいにたたまれ置かれていた。「似合うかな、サイズはピッタリだけど」。照れ隠しにそう言うと「その色が似合うと思っていた」。彼女も照れた感じで返してきた。続けて「ソフトドリンクがいい?」と言うので「うん」と答え、リビングのソファーに座った。用意周到というか、ここでも見透かされている感じがして、なにか居心地の悪いものを感じていた。
彼女が風呂に入っているあいだ、テーブルの上の写真フレームを手に取り、あらためて見た。ふたたび懐かしいものが込み上げてきた。二十年近くも前の古い写真だから? いや、それだけではない。これまでずっと整理できないでいた、内心に漂う雑然としたモノどもコトどもが並び直されてカタチを為していく、しだいに意味を浮かび上がらせていく、そんな不思議な感覚だった。
彼女は、髪にタオルを巻いた姿でリビングへ入ってきた。「こんな格好でごめんなさい」と言って前を通り過ぎ、奥の部屋から保湿クリームなのか小さな容器を持って、また洗面室へ戻っていった。さすがにお揃いのスエットではなかったが、ロングワンピース型のかわいいルームウェアだった。僕と同じソフトドリンクを手に横へ座り「ビールでなくてよかったの?」と言うので「けっこうワインが効いていて。もともと酒強くないし」と答えた。彼女は「そう」と言って立ち上がり、冷蔵庫からカットフルーツを盛ったガラス皿を取り出し、音を立てずにテーブルの上に置いた。
「今日は少し疲れた。テーマパーク久しぶりだったから」。たいして意味もなく言うと、彼女が「何年とか、そんなに?」。前の彼女がちらついたらよくないので「ずっと昔で覚えていない」とぼやかした。「そっちこそ、この前はいつ行ったの」と聞き返すと、彼女は少しためらいがちに「半年くらい前」。“えっ、誰と?”と思わず口に出かけたが、悪いスパイラルに陥りそうなので寸時のところで止めた。すると、彼女は「あのペアのクマちゃん買おうと思って」と事もなげに答えた。そのあと「もちろん、一人で」と付け加えた。
知らなかったが、このつがいのクマちゃん、テーマパーク内でしか売っていないレアなものらしい。「プレゼントのために? 今日買えば良かったのに」と言うと「そうだね、(パークに)来ることが分かっていたら」。半年前と言えば、出会っていたかどうか、そんな前からプレゼントを用意していた? そもそもなぜ、誕生日を知ってる? また、ぐるぐると疑いの環が回り始めた。僕と彼女に限らず、男女のあいだで時間を巻き戻していいことはない、ことによれば致命傷にもなりかねない。かりに、そのときは気に止めなくても後で“どうして?”と思うことがあるだろう。でもこうも“なぜ”が続くと…。初めて見る、すっぴんの彼女を前に疑問は深まるばかりだった。
ベッドの下にふとんを敷いてくれた。そこへ入ろうとするとベッドで寝るよう促された。「私が下で寝るから」と言うので「いや、僕が下で」とやり合ううちに彼女がすっとふとんの中へ。「それなら眠るまで一緒に下で」とうれしそうだった。「わざわざ狭いところに」とやれやれ感を出すも、にやけ顔を抑えられず彼女の横へもぐり込んだ。小さいころ、友達の家にお泊りしたときのように並んでふとんから顔を出し、天井を見ながら話が弾んだ。
「好きなお兄ちゃんがいてよく遊んでもらった」。彼女は独り言のようにつぶやいた。「いつのころ、どんなお兄さん、近くの」。興味を示すと「私が小学校に上がる前で、相手は当時中学生ぐらい、優しいカッコいいお兄ちゃん」。さらに話を向けて「どんな遊びしたの、十歳ぐらい(年齢が)離れているのに」。彼女は遠くを見るような眼差しで「手をつないで近くの公園へ連れて行ってくれた」。少し間を置いて「ジャングルジムやブランコ、鉄棒で一緒に遊んだ…」。彼女は少し涙声になって言葉を詰まらせた。
僕は彼女の方へ身体を向けた。カーテン越しに外灯の明かりが彼女の横顔を薄っすらと浮かび上がらせていた。目が潤んでいるのが分かった。“どうしたの”と言おうとしたが言葉を選んでいるうちに、彼女も同じように僕の方へ向き直り身体を沿わせてきた。それきり彼女は何も話さなかった。その代わり、強く求めてきた。僕と彼女はベッドへ移る時間も惜しむように激しく抱き合った。彼女はスレンダーな身体を絡ませてきた。これまで感じたことのない彼女の“強さ”に圧倒された。その強勢が快感に変わり、身体を突き抜けた。「お兄ちゃん…」。彼女は低く喘ぎ声を上げ、背中に沿わせた腕に力を入れた。
次の日、僕と彼女は昼前までずっとふとんの中にいた。朝方から目覚めていたが、彼女の寝息を聞きながら天井を見つめていた。ひと回り近い年の差を考えれば確かに僕も“お兄ちゃん”に違いなかった。小さいころに遊んでもらった“お兄ちゃん”の話と、行為中に発した“お兄ちゃん”。きっと無意識のうちに昔のお兄ちゃんと僕をダブらせたのだろう。出会ってこのかた、僕のことを歳の離れたお兄ちゃんと思っていて、興奮高じてつい口をついて出ただけなのか。それにしても、お兄ちゃん=僕? 僕は天井から目を離せないでいた。
あの日から二週間が経とうとしていた。普通に仕事をこなしていたが、あの“お兄ちゃん”という言葉が頭から離れなかった。彼女の発した一言が頭の中でぐるぐる回っていた。あれをきっかけに“ある記憶”がよみがえり、何とも整理がつかない、浮ついた感じが続いた。土曜日だったが会社に顔を出した。平日に数時間の残業でカバーできるような仕事だったが、ざわついた気持ちを鎮めようとあえて休日出勤した。今週末は会う約束をしていなかった。彼女からメールもなかった。
早めに切り上げて机の上をきれいにしていると、彼女から電話が入った。「どうしたの? めずらしいね」。彼女の言葉を待たずに切り出すと、少し間を置いて「どうしているかと思って…。そうね、めったに電話しないものね」。続けて「いま、外なの?」。僕は「あぁ、会社に出ている。いまから帰るところ」と答えた。すぐに出て来ると言うので、例の喫茶店で待ち合わせることにした。僕は彼女がするようにマスターへ軽く会釈して奥の席に着いた。彼女が来るまでまだ二十分くらいかかるだろうと文庫本を取り出して読み始めた。すると十分も経たないうちに、扉のチャイムを勢いよく鳴らして彼女が飛び込んで来た。
会釈を忘れていたのに気づいたのか、彼女は頭を下げる仕草をして「マスター、ブレンドをもう一つ」と注文した。僕の方へ向き直って「すごく久しぶりに感じるけど、私だけかなぁ」と少し高揚した口ぶりを意識してか、すぐにトーンを下げて「仕事、忙しいの?」。僕は「いや、大した仕事じゃないけど。家に居てもやることないし」と答えた。「ゆっくり休めばいいのに」。そう言って安心したように微笑んだ。あれから二週間、連絡しなかったことに、お互い触れなかった。
このあと、久しぶりに映画を見ようと、付き合い出したころに何度か行った駅前の映画館へ向かった。何を見たいというわけではなかったが、偶然恋愛映画をリバイバル上映していた。いわゆる名画と呼ばれる欧州ものが好きな僕にとって時代背景を含めて質感がしっくりくる映画だった。十八世紀後半の欧州の片田舎を舞台に展開する凡庸な男女のストーリー。彼女は眠りもせずに付き合ってくれた。ただ僕は、軽くもたれかかる彼女を感じながらスクリーンの映像とは別に、二週間前のこと、いやもっと昔の、ある情景を頭に思い浮かべていた。
映画を観終わったあと、彼女は「家で食べる? すぐにできるけど」と言ってくれたが、僕は素っ気なく「今日は外の方が」と返した。この前と同じような状況に身を置いて内心のカオスに拍車をかけたくなかった。不透明なベールを剥がして楽になりたいと思う反面、その手前で思考停止し猶予期間を延ばしたい、当分真実から目を背けておきたい、そんなどっち付かずの危うい感じにさいなまれていた。彼女が嫌がるのは分かっていたが、独身男性が入るような大衆食堂へ足が向いた。彼女は不満そうに「これだったら家でも出来るのに」とつぶやいたが、僕は返事をせずに中へ入った。粗末な丸イスに座るやカバンを置いて惣菜が並ぶ棚の前へ向かった。
マンションの前まで来て足を止めた。彼女が怪訝そうに振り返って「お茶か、ビール飲んで行くでしょ?」と聞いてきた。明日は日曜日なのだから当然そういう流れでしょと言わんばかりに。それでも僕はエントランスから動かなかった。“どうして?”。声に出さぬとも彼女の表情がそう語っていた。「今日は帰る」。たちまち彼女は泣きっ面になって下を向いた。僕は「ごめんね」とだけ言って彼女の両肩に手をかけた。そのときだった。昔のある映像が鮮やかに頭によみがえり、時空が後戻りし始めた。
学生服を着た僕は、小さな男の子と公園で遊んでいる。十歳近く離れた、近所に住む男の子。僕はそのころ、のちに離婚する両親がいる家を避けるようによく公園で時間をつぶした。彼とはそんなときに出会った。僕が来るのを待っているように男の子はきまってその公園にいた。一時期、僕と彼は歳の離れた兄弟のように毎日顔を合わせ、時間も忘れてともに過ごした。小さな顔にバランスよく配された、二つの瞳は澄み切っていた。抱き締めると壊れそうな華奢な身体つきが、守ってあげたいという気持ちにさせた。
ジャングルジムで鬼ごっこをしたり、砂場で小山をつくっては崩したり。並んで鉄棒につかまり、逆上がりのコツを教えたこともあった。当時、どんな会話を交わしたか、もうすっかり忘れてしまったが、その子は両親から外で遊ぶのを制限されていたように思う。彼から直接聞いたか、あとで僕が勝手に想像をふくらませたのか、記憶が定かでないが、生まれつき身体が弱くて入退院を繰り返し、同じ年頃の友達がほとんどいない、どこか寂しい感じのする、翳りのある男の子。そんなイメージがいまも残っている。
ある日、来ているはずの男の子が公園にいなかった。僕はベンチに座り、彼が来るのを待った。日が暮れても彼は現れなかった。たんに家の事情で来られなかっただけだろうに、そのときは公園へ来る途中、事故に遭ったのではないか、誰かに連れ去られたのでは、と本気で心配した。でもそれ以来、公園で彼を見かけることはなかった。一人っ子の僕は、かけがえないのない弟を亡くしたような喪失感にとらわれ、これからどうすればいいのか、肩を落としてベンチでうな垂れた。
男の子が近くの病院に入院している―。学生服を着た、心配顔の僕の姿が断続的に浮かんでくる。病室で心細そうに臥している男の子の姿が頭のどこかに残っていた。実際に見舞いへ行ったのか、彼への思いが強すぎて行ったつもりになっているのか。四半世紀近くも前のことなので判別がつかなかった。このあと高校、大学へと進み、しだいに彼の記憶は薄れていった。社会人になって十数年、もう思い起こすこともなくなっていた。
ただ、頭や心のどこかに男の子の残像をしまい込んでいたのだろう。いまになって、ぼんやりとした像に輪郭がほどこされ、焦点が合わさっていく、徐々に彼の姿が浮かび上がって来る。ふたたび男の子が僕の中へ入り込み、誘い導き癒し始めていた。
大人になって心がすさんだり、激しく落ち込んだりしたときのために、しっかり取っておいた、かけがえのない思い出。宝物として大切に心にしまっていた、彼の残像。人と関わるのに疲れたとき、やむなく人を傷つけて自己嫌悪に陥ったとき、安易にも死を意識したとき…。そんなとき、男の子との思い出、癒しの残像が僕を慰め、立ち直るきっかけを与えてくれた。忘れていたあいだも彼は僕の内側で生き続け、ときに無意識に作用して苦しみから僕を引き離し、救いの手を差し延べてくれていたのか…。
ずっと解けなかった複雑な問題や関係性を突然クリアにしてくれたり、人事に尽くせない運命の分かれ道で天使のように舞い降り導いてくれたり…。普通なら偶然で片づけられてしまう出来事を差配し、窮地の僕を何度も救ってくれたのは、あの男の子だった? きっとそうに違いない。存在しなくとも存在している、僕の心の内に。いわば、非存在の存在。ずっと潜在していた彼が僕の内側に広がっていく、僕をやさしく包んでいく、僕を愛し守るために。
いま、僕の腕の中にいる彼女は誰なのか、何者なのか? でも、彼女に魅かれていたし、いまさら訳もなく突き放すことはできない。彼女は「彼」だし、僕の男の子だった。半年前に居酒屋で再会したとき、僕は気づかなかった。でも、“偶然”本屋で出くわしたとき、マンション前で心細そうに佇む彼女を見たとき、テーマパークではしゃぐ彼女の横顔を愛しく思ったとき、言葉の行き違いで寂しそうにすねたとき、幼いころを思い出し嗚咽した彼女を抱き締めたとき…。僕は心のどこかで、彼女にあの男の子を感じていた。「彼」だからこそ、ここまで好きになってしまったのか。
彼女はいつから、僕のことをあのときのお兄ちゃんと気づいていたのか。再会したときから? きっとそうだろう。そもそもあの出会いは偶然だったのか。僕を、彼女=彼に引き合わせたのは…。女の子になった彼は、ずっと僕を探していたのだろうか。僕と男の子はいずれこうしてふたたび巡り合うことになっていたのか。天の配剤で僕は最初から、彼、男の子と結ばれる運命(さだめ)だった…。マンションのエントランスで彼女を抱き締めているあいだ、様々な思いが頭を駆けめぐり、時空を超えてどこかに漂っているような、名伏し難い、どうにも身の置き場のない、不思議な感覚に浸っていた。
僕は思いのほか、すんなりと彼女を受け入れていた。動揺するどころか、前より穏やかな気持ちで彼女に接していた。彼女があの男の子だったのに、何か仕組まれた感じがしていたのに…。それよりも真実が明らかになったことで、やっと胸のつかえが取れてすっきりした気分だった。急に態度を変えるべきでなかったし、これまでの関係性を壊す必要はなかった。彼女は変わらず彼女だったし、僕が心の中にしっかりしまい込んでいた、あの大切な男の子だった。むしろ、この再会は喜ぶべきこと、深層心理でそう望んでいたこと、やっと訪れた邂逅、いや必然、ただそれを素直に受け入れればいい、それだけ。彼女と別れ、自宅へ向かう道すがら僕は心の整理にいとまがなかった。
いつもと変わらぬ日常が戻り、週も半ばにさしかかっていた。何度かケータイを手に取り、彼女へメールを送ろうとしたが出来なかった。次に会うとき、どんな感じになるのか、彼女がどんな態度を示すのか、ためらいというより恐れが先に来ていた。あのエントランスの別れ際、僕はいつもより彼女を強く抱き締めた。彼女が僕の変化に気づかなかったはずはない。いつ、真実が暴かれ正体がばれるのか、彼女は会うたびに打ちふるえ、僕のちょっとしたネガティブな言葉や振る舞いに打ちひしがれていたに違いない。かつての男の子が彼女と分かれば、いまの関係性が損なわれ終わってしまうかもしれない。足がすくんでもおかしくない情況だった。彼女もきっと、同じような気持ちでケータイを見つめているのだろう。
金曜日の夕方、僕は腹を決めて彼女へメールを送った。“こんどの日曜日、何時ごろ、どこで待ち合わせる?”。何ごともなかったように、いつもの調子を意識し過ぎたのか、ぎこちない事務連絡調になった。彼女はケータイを握りしめて待っていたのだろうか、瞬時に返信してきた。“何時でも、どこでも”。けっきょくいつもの喫茶店で会うことにした。大きなため息とともにケータイからパソコンへ目を戻した。やっと懸案事項を処理したときのように、ぐっと疲れが出てきて身体が重く感じられた。斜め前の、比較的仲のよい女の子がその変化に気づいたのか、こちらへ顔を向けて心配しているふうに見えた。
いつも五時過ぎにさっさと帰る、その女子がめずらしく残っていた。彼女とは、
二、三人の同僚とともに一緒に昼ごはんを食べる程度の間柄だった。デスクの上を片づけていると、彼女と目が合った。「めずらしいね。急に仕事ふられたの?」。帰る支度をしながら声をかけると、照れたような表情で軽くうなづいた。「じゃあ…」と声をかけて、彼女の方へ目をやった。いつもと違い、身体を硬くして横顔がこわばって見えた。「お先に」と続けるかわりに「お茶でもいく? 仕事終わりそうなら」とどういうわけか誘っていた。彼女は解き放たれたように、そそくさと帰る準備を始めた。
女の子といってもそう若くはなく、派手で目立つのでも、おとなしくおしとやかというのでもなく、よくいる普通な総務女子という感じ。たまにデスク越しに話す程度で、これまで意識することはなかった。僕は彼女より先に出て一階のエントランスで待っていた。急ぎ足の彼女と一瞬目を合わせ、そのまま先に外へ出た。彼女がしばらくして追いつくように微妙に速度を調整しながら歩いた。社内で噂になったら彼女も困るだろうから、百㍍ほど行った細い道に入る辺りで落ち合えれば、と間合いを取りながら歩を進めた。彼女も僕の意図をくんですぐに追いつこうとせず、少しずつ距離を縮めてうまい具合に付いて来てくれた。息もぴったりに僕と彼女は予想した辺りで合流した。
並んで歩きながら「なに食べたい?」と話を振った。彼女は少し考えてから「何でもいいけど、日ごろ食べないものがいいかな」と答えた。二人でぶらぶらしながら何軒かめぐったあと、けっきょく店構えの派手なエスニック料理店へ入った。アジア系の店内装飾に気を取られながら席に着いてメニューを開いた。「会社の誰かに見られたら困るんじゃないの」と何気なく口をついて出た。気遣っているつもりだったが彼女は気にしているふうを見せず「一度こういう店入りたかったし」。素っ気なく少し不機嫌そうに答えた。“それなら彼氏か、仲のいい女友達と一緒の方が…”。そう言いかけたが、楽しそうにメニューをのぞき込んでいる彼女を見て、言葉をのみ込んだ。
香草の独特の匂いに少し閉口したが、ココナツミルクの入ったカレーは思いのほかいけた。当たり障りのない会社のことでほどほどに盛り上がったあと、デザートらしい飲み物で一息ついていると「彼女はいるのですか」。突然、切り込んできた。僕はとっさに「いるようでいないような…」。曖昧に言葉をにごすふうになった。「だめですよ、思わせぶりな答えは」。思いのほか、きつくたしなめられた。返す言葉がなく表情が硬くなっていく僕に追い打ちをかけるように「その彼女がかわいそうだし、私も困るし…」。彼女は“しまった”という、分かりやすい表情を浮かべて僕以上に表情を硬くしていた。
昨夕まで意識していなかったのに、今朝から気になる存在になっていた。彼女の、立ち姿を後ろから眺めていた。ただ、勘違いしてはならないと肝に銘じた。中年に差しかかった男にちょっとした興味をいだいて、話の流れから少し好意を示してしまって…。彼女がどう思っているのか、本当のところは分からなかったが、きっとファーザー・コンプレックスのようなものかもしれない。朝礼で前に並ぶ部長連中の話もうわの空に自分の世界に入っていた。やっと終わったのか、少しざわついたあとパソコンや書類をめくる音、誰かが電話をかける声がしてやっと引き戻された。僕はみんなより少し遅れて席に着き、視野の端に入ってくる、斜め前の彼女に目をやった。
終業時間が近づいていた。女の子たちがごそごそと帰り支度を始めているのに彼女は前日同様、パソコンに向かっていた。男性社員が一人また一人と帰っていくなか、取り立てて急ぎの仕事はなかったが、どうしても彼女が気にかかり、そのまま居続けた。互いにけん制し合うように席を離れず黙々と仕事に打ち込むふうだった。「どうしたの、大丈夫? まだ帰らないの」。僕はたまらずデスク越しに声をかけた。返事もせずにパソコンの画面を見ていたので「先に帰るよ」と言って立ち上がると、彼女は背を伸ばす仕草をしてファイルを閉じた。「私も」。彼女と一緒にエレベーターに乗り、足早にエントランスを出た。
目には見えない、何か微妙なものが二人のあいだに流れ出しているのを感じていた。だからなのか、意識過剰なのだろう、歩いているあいだ、会話らしい会話もなく、店に着くまで顔を見合わせもしなかった。今夜は、僕が行きつけのこじんまりした和食の店に入った。やっと出た言葉が「昨日の今日で大丈夫?」。彼女はお酒のことと思い「いけるほうですから」と少し表情をゆるめた。「魚とか、大丈夫?」。さらにつづけざまに「今日も遅くなるけど大丈夫?」。彼女は下を向いてくすっと笑った。「大丈夫? ばかりですね」。心配性のおじさんそのままに“大丈夫?”の連発。“あっそうか”と僕もつられて笑ってしまった。
彼女は高校を卒業して上京、今の会社が二社目で独り暮らし。話では弟も都内で会社員をしていて、休みの日には作り置きできる料理を持っていったり、足の踏み場に困る部屋を掃除したり。「お節介を焼いて嫌がられている」という。男好きのするタイプではないが、優しく屈託のない感じに魅かれる男性社員もいるだろう。「世話女房タイプ? 彼は幸せだろうなぁ」と他意なく口にすると「(彼は)いないけど、きっとそういうの、うっとうしいと思われる」。憮然とした表情で返してきた。僕は少し言葉に力を込めて「いまの若い男の子はそうなのかなあ。僕らの世代なら理想なんだけど」とフォロー気味に。彼女は気をよくしたのか「そんなに歳、離れてないですよ」。悪戯っぽく笑った。
このあと、女友だちとよく行くという、駅から少し離れたカラオケ店へ連れて行かれた。歌うだけ、と言っても個室で女の子と二人きりになるのは…。そう意識すること自体、歳の差を感じさせると思い、いつもよりテンション高めに明るく振る舞った。十八番の三、四曲を歌ったあと、タイミングよくエントリーできずにいると「デュエットしますか? 私もあまりやらないけど」と彼女。おじさんと若い子が一緒に歌っている姿を想像してためらったが、気を使ってくれる彼女に合わせて「最近の曲でないなら」とマイクを取った。照れながらも少し顔を寄せ合って歌った。
「今日はありがとう。久しぶりに楽しかった」。カラオケ店を出てそう言うと彼女は「こちらこそ、二日連続で無理に付き合ってもらって」。僕は立ち止まり彼女に向き直った。「無理じゃないよ。会社の飲み会ってわけじゃないし」と少し強めに返した。「よかったら、また行こう」。どの程度なのかは別にして、好意をもってくれているのは分かったし、こちらもしだいに引かれていた。その日は、改札越しに振り返る彼女に軽く手を振り、別れた。
さすがに三日連続で飲みにいくことはなかったが、僕のなかで斜め前の彼女は特別な存在になりつつあった、年の差を考えれば付き合うことはないだろうけど。僕は逃げ道を探していた、週末に会う約束をしている「彼女」から、そう括弧つきの彼女から逃れるために。幼い男の子から、やさしい「女性」に成長・変化した彼女とこれから、どんなふうに付き合っていけばいいのか。今度会ったとき、この話題に触れるべきなのか、何事もなかったように振る舞ったほうがいいのか。こうした揺れ動く感情が表情に出てしまいそうで会うのが怖かった。彼女と向き合う自信がなかった。
会えば彼女を傷つけてしまう、この調子なら、それならば…。金曜日の夕方、彼女へメールした。“急に出張が入って日曜日、会えなくなった”。僕は逃げた。心の整理に時間がかかりそうだったから? 彼女のことを思いやって? いや自分自身をごまかすために…。もしかして男かもしれない、そう気づき始めたときから様々なことが頭をめぐり、整理のつかない、どうにもしっくりいかない状態が続いていた。当初は違和感なく受け入れていた、その体躯。でも、よく考えてみると好みのスレンダーはよかったが、女性らしいウェストではなかった。やせた少年のようだった。確かに“下は工事済み”で基本的に問題はなかったが、上半身は手をつけていなかった。小さくふくらんだ胸も、かわいいフェミニンボイスも、定期的にホルモン注射を打ち、身体に負担をかけてきた結果なのだろうか。
もっと言えばインサートの時。違和感というほどではなかったが、ちょっと不思議な、初めての感触だった。普通の女性の奥行きというか、深さがなく行き止まり感があった。気のせいか、こちらの愛が足りないのか、潤いも少なく感じられた。これらの印象はすべて、あとで振り返って考えてみれば、ということ。真実を突きつけられなければそれも個人差、その範囲内と済ませていただろう。もともと小柄でスレンダーな子が好きなわけだし、取り立てて不満に思うことも不自由に感じることもなかった。情愛深く接してくれる彼女が愛しかったし、そこからにじみ出てくる彼女の言葉づかいや所作が僕を引きつけ、癒してくれた。べつに問題はない、はずだった。
彼女からの返信は、何の疑いもなく簡潔に“わかりました。気をつけてね”。後ろめたさを隠すように僕は短く“ごめんね、埋め合わせするから”。お互い、メールにできない思いを自分の中に閉じ込めて、それをどこでどう処理すればいいのか、戸惑っている感じだった。心細そうにケータイを見つめる彼女の姿が目に浮かんだ。一方、彼女の方は、ケータイを遠ざけて困惑している僕の姿を思い浮かべているのだろうか。この先、どうなるのか。僕は不安に感じていたし、彼女もそうだろうと想像できた。いや、僕の想像をはるかに超える、どれほどの苦悩が彼女を襲っていたか。そのときの僕には考えつかない、思い及ばないことだった。
避けて通れない、いつかは正面から向き合わなければならない、厳しくも過酷なリアル。彼でもある彼女をしっかり受け止めることができるのか、すべてはこの一点にかかっていた。性別を問わず一人の人間として、その過去をすべて受け入れ、現在を共にし、未来へ向かっていく。一般論として言うには簡単だか、少なからず偏見を備えた生身の人間である僕と、社会から疎外され不安におののく彼女にとって、この現実は残酷に過ぎた。当事者にとって並大抵のことではなかった。
男が男を、女が女を好きになる、一緒にいたいと思う。こうした愛のかたち、いわゆるLGBTQ、ここではトランスジェンダー(出生時に診断された性と自認する性の不一致)。しだいに認識が高まっていき、性を超えた普遍的な関係性として認められていく、そうした人たちへの理解が深まっていく。確かに表面的には、社会の表層ではそういう方向へ進んでいくだろう。でも一方で、長い年月をかけて培われ、引き継がれてきたヒトの意識構造がそう簡単に変わることはないだろうし、近い将来どころか未来永劫、これら先駆的な人たちが広く共感され、各々の生理的な部分で深く理解される日が来るようにも思えなかった。
括弧つきの彼女。その括弧が外れる、意味がなくなる時代が訪れるのだろうか。社会秩序の維持に重きを置く保守的な立場は言うに及ばず、いわゆる世間からの風当たりがなくなる日が、ゲテモノ扱いから解放される日が来るのだろうか。すべてが心もとなかった。凝り固まった意識を転換し、DNAに刻み込まれた既成の概念を変えるのにどれほどの歳月が必要か、途方に暮れるとはこのことだった。
徒労感にさいなまれ、どう転んでも不可能なことと思い知るのが関の山、むしろ諦めの境地からどう這い出せるか。この世の地獄に突き落とされて、どう再生していくか。彼ら彼女らが覚悟しなければならないのはこうしたことなのかもしれない。生きやすい社会が安易に訪れると想像してはいけない、極端に言えば苦しむために生まれてきたとしっかり思い定めて、そこから…。排除の論理に満ち満ちた、世間に向かってどう対峙していくか、心身にみなぎる異形の優位性、その力をどこへ向ければいいのか。
闘うだけが道ではない。自分の性向を内へ内へと深化させ、外へ触れないように大切に保ち続ける、そうした生き方も許されるだろう。同姓を愛するようになった身の上から逃げずにしっかり向き合い、偽りのない自分を愛すること。そこから生まれる鋭い感性を活かしてピュアに生き抜くこと。この異形を神から授かった尊い贈り物として育んでやること。選ばれし者として矜持を持って臨むこと。性差を超えたトランスジェンダーの普遍性は、生のあらゆる局面でクリエイティブに新たな世界を切り拓いていく、きっと。
今週末は何も予定を入れず、一歩も外へ出ないつもりでいた。彼女のいない、フリーのときのルーティンに戻り、昼前まで寝て午後はぼんやりと過ごす。刺激のない久しぶりのペースが心地よかった。彼女と付き合い出して、当然のように週末に会い、食事をして、話をして、ときに求め合う。そうしたサイクルを重ねていると、時にそこから逃れたいと思うのは自然なこと。彼女にとっても程よいインターバルになって気分転換になるのではないか、そう都合よく考えた。一人になって自然に発露する感情にまかせる、時が来ればまた思いを馳せるようになる。多くの彼、彼女がそうしているように僕と「彼女」もときに立ち止まり、それぞれがいまの思いと正直に向き合う時間が必要だった。そう思い込もうとしていた。
“いま何しているの?”。会社で斜め前に座る、彼女からのメールだった。括弧つきの「彼女」でなくてほっとしたのか、少しテンションが高くなっていた。“さて何をしているでしょう?”。おじさんっぽい、昭和な返しとすぐに後悔していたら“う~ん、私のこと、考えていた!”。気を遣ってベタな調子で合わせてくれた。そこで止めておいたらいいものを“そう、朝からずっと考えていた!”。もう処置なしの、泥沼にはまり込んでいた。“休みだけど、会えない?”。やっと気を取り直してストレートに、彼女が誘ってきた。ずっと家にいるはずだったが、すんなりと明日、日曜日に会うことになった。
彼女が住む最寄り駅で落ち合うことにした。電車を降りて改札へ向かうと正面に傘を持った彼女が見えた。改札をくぐると近づいて来て傘を渡してくれた。雨がぱらついていた。彼のために傘を二本提げて待つ女の子、その光景がいとおしくまぶしかった。お互い傘を差している分、距離を置いて歩くことになったが、会社で見られない彼女の一面に気を取られていた。「どこに行きます?」。彼女は駅前商店街が途切れる辺りで少し困ったように言ってきた。
どこかでお茶でも飲みながら行き先を考えようと思い、商店街へ引き返そうかどうか迷っていた。「この先、何もないよね」と傘を傾けて彼女の顔をのぞき込んだ。「しばらく行くと大きな川の土手に突き当たりますが」と彼女。「川べりに野球ができる広場みたいなのある?」と聞いた。「あるよ」と敬語を使わず返してきた。僕は道端の自動販売機で缶コーヒーを二本買った。いつ止んだのか、たどり着いたころには雨は上がっていた。
川べりのグラウンドには誰もいなかった。コンクリートの階段状になっている観覧席の一番高いところに腰を下ろし、彼女に缶コーヒーを渡した。川向こうの空が明るくなりかけていた。しぜん子供のころの話になった。僕は少年野球の大会に出場したとき、応援する両親の姿を見て緊張したこと、彼女は飼っていた犬がいなくなり夕暮れの川原を探しまわったこと…。お互い、思い出話に花を咲かせた。「うちに来ますか? 行くところ、思いつかないので。もしよければ」。いつ言おうか、彼女はタイミングを見計っていたようだった。うなずくと僕の手から空になったコーヒー缶を引き取って、二本束ねて大切なもののように両手で包み込んだ。照れたような笑顔を見せて先へ歩き出した。
彼女は、かわいい感じのするコーポに住んでいた。二階の真中辺りに彼女の部屋はあった。「どうぞ、狭いところですが」。中へ入ると、きれいに揃えられたスリッパが並んでいた。僕は青い方のスリッパに足を入れ、短い廊下を進んで手前の部屋へ通された。二人がけのソファーは身体が沈み込むタイプで絨毯に座っている感じだった。「起き上がるの大変なんですよ、腹筋が鍛えられる」。彼女はキッチンから笑い声を上げた。「ビールにします? まだ早いかな」と聞くので、腹筋を使って身体を起こし「それじゃあ」と短く答えた。
彼女は温かいレモンティーで、よく冷えたビールを口にする僕の相手をしてくれた。くつろいだ彼女はさらにかわいらしく見えた。職場とのギャップが彼女を引き立てていたのだろうが、それだけではないような気がした。趣味の話をすると、意外だったのか、おなかを抱えて笑う彼女。いまの彼女から想像がつかない、幼いころの癖を明かされて反応に困る僕。とにかく気が合った。時間の経過が早かった。「もう帰らないと」。僕が立ち上がろうとすると「えっ、誰か待っているの?」。彼女は僕に合わせて腰を浮かせ、思わず言ってしまったという顔をした。
料理の準備をしてくれていた。彼女はいろんな食材を手際よく調理し、主菜と副菜二品をあっと言う間に仕上げた。「よくもこんな短い時間に。すごいね」と感心する僕に「毎日自炊しているし。でも口に合うかどうか」と神妙な顔つきに。「うん、おいしい、おいしい」と僕。他に言うことがないの? と突っ込まれそうだったが、気にせずリフレーンして…。彼女の少し不安げな、探るような眼(まなこ)がしだいに潤んでいくのがわかった。僕と彼女は普通に幸せを感じていた。
「向こうでゆっくりしてて」。彼女は僕をキッチンから追い出そうとした。でも、強引に後片付けを手伝った。独り暮らしで慣れているし、男にはめずらしくシンクまわりをきれいにしておきたい性格だと言い張った。彼女が皿を洗い、僕が布巾で拭いていく。水を切ったあと僕に食器を手渡す仕草が楽しげだった。僕の青いスリッパと彼女の赤いスリッパがシンクロしていた。誰に見られることもなかったが、新婚の若夫婦がじゃれ合っているようだった。
「もう帰らないと。月曜日早いから」。そう言うと彼女は笑って「そう、朝礼あるものね」。顔を見合わせて「明日も朝から一緒だね」と笑い合った。僕は腕時計に目をやり「正確には九時間と三十分後。再会することになる」と冗談めかして言うと、彼女は真顔になって「泊まっていく?」。不意を突かれて、当惑する僕へ助け舟を出すように「着替え、ないものね」と彼女はすぐに打ち消した。「今日はいろいろと気遣ってくれてありがとう」。気の効いたひと言でも、と思ったがそう言うのが精一杯だった。「また、今度」と言って、その日は玄関先で軽くハグして別れた。
僕は出張していることになっていたが、すっかり忘れていた。月曜日まであと一時間を切っていた。駅の改札口を抜けて途中コンビニに寄って、軽い足取りで自宅へ向かった。マンションのエントランスに「彼女」、括弧付きの彼女がいた。不意を突かれた表情になっていた、と思う。その姿を見て彼女は悲しそうな顔をした。“出張じゃなかった”。僕の表情、動きが嘘をついていたことを告げていた。動揺を抑えて「いつからここにいるの?」と平静を装うが、声が上ずり微妙に震えていた。彼女は泣きながら抱きついてきた。
所在なげにコンビニの袋を提げて無言のまま、彼女とエレベーターに乗った。彼女は僕の後ろに隠れるように立っていた。そのまま通路へ出て、僕の少しあとを付いて来る、きっと下を向いて、悲しみをたたえながら。僕が彼女を男だと確信し、彼女も僕の変化に気がついて、初めての“再会”だった。「ごめん、出張じゃなくて…」。言葉があとに続かなかった。彼女はずっと下を向いたままだった。“好きな女の子がいる、きっと。私が男の子と分かったからなの…”。彼女の悲痛な声が聞こえてきそうだった。
コンビニで買った缶ビールを彼女の前にそっと置いた。彼女は少し顔を上げて黙っていた。僕は彼女の方へまわり、やさしく肩を抱いた。彼女はたまっていた感情を一気に吐き出し、嗚咽し始めた。止まっているか、とてつもない速さで過ぎているのか、時間の感覚が麻痺していた。両腕でしっかり抱きしめるほかなかった。むせび泣く彼女を抱きながら、僕は男の子のことを思い出していた。いや、その男の子をいま抱いていた、泣きじゃくる彼を。かわいい男の子から魅力的な女性へ成長変化していくその様を。彼を、彼女を、男の子をいま、感じていた。
中学生だった僕と小さい男の子だった彼は一度、公園から離れて隣町まで遠出した。帰りが遅くなってしまい、両方の親から大目玉を食らった。彼は、親たちに怒られている僕の前に立ちはだかり「お兄ちゃんは悪くない。僕が連れて行ってと…」。わんわん泣きながら僕を弁護してくれた。いつもおとなしいわが子が両手を広げて必死に訴える姿に彼の両親が目を丸くして驚いていた。“あのとき、君は僕を守ってくれた”。僕はいま、その男の子を泣かせている、苦しめている。許されることだろうか。自己嫌悪にさいなまれた。
もう一つは不思議な体験、男の子がいなくなる直前だった。いつものように僕は男の子と会うために公園へ向かった。何に焦っていたのか、その日は走っていた記憶が残っている。彼は公園の入り口で僕を待っていた。喜んで近づくと男の子が離れていく。何度も何度も手を伸ばし、彼に触れようとするが、するりとすり抜けてしまう。途中から鬼ごっこでもしているように必死で追いかけていた。でも、いくら頑張っても男の子はつかまらない、追いつかない。いつの間にか男の子はどこにも見当たらなくなっていた…。
気がつくと、僕は一人、公園の真ん中で立ち尽くしていた。日はすっかり暮れていた。夢か幻か。彼の大きな瞳が星になって僕を見守ってくれている―。そのとき、夜空を見上げてそう感じた。不仲な両親から僕の心を守ってくれた。彼は僕の心の中にいた、そのときからずっと。辛いとき、苦しいとき、泣きたいとき、そう僕が壊れそうなとき。彼、そして彼女はいつもそばに寄り添い、困難から救ってくれた。大きく手を広げて立ちはだかってくれた、あのときのように。僕の身体のどこかに住みつき、危機一髪のときに身を挺して。僕はいま、しっかり感じていた、彼女を強く抱きしめながら。男の子から少年になり、少女になり、そして女性になって…。同じ空の下、僕のことを考え、ときに心へ入り込み、癒し、立ち直らせてくれた。穏やかでかわいい女性に成長した彼女がいなかったら、いまの僕はなかった。きっとそうに違いない。
僕は無意識のうちに何かを感じて生きてきた、その何かが分からないままに。言葉で表せば守護神? 女神? 天使? 目には見えないが、何となくそばに感じられる存在。僕の内に巣食う悪霊や死霊と闘い、負へ傾きかけたバランスを元に戻し、正してくれる存在。正確には存在しない存在、非存在。男の子がいなくなり、この「彼女」と出会うまで、僕はそうした非存在を心に秘めて生きてきた。いま、僕の前に存在する彼女、非存在でない彼女。僕は彼女の登場を心待ちにしていた? 心のうちに問いかけた。
女に生まれ変わって僕の前に現れた彼、僕の男の子。彼=彼女の足跡をたどることにどんな意味があるのか、よく分からなかった。姿を見せず僕の内側にずっといてくれた男の子。男の子から少年、少女、女性へと変態していく、そのプロセスの中で僕はしっかり感じて慈しみ大切にしてきただろうか、彼であり彼女を。そこから発せられる声に耳を澄まし、逃げずに応えてきたか。ときに震え、疎外され、悪しざまにされ、挙句の果てに虫けらのごとく扱われて…。男から女に変わる現実とはそういうことだろう。僕の内側へ、心の中へ逃れようともがいていた彼=彼女をしっかり受け止めて、唯一の居場所として供してきたろうか、大きく両腕を広げて…。
この内側を、心うちを何度もたたいて“助けて、守って”と叫び続けていたに違いない。ずっと彼=彼女の非存在に助けられ守ってもらいながら、この僕は…。けっきょくそれとして感じなかった、気づかなかったこと自体、罪に値する。僕の原罪なのかもしれない。そこから逃れられないし自由になれない。その罪をしっかり受け止めて責任を果たすべきなのだろう、これまで僕を守ってくれた代償に。いや、償いでなく無償の贈与、彼女が僕に与えてくれたように。それは彼=彼女と共に歩むということだろうか、不確実な未来へ向かって。
彼女は僕の腕の中で眠っていた、やすらかな表情で。時間が止まり、空間は流動を拒んでいた。カーテンのすき間から薄っすらと光が差していた。現実が徐々に僕と彼女に迫って来ていた。僕は身震いした。耐えられるだろうか、厳しくも過酷なリアルに。僕のそばで眠る彼女を守ってあげられるだろうか、いつの日か彼女のもとから逃げ出してしまうのではないか。僕は天井を見つめていた。一緒に歩むべく道しるべを探していたのか、それとも逃げ道を…。卑小になっていく自分を感じずにはいられなかった。
彼女の笑顔がまぶしかった。朝礼を終えて席に戻ると、あの斜め前の彼女が微笑みかけてきた。昨夜、玄関先でハグして別れてわずか数時間、そのあいだに僕の身に起こった大きな変化を知る由もなかった。彼女から発せられる息吹、正のエネルギーに圧倒された。ほんの三、四時間前、「彼女」とのあいだに生じた、僕をさいなむ、あの窒息しそうな感覚とのギャップ。倒れ込みそうだった。必死にパソコンへ向かおうとしたが、意識はどこかへ飛んでいた。感情の容量がマックスになり、制御できない状況だった。今日一日、もつだろうか、耐えられるだろうか。
彼女が何度かサインを出しているのはわかっていた。でも、うまく反応できなかった。昼休みの時間になり一人、二人と席を離れるなか、僕はパソコンを前にぼんやりしていた。しだいに彼女が不機嫌になっていくのが伝わってきた。“昨夜はあんなに楽しかったのに、なぜ…”。彼女の胸のうちが僕に切なく響いた。“私、何かやらかした?”。僕は彼女の机の方へまわり、ぎこちなく笑顔をつくった。
「もう三十分ほどしかないけど、どこへ行く?」。僕は「えっ」と聞き直した。彼女は「なに食べる?」と言ったあと“この人は…”という顔をした。「ああ、時間ないし、そばでもどう」。彼女の顔をしっかり見てそう言うと、少し機嫌を直してくれた。そば屋に入って座るなり「何かあった?」と彼女。「いや、どうして?」と聞き返す僕に「朝から元気ないし」と不満そうだった。僕は「昨日遅かったので疲れているのかな」と言ったあと、すぐに「昨夜は楽しかった、ありがとう」と付け加えた。
もともと愛想のいい方ではなかったし、ましてや二股をかける器量なんて…。そう自覚していたが、よくない方向へむかっているのは確かだった。彼女と「彼女」のあいだで器用に立ち振る舞う術を持ち合わせていなかったし、並行してそれぞれに愛情を注げるほど情感が豊かでも複雑でもなかった。まさに分を超えていた。この先、どちらと会うにせよ、かなりのエネルギーが必要になるばかりか、精神状態を維持できるかどうか、不安だった。だからといって、どちらかに絞って一人の彼女にするにはまだ心の整理が出来ていなかったし、二人だからこそ気持ちのバランスが取れていた面もあった。勝手な言い草だが、それが正直なところだった。女性からみれば、ただたんに優柔不断、憎むべき二股野郎に過ぎないだろうが。
彼女より少し遅れて会社へ戻った。昼からの長いデスクワークが始まった。どうしても昨夜の「彼女」が身体にまとわりつき、頭から離れなかった。僕は朝、泣き疲れた彼女を起こさないように身支度し、食事も摂らずに家を出た。“心配かけてごめんね。今度、じっくり話そう”とメモ書きを残して。ただあのあと、電車のなかで彼女がメモをどう解釈するか、心配になった。もしかしたら別れ話に取りはしないか、と。傷つきやすい彼女=彼が気になって仕方がなかった。夜の仕事をしている彼女でも、もう起きている時刻だった。メールをチェックしたが着信はなかった。
“心配しなくていい。これまでの君を全部受け止める。男の子だった君も、いまの君も”と打って手が止まった。すぐに削除していた。何度か机の下でチャレンジしたがけっきょく「彼女」へメールを送れなかった。その度ごとに彼女=彼の悲しげな表情が浮んだ。僕は終業時間きっかり、速攻で会社を出た。さすがに斜め前の彼女もその速さに付いて来れなかった。とにかく彼女が勤める店の近くまで行こう、そう思った。
初めて会ったとき、彼女は嘘をついた。飲み会では友人の彼女と同じ会社に勤めていることになっていた。夜の仕事に就いていると知ったのはだいぶあとになってからだった。ただ、分かってからも、それだからなおさら意識していたのか、見た目や振る舞い方だけでなく考え方も変わらず控えめで、派手な客商売をしているようには見えなかった。手持ち無沙汰に店の前でぼんやり立っているわけにもいかず、道を挟んで斜め前の喫茶店へ入り、彼女を待った。
窓際の席に座ってコーヒーをたのんだ。店が始まるにはまだ、ゆうに二時間はあるだろう。僕は本を読もうとしたが、ただ文字を追っているだけで全然頭に入らなかった。行間から浮かんでくるのは彼女が男の子だったころの様々な情景。ただ懐かしいだけでなく切なく胸に迫ってきた。カラーでも白黒でもなく、セピア色の空気感が僕の心情を反映していた。
しぜんと目頭が熱くなり、気持ちを制御できない情況に陥りそうだった。必死で踏みとどまろうとしたが、決壊しようとする勢いに圧されてぎりぎりのところを彷徨っていた。いっそのこと、男の子といた、あの時代へ舞い戻りたかった。そこでそのまま時間が止まってくれやしないか、永遠に。僕は本を閉じ、窓の向こうへ目をやった。
店へ向かう夜の女たちが目立つようになり、ネオンのきらめきとともに通りが華やいでいく。粋な着物姿でオーラを漂わせるママらしきホステス、ケータイ片手に険しい表情のベテランホステス、勤めて一カ月足らずか、目を引く派手なコスチュームのキャバ系…。窓越しに流れ動く彼女たちが通りを活気づけていた。「彼女」が勤める店にも女の子たちが急いだ足取りで吸い込まれていく。僕は裏口付近に目を凝らし彼女を待った。このまま見ていていいものなのか。彼女の違う一面を見せられて心穏かでいられるだろうか、自信がなかった。
彼女はゆっくりとした足取りで現れた。薄暗がりのなか、一瞬ネオンに照らし出された彼女は確かにいつもと違っていた。でも、僕にはすぐに分かった。ホステスとして彼女がどんな表情をしているのか、確かめることはできなかったが、彼女がどんな気持ちで店へ向かっているのか、その精神状態が手に取るように伝わってきた。店の扉を開け、中へ消えるまでの十秒ほど。心を痛めている彼女を見るのはつらかった。僕はすぐに喫茶店を出て駅へ向かった。もともと彼女に声をかけるつもりはなかったし、そんな度胸もなかった。電車の中でケータイを取り出しメールを打ち始めたが、そのままカバンにしまい込んだ。
改札口を通り過ぎ、足早に自宅へ向かった。めずらしく電話の着信音がなった。「はい」と出ると会社の彼女だった。一瞬の沈黙のあと「元気出てきた?」と彼女。僕は、見られているわけでもないのに平静を装って「うん、大丈夫。いま家へ向かっているところ」といつものトーンで話そうと努めた。ケータイを耳にあてたままマンションのエントランスへ入ると、その彼女がスーパーの袋を提げて立っていた。ケータイに向かって「どうしたの? びっくりするなあ」とハッとさせられ、五㍍ほどの距離まで近づいた。彼女も同じくケータイに「来ちゃった、迷惑かな」と窺うように申し訳なさそうな顔つきに。「もうケータイいらないよ」。吹き出しそうになってさらに彼女へ近寄ると、ようやく表情がゆるみ、ぎこちなくも笑顔になれた。
僕を元気づけようと料理を作りに来てくれた。そういう彼女を迎え入れる気分ではなかったが、括弧つきの彼女に加えて、斜め前の彼女との関係性まで悪化させるのが怖かった。卑しくも保険をかける男の身勝手とはこのことだろう。それに、彼女の側からすると、これから付き合おうかという段階で彼の自宅へ押しかけるにはけっこうな勇気がいると思った。そんな彼女に嫌な思いをさせたくなかった。「いつもこんなにきれいにしているの」。彼女はそう言って部屋の中を見まわした。「いや、隅の方はホコリ、けっこうたまってるよ」。そう答えて、キッチンで袋から食材を取り出す彼女へ目をやった。この前、その場所に立っていたのは「彼女」だった。
会社でよくしてくれる女の子が、体調を崩した同僚を元気づけようと消化のいい食事を作りに来てくれた-。そう言い聞かせようとした。まだ深い関係じゃないし、深刻に考えるのは止そうと思った。でも、「おいしい?」と聞かれてすぐに反応できなかった。沈黙がただようなか我慢できずに「押しつけているみたいで…」と彼女。僕ははっと我にかえって「おいしいよ。ありがとう」と答えたが、彼女は硬い表情をくずさなかった。元気にならない僕の姿を見て、彼女はつらそうに下を向いた。
僕は早々に彼女を帰した。駅の改札を過ぎて振り返る、彼女の微妙な笑顔に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。これ以上一緒にいると、本当に彼女を傷つけてしまう、そのニュアンスが伝わっていたかどうか。“よく考えれば、あんなおじさん、たいして好きじゃないし…”。そう思ってくれたら、と。格好つけているわけじゃなく、ただ彼女を嫌な気持ちにさせたくなかった。あんな若くてかわいい子がまさか僕のような、四十前のおじさんに…ただ申し訳なくて。
自分の気持ちに正直であること、そう理屈では分かっていても、どうにもならないときがある。問題はシンプルであって、事情はコンプレックス、複雑だった。男から女へ性転換した人を愛せるか、問われているのは単純なこと。イエスかノーか、相手に伝えればいいだけ。そういう性向がなければ相手にしなければいい、ただそれだけ。難しい話ではない。その人と居て楽しいか、ずっと居たいと思うか、愛しているか。それ以外にどんな判断基準がいるというのか。
ただ、僕はその手前に止まっていた。身体を換えてすべてが変わるのだろうか、と。生まれ持ってしまった性と内心との不一致を手術で本来の姿に戻す、それは不自然を自然に戻すことになるのか。いや、その逆なのではないか。そうして実現した心身の一致はあくまで恣意的、表層的なレベルに止まらざるを得ない。当然のことながら男子が百%女子になれるわけはないし、生理的にはどこかに何%か男子の要素が残ってしまう。一%でも男子なら許容できない同性がいる一方で、九十九%男子でも受け入れられる男性もいるだろう。同性愛と異性愛のはざま、性の境界線のバリエーション。その多様さ、複雑さを前にたじろぐばかりだった。正直、こうした面倒から抜け出したかった。
僕の場合はどうなのか。男の子的要素の許容度はどれほどなのか。論理的に導き出せれば苦労はしないが、だからと言って生理的・感覚的に答えを出そうにも…。いずれにせよ、心身のバランスを崩してしまう難問に違いなかった。たぶんゲイでない僕は、たとえ一%であっても非女の子的要素を持っていれば受け入れられない、そういうことなのか。いや逆に、あの幼い男の子的要素が表面的になくなり、ほとんど感じられなくなったから、このように戸惑っているのか。答えのない問いを繰り返すばかりだった。そこまで僕は追い詰められていた。
けっきょく男の子の幻影に振り回されているだけなのかもしれない。あの子がいまの彼女だからこうも苦しんでいる、そうじゃなかったら普通に付き合っている? 思い出の中の大切な男の子が彼女だからこんなに好きになった? そうじゃなかったら世間と同じようにゲテモノ扱いしていた? 彼女と距離を置いている、いまの状況にほっとしている僕はどういうつもりなのか、いつまで経っても彼女と正面から向き合えない僕とはいったい何なのか。この残酷で複雑なリアリティーを前に苦悶し、身動きが取れなくなっていた。
僕は小柄でスレンダーな子が好きだった。たとえ、女性らしい腰のラインがなくとも、胸が小さかろうと、人工的に作った膣が浅くても、もっと言えばクリトリスの変形・移動によって潤いが少なくなったとしても…。そういう下卑た話でないのはわかっていたが、深く考えているうちに一周まわって、そんなことまで頭をよぎる始末だった。セクシュアリティな部分は別にしても、僕が好きになり愛したのは彼女であり彼だった。僕の男の子は大切な記憶、思い出であり、僕の心を支えてくれている、いまも、これからもずっと。かつて男の子だった彼女を、心がすさんだ僕の前へ呼び戻し、彼女を通じて愛を授けてくれた神様に感謝すべきだった。僕は自分を納得させようと必死だった。
彼女が夜の仕事をしていると知ってから、かえって彼女を思い浮かべる機会が増えた。午前一時前に仕事を終えて、くたびれた表情で店を出る彼女。女の子をまとめて送るワンボックスカーから降りて足取り重くマンションへ入る彼女。すぐに着替える気力がなく、そのまま居間に座り込む彼女。客にお礼のメールをしようと仕事の顔に戻る彼女。深夜番組をぼんやり見ている彼女。時計を見るともう午前四時、そろそろ寝ようかと冷えた身体をベッドへすべり込ませる彼女。その場面、場面で…。“これまでずっと考えていたし、ずっと思ってきたよ、お兄ちゃん”。彼女の声が頭の中にこだました。
深夜、ふと目を覚まして彼女へ連絡しようかどうか、ケータイをにらむこともあったが、けっきょく電話もメールもしたことがなかった。でも、今夜は別だった。彼女の幻影にさいなまれ、心身を維持できなかった。「僕だけど、いま大丈夫?」。彼女はすぐに出た。「どうしたの? 何かあった?」。彼女は日常の変化について聞いているようだった。「いや、別に。どうしているかな、と思って」。僕は普通にそう答えた。「うれしい。こんなの初めてだもの」。そのあと、しばらく沈黙が続いた。「何してた? もうそろそろ寝る時間?」。僕が聞くと彼女は小さな声で言った。「ずっと、こうしていたい」。そして「いまからそっちへ行きたいぐらい…」。彼女は突然、嗚咽し言葉が続かなかった。
電話を切ったあと、やはり眠れなかった。カーテンが白み、今日が始まろうとしていたが、僕はひとり闇の中にいた。起きる時間が来ていた。ベッドから離れ、出勤するために身支度をしようとしたが動きが止まった。僕はカーテンも開けず、そのままどのぐらいだろう、じっとソファーにもたれ、ぼんやりとしていた。何も見ていなかったし、何も見えていなかった。僕の「彼女」はもう眠っているだろうか、涙のあとを頬に残して。僕はデニムパンツにセーター姿で家を出た。
二人でないから逃避行ではないし、もちろん一人旅という感じでもなく、たんなる失踪―。会社の彼女も、斜め前の彼が突然居なくなって戸惑っていたことだろう。僕は電車を乗り継ぎ、三時間以上かけて懐かしい駅に着いた。この改札を通るのは何年ぶりだろう。高校を卒業してから一度も戻っていなかった、生まれ育ったこの地。頭に浮かぶのは、ひとり家の中にいる僕の姿と、言い争う両親の見たくない険しい表情。駅前の商店街を抜けて、よく友達と野球をした川原へ出た。週半ばの午前中だったため、野球少年の姿はなかった。ただ、目の先には外野を守る、子どものころの僕がいた。ひとり声を上げて必死に球を追いかけて…。
ずっといたのか、気がつくと三塁側ベンチの上に小さな男の子の姿があった。僕と同じように誰もいないグラウンドを見つめている。いや、同じように野球観戦を楽しんでいたのかもしれない。僕は立ち上がり、親近感からかグラウンドへ下りて三塁側へ向かった。スタンドの下でもじもじしていると、男の子が少し身体を起こし、僕の方を向いて微笑みかけてきた。近づこうとすると、彼は静かに立ち上がり、グラウンドを横切るように歩き出した。一塁側ベンチ横を通り抜けていく。僕は男の子のあとを付いていった、誘われるように。
男の子は僕が来た道を逆にたどり、商店街を通り過ぎていく。駅を挟んで反対側へ出ようとしていた。踏み切りで止まった。彼は後ろを振り返り、僕の方を見て先ほどと同じような笑顔を見せた。僕も止まった。どうしても彼に追いつけない、気が焦っているのか、足が震えているのか、思うように歩を進められない。遮断機が上がり、またゆっくりとしたペースで男の子は歩き出した。僕は等間隔を崩さず、つかず離れず彼のあとを追った。しだいにクルマも少なくなり道幅も狭くなっていく。気がつけば、僕が通っていた中学校の前に出ていた。
校舎は古びていたが、昔のイメージを残していた。体育の授業もないようでグラウンドには誰もいなかった。いい思い出があるわけでなく、しみじみとした懐かしい感情はわいて来なかった。休み時間に独り、図書室の窓際で本を開いて外を眺めている僕の姿が浮かんできた。校庭へ足を踏み入れようとは思わなかった。われに返って少し慌てた。このあいだに男の子がずっと先へ行ってしまったのではないか。すぐに彼の姿を確認できてホッとした。変わらず僕との距離を保ったままこちらを向いて微笑んでいた。
男の子はふたたび、歩き出した。どこへ向かっているのだろう。僕はついて行くだけだった、何も考えず、ただ。後ろ姿に迫ろうと小走りに追ったこともあったが、どうしても距離を縮められなかった。彼は滑るように進んでいく、浮遊するかのように。突然、男の子が立ち止まり、歩み寄ってきた。僕の驚いた顔に、あの笑顔を向けて手を取り、引っ張っていく。時折、僕の顔をのぞき込むように振り返り、微笑みかけてくる、天使のように。こんなかわいらしい男の子を見たことはなかった、たった一人を除いては。
そう、僕は男の子に手を引かれ、あの公園へ向かっていた。僕と男の子の思い出の場所。ジャングルジムへ上る彼にひやひやしたり、ブランコを押す手を加減して彼が不満そうな顔を見せたり、勢いよく滑り台を下りてくる彼を受け止めたり…。また、あの幸せな時間が戻ってくる、そう思うと身体全体から力が抜けて、浮かび上るような不思議な感覚にとらわれた。大仰でなく光臨に包まれて…というか、眩しい光の束が僕と男の子を持ち上げて異空間へ運んでいく。天へ召される、とはこんな感じをいうのか。男の子は何度も僕の方を振り返り、あのやさしい笑みをたたえて昇っていく。抱きしめようと何度も引き寄せるが、男の子はそのたびにすり抜けてしまう。なぜ、この腕のうちに飛び込んで来てくれないの、こんなに大きく広げているのに…。
辺りは夕闇に包まれていた。気が付くと僕は公園のベンチに座っていた。隣にはなぜか、白いワンピース姿の「彼女」、括弧付きの彼女。彼女はいつからここで僕を待っていたのだろう。話しかけても微笑むだけで言葉を返して来ない。抱き寄せようにも男の子と同じようにすり抜けていく。膝の上の白い手に手のひらを重ね合わせようにも、ただ冷たく感じられるだけで…。彼女は穏やかな表情で真っ直ぐ前を見ていた。その視線の先に何があるのだろう、何を見ているのだろうか。僕は、すっかり日が沈んだ公園で彼女と並んで座っていた。
ずっと、こうしていたかった。この公園で彼女、そして導いてくれた男の子を感じていたかった。ほかに何もいらなかった。これだけで十分だった。僕は彼女の手を一生懸念にさすった。優しい笑みを浮かべる彼女の横顔。“なぜ、僕の方へ振り向いてくれないの? すぐ横にいるのに” “なぜ、いつものように身体を預けてくれないの? 僕が変わったから?”。君はずっと君だった、男の子のころから何も変わっていない。唯一の人、君以外に誰がいるというのか。彼女の手はずっと冷たいままだった。僕は永遠を感じていた、癒され、悲しく、そして残酷に…。
僕は男の子を見ていた、公園で遊ぶ無邪気な彼を。こんな幸せはいつ以来だろう。砂場ではしゃぐ男の子、鉄棒に足をかけて回転する男の子、ジャングルジムの上で得意げな男の子…。その横に僕がいる、いつも彼を見守っている。僕は男の子と一緒にいる、これからも、ずっと、この公園で。何も変わらない、彼は僕の中にいる、確かに。それが幻影であろうと、僕には感触があった、しっかりと彼の、そして彼女の。常に抱きしめていた、身体のどこかで、僕も分からないところで、ぎゅっときつく。かけがえないのない、僕の男の子…。
横にいる彼女の目には何が映っているのだろう。手垢のついた、腑抜けた、四十前の僕の姿か。透き通った眼で男の子を見つめ戯れる、中学時代の僕か。公園にいるときはボクだけのお兄ちゃん―。“一緒に砂のトンネルをつくったね。鉄棒で逆上がり教えてくれたね。ジャングルジムで心配そうだったね。ベンチでいろんな話もしたね”。大切なボクのお兄ちゃん―。“ボクはお兄ちゃんがいなければ生きて来れなかったし、いつまでも一緒にいたい、いつもいつもそう思っていたよ。これからも、ずっと”
僕は彼女を抱きしめた、すり抜けても、すり抜けても。僕は彼女の手をさすった、冷たくても、冷たくても。僕と彼女、そして男の子。きっとこのまま、ずっとこのまま、エターナルに。彼女のところ、男の子のところへ行こうと、ずっと一緒に居ようと。でも、このままでは愛が失われてしまう、終ってしまう。“いまから行くから、待っていてね”。もうこの世にいない彼女をベンチに残し、僕は立ち上がった。
◆
彼女が死を選んだとき、僕は男の子に誘われて公園へ向かっていた。なぜ、もっと早く気づき、もっとしっかり抱きしめて、もっと愛してやれなかったのか。どうしても躊躇してしまう、一歩踏み出せない彼女を思いやり、大きく腕を広げて彼女を受け止めていれば。けっきょく、この僕は…。何なんだろう、何のためにこの世に生まれて来たのか。決して許されないだろう、万死に値する、この僕の愛。彼女への罪は永遠に拭えない? 男の子も、彼女も、こんなに愛してくれていたのに。僕は取り返しのつかないことを繰り返していた、何もかも分かっていたのに。
女の子として生きる彼は、すでに限界に達していた。でも、僕に何ができただろう、彼女がリミットを超えないように。小さな男の子が中学生のお兄ちゃんと出会い、好きになり、恋をして、苦しみ傷つきながらこの世と向き合い、そして満を持して女の子として僕の前に現れた。彼女にとって僕の存在は、僕が想像できないほど愛しくかけがえのないものだったに違いない。それに引きかえ、この僕はどうだろう。彼女の愛に気づくのが遅かった? いや、愛が足りなかった? 分かっていたのにしっかり受け止めてやれなかった? 馬鹿な、そんなことがあっていいのか、許されるのか…。
だからと言って僕と彼女はあのまま、この不純な手垢のついた世界で生きて行けただろうか。五年、十年、二十年と…。彼女の死も彼女の一部、それが彼女の終わりではないし、彼女の不幸でもない。彼女は不適合な肉体から離れて、いま精霊となって、やっと安らぎを感じている、きっとそうに違いない。天使となって、ガイストのうちに、エターナルの中へ。僕に寄り添い、僕に微笑みかけ、僕のすべてを支えてくれている、壊れそうな僕を。彼女の、男の子の存在なくして生きて行けない。そう、いつも近くに、そばに居たかったし、一つになるほどに、もっともっと。いまからでも遅くない、いや、いまだからこそ…。僕のことを思って? ここに、この虚しい、君のいない、ところに? この機におよんで僕を阻もうと? しっかり握ってよ、僕の手を、それが僕の幸せ、至上の愛、なんだから。
“ずっと一緒に居られるんだよ”。僕は飛び上がった。地上に引き止めようと手を離さない、この世にかつていた「彼女」を振り切って。音も映像も、煩わしい感情もない、時空間を超越する、この快感。駅のホームから次第に離れていく、遠ざかっていく、上へ上へと。急停止した電車のまわりに乗客が集まり、ホームの下をのぞき込んでいる。その上を浮遊する僕を、かわいい翼を生やした彼女がやさしく抱きかかえ、無限の高みへ。やっと落ち着ける、本来の居場所。これ以上の幸せはないに違いない、本当の愛に包まれて…。これからはいつも一緒だね、ずっとそばにいるよ、かけがえのない、かわいい僕の男の子。(了)
異形の幻影 オカザキコージ @sein1003
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